《三》喪姫血涙(とわのわかれ)-1-
世凰が再び翔琳寺へ戻って行った日から、十日後の夜・・・。
鳳貞徳は一人書斎に籠り、心地よい静寂の中で、ゆったりと古い書物を広げていた。彼の心は今、嘗てなかったほどに充たされていた。
「あやつめ。いつまでたっても、少しも変わらぬわ」
ひとりでに、口許が綻んで来る。仮病を使い、その上さらに縁組までも用意して待ち受けていた父に対して、世凰は真向から、真摯な怒りをぶつけて来た。
「父上!この度の父上のなされよう、世凰、どうあっても承服できませぬ‼」
亡き妻・秀麗そのままの特徴ある切れ長二重の瞳を、純粋な怒りに煌かせながら、彼の最愛の息子は猛然と反撥したのである。
年を重ねても、少しも妥協に流れることを知らぬその至純の魂を、貞徳は腹を立てつつも、我が子ながら天晴れとさえ思ったが、反面、それが却って徒に敵を作ることになりはせぬかと、密かな危惧を抱いたりもした。
結局、怒りにまかせてそのまま屋敷を飛び出そうとした世凰は、姉に諭され、貞徳に詫びを入れた。
そして、三年後には必ず帰って来てこの鳳家を継ぐことを、父に約束してくれたのである。
貞徳は、心から喜んでいた。
三年後が待ち遠しくてならぬ。
その楽しみを自分に与えてくれた息子の顔を思い浮かべながら、彼は、笑顔のままで独り言を言った。
「今頃はもう、翔琳寺に着いていような」
さっそく明日にでも、しかるべき人物を立てて、先方に婚約の破棄を申し入れねばなるまい。
無論、それ相応の償いは覚悟するべきだが、今の貞徳にとって、そんなことなど少しも苦にはならなかったのだ。
と、その時、貞徳は何か異様な気配を感じて、室内を見回した。
「何者⁉」
彼の言葉を待っていたかのように、五個の黒い影が突然、調度や衝立の陰から湧いて出た。
床に敷き詰められた、『錦毯』と呼ばれる毛足の長い分厚い敷物が仇となり、貞徳の耳には、賊共の足音さえも伝わらなかったのだ。
彼らは全く一言も発することなく、場馴れした敏捷な身のこなしで、あっという間に貞徳を押し包みざま、いきなり五本の刃を一斉に繰り出して、彼の体を刺し貫いた。
「ううっ!ひ、卑怯者め!!顔を、顔を見せい!」
瀕死の重傷を負いながらも、さすが鳳家の当主たる貞徳は一喝して、手前の男の覆面を力一杯剥ぎ取った。
見るからに賤しい、左頬に醜い刀傷のある顔が、室内の明かりに曝け出される。その男は、予想だにしなかった貞徳の反撃に逆上し、一旦相手の体から引き抜いていた凶刃を再び振りかざした。
「この老いぼれがっ‼」
罵倒しながらさらに一太刀、その肩先深く、一気に斬り下げた。
「うぐっ‼」
貞徳にとっては、これが、まさに致命傷となった。
それでも彼は、泳ぐような足取りで書斎から逃れ、書斎に続く居間の寝台の前までよろめいて来て、ついに力尽きた。
「し・・世凰!・・・」
彼は絞り出すような声で息子の名を呼び、分厚い錦毯の上で絶命した。夥しい血潮が、あとからあとから錦毯の中へと吸い込まれ、どす黒い染となって拡がってゆく。
そして体の下には、吸い込み切れぬ血が、深い血溜りを作っていた。
貞徳の後を、死にかけた獲物をいたぶるかの如くに追ってきた賊共は、すでに息絶えた彼の体に、楽しんでいるとしか思えぬ残忍さで更に何度も刃を突き立てた後、やっと背中の鞘に納め、現れた時と同じく、全く物音を立てずに居間を出て書斎を抜け、風のように廊下を走り去っていった。
その廊下のあちこちには、鳳家の家臣たちの酷たらしい死体が転がっている。
その頃、香蘭もまた、侍女を遠ざけてただ一人、卓子の上に螺鈿の手箱を開き、中から何通かの古い手紙を取り出しては、弟への想いに浸っていた。
それらの手紙はすべて、かつて幼い世凰が、翔琳寺から姉に宛てて寄越したものだ。
その一通を読みながら、香蘭は思わず微笑した。
いかにも子供らしい、けれどもかなりしっかりした字で、手紙にはこう認められていた。
「ねえさま。おげんきですか?しーふぁんは、まいにちげんきでしゅぎょうにはげんでおります。しゅぎょうは、ちっともつらくありません。しーふぁんは、おししょうさまのおっしゃることをよくまもって、かならずつよくなって、ねえさまのところへもどってきます。そのときはきっと、しーふぁんのおよめさんになってください!・・・」
「可愛いこと!」
香蘭はそっと呟いて、手紙に頬ずりした。
「しゅぎょうは、ちっともつらくありません・・・」
だが、当時手紙には、はっきりと涙の跡がのこっていた。彼は、他の者たちが皆寝静まったあと、辛さ苦しさに涙をポロポロとこぼしながら、それでも、姉には決して弱音を吐くまいと、精一杯強がって見せたのだろう。
彼の負けず嫌いは、その頃から少しも変わってはいない。
「かならずつよくなって、ねえさまのところへもどってきます。そのときにはきっと、しーふぁんのおよめさんになってください!・・・」
そう言えば小さい頃、世凰は、香蘭の部屋に入り浸っては、よく乳母に叱られていた。
「若さま、男の御子が、むやみに女の方のお部屋にお入りになるものではございませんよ!」
その度に彼は、花びらのような唇を尖らせて反論した。
「ねえさまは、おおきくなったら、このしーふぁんのおよめさんになるんだぞ。だから、いつだっていっしょにいていいんだ!」
その微笑ましい抗議を聞くと、いつも決まって乳母の周夫人は、袖で口許を押えながら楽しそうに笑った。
「おやまあ、左様でございましたわね。御免遊ばせ、世凰さま!」
二人のやりとりを見守っていた侍女たちも、皆、一緒に笑った。今考えると、どうも彼女たちは、初めから世凰のその言葉が聞きたくて、わざと彼をからかっていたような節がある。
その乳母もすでに亡く、侍女たちも、当時から残っている者は誰もいない。
「あの頃は、本当に楽しかった・・・」
香蘭は、心からそう思う。人はいつか去って行くものだが、時折、かけがいのない思い出も残してくれるのだ。
〈でも世凰、あなただけはいつまでも変わらずに、姉さまを愛していてくれるのね!・・・〉
未だに「姉上」とは呼ばずに、幼い頃のままに「姉さま」と呼ぶ世凰。それが、彼一流の愛情表現であることを、香蘭は良く知っていた。
そして彼のこの呼びかけが、彼女は、何とも言えずに好きだったのである。
香蘭が世凰にとっての理想の女性であったと同じく、彼女にとってもまた、天真爛漫な美しい弟は、何にも換え難い、かけがえのない存在であったことは言うまでもない。
けれども、その一方で香蘭は、世凰が二十才を過ぎても一向に他の女性に興味を示さないのは、少なからず自分に責任があるような気がして、内心、心配にもなっていた。
二年程前、たまたま家に帰って来た彼に、こう尋ねたことがある。
「ね、世凰。もうそろそろあなたも大人なのだし、どなたか好きな女性はいないの?」
すると彼は、なぜそんなことを聞くのかと一瞬意外そうな顔つきになったがが、すぐにけろりとして、こう言い切ったものだ。
「姉さま。この世に姉さまそっくりの女性が存在するなんてこと、世凰はとても信じられません」
彼にとっては、姉以外の女など、まるで眼中に無いようだった。まさか今以って『ねえさまは、しーふぁんのおよめさんになるんだ!』などと、信じ込んでいるわけでもあるまいが・・・。
〈困った子!〉
そう思いながらも、香蘭は、その時、妙に嬉しかったのを憶えている。
しかしながら、やがていつの日か、そんな世凰も生涯の伴侶となるべき女性と巡り合い、姉のそれとは別の、男女の愛情というものに目覚めてゆくのであろう。
それが当たり前のことなのだと解かってはいても、そして、そうなることを心から願ってはいても、彼女は正直、複雑な想いを禁じ得ないのである。
彼が弟でなかったら・・などとは、一度も考えてことがない。と言えば嘘になる。
だがそれは決して許されぬ事であった。
『姉弟』という間柄は、まことに甘やかで、且つ微妙なものでもあるらしい。
〈それにしても・・〉
香蘭は自分の気持ちを切り換えるように、再び手紙に目を転じた。もしも今、これを見せてやったなら、果たして世凰は、どういう反応を示すことだろう?「えーっ!いやだな姉さま!なんだってこんなものを、いつまでも後生大事に持ってらっしゃるんです⁉いやだな,ほんっとにいやだな‼・・・とにかく、今すぐに私の見ている前で全部破って、きれいさっぱり、捨てるか焼くかしてくださいよっ‼」
きまり悪さに大いにうろたえながら、また、それ以上に照れもしながら、ムキになって突っかかって来るその表情から声音までも、はっきりと目の辺りにする気がして、香蘭は思わず吹き出してしまった。
しかしー彼女の楽しい時間は、そこまでで、永久に絶ち切られることになった。
「何者です!」
叫ぶなり、咄嗟に椅子から立ち上がった香蘭は、常に身に帯びている護身用の短剣の柄に手をかけた。いつの間にか黒い影が五つ、居間の中に忍び入っていたのである。
「誰か!曲者です‼」
気丈な彼女は凛とした声で家臣を呼んだが、どういう訳か、誰一人として駆けつけて来る様子もない。
そんな彼女の眼前に、いきなり立ちはだかった主領格らしき男が、低く押し殺した声でせせら笑った。
「まことにお気の毒だが、呼んでも無駄だ、お姫さま。屋敷中の者は、一人残らず眠ってもらった。二度と目覚めぬようにな!」
そう言って彼は、残忍な光を宿すその目を、意味ありげに細めて見せた。
香蘭の胸を、たちまちに不吉な予感がよぎる。
「まさか⁉・・・そなたら、まさか父までも⁉」
得たりとばかりに、男は覆面の下でほくそ笑んだ。
「左様。なかなかに察しの良い姫君だ。今頃は別動隊の者が、丁重に御父上をお送り申し上げておろうて。あの世とやらへな!なれど、心配御無用。お供が多勢、従いてまいった」
香蘭は、あまりの衝撃に、よろめきそうになった。
〈ああ、お父さま‼このようなことがあってよいのでしょうか⁉〉
だが、彼女は、痛ましくも、決然と持ち堪えたのである。
「よくも!・・・よくも我が父まで・・・一体、誰の差し金じゃ⁉」
激しい怒りに一層際立つ香蘭の美貌を眺めやる賊共の目が、弥が上にも獰猛な色を濃くして行ったが、中でも主領格の男は、濁ったその目をさらに血走らせ、野卑な思いを渦巻かせた。
「ほう、聞きしに勝る気の強さ。糅てて加えてその美貌、と来れば、わが殿が未だに執着されるも頷けるわ。いっそ、このわしが欲しいくらいじゃ!」
絶対に邪魔は入らぬという確信と、相手が女一人だという決定的な優位さとに、あるまじき隙を曝け出し、ついつい下卑た軽口を叩いてしまった。
「殿⁉殿とはだれの事か⁉はっきりと名を言うがよい‼」
香蘭に詰問され、彼は、自分が喋り過ぎたことを思い知らされた。
この時、既に香蘭の胸には、ある男の名が浮かんでいたのである。彼女はそれを口に出そうとしたが・・・。
「うるさい‼そのようなことはどうでもよい。大人しく我々と同道願おう。その方が、身の為だ!」
ことさら語調を荒らげてそう言いざま、それっ、と手下共を指図して襲いかかって来た男に遮られてしまった。
賊共は、わっとばかりに殺到し、やすやすと彼女を捕えようとした。刹那、意外な手強さで香蘭の短剣が閃いた。
「うわっ!」
真っ先にその体を抱きすくめようとした賊の一人が、突然、悲鳴を上げて片腕を抑え、五、六歩、後ずさった。その拍子に、卓子の端にかなりの勢いでぶつかって大きく卓子が揺れ、螺鈿の手箱に数通の手紙、そして陶磁の燭台が床の上に落下し、螺鈿と陶磁の破片が飛び散って、あたりに散乱した。
賊共が僅かに躊躇した隙をついて、香蘭は居間の扉に駆け寄ろうとしたが、彼らはさすがに手練揃いであるらしく、またたく間に体勢を立て直すと、恰も風が横切るように彼女のゆくてを遮って、再び取り囲んだ。
「まったく、手を焼かせおって!だが、もう逃げられぬぞ。観念せい‼」
主領格の男が、今や本性を剥き出しにして迫って来る。
追い詰められた香蘭は、胸元で短剣を構えたまま、凍りついたように賊共を睨み据えていた。
だが、彼女にはよく解かっていたのだ。もう決して、のがれることは出来ぬということが。そして今、自分が何をしなければならないのか、ということも・・・。
父はもはや、生きてはいまい。もしも我が身がここで拉致され、生き恥を晒すようなことにでもなれば、この先どのような難儀が、世凰の上に降り懸かるか知れなかった。
最愛の弟を、自分の為に苦しめてはならぬ!
「ええい、構わぬわっ!少々手荒でも、引っ担いで走れ‼」
業を煮やした主領格が、苛立たしげに手下の者を叱咤し、男共の手によってまさに捕えられようとした瞬間、香蘭は、素早く両手で短剣を握りしめ、寸分のためらいもなく、深々と我が胸に突き立てた。
途端に、言語を絶する熱い痛みが彼女に襲いかかり、さすが気丈な香蘭をして、小さな呻き声を上げさせたのである。
その傷は、ほんの僅か急所を外れていたが、彼女はそのまま、崩れるように錦毯の上に倒れた。
突然の成り行きに目を疑い、賊共は呆然と立ち竦むのみ。
少なからず狼狽しつつも、香蘭の有様が、もはや取り返しのつかぬ状態にあることを見て取った主領格の男は、いかにも腹立たしげに、チッと短く舌打ちした。
そして、貞徳の始末を終え、折しもそこへ走り込んで来た別動隊の五人と速やかに合流すると、テキパキと彼らを指図して、早々(そうそう)に姿を消した。
―賊共が去ったあと、香蘭は、薄れゆく意識と激しい傷の痛み、その双方と必死に闘いながら、僅かに残った力で床を這ってゆき、踏みにじられた世凰の手紙を一通、やっと見つけ出すと、両手で包み込むようにして胸に抱きしめた。
〈世凰・・・私の世凰!・・・こんな形であなたを残してゆかねばならない姉さまを、どうか許して!・・・〉
彼女の閉じた瞳からは、とめどない涙が溢れ、頬を伝って、傷口から流れ出す鮮血と共に、綾織の錦毯の中に沁み通って行った。