《三》赤絲再逅(えにし ふたたび)-9-
白家の山荘の裏手にある断崖は、家人さえも滅多に近づかぬ危険な場所であった。
まさに絶壁と呼ぶにふさわしい荒削りな急斜面が、見遥かす眼下に展開し、上に立って見下ろすと、自然に吸い込まれそうになる。
よって、余程の酔狂者でもない限り、わざわざ覗き込んで身震いしてやろう、などという物好きな人間はいなかった。
万一の場合に備えた山荘の抜け穴は、普段は全く使われることのない書斎の壁を通って、この崖下に出るように作られていた。
さすがの猛火も、ここまで駆け下って来るのは不可能だったと見え、崖上の、目を蔽うばかりの惨状とは明らかに一区画を為し、深遠なる木立が鬱蒼と繁る別世界の中で、美明は、瑞娘の亡骸を求めて彷徨い続けていた。
彼女の背中にたった一つ結び付けられた包みは、その瑞娘が荷物を拵える途中で残して行った布切れで咄嗟にくるまれた、縫いかけの長衫である。
山火事の翌日に降った豪雨のために、あちこちで泥濘となった険しい地形、しかも慣れぬ環境にあって、遺体探しは困難を極めた。
美明の手足は、いつの間にか擦り傷だらけになり、顔と衣裳同様、泥まみれになってしまっている。
けれども、彼女は決して諦めようとはしなかった。
何としても瑞娘を見つけ出して、きちんと葬ってやりたかったからだ。
間違っても鳥獣の類などに喰い千切らせてはならぬと、美明は堅く念じていたのである。
彼女にとっては幸いと言うべきか、宣軍は、目の前で断崖から身を投げた『白美明』の姿を何十人もの目で確認しており、さらに、言語を絶する断崖の有り様に恐れをなして、わざわざ崖下まで降りて遺体の捜索をすることなど、あっさりと断念してしまったらしい。
多分、上官への報告書には『崖下及びその周辺を隈無く探索すれども、亡骸これ無く、恐らくは野獣にでも喰われしものと推察致しおり云々・・・』などと記載されるのでもあろうが、実際には、一兵卒たりとも姿は見せなかった。
散々その辺りを探し廻った末、ついに美明は、絶壁の中途から斜めに生えた松の古木の根元、その岩陰の灌木の間に隠れるように横たわる瑞娘を発見した。
「瑞娘!瑞娘!」
泥濘に足を取られ。今にも転びそうに傾いだ体で走り寄った美明は、素早く彼女の傍らに跪き、その顔を覗き込んだ。
猛烈なスピードで絶壁を落下して来たであろう瑞娘は、一旦、老松の梢に引っ掛かり、ある程度の衝撃を柔らげられた後に、地面に叩きつけられたようだ。
従って、彼女の体には大きな外傷も無く、その顔一つ取ってみても、鼻と唇から出血して、額に打撲の跡があるだけで、これと言った損傷は見当たらなかった。
堅く目を閉じた表情には、苦痛の影など、微塵も宿してはいない。
「よかった、瑞娘!お前、余り苦しまずに済んだのね。本当に良かった!・・・」
彼女の頬にまつわりついているほつれ毛を、そっと取り除いてやり、美明は、はらはらと落涙する。
「許して!とうとうお前までを、犠牲にしてしまったわ」
瑞娘の冷たい手を握りしめ、同様に冷たいその頬を撫でて、彼女はただただ、物言わぬ侍女に許しを乞うた。
どのくらいそうしていたのか、美明には解らない。
だが、よも暫く経って我に返った時、彼女は忽ち、途方に暮れなければならなかった。
瑞娘の亡骸を、果たして何処へ葬ればいいのだろう!?
この場所には木々の根が複雑に入り組んでいて、泥濘の下はとても掘り起こせたものではないし、かなり大きな岩が幾つも、あちこちに転がっている。
とりあえずは、土の柔らかい所を探して遺体を運ばねばならないのだが、一体全体、どうやって運べばいいのやら・・・。
一向に良い思案も浮かばずに、半ば呆然とその場に座り込む美明の背後から、足音もさせずに近づいたらしい、若い女の声が呼びかけた。
「どうなさいました?このような場所で、何をなさっておいででございます!?」
この時の美明の驚きを、どう言い表わせばよいのか、適当な言葉が見つからない。
吃驚仰天、青天の霹靂・・いや、どれもがふさわしくはない。
とにかく、彼女の驚きはひととおりのものではなく、雷に打たれたように全身が硬直し、その硬直した体のままで、飛び上がりそうにもなったのである。
引き攣り、蒼ざめた表情で振り向いた美明の後に、旅仕度をした若い尼僧が立っていた。
かなり遠方からやって来たらしい彼女の、尼僧にしてはどこか野性的な光を放つ鳶色の瞳が、じっと美明に注がれている。
「・・・・・」
美明はまるで言葉が見つからず、沈黙したきり、尼僧を見詰め返すだけだった。
無意識のうちに、瑞娘の亡骸を庇う姿勢になっている。
けれども、鋭い視線で瞬時にそれらを見て取った尼僧はすべてを察し、やおら美明の近くに身を寄せるなり、その耳許に低く囁きかけた。
「白美明さまでございましょう!?御心配なく、決して怪しい者ではございませぬ。そのお方は、この私が」
彼女は、訝る美明を尻目に瑞娘に向かって軽く手を合わせると、その細い体のどこにそんな力が秘められているのか、と疑いたくなるほど軽々と、遺体を担ぎ上げた。
「さ、早く!私と共においで下さいませ。ここでは万が一、追手の目に触れぬとも限りませぬゆえ」
尼僧は美明を促し、先に立って険しい山道を登ってゆく。
とても女の、それも重い遺体を背負った足とは思えない。
美明は咄嗟に覚悟を決め、背中に結び付けていた世凰の長衫の包みを外して胸に抱き、腰に挿した香蘭の短剣を、確かめるようにそっと握りしめると、すぐに彼女の後を追った。
しばらく山道を登り詰めた地点で尼僧は振り返り美明に告げた。
「すぐ、そこでございます」
彼女の指差す先には、山間の木立に隠れてひっそりと建つ、小さな古寺があった。
本堂と呼ぶには少々おこがましい気もするほどに小じんまりとした一室の、粗末な台座の上に敷物を延べ、瑞娘の遺骸を安置した尼僧は、蠟燭を立て、線香を焚き、どこにあったのか心ばかりの供物まで用意して、てきぱきと一応の形式を整え終わると、美明と並んで床に跪き、よく通る声で低く経を読み始めた。
その間中、美明は手を合せる事も忘れ、瑞娘の冷たい頬を撫でては、滂沱の涙を流し続けている。
やがて経が終わると、尼僧はゆっくりと美明の方に向き直り、静かな口調で問いかけた。
「美明さま。この方は、あなた様のお身替わりになられたのでございますね?」
「は・・はい」
嗚咽しながら答えた美明であったが、その胸に突如、新たな自責の念が沸き上がり、わっとその場に泣き伏してしまった。
「許して、瑞娘!どうか、この私を許して頂戴!!」
「左様にお嘆きなされますな、美明さま。この方に詫びられる必要など、少しもございませぬゆえ」
尼僧の意外な言葉に美明は思わず、涙に濡れた顔を上げたが、当の尼僧は彼女の方を見ようともせず、瑞娘の死に顔に穏やかな視線を注ぎながら言った。
「この方のお顔を御覧なさいませ。この世に何ら思い残すことも無く、充たされた、至福の表情をなさっておいででございます。ただの忠義心からだけでは、こうはまいりませぬ。まさしく、愛する者のために命を賭けることの出来た人間のみが為し得るお顔!私は以前にも、これと全く同じお顔に出会ったたことがございました」
美明は、息を呑んで瑞娘を見詰める。
「瑞娘。お前は、この私を!?そうなの、瑞娘!?」
尼僧は、きっぱりと頷いた。
「この方は、こうすることで、あなたさまへの真心を貫かれたのです。ほんに尊い事でございます。たとえどのようなかたちでありましょうとも、人が人を恋うる真心に、何ら隔たりのあろう筈はございませぬ。ましてや、斯くも純粋なものであるならば、なおのこと。必ずや、御仏もお宥しになりましょう。そうはお思いになりませぬか、美明さま?」
そして、尼僧は改めて瑞娘に手を合せた。
「ようなさいました、瑞娘殿。そなたの想い叶うて、美明さまはこれこの通り、御無事でおられまする。定めし、御本望でございましょうな」
「瑞娘!!」
美明は、がばと瑞娘の亡骸に取り縋り、声を殺して泣き咽んだ。
幼い頃から、ほとんど片時も離れることなく、常に影のように美明に寄り添って来た瑞娘。
勝気な娘同士、時には主従であることさえ忘れて他愛無い口喧嘩に興じ、そして笑い合った日々―美明があの日、危機に遭遇して世凰に救われた時、たまたま宿下がりをしていてその場に居合わせなかったのを、竹を割ったような気性に似ず、いつまでも気にしていた瑞娘・・・。
けれど、ここ最近、彼女はなぜかめっきり口数が少なくなっていた。
それらの一つ一つが皆、彼女の美明に対する、純粋でひたむきな愛情表現だったのである。
『さようなら、素敵な美明さま!!』
最後に残したそのひと言に、瑞娘はすべての想いを凝縮させたのだ。
「ありがとう。本当にありがとう!お前のことは、決して忘れない。いつかきっと、また会いましょう。ね、瑞娘!?」
例えお前の気持ちに気付いても、多分、応えてはあげられなかった。
でも、ありがとう!!愛してくれて・・・。
「美明さま。ただ今のお言葉で、まさしくこの方は報われました。きっとお心置きなく、成仏なさったことでございましょう」
尼僧はそう言って、袖口で涙を拭いた。
ひとまずの弔いを終えたのち、尼僧は、美明を庫裏へと誘った。
「長い間遠出をいたしておりましたゆえ、お口に合うものとてございませぬが」
彼女は手早く山菜を刻んで熱い粥を作り、美明にふるまってくれたのである。
「さ、どうぞ冷めぬうちに召し上がれ、あなたさまが食されれば、ほとけへの供養にもなりましょうから」
実のところ美明は、極度の疲労と深い悲しみとに打ち拉がれ、全くと言っていいほど空腹を感じてはいなかったのだが、そう促されて箸を取る気になった。
火傷をせぬよう気をつけて一口含むと、粥のとろけるような温かさがこの上もない滋味となって、ゆっくりと口中に拡がってゆく。
見知らぬ尼僧の厚意に対する言い尽くせぬ感謝の涙が、ぽとりと一滴、椀の中に落ちた。
いつの間にかその場から姿を消していた尼僧が、ややの後、美明が箸を置く頃を見計らったかのように、包みを一つ携えて戻って来た。
尼僧は美明の側に腰を下ろして卓子の上に包みを拡げ、中から粗末な男の着物と破れ笠を取り出して、彼女の前に並べて置いた。
「お食事が済みましたなら、早速にもお召し換えなさいませ。むさ苦しゅうはございますが、これで人の目は充分にごまかせましょう。そのままのお身なりにては、人目に立ち過ぎます」
「はい」
素直に頷いて、美明は立ち上がった。
尼僧に手伝ってもらって着換えを済ませた時、そこには貧しい農民の若者が一人、誕生していた。
「御髪は、私が編んで差し上げましょう」
最後の仕上げに彼女の黒髪を編み上げるため、尼僧は美明の背後へと回ったが、その時美明が抜き取った翡翠の簪を目聡く視線の端に捉え、一瞬、複雑な光がその瞳に宿ったかに見えた。
が、彼女はじきに何事も無かったかのような静かな表情に戻り、手際よく編髪を編み終えると、着物と一緒に用意して来た破れ笠を目深に被らせ、顎紐まで結んでやった。
そうやってすっかり美明の身支度を整え終わった尼僧は、彼女に向かって言った。
「美明さま。瑞娘殿の御供養、この身が真心籠めて務めますゆえ何のご心配もいりませぬ。一刻も早ようにこの場を落ちのび、珠林へお戻りなされませ。お父上が、さぞかし御心痛のことと存じます。しかしながら、万に一つも、宣軍などの目に触れてはなりませぬ。私だけしか知らぬ間道をお教え致しましょう」
重ね重ねの尼僧の厚意に、美明は問いかけた。
「尼様。このようなこと、申し上げてはならぬかと存じますが、敢えてお尋ね致します。何ゆえ私に、これほどまでの御厚意、頂けるのでございましょう?」
「すべては、御仏のお慈悲からでましたこと。この尼などの裁量ではございませぬ。ただただ、御仏に感謝なさればよろしゅうございます」
尼僧は事もなげに答えた。
「ならばせめて、あなたさまのお名前なりとも、お聞かせ願えませぬか?」
「御覧の通り、寺とは名ばかりの草深い庵に侘び住まい至す身。ことさらお聞かせ申し上げるような名など、持ち合わせてはおりませぬ」
しかし、その問いにもやはり尼僧は、どこか謎めいた微笑を湛え、あくまでも名乗ろうとはしなかった。
「そのようなことよりも、早うゆかれませ!さ、御案内致しましょうほどに」
尼僧に急き立てられた美明は仕方なく、瑞娘の安置された本堂に向かって手を合せ、心の中で別れを告げると、懐深くに簪と短剣、胸に長衫の包みを抱き、尼僧に導かれるまま寺を後にした。
寺の左手の道を、来た時とは反対の方角に向かって少し下ったところに深い竹林があり、それに沿って、丈高く伸びた雑草に埋もれた形で、道ともいえぬ間道が見え隠れしていた。
その行手は雑草によって蔽い隠され、全く確かめることはできない。
「この道を、西へ西へと辿っておゆきになれば、程無く、珠林へ続く山道に出ることが出来ます。それを下られたなら、珠林はもう、目と鼻の先。何卒御無事で、お父上の御許にお着きになりますよう。それでは、私はこれにて・・・」
そこまで来ると尼僧は立ち止まり、丁寧に頭を下げて、立ち去ろうとした。
その彼女を、美明は、ややためらいがちに呼び止めた。
「もし、尼様。身に余る御恩を頂きました上に、このようなさらなるお願いを致しますのはまことに恐れ多い事と存じますけれど、もしもお聞き届け願えますならば、白家の山荘跡に眠る者たちに、せめて御経の一行なりとも、詠んでやっては頂けませぬか!?」
そう願いつつ自分を見詰める切れ長の目の中に、かけがえのない真実を察した尼僧は、胸中深くに感嘆し、快く彼女の申し出を承諾した。
「よろしゅうございますとも。この身が、確かに承りましょう。御安心の上、どうか一刻も早う!」
「ありがとうございます。尼様。この御恩、終生忘れませぬ!」
深深と一例するや、美明は、背丈ほども伸びた雑草を搔き分けて間道へと踏み込んで行った。
その姿は、すぐに茂みの蔭に隠れて見えなくなったが、尼僧は一人その場に佇み、感慨深げに、こう呟くのだった。
「美明さま!あなたさまこそは、まことにあの方にふさわしき女性。我が眼に狂いはございませなんだ。この上は、偏に御命永らえられ、見事、世凰さまと添い遂げなさいませ!・・・」
数刻後―・
海峰山・白家山荘の無残な焼け跡に、どこからともなく、若い美貌の尼僧が現われ、涼やかな声音で経を朗々と手向け始めた。
辺りを警備していた宣軍兵士の一人が、謀反人の一味に経など上げるなと咎めると「死者を弔うに、謀反人も何も有りは致しますまい!情無き事を申されますな!!」凛然たる口調で、恐れ気も無くそう叱咤し、余りにも鮮やかなその態度に圧倒されて『でくの棒』の集団と成り果て、呆然と見守るのみの宣軍を尻目に、朗々と手向けの経一巻を詠み終えた彼女は、現れた時と同様、また何処へともなく風のように去って行った。
その尼僧が果たして誰であったのかは、敢えて語るまい・・・。




