《四》追慕千里(おもい はるかに)-1-
蒼峰郡・珠林―。
白家の館は日毎夜毎、やり切れぬ悲しみに包まれていた。
宣朝の厳命により、実り多き宏大な領地は、すべての財産と共に悉く取り上げられ、この屋敷さえも、今宵限りで明け渡さねばならない。
そして、当主・民雄は、明朝、見知らぬ最果ての地・雲南へと旅立つ身であった。
彼は今日まで使えてくれた大勢の召し使いたち一人一人に、幾許かの金包みを手渡し、犒いと詫びの言葉を与えて、それぞれの故郷へ帰らせた。
彼等は全員、情深い主人の不幸に涙し、金包みを押し頂いて、三々五々、屋敷を去って行ったが、頑なにそれを拒否したのが、あの金壺眼の霍老人をはじめとする数人の忠義の者達である。
彼らは、どうしても民雄と共に雲南へ行く、と言って聞かなかった。
「旦那様」
霍老人は言った。
「今さらお暇を下されようとて、そうはまいりませぬぞ。この老いぼれは、これでなかなかにしつこうございましてな。たとえ地獄の底でありましょうと、旦那様に喰らいついて離れませぬわい。さっさと諦めなされ!」
彼は主人に『宣告』した後、歯の粗方抜け落ちてしまった口をつぼめて、ホヨホヨと笑った。
他の者たちも皆、彼と気持ちは同じである。
「勝手に致せ!」
民雄はほとほと匙を投げて苦笑したが、その実、彼らに対する感謝の念はひと通りではなかった。
斯くて主従は、明日をも知れぬ重罪人として、苦難の道中を共にすることになったのだった。
目的地に辿り着けるかどうかさえ定かではない。
言うならば『死出の旅』である。
だが、民雄にとっての悲しみは、そんな事ではない。
たった一人の娘・美明を失った悲しみに比べれば、我が身の先行きなど取るに足りぬ。
漸く春を迎えた、さながら遅咲きの花の風情にも似て、生まれて初めての恋に慄きつつも、女として花開こうとしていた健気な娘は、あたら若い命を、ただひとりの男に捧げ尽くすことも叶わず、はや散って行った。
人を愛する苦悩を知り、切なさを知り、何よりも愛される喜びを知って、女らしい嫋やかさが一層増し、近ごろでは、眩しいくらいの色気までも感じさせるようになっていたのに・・・・・・・。
「不憫な娘!・・・」
父・民雄は、言いようのない悲しさ口惜しさに流し尽くしても涙も涸れ果て、もはや一滴も残ってはいない。
だがしかし、美明が落命し、自分もまた、このように悲惨な運命を辿らねばならぬことについて、世凰を恨む気持ちはさらさら無かった。
すべてが、娘の彼に対するひたむきな愛情の結果であり、民雄自身の信念を貫いた挙句が、たまたまこうなっただけの話である。
彼は、そう考えていたのだ。
ただ、彼は一介の父親として、この世ではついに花開くことの出来なかった不幸な我が娘への尽きせぬ憐憫の情に、日夜苦しみ続けるのだった。
夜半を過ぎても、民雄は眠れない。
何度も寝台に横たわっては寝返りを打ち、また起き上っては深い溜息をつく。
それを何度繰り返したことだろう。
ついに眠ることは諦めて、机の上に書物など広げてはみたものの、当然のことながら、彼の目は文字などを追ってはいない。
彼はただ、娘のことばかりを考えていた。
今夜は、特別に風が強い。
このところ、どうも天候が不順なようで、夕刻からは、かなりの雨足で大粒の雨まで降り出していた。
夏の終わりとは思えぬほどに冷え冷えとした夜の雨に、白家周辺を警備している宣の兵士たちもすっかり閉口してしまい、どうやら上官の目を盗んでは交替で酒を飲みに行くらしくて、体を温めるためとはいえ、肝心の任務の方はとかく怠りがちであったが、ある意味では、それは民雄にとっての幸運だったかも知れない。
物想いに耽る彼の耳に、誰かが窓を叩く微かな物音が聞こえて来たのは、夜半を、もう大分過ぎた頃であった。
最初は〈風の音だろう〉と、気にも留めずにいたのだが、二度三度と繰り返されるその音に意志的なものを感じて、民雄は首を傾げながら椅子から立ち上がり、音のする窓に向かって、注意深く歩み寄って行った。
普段は滅多に開けることのない東側の窓の前まで来た彼は、一旦立ち止まり声をかけた。
「誰じゃ!?」
もしかすると、宣の奴らが悪さでもしに来たのかも知れぬ、と思ったのだ。
ところが―。
「お父様!?お父様でございますね!私でございます。美明でございます!どうぞ、ここを開けて下さいませ!!」
あろうことか、絶対に聞こえて来る筈のない声が聞こえて来て、民雄は危うく、息が止まりそうになった。
今にも消え入りそうに父を呼ぶ声は、まさか美明!?耳を疑うなどという生易しいものではなく、己れの精神状態までも疑いながら、それでも震える手で窓を押し開いた彼の目の前に、みすぼらしい百姓姿の若者が立っていた。
いや、そうではない。
長い黒髪を男のように編んで首に巻きつけ、粗末な笠を上げて、ずぶ濡れになりながら父を見上げる切れ長の瞳は、紛れもなく、死んだ筈の娘・美明のものであった。
民雄は、またたく間の大混乱に陥った。
亡霊だろうか!?
いやいや、亡霊ならば、わざわざ男装までして出て来る訳はない。
それに、ちゃんと足があるではないか!?
幻覚にしては、はっきりしすぎているし・・・。
ごく短時間のうちに、様々な思いがひっきりなしに湧き上がっては消え、消えてはまた湧き上がり、完全にパニック状態を呈した民雄ではあったが、そこはやはり親子の情、とにかく訳も解らぬままに手を差し伸べ、ずぶ濡れになった娘の体を、力一杯、室内へ引き上げてやった。
周囲に人目の無いのを確かめて、ピシャリと窓を閉ざし、ほっと一息ついたものの、彼が完全に混乱状態から脱するには、まだ当分の時間が必要なようである。
「美明、そなた・・・」
暖かい部屋の中で、冷え切った体を我が腕で堅く抱きしめ、小刻みに震えている娘に、取り敢えず自分の上着を脱いで着せ掛け、熱い茶を注いで手渡してやった民雄は、やっとかすれた声で尋ねた。
「そなた、生きていたのか?崖から身を投げて、死んだのではなかったのか!?」
我ながら間の抜けた、ぎこちない質問だとは思ったが、彼としては、そう問いかけずにはいられない。
「お父様」
湯気の立ち昇る熱い茶を少しずつ体内に注ぎ込んで、やっと人心地のついた美明は、赤味の点して来た左の頬に浅くくぼみを刻み、小さく微笑んだ。
「びっくりなさるのは、当り前ですわ。でも、美明はこの通り、確かに生きております。決して亡霊などではございません。これには、深い訳がございますの・・・」
彼女は父に、切々と、すべての経緯を語って聞かせた。
途中、何度も絶句しては涙ぐみ・・・ただ彼女は、瑞娘の、自分に対する想いについては語らなかった。
それは、自分一人の胸に秘めておいてやるべきだと、考えたからである。
そして、彼女が語り終えた時、父娘は共に目を赤く腫らしていた。
「そうか!そうだったのか・・・・・」
民雄は、何度も嘆息しては頷いた。
彼は、娘への神仏の加護に、見知ら尼僧に、とりわけ、娘の身替わりとなって死んで行った健気な侍女に、尽きせぬ感謝を捧げて、娘の体を抱きしめ、もはや涸れ果てた無念の涙に代わる歓喜の涙を流すのだった。
「よくぞ、生きていてくれた!!この父の旅立ちに、何よりの餞じゃ」
彼は、愛娘の体温を我が身に確かに感じ取り、誰憚る事なく、男泣きに泣いた。
やがて再び、本来の分別ある父親に立ち戻った民雄は、娘に向かって言った。
「美明。儂は、夜明けとともに雲南へ向けて旅立たねばならぬ。そなたは早々に、屋敷を出るがよかろう」
「お父様!」
取り縋る娘の肩を情愛籠めて抱いてやり、彼は続けた。
「よいか、美明よ!そなたは聊かもためらうことなく、ただ一筋に世凰殿を追ってゆくがよい。それこそがそなたの宿命であり、幸せであるに相違ないのだ。父の事など、気に懸けずともよい。幸い、数名の忠義の者たちが供をしてくれる。生きてさえいれば、いつの日にか、再び会える日も巡って来ようさ・・・」
けれど、これが最愛の娘との今生の別れとなるであろうことを、民雄ははっきりと予感していた。
「お許し下さいませ、お父様!何もかも私のために・・・すべて私の、身勝手さのために!・・・」
美明は、父の胸で激しく泣き咽び、切れ切れに彼に詫びるのだった。
「何を言うのだ、美明!」
その背中をやさしく叩いて力づけた。
「そなたは決して、身勝手ではないぞ。寧ろ、大の孝行娘じゃ。三国一の、いやいや、天下一の花婿を、この父に見せてくれたではないか!?」
そう言って、民雄は娘の体を抱き起した。
「きっと、幸せになってくれ!必ずや世凰殿との縁、全うするのだぞ!!」
彼は、父親の慈愛のありったけを籠めた眼差しで、娘に言い聞かせたのであった。
「着換えをさせてやりたいが、そのままの姿の方が人目に立つまい。風邪を引かぬようにな。せめて、その包みの布だけでも取り換えてゆくがよい」
彼は、包みの中身が何であるかは敢えて聞こうとはしなかったが、手渡してやった厚地の布に移された純白の長衫を見た時には、さすがに胸に迫るものを感じた。
少しでも雨に濡らすまいと、直接美明の肌に巻きつけられていた包みの中で、それは一点の染みも無く、ほぼ完璧に守り抜かれていたのだ。
〈我が娘ながら、天晴じゃ!〉
斯くまでに一人の男に打ち込める娘の健気な心意気を、民雄は心底、誇りに思った。
やがて―。
すっかり人気の途絶えた白家の裏門がそっと開いて、小さな人影が、ぽっかりと大きく口を開けた漆黒の闇に吞み込まれていった。
いつしか、風はやんでいた。
けれども冷たい雨は、いつ上がるともなく、未だ無心に降り注いでいる・・・・。




