《四》追慕千里(おもい はるかに)-3-
その日は、別にこれと言った情報も無く、早々に村を引き上げて、すっかり通い慣れた山道を辿りゆく世凰は、麓からずっと、いや正確には村の中からずっと、飽かずに彼を追って来る唯ならぬ気配を、背後に強く感じ続けていた。
気配の主は恐らく、並並ならぬ武芸者でもあろう。
だが、世凰は振り向かぬ。
相手に殺気がないからだ。
それゆえ、ことさらに身構えてもいない。
〈何者!?〉
自分に対して何の害意も持っていないとはいえ、片時も集中した気配を外すことなく追って来る相手には、こちらが気付いていることも、勿論、解っている筈だ。
〈もう暫く、様子を見よう〉
世凰は歩を緩めずに、黙々と山道を登って行った。
やがて、山の中腹を過ぎると、道幅はぐんと狭まって、左右から雑草や灌木が押し寄せるように迫り出し、ただでさえ狭い道幅の、見極めも覚束ぬ状況を呈している。
その奥には鬱蒼と繁る木立が犇めき合い、昼なお暗い木の下闇を揺蕩わせるのだ。
そこを抜けると突然、ぽっかりと、一握りの小さな空間が開けた。
どういうものか、そこだけが木立と雑草のトンネルから取り残され、猫の額ほどの草原を形成していて、隣り合って聳え連なる山々の、深山特有の営みの様子を垣間見ることが出来る。
そこまで来て、世凰は初めて歩みを止め、追跡者と対峙する形で向き直った。
相手もまた、彼から少しの距離を置いて佇んでいる。
世凰と同じく粗末な衣服を身に着け、破れ笠を目深に被り、大分遠くから旅をして来たらしい埃塗れのその肩には、小さな荷物を結びつけていた。
「何故、尾けて来る。私に用か!?」
口ではそう言いながら、世凰の胸には閃くものがあった。
もしや!?―
「詠胡竜!?」
「鳳世凰!?」
互いの名を同時に呼び合って、彼らは駆け寄った。
「よかった!やはり君だったのだな。追って来て、本当に良かった!!」
胡竜が言えば―
「良く生きていてくれた!!よく・・・」
世凰も感無量―。
彼らは抱き合い、何度も肩を叩き合って、全身で再会の喜びに酔い痴れたのであった。
笠を取ると、夢にも忘れることのなかった懐かしい顔が、心からの喜びに輝いて笑っている。
「世凰!なんだその顔は!?せっかくの美男が、台無しだぞ!」
「君のほうこそ、真っ黒けじゃないか!」
まるで子供のように声を弾ませて、相手の顔を指さしては大声で笑い合い、さらに何度も、彼らは抱き合った。
ひとしきりの激情が去ったあと、二人は草原に腰を下ろして、無言で見詰め合った。
山の霊気を孕んだ風が、心地よく、汗ばんだ肌を冷まして吹き抜けてゆく。
「心配したぞ」
暫しの沈黙を破って、詠胡竜がぽつりと言った。
そして、はだけた襟元から覗く、世凰の右胸の傷跡に目を留めた。
「それは・・・あの時のか!?」
彼は頷いた。
「そうか、さぞ難儀をしたのだろうな・・・だが、流石に君だ。よくぞ立ち直った!」
胡竜は、感慨深げにそう言った。
いつしか日は西に傾き、風が冷たくなっている。
「胡竜、そろそろ日が暮れる。ひとまず、私の隠れ家へいこう!!積もる話は、それからだ」
「よし!今夜は語り明かそうや!!」
二人は転がっていた笠を拾って立ち上がり、連れ立って、さらに奥深い山道へと分け入ってゆく。
「今、この奥の古寺に住んでいるのだ」
楽しそうに語りかける世凰の声が次第に奥へと遠ざかり、彼らの後姿は、仲の良い、実の兄弟のようにも見えたのだった。
その夜。
火に焼べた枯枝がパチパチとはぜる音を聞きながら、二人はお互いの、積もる話を語り合った。
まずは、詠胡竜。
彼は鳳家から脱出した後、ひとまずは故郷・蓮河郡・黎陽へ足を向けたが、実家のある黎陽の街には入らず、近くの山中に潜伏した。
そして、共に生き残り、各地に身を潜めている朋友たちと密かに連絡を取り合い、ひたすら世凰の消息を求め続けたのである。
彼の足取りは杳として知れず、生死のほどさえも定かではなかったが、宣軍が今なおその行方を詮索しているのを知って、彼の存命を確信するに至った。
その胡竜の許を、一月ほど前、見知らぬ美しい尼僧が訪れた。
彼女は余計な事は一切語らず、ただ、世凰の存命とその潜伏先を彼へ告げたのみで、自らの名前すらも明かさぬまま、早々に立ち去って行った。
突然、降って湧いたようにもたらされた情報が、果たして信用出来得るものかどうか、胡竜ならずとも逡巡するのは無理からぬことである。
だが、尼僧の澄み切った鳶色の瞳に加えて、その真摯な態度が、彼に行動の開始を決断させた。
彼は仲間たちにその情報を伝えて彼等の意志を確認すると、自分は一足先に故郷を発ち、一路、胡北郡・天妖山へと旅を続けて来たのだった。
北方からの行商人を装った彼は、天妖山一帯の村村で例の妖怪騒ぎを聞きつけ、内心苦笑はしたものの、それによって、はっきりと世凰の消息を摑み得たのである。
そして、つい先日、麓の里に到着した彼は、そこですべての商品を捨て値で処分し、今日こそ山へ登る積もりで宿を出たところで偶然、丁度、村を出ようとしていた世凰の後姿に目を留めた。
随分身をやつしてはいるが、とても唯者とは思えぬ身のこなし、見覚えのある体つきから、尋ねる相手に違いないと直感して後を追って来たのだという。
「そうだったのか・・」
世凰は、火影に照らし出された胡竜の、日焼けして一段と精悍さを増した顔をしみじみと眺め心から礼を言った。
「ありがとう、胡竜!それほどまでに私のことを気にかけてくれて、本当に嬉しい」
「よせよ、水臭い。照れるじゃないか!」
そう言って、胡竜は穏やかに笑う。
「そうそう、その尼僧から、君に伝言を頼まれたのだった。何でも『あのお方は御無事ゆえ、何卒ご心配なきよう』と言うのだが、何の事やら、俺にはさっぱり解らぬ。君には、何か心当たりがあるのか?」
〈阿孫のことだな〉
いとも簡単に、世凰は納得してしまった。
後になって考え合わせてみれば、この時に、彼がまだ白家と美明の運命の激変を知らなかったという事が、尼僧・菊玲の言葉に対する誤解を生じさせたのであるが、物事が食い違う時とはそういうものなのだろう。
所詮、世凰といえど人の子、致し方はあるまい。
胡竜に尋ねられた彼は、周阿孫の身に起こった出来事を、余さず彼に話してやった。
「なるほど・・ではあの尼僧は、阿孫の奥方の仮の姿だったのか。緋の一族、しかも頭領の娘と聞けば、奔放な目の光も、身ごなしの鮮やかさも、いちいち納得がゆく。それにしても、あれほどの女を妻に迎えるとは、阿孫の奴も、なかなかやるではないか!」
してやったりとばかりに、大形に膝を打って見せる胡竜。
二人は楽しそうに声を立てて笑ったが、世凰には、今日の日までずっと、心に懸かってならぬことがあった。
で、彼はそれを口にしたのである。
「なあ、胡竜。本当に辛いが、これだけは聞いておかねばならぬ。あの時に生き延びることが出来た者は、何人だったのだろう?」
「うん、そのことだが・・・」
さすがの胡竜も、暫しの沈黙を余儀なくされたようだったが、ややあって、重い口を開いた。
「ともかくも脱出できたのは、十一人だったと聞いている。だが、そのうちの五人は途中で…だから今生き残っているのは、君と俺を入れても、八人という訳だな」
「八人・・・そうか、気の毒な事をしてしまった・・・」
世凰は、犠牲となった多くの朋友たちを思いやり、身を着られるような悔恨の情を禁じ得なかった。
彼らは二人共、暗澹たる気分に沈み込み、声も無く項垂れてしまう。
「ところで世凰!」
重苦しい気分を振り払おうと胡竜が、努めて明るい口調で呼びかけ、顔を上げた世凰に向かってこう言った。
「残った仲間は皆、既に傷も癒えて、君が立ち上がる日を心待ちにしているよ。そして、また一緒に闘おうと意気盛んだ。もうじき彼らも、ここに集まって来るだろう!」
「ありがとう」
世凰は、素直に頭を下げた。
「君たちの気持ちは、身に沁みて嬉しい。どんな感謝の言葉も無力なくらいに、本当にうれしい!だが・・・」
「だが!?」
「だが、もうこれ以上、君たちに犠牲を強いる訳にはいかない!すべては、所詮鳳家の私怨に過ぎぬこと。この世凰の身一つで、行うべき事なのだ」
「君はまったく以って水臭い奴だぞ、世凰!」
胡竜の語調は、思わず強くなっている。
「なるほど、我々は確かに赤の他人かも知れぬ。だがな、その他人である男同士の絆というものが、しばしば血縁をも超え得るのだと言うことを、世凰、君が知らぬ筈はあるまい!!我ら八名はもとより、死んで行った者たちもすべて、それによって結ばれ合っていたのではなかった?それだからこそ、彼らも笑って死ねたのではなかったのか!?ましてや、この詠胡竜は、君と親友の契りを交わした仲。君のために死ねるのならば、まさに本望だ!!」
「しかし、私は、もうこれ以上・・・・・」
一人たりとも、朋友を死なせたくはない!!―世凰はそう言いたかったのだが、胡竜は言わせなかった。
「この解らず屋め!!」
語気が一段と激しい。
「いいか!言うまでもない事だが、どんなに秀れた人間であろうと、個人の力など、たかが知れたものだ。だが反対に、たとえ取るに足りぬ人間同士であっても、こころをひとつにし、一丸となって事にあたるならば、必ずそれ相応の、いや、時として思い懸けぬほどの大きな力を発揮することも、強ち不可能とは言えまい。考えてもみろ、君は今、いわば宣朝そのものを敵に回しているのだぞ。仲間が多いに越したことはないではないか。それとも君は、自分を、強大な敵をたった一人で倒せるほど神に近い人間だと思っているのか!?自惚れるのも、いい加減にしろ!!」
彼の言葉が終わらぬうちに、世凰の頬が、きっと紅潮した。
「自惚れてなどいない!!」
純粋な怒りのために、その切れ長の瞳が、漆黒の炎となって燃え上がる。
こういう時、彼の美貌は、言語を絶するまでの燦然たる輝きを放ち、しばしば見る者を圧倒した。
その間、僅か数十秒、という極く極く短い時間ではあったにせよ、彼らは確かに睨み合った。
けれども双方の目の中に、憎悪の色はまるで無い。
それぞれが相手の為を思う余りの諍いであることは、互いに身に沁みて、よく解っていたからだ。
「なあ、世凰」
本来の穏やかな口調に戻って、胡竜が緊張の糸を切った。
「何も言わずに、我々の志を受け入れて欲しい。そして力を合せ、事を成し遂げようではないか。それがひいては、死んで行った者たちへの餞にもなると思うのだ。な、そうさせてくれ!」
世凰も、もう逆らわなかった。
「よく解った。改めて君たちの厚情、この身にありがたく受けさせて頂く。よろしく頼む!」
そう言って彼は、ちょっとはにかみながら謝った。
「済まなかった、胡竜」
「なあに、お互い様さ。俺の方こそ、ちいっとばかり言い過ぎちまった!」
彼らの心に、再び温かいものが通い合う。
「そうと話が決まったところで、世凰、今度は君の話を聞かせてくれ!」
胡竜に乞われるままに、世凰は、今日までの経緯を包み隠さず彼に語るのだったが、彼が許嫁者・白美明の名を口にした時、胡竜の表情が俄かに曇ったのを、照れ臭さに頬を赤らめて伏し目がちに話す世凰は、少しも気づかなかった。
その夜更け―
世凰は目を閉じても少しも寝つくことが出来ず、まんじりともせずに胡竜に背を向け、藁筵を敷いただけの床に横たわっていた。
思いもよらぬ胡竜との再会にはじまって、彼と共に胸の内を語り尽くした興奮による神経の昂りが、まだ治まっていないのかも知れない。
今夜は殊更に、忘れ得ぬ人々への様ざまな想いが、胸に去来し続けた。
亡き父や姉、阿孫、蓮老人、そして白民雄に美明―。
〈美明!〉
彼はひとしおの想いと共に、その名を叫ばずにはいられない。
心中深く、密やかにではあっても・・・果たして自分は本当に、あの女のすべてを、この腕で抱き取ってやれるのだろうか!?
そういう日が、現実に訪れて来るのだろうか?
「うれしい!!」
別れる日の朝、彼の愛の告白に一声叫ぶなり、無防備に体ごと胸に飛び込んで来た。
いじらしい美明!!
彼女の顔が、声が、何よりも、嫋やかに熱いその体の感触が、心に焼き付いて離れない。
せめてひと時なりとも抱いてくれ、とまで口にしたあの女を、自分は指一本触れてもやらずに、置き去りにしてしまった。
もしかしたら、それは彼女にとって、この上もない酷い仕打ちだったのかもしれない。
〈世凰!お前はあの時、何故ためらった!?何を恐れた!?〉
今さらながらに、悔やまれてならなかった。
無性に、彼女が恋しい。
〈許して下さい!私は・・私は臆病でした・・〉
若い血の騒ぎに、危うく身も心も攫われそうになり、彼は指を噛む。
強く強く、左手の薬指を噛む。
そして同時に、深い溜息もつくのだった。
その時、ふと目覚めた胡竜は、傍らで背を向けている世凰のまんじりともせぬ様子に気づいて『眠れないのか、世凰?』そう声をかけようとしたが、やめてしまった。
何かしら、そっとしておいてやりたい気がしたからである。
声を掛ける代わりに、胡竜は、じっと彼の背を見つめた。
〈何処まで運命に弄ばれるのだろう、この男は!?〉
もともとが細身である上に、少なからず着痩せもするその背中が、そう思って見れば、痛痛しいほどに華奢で、また儚い。
胡竜はとうとう、世凰に話しそびれてしまっていたのだ。
彼が頬を染めて幸せそうに語ってくれた、妻となるべき白美明が、宣軍のために断崖から身を躍らせ、自らの命を絶った、というその噂を・・・。
それを世凰の耳に入れなかったことが、果たしてよかったのかどうか、胡竜自身にも解らない。いづれ真実を知った時に彼が受けるであろう衝撃が、いかばかりのものであるか、想像もつかぬ。
それを考えれば或は、今夜話しておいた方が却ってよかったのではないか、とも思うが、しかし、胡竜にはとても言い出せなかった。
〈許してくれよ、世凰!気の毒にな・・・〉
彼は、そっと胸中で、世凰に詫びたのである。
けれど、その美明が実は生きていて、ただひたむきに彼のあとを慕い、苦難の旅路を重ねているということまでは、いかな胡竜といえど、知る由とてなかった。




