《三》赤絲再逅(えにし ふたたび)-7-
このところずっと揚鉄玉は、不本意な、遽しい毎日を送ることを余儀なくされていた。
一時期は小康状態を保っていた北方の緋賊による不穏な動きが、再び、活発になって来たからである。
彼らの存在は、宣朝にとって、言わずもがなの頭痛の種だった。
緋はもともと『賊』などとの蔑称で呼ばれるべき野蛮民族の類には非ず、北方に土着した、嘗ての中央貴族の末裔たちである。
その頭領に、由緒正しき名族・武一族を戴き、固い団結のもとに集う彼らは、男女共に武芸に秀で、義に厚く、粗野ながらも人間味溢れる性情と勇猛果敢な戦闘能力とを兼ね備えた、野生の貴人集団であった。
彼らはいつの頃からか、歴代王朝の圧政極まる度に敢然と立ちあがるようになり、義侠の血滾らせ、その名の示す通り、それぞれの家名を染め抜いた目の覚めるような緋色の戦旗を翻し、今日に至るまで、連綿たる武力闘争を繰り返して来た。
そして現在、彼らの標的は『宣』―。
緋は、決して一時に押し寄せて来ることはしない。
ちくりちくりと、針を刺すように執拗な攻撃を繰り返し、確実に宣の背後を脅かすのだ。
しかも、大した被害が無いからと油断でもしようものなら『針』はいつの間にか『剣』に変わり、思いもよらぬほどの打撃を蒙る破目になってしまう。
その為、一挙に押し寄せては来ない解っているにもかかわらず、ひょっとしたら大攻勢をかけてくるのではないか!?という不安を、常に抱えていなければならない。
そういう変幻自在、極めて厄介な代物ではあった。
おまけに、中央権力の遠く及ばぬ最果ての地に根拠を置く彼らの、正確な数をも把握するのは困難、と来た日には全く以ってのお手上げ状態と言わざるを得ない。
斯かる面倒な敵に糅てて加えて、宣の足許には体制への不満分子が充満し、折あらば反宣の兵を挙げるべく、虎視耽々と機会を窺っているのである。
無論、そちらの方も決して手を拱いている訳ではなく、厳重に取り締まって入るのだが、民衆の口たるや意外に堅く、主謀者の消息、及び組織の実体など、詳細を摑み切るには程遠い現状だった。
それやこれやで、やたらひっきりなしに重臣たちが招集され、宮廷内外は、騒然とした雰囲気を呈している。
重臣としての立場に加え、軍人としても要職にある延将軍は多忙を極め、殆ど公邸にも戻れぬ日々を送っていた。
そんな事情で、延将軍直属の部下である揚鉄玉も当然、のんびりと世凰探しなどはしていられない筈であったが、見かけによらず小心な上に、異常なくらいに執念深いこの男は、かかる事態にあってさえ、絶えず数名の手先を使い、ねちねちとしつこく、彼に関する情報集めを続けていたのだった。
尤も揚の場合、同じ粘着質であっても、延将軍のそれと違って至極単純な憎しみから発した、至ってノーマルなものではあるのだが・・・。
ともかく、その甲斐あってか、ついに彼はその手先の一人から『蒼嶺郡に隠然たる勢力を誇る豪族・白民雄の海峰山にある山荘に、数か月前から、貴公子然とした美貌の若者が密かに逗留している』という、飛び立つような、確固たる情報を入手したのだった。
〈奴だ!奴に違いない!!〉
世凰への憎悪に凝り固まり、極度に鋭敏になった彼の勘が、その情報の確実さを自身に告げていた。
これまでのように曖昧模糊とした、雲か霞でも摑むに似た噂話とは違い、今回は、明らかな裏打ちまでがある。
以前、彼らが散々にいたぶった娘が、実は白家の娘だったということが、あとになって解った。
そしてかの子倅は、生意気にも、颯爽と彼女を救ったのである。
聞けば、白民雄という男は非常に義に厚いとの評判、娘の恩人である子倅が頼って来れば、必ずこれを助け、庇護するに違いない。
〈これで決まりじゃ!今度こそは、あの憎たらしい小僧めを、さんざっぱら命乞いさせた上でこの世から葬ってくれるわ!!〉
大いに息巻いて勇み立った揚鉄玉ではあったが、煮え湯を飲まされ、大恥を掻かされたあの時の出来事を急に思い出し、途端に腸が煮えくり返ったのだった。
とにもかくにも揚は、さっそく事の仔細を延将軍に報告するため、使いの者を彼の公邸へと走らせた。
その時、丁度折り良く、延は久しぶりに公邸へ戻って来ていたが、揚から遣わされた使者の口上を聞くなり、少々うんざりした。
〈またまた性懲りのない!蜥蜴の尻尾を拾っては、鬼の首でも取った気で有頂天になりおって。汝などが、羽虫の如くぶんぶんとうるさく騒ぎ立てずとも、奴は時期が来れば必ず、自分の方から、この延の許へ舞い戻って来るわ!それが、奴の宿命じゃによってな。奴が汝の到着を、じっと待っているとでも思うのか?身の程知らずめ。とんだ見当違いも良いところ!!〉
だがしかし、と延はまたしても一方で考えた。
〈この際、義侠気取りの白の老いぼれを叩いておくのも、まんざら無駄なことではあるまい〉
腹の中に、いつもながらの黒い思惑を充満させ、延は、揚の望み通り海峰山襲撃を許可してやった上、激励までして送り出してやったのである。
朝靄の流れる木立の中に、彼らはいた。
まだ、昇り切らぬ太陽の光を受けてキラキラと輝き、ゆっくりと揺蕩う白い静寂を時折破って、小鳥たちのさざめきが聞こえて来る。
二人はずっと、無言だった。
無言のまま、歩き続けていた。
真綿で胸を締め付けるような息苦しい不安が、美明に纏い付いて離れない。
「美明殿」
先に沈黙を破ったのは、世凰の方だった。
「・・・」
美明は、黙って彼を見つめる。
不安が、さらに自分を締め付けて来るのを、彼女は感じていた。
「今夜遅くに、私はここを発って、胡北郡へ行こうと思います。あなたにはさんざんお世話になっておきながら、突然このようなことを申し上げねばならず、とても心苦しく思っているのですが・・・」
〈ああ、やはり、そう・・・〉
美明の不安は、まさに的中した。
こうなることは、はじめから覚悟していた筈である。
―この方は、いつかは私の側から離れて行ってしまうのだ。本来が、私などの許に留まってくれるようなお方ではないのだ、と―。
ここ数日来の彼の様子から、何となく、別離の日が近いことを女の勘とでも言うべきもので感じ取っていた美明ではあった。
だが、こんなにも早く、こんなにも遽しく、このひとは私から去って行ってしまうのだろうか!?
〈今夜だなんて・・・ひどい!〉
彼女は胸が一杯になり、思わず知らずの恨み言を、心の中で彼にぶつけてしまったし、また、泣き出しそうにもなってしまう。
泣いてはいけない!
でも、でも駄目!!・・・泣くまいとすればするほど涙は意地悪く湧き上がり、
頬を伝っては流れ落ちてゆく。
その様子を、何とも言えぬやさしい眼差しで見守っていた世凰が再び彼女に
呼びかけた。
「美明殿・・私はもうじき二十二になりますが、実はこの年になるまで、一人も
女の方を知らないのです」
「・・・」
美明は、返事に窮した。
答えられる訳がない。
つい今しがた別離の告知をしたかと思えば、その直後に、今度はいきなり『童貞宣言』したりなどする世凰の短絡ぶりにすっかり当惑し、美明は涙に濡れた
頬のままで、忙しく赤面しなければならなかった。
〈どういう積りなのかしら、このひとは!?〉
彼女の戸惑いも知らぬ気に、彼は続ける。
「私にとっては、ただ姉こそが、理想の女性でした。ですから、他の女性に目を
向けたこともなく、ましてや妻を娶る積りなど、毛頭ありはしませんでした。こ
んな私を、姉はとても心配してくれて―ことあるごとに、こう言ってくれたので
す『いつかきっと、あなたが好きになれる女性が現われるから、大丈夫だ』と。
その時はまるで信じられませんでしたが・・・やはり、姉の言ったことは正しか
ったようです」
彼は思い出したように照れた微笑を見せたが、それはほんの一瞬で、たちどころに真顔に戻った。
「あなたに是非、受け取って頂きたいものがあるのです」
そう言って懐から、白絹の小さな包みを取り出した。
彼の掌の上で開かれた包みの中からは信じられない品物が現われ、美明は思わず、息を呑んで瞠目したのである。
翡翠の簪―であった。
世凰の最愛の姉・香蘭の形見たる、あの見事な翡翠玉の・・・。
「これを?私に!?・・」
しばらくは声も出せずにいた美明は、蚊の鳴くような声で、やっとそれだけ呟くのが精一杯だった。
世凰は、にっこり笑って頷いた。
「いつか、お話し致しましたね。亡き姉が、私の妻となる女性にこれを差し上げ
てほしい、といつも言っていた事を。だから私は、今こそ姉の遺志に従おうと思
います。現在の私の身の上を考え、却ってあなたを不幸にするのではないかと随
分迷いました。もとより、決して無理強いなどは致しません。ただ徒にあなた
のお心を乱してしまっただけなら、幾重にもお詫び申し上げますし、勿論、お断
り下さって結構です。でも、もしも・・・もしもあなたが、何もかも御承知の上
でこれを受け取って下さるならば、私はどんなに・・・」
「嬉しゅうございます、世凰さま!!」
彼の言葉も終わり切らぬうちに、思わずそう叫んでしまった美明ではあった
が、思いも懸けぬその喜びへの不安がすかさず頭を擡げて、彼女を逡巡させる
のだった。
「でも私に―私などに、そのような御品を頂く資格があるのでしょうか?
私は決して美しい女ではないし、気ばかり強くてどうしようもないし、それに、
あなたより二つも年上だし・・・それに・・それに・・・」
「もうおよしなさい、美明殿」
世凰はやさしい声音で彼女の繰り言を中断させた。
「およしなさい、御自分をそんな風におっしゃるのは!・・私が本当のことを言
ってあげましょうか。いいですか、美明殿!?あなたは私にとって誰よりも美し
い女性だし、勝気な女性が、私は好きです。それに、あなたはやたら年齢のこと
を気になさっているようだけれど、あなたさえ年下の男がおいやでなければ、私
としては、一向に気にはなりません。こういうのって、変かな!?」
「うれしい!!」
心に沁み通るような笑顔を見せる世凰の胸に美明は叫ぶなり、身を投げた。
「歩いて下さいますか?私と。たとえ、道無き道であっても・・・」
彼女を抱きしめ、世凰はその背中に問いかける。
「はい、・・喜んで!」
嗚咽に震える黒髪が、しかしきっぱりと上下に揺れ、世凰は、綺麗に結い上げられた彼女の髷に、そっと簪を挿してやった。
〈よく似合う!〉
彼女を見下ろす世凰の瞳と、彼を見上げる美明のそれが、尽きせぬ思慕を湛えてじっと見詰め合い、どちらからともなく近づいた彼女の頬を、世凰のしなやかな長い指が大事そうに包み込んで、ごく自然に唇が重なり合った。
お互いが、生まれて初めて体験する、異性への愛の確認である―このままずっと、こうしていられたらいいのに!!―二人は、同時にそう感じていた。
やがて唇は離れ、再び彼らは見詰め合う。
すでにこの時、美明の心には、女としての重大な決心があったのだった。
そして、彼女は恥じらいながらも、それを口にするのを憚らなかった。
「世凰さま、どうかお願いでございます!お発ちになるその前に、せめてひとときなりとも私を・・この美明を、あなたさまのお胸に抱いてやって下さいませ!!」
切ない想いは炎となって、その双眸に宿り、ひたむきに彼の愛を求めて燃えさかっている。
〈抱きたい!あなたの何もかもを、奪ってしまいたい!!〉
だが、世凰は懸命に、突き上げて来る衝動に耐えた。
「ありがとう、美明殿」
彼は静かに、自分自身に言い聞かせるように答えた。
「私も、できることなら今すぐにでもそうしたい。しかし、今はこのままお別れしましょう。真心だけ、あなたのもとへ置いてゆきます。いつかまた、再び、巡り会えたなら、その時こそ、あなたのすべてを私のものに。そしてこの世凰のすべても、美明殿、あなたに!」
「ああ、世凰さま、世凰さまっ!」
二人はまたもやひしと抱き合い、万感の思い迸るまま、より激しく狂おしく、唇を重ね合うのだった。
いつしか太陽は昇り切り、朝靄は消え去っていた。
別離の日の空はあくまでも青く澄み渡り、折しも、どこからともなく飛来した一番の名も知らぬ鳥が、互いへの想い確かめ合うかの如くに高く、そして低く啼き合いながら木々の梢を掠めて上昇し、見る見るうちに天の高みへと、吸い込まれるように消えて行った。




