《三》赤絲再逅(えにし ふたたび)-8-
世凰を送り出してから、六日後の夕刻。
美明は自分の居間で、一心に縫い物をしていた。
彼女は、世凰のために、長衫の上下を縫っているのだった。純白の絹地に鳳凰の透かし模様の入った、それは見事なものだ。
華の国にあっては、白は本来「喪」の色である。
けれどもその一方で、生死を超越した『気高さ』の象徴でもあった。
まさしく世凰にふさわしい、と美明は思う。
そしてまた、当然のように、彼には白が一番よく似合った。
一針一針に心を籠めて、尽きせぬ思慕の情を籠めて、丁寧に丁寧に・・・。
華の情は、一日の殆どすべての時間を費やして、それに打ち込んだ。
彼女の黒髪には、あの日以来、世凰の愛の証でもある翡翠の簪が、片時も外されることなく飾られている。
六日前の夜半の闇に紛れ、くすんだ藍地木綿の上下に細身を包んで、彼は旅立って行った。
その間際まで、絹物や白衣以外は凡そ着たことのない彼は妙にはしゃいでいて、衣装に手を通すなり声を弾ませた。
「へーえ、結構、肌触りがいいんだなあ・・ねえ。この格好、挙試に落ちてスゴスゴと故郷へ帰ってゆく苦学生に見えませんか?」
などと世凰は冗談を飛ばしていたが、いざ別れる段になると打って変わって、至極真面目な顔つきになった。
「では、どうか御息災で、美明殿」
そう言って、彼女の手を握りしめた。
「いつかきっと、あなたを迎えに戻って来ます。待っていて下さい。けれど万一、世凰が死んだという知らせをお聞きになった時は、その簪は河にでも流し、私のことは忘れて、別の幸せを探して下さいね」
そう言ったあとで、即、間髪入れずに思い直し、いたずらっぽく言った。
「でも、私は必ず生きて帰る積もりでいるんです、本当はね。だってあなたを、他の誰にも取られたくはないもの!」
チロっと可愛い舌を出し、溜息が出るくらいに愛くるしく、笑って見せたものだ。
「それから」
世凰は、帯の背に白扇と共に手挟んでいた一振りの短剣を、鞘ごと抜き取って美明に手渡した。
「簪と同じく、姉が残してくれたものです。これも、あなたにお預けして参りましょう」
「これはもしや、お姉さまが御自害遊ばした時の!?」
「その通りです」
世凰は静かに頷いた。
「この剣には、姉の魂が宿っております。私が戻って来るまで、きっとあなたを守ってくれるでしょう。けれど願わくば、あなたがこれをお使いになることのありませんように!」
彼らはひっそりと抱き合った後、別れを告げた。
「敢えて、さらばとは申しません。行ってまいります!」
「どうか、御無事で!!・・・」
その一言しか、彼女は言うことが出来なかった。
それ以上何か言えば、忽ち激情が押し寄せて来て彼に縋りつかせ、行かないでくれ、と泣き叫ばせたに違いない。
〈あの方は必ず、生きて私の許へ戻って来て下さる。そして、この長衫を着て下さるわ!〉
祈りか願望か、或いは確信か・・・そのすべてが、恐らく綯い交ぜになっているのであろう呟きを、何度も何度も、呪文のように胸の中で繰り返す美明であった。
いつしか彼女は、空想に浸っている。
彼女の傍らには世凰がいて、にこにこしながら、彼女の手許を見詰めているのだ。
「いつ頃、出来上がるのかな?」
彼は、小首を傾げて問いかける。
「もうすぐですわ、あなた」
本当に声に出してそう言ってしまい、美明は一人で赤面した。実に他愛もなくもほほえましい、恋する女にはありがちな、束の間の夢の時間である。
その夢を突然、瑞娘のけたたましい叫び声が破った。
「お嬢様っ!!お嬢様っ!!大変でございます。お嬢様っ!!」
〈!?〉
とても唯事とは思えぬ彼女の叫びに、美明はドキリとして手を止め、体中の神経を張りつめた。
実のところ、それまでも相当表の方は騒がしかったのだが、外界の出来事を一切遮断して自分だけの世界に没入していた彼女は、全く気づかなかったのである。
バタバタと廊下を走る足音が今の前までやって来たかと思うと、ドン!!と扉が乱暴に開かれて、髪を乱し、頬を紅潮させ、さらに呼吸を弾ませた瑞娘が飛び込んで来た。
「何があったの、瑞娘!?」
美明は針を持ったまま、凝然と凍りついて彼女を見つめた。
その彼女の側に物も言わずに駆け寄った瑞娘は、いきなり彼女の手を引っ張って、強引に椅子から立ち上がらせようとした。
「あ、危ない瑞娘、針があるのよ!一体何があったのか、お言いったら!」
「何を呑気なこと、言ってらっしゃいますの!?早く、早くお逃げにならなくっちゃ!」
そう言いながら、彼女はなおもぐいぐいと美明の手を引っ張り続けて、とうとう彼女を立ち上がらせてしまい、そうしておいて、今度は美明の箪笥を引き開け、衣装や装飾品などを手当たり次第に引っ張り出し始めた。
「瑞娘!?」
美明は何が何だか解らず、縫いかけの長衫を両手で抱きしめた姿勢で呆気にとられた。
「宣の奴らが、踏み込んで来ましたの。早く仕度をなさって!まあ、まだそんなところに突っ立ってらっしゃって!!さ、これを包みにして下さいましな!」
まくし立てつつ、引っ張り出した品々を、手早く幾つもの包みに拵えてしまっている瑞娘は、まさに手八丁口八丁の娘であった。
「そんなこと、おやめ!」
美明はだんだん腹が立って来た。
「私たちは、何もやましい事などしていないわ。そうでしょう!?なぜ、宣軍なんかに踏み込まれなくてはならないのかしらね!?それに、幸い世凰さまも、もうここにはいらっしゃらないし・・・」
「何言ってらっしゃるんです、お嬢様!!」
能天気なことを言うなとばかりに瑞娘は美明に喰ってかかった。
「宣の連中が!あの宣の連中が、そんなことぐらいで大人しく引き下がるとでも思ってらっしゃいますの?奴らは、端からこの山荘を潰すつもりで攻めに来たに違いありませんわ!もう、お屋敷の人たち、何人も殺されてしまいました。現に、今だって!!・・・
瑞娘のいきり立った口調の最後の方は、涙声になっていた。
「解ったわ、瑞娘!」
言うなり美明は、今度は逆に、自分が彼女の手を引っ張った。
「そんなこと、もういいから、お前はすぐにここからお逃げ!!お前には、何の関わりも無いのだから」
「お嬢様!?」
瑞娘は、目を丸くして美明を見詰めている。
「逃げて、故郷へお帰り。お前までが巻き添えになることはないわ!今日まで本当によく尽くしてくれたお前に、今となっては、もう何もしてはあげられないけれど、せめてその包みの中から、目ぼしいものを好きなだけ持っておゆき。なんとか無事に生家へ戻って、安穏に暮らして頂戴。ね、瑞娘!」
だが、瑞娘は一言も返事をせずに、なおも美明を見詰めているだけであった。
そんな彼女を、美明は急き立てた。
「さ、早くおゆき、瑞娘!一刻も早く!!」
その間にも、阿鼻叫喚の喧騒は、次第にこの部屋へと近づいて来た。
「お嬢様」
瑞娘はすっと立ち上がり、明らかに何かを決心したらしい。
きっぱりとした声音で言った。
「あたし、お言葉に甘えてそうさせて頂きますわ。でも、たった一つだけ、お願いがございますの。お嬢様にお仕えした思い出に、今お召しになっているその上衣を、どうぞ瑞娘に頂かせてくださいまし!」
「瑞娘!?お前、何をしようとしているの!?」
彼女の様子に何か不吉なものを感じて、美明は問い返した。
すると瑞娘は、キラキラと輝く栗鼠のような瞳で、にっこり笑いながらこう言った。
「何もしやしませんわ、お嬢様。あたし、あなたのおっしゃる通りにするだけです」
ドタドタと響く土足の音、剣や槍の触れ合う金属音、そして魂消る悲鳴―それらが、一段と近づいた。
「御免なさいまし、お嬢様!」
言うが早いか、瑞娘はパッと美明に飛びかかり、あっという間に、彼女の羽織っていた柔らかい絹の上衣をひったくった。
その拍子に、袖の一部が裂けて悲しい音を立て、抱いていた世凰の長衫も、美明の手を離れて床の上に滑り落ちた。
「抜け穴を通ってお行きなさいまし。一刻も早く!いいですわね!?」
凝然と立ち尽くす女主人に向かって早口に念を押すと、瑞娘はその上衣を、ふわりと頭から被った。
「さようなら、素敵な美明さま!!きっと、世凰さまとお幸せになってくださいましね!きっとですよ!!」
言い残すや彼女は、勢いよく廊下へ飛び出した。
「瑞娘、待って!待って頂戴!!」
必死に追い縋る美明の声にも振り返ろうとはせず、瑞娘は、阿鼻叫喚の真只中へ目ざして駆け去って行った。
「おっ!白美明が逃げるぞ!追え、追え、引っ捕らえろっ!!」
忽ちその方角で、野太い男たちの声が荒々しく交錯し、入り乱れる土足の音が、方向を転じて、遽しく遠ざかってゆく。
「瑞娘~っ!!」
美明は、今にも崩おれそうな体を壁に縋ってやっと支えつつ、健気な侍女の名を絶叫したが、その声は騒乱の中に空しく搔き消され、誰一人として聞き咎める者もいなかった―。
白家の山荘は、やがて見る影もなく踏み荒らされ、放たれた火が、折からの強風に煽られて周辺の木立に燃え移り、山火事となって、海峰山はその後、丸三日三晩にわたって燃え続けた。
四日目の朝になって、火は漸く治まったが、瀟洒な佇まいを誇った山荘は、無残に焼け爛れたただの廃墟と化し、美しく緑豊かであった山の大部分も、焼け焦げた木々の残骸の集積となって、醜いその姿を朝日の中に曝している。
のみならず、山荘の女主人・白美明が、宣の手勢に追い詰められ、山荘の裏手に大きく顎を開く断崖から身を躍らせて自らの命を絶った、という事実を、人々はその朝、初めて知ったのであった。
白家は即日『領地財産共に没収の上、当主・民雄は遠い辺境の地・雲南に流罪』と、決まった。




