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鳳凰傳  作者: 桃花鳥 彌 (とき あまね)
19/37

《三》赤絲再逅(えにし ふたたび)-6-

 五日間をかけて領地の見回りに出ていた民雄(ミンシオン)が帰館するのを待ち兼ねたように、(パイ)家に古くから仕える老召し使いの(ホー)が、来客を告げにやって来た。

「どなたかね?」

 五日の日程を丸々一杯に使って、広大な領地の実態をつぶさに検分し、監督官(かんとくかん)たちにあれこれと細かい指図を与えたりなどして精力的に動き回って来た民雄(ミンシオン)は、少なからぬ疲労感を覚えていたのだ。

 六十三才という年令のせいも、あるのかも知れない。

 今日(きょう)は一日、ゆっくりと休養しようと思っていた矢先だったので、彼は(いささ)か、うんざりしてしまった。

 また、近所に住むお(しゃべ)り男の(クォ)(カン)(ウェン)でもやって来たのだろう。(クォ)は、悪気は無いのだが、(はなは)だオッチョコチョイで軽薄な男だった。

 その上、男のくせに無類(むるい)のお(しゃべ)りと来ているので、民雄(ミンシオン)にとっては、彼の相手をするくらい(わずら)わしいものは無かったのだが、その彼の気持ちも知らぬげに、(クォ)の方は妙に民雄(ミンシオン)()()()()いて、しげしげと(パイ)家に(かよ)って来ては、まさに口角(こうかく)(あわ)を飛ばして(しゃべ)りまくり、大いに民雄(ミンシオン)を悩ませるのであった。

 今日のように疲れている日に、よりによって(クォ)などに取りつかれては、たまったものではない。

 だから、もしも来客が(クォ)ならば、即座に面会を断る積りだった。

(クォ)氏なら、丁重(ていちょう)にお断り申し上げてくれないか。『今日は気分が(すぐ)れませんから』と言って」

「いえいえ、旦那様」

 民雄(ミンシオン)の言葉を聞くと(ホー)(かな)(つぼ)(まなこ)を精一杯丸くして、とんでもない、とばかりに手を横に振った。

(クォ)()()ではございませぬ。お若い女の方でございます。それはそれはもう、お美しい方ではございますが、ただ()しむらくは・・・」

 (ホー)は、いかにも残念そうに一旦(いったん)言葉を切って、切なそうに声を(ひそ)めた。

「実に()しいことに、ではございますが、どうやらお風邪でも()しておいでのようで、お声が今一つ、低うございますです、はい」

「はて?」

 若くて美しくて、おまけに風邪を引いて声の低い女、と言われても、民雄(ミンシオン)には何一つとして、心当たりは無い。

「その方の名は、何とおっしゃるのだね?」

「はい、旦那様。その方が申されますのには『(フェン)(チー)』とお伝え下さればお解りになるだろうと・・・」

 「(フェン)(チー)!?」

 声に出してその名を(つぶや)いた途端(とたん)〈あっ!!〉民雄(ミンシオン)は、(のど)まで出かかった叫びを(ようや)(こら)え、首を伸ばして飲み(くだ)した。

世凰(シーファン)殿!何という大胆な真似(まね)をなさるのだ!?〉

(フェン)(チー)』というのは、世凰(シーファン)の亡き母・秀麗(シウリー)の呼姓である。(チー)家から(とつ)いで来た彼女は、(フェン)(ツェン)(テー)の妻となってからの姓を『(フェン)(チー)』と名乗った。

 妻が、その旧姓を夫の姓の下に重ねて自らの呼称(こしょう)とするのが華の国に古くから伝わる習慣だったのだ。

 以前、母のことについても世凰(シーファン)から聞かされていた民雄(ミンシオン)は、心臓がでんぐり返るほどに驚いてしまった。

 (ハイ)(フォン)山の山荘から、彼は抜け出して来たのに違いない。

 人目を忍ぶために女装をしたのだろうが、反対に、人目を引いてしまったのではないだろうか?

(実際、その()よもしばらくの間、近所では、()()()()()()(パイ)家の当主と、屋敷に入ったきり、二度と出ては来なかった謎の美女との、ゾクゾクするような艶笑(えんしょう)(たん)で持きりであったという)

 何のために、そんな危険を(おか)す必要があるのだ!?

 一時(いっとき)ほどではないにせよ、(シュエン)軍は(いま)だに(あきら)めもせず、最近では、この近辺(きんぺん)の至る所にまで、探索の手を伸ばしているというのに・・・。

 やはり、しっかりしているようでも、まだ若いのだ。

 若いだけに、時として前後の見境もない行動に(はし)ってしまうこともあるのだろうが、それにしても、取りかえしのつかぬことにでもなったら、いったいどうする積りだ!?

 ここはひとつ、手厳(てきび)しく(いさ)めてやらねば!

「よいか!客人(きゃくじん)のことは、決して、誰にも口外(こうがい)してはならぬぞ!!」

 ことさら(かた)(ホー)に口止めすると、民雄(ミンシオン)は、重々しい足取りで客間へと向かった。

 本当は今にも走り出しそうになるのを、懸命(けんめい)(こら)えていたのである。

 一人書斎に残された(ホー)は―彼は口止めなどするまでもなく、非常に口の堅い男だったが―ぶつくさと(ひと)()ちた。

「旦那様と来たら、照れてござるわい。あのようにしつこう、口止めされずともよいものを。それにつけても、あれでなかなか(すみ)に置けぬお方じゃて・・果たしていつの間に、傾国(けいこく)の美女などと知り合われたものやら・・・・・」


 客間に一歩踏み込んだ(パイ)民雄(ミンシオン)は、思わず目を(みは)ったきり、その場に立ち尽くした。

 楚々(そそ)とした絶世の美女を、そこに見出(いだ)したからである。

 なまじ衣裳が地味な分だけ、(かえ)って美貌が際立(きわだ)ってしまっているのだ。

 しばらくは声も出ずに突っ立っている民雄(ミンシオン)に向かって、()()はにっこりと、こぼれるように(あで)やかな笑みを(たた)えて一礼した。

「お疲れのところへ突然お(うかが)い致しまして、まことに申し訳ございませぬ」

 しかし、その低い声音(こわね)は、(まぎ)れもなく世凰(シーファン)のものであった。

「一体全体、どういうお積りじゃ、世凰(シーファン)殿!!!?」

 民雄(ミンシオン)は、やっとのことで問いかけた。

無謀(むぼう)だとおっしゃるのでしょう?それは私にもよく解っております」

 世凰(シーファン)はなおもにこにこしていたが、急に表情を改めて、こう切り出した。

(しつけ)ではございますが、民雄(ミンシオン)殿。本日は、お別れのご挨拶(あいさつ)かたがた、たってのお願いの()あって参上致しました」

「別れ、と申されるか!?」

 民雄(ミンシオン)は、又々驚いた。

 全くもう、この若者ときたら、何度この年寄りを驚かせれば気が済むというのだ!?

「はい。民雄(ミンシオン)殿及び(メイ)(ミン)殿を始め、皆様方の御厚意に甘え続けて、今日(きょう)の日まで、口では申せぬ程の御恩をお受け致しました。それもお返し出来ぬままに、(はなは)だ勝手を申すようではございますが、近日中にお(いとま)致したいと存じております」

「ば、馬鹿な事を申されるな。早まってはならぬ!」

 民雄(ミンシオン)は、日頃の冷静さもかなぐり捨て、すっかり狼狽(ろうばい)(てい)であった。

 なぜこうなるのか、自分でもよく解らない。

 彼は、(あたか)も実の息子から別離を宣告されたかの如き錯覚(さっかく)に、(おちい)ってしまっていた。

「今出て行かれてどうなさる!?(シュエン)朝の手は、さらに広範囲にわたって伸び始めているのでぞ!その(まっ)只中(ただなか)にお手前を放り出すことなど、(だん)じて出来ぬ!!」

 どうにかして、この無鉄砲な若者を思い(とど)まらせようと躍起(やっき)になる余り、民雄(ミンシオン)は我知らず、声を(あら)げていた。

 だが・・・。

「有難うございます。民雄(ミンシオン)殿。そこまで私の身を案じて頂きまして・・・けれど私には、是非(ぜひ)とも()()げなければならぬ事があるのです。それを打ち捨てておいては、この身の生きる意味など無い、と存じます!」

 世凰(シーファン)にこう言われては、彼としても沈黙せざるを得なかった。

 世凰(シーファン)の切れ長二重(ふたえ)の瞳が決然と輝きを増してゆくのを、民雄(ミンシオン)は複雑な気持ちで見守るのみである。

 是非(ぜひ)とも()()げねばならぬ事―言わずと知れた仇討(あだうち)である。

 そのために生きているとまで、若者は言い切った。

 その決意を、この上なく尊いとは思いながらも反面、一抹(いちまつ)の寂しさを老人は禁じ得ない。

〈さてもや、(メイ)(ミン)には(あきら)めさせねばならぬのか・・・〉

 しかしながら、もうこの若者をいくら止めたところで無駄(むだ)だということも、民雄(ミンシオン)にはよく解っていた。

「さんざん御恩を(こうむ)りました上に、(さら)にこのようなお願いを致すのは、まことに心苦しいのですが・・・」

 彼に向ってここまで言うと、世凰(シーファン)は少しばかり口籠(くちごも)り、どういう訳か、赤くなったりした。

〈剣でもくれというのか?ならば、我が家に伝わる名刀を(さず)けてやろう〉

 民雄(ミンシオン)がそう思った時、意を決したらしい世凰(シーファン)が、一息(ひといき)に言った。

民雄(ミンシオン)殿!御息女(ごそくじょ)(メイ)(ミン)殿を、何卒(なにとぞ)、この世凰(シーファン)に頂きとうございます!!」

 四度!実に四度、民雄(ミンシオン)はこの若者に驚かされてしまった。

 だがその驚きは、すぐに言いようのない喜びに変わった。

 夢ではないか、とさえこの年老いた父親は思ったのである。

(メイ)(ミン)を、と申されるか?」

 彼は努めて平静を装い、(おもむろ)に問い返す。

 まさか、いい年をした男が、両手を挙げて飛び回る訳にもいかないではないか?

「その通りです。改めて申し上げる(まで)もなく、私はお(たず)ね者の身。本来ならばとても、斯様(かよう)に身の程知らずの、無理なお願いの出来る立場にはありませぬ。けれども、()えて私はお願い申し上げます!もしも私が、首尾よく事を()()げ、その上で生きて帰れたならば、ぜひとも(メイ)(ミン)殿を妻に迎えたい。ご承知下さいますか、民雄(ミンシオン)殿!?」

 世凰(シーファン)は、やや鋭さを含んだ()()えとした(まな)差しで、じっと民雄(ミンシオン)の顔色を(うかが)っている。

〈もしも承知せぬのなら、今すぐ、引っさらってでも連れてゆくぞ!!〉

 美しいその()は、確かにそう言っていた。

 彼の視線を(まぶ)しく、だが頼もしいものに受け止めて、民雄(ミンシオン)は感動に打ち(ふる)えた。

〈我が()(メイ)(ミン)よ!そなたの想い、今こそ(むく)われようとしている。さぞや、この日を待ち望んだことであろうな・・・〉

(わし)には、決める権利は無い」

 彼は(おだ)やかに()()った。

「それは(メイ)(ミン)自身が決めること。お手前の口から、直接、娘の気持ちを確かめてみられるがよい。娘が承知すれば・・・この(わし)に、異存のあろう(はず)はないさ」

(かたじけの)う存じます。民雄(ミンシオン)殿!!」

 世凰(シーファン)の顔が、パッと輝くような()みを見せ、見事に整った歯並(はな)みが、はっとする白さで口許(くちもと)から(こぼ)れる。

〈ああ、この顔だ!〉

 民雄(ミンシオン)は、またも感動してしまうのだ。

 誰が、どう逆立(さかだ)ちしてみたところで到底真似(まね)出来ぬ、俗塵(ぞくじん)離れのした無垢(むく)の笑顔!

〈でかした、(メイ)(ミン)!そなたは天下一の幸せ者ぞ!〉

 父・民雄(ミンシオン)は、娘の()()に、心中躍(おど)り上がらんばかりの喝采(かっさい)を送ったのだった。

 (ほど)なく女装を解き、身支度(みじたく)を整えた世凰(シーファン)は、民雄(ミンシオン)と共に貴族の礼節に従って別離(わかれ)(さかずき)()()わし、惜別(せきべつ)(うた)()んだ。

 蛇足(だそく)ながら、絶世の美女だと信じて疑わなかった客人(きゃくじん)が、実は若い貴公子だったと知った老召し使いの(ホー)が、その(かな)(つぼ)(まなこ)を先刻よりもさらに白黒させたのは、至極(しごく)当然のことであった。

 その夜半(やはん)世凰(シーファン)は闇に(まぎ)れて(パイ)家の屋敷を抜け出し、(メイ)(ミン)の待ち()びる

(ハイ)(フォン)山の山荘へと戻って行った。

何卒(なにとぞ)御命(おんいのち)(なが)らえて下され、世凰(シーファン)殿!我が()(メイ)(ミン)のためにも・・・」

 夜の(とばり)の彼方へ溶け込んでゆくほっそりと華奢(きゃしゃ)な後姿を見送りながら、民雄(ミンシオン)は、そっと(つぶや)いた。

 やがて、足音さえもすっかり途絶(とだ)えてしまった(のち)も、なおもしばらくの間、彼はその場を動こうとはしなかった。

 (さいわ)い今夜は、月も無い―。

 

 (メイ)(ミン)は、世凰(シーファン)の帰りを、ひどく気を()みながら待ち続けていた。

「あなたの御父上にお会いして参ります。心配なさらずに、待っていて下さい」

 ただ、それだけを言い残して、彼は出かけて行った。

 彼が何の為に父のところへ行ったのか、という事よりも、その道中の方が、(メイ)(ミン)にとっては心配だった。

 もしや、(シュエン)軍に見つかりはせぬか?

 誰かに襲われたりはしていないだろうか?

 と、ついつい悪い想像ばかりが頭に浮かんで来てしまうのを何度も払いのけ突きのけ、彼女はひたすら、愛するひとの無事な姿を待ち焦がれた。

 いつしか夜がしらじらと明けて来ても、(メイ)(ミン)は一向に屋敷の中へは入ろうとせず、じっと山荘の門の外に立ち尽くしたままで、彼方(かなた)を見詰め続けていた。

「お嬢様。どうぞ中へお入りになって、お休み下さいまし!そのままでは、お体に(さわ)りますわ」

 瑞娘(ルイニャン)が心配して、何度もそう(すす)めたが、彼女はまるで聞き入れなかった。

 利口(りこう)瑞娘(ルイニャン)は、別に(メイ)(ミン)から聞かされた訳でもないのに世凰(シーファン)の行く先を(さと)っているようだった。

「御心配なさらなくたって、大丈夫ですわ。なにしろ、お強いお方ですもの。それに(チュー)(リン)までは、さほど遠くもございませんし・・・必ず、ご無事でお帰りになること請け合いです!」

 瑞娘は女主人を元気づけようとするのだったが、()く言う瑞娘(ルイニャン)自身も、実は心配でたまらないらしく、(メイ)(ミン)の立っているあたりをそこいら中、あっちへ行ったりこっちへ来たりしてうろうろと歩き廻った。

「本当にもう、何て方でしょう!?お嬢さまをこんなにも心配おさせになるなんて、一体どういうお積もり!?」

 しまいには、怒り出す始末であった。

 と、その時である。

 不安に(くも)りがちだった(メイ)(ミン)の瞳に突然、さっと明るい光が()した。

「お、お嬢様!お帰りになりましたわ、あの方が!ほらっ、ほらっ!!」

 彼女とほぼ同時にそれと気づいた瑞娘(ルイニャン)が、興奮のあまり、その場でピョンピョン飛び上がりながら、上ずった声を上げた。

 夜明けの淡い光の中を足早に、そしてまっすぐに、こちらへ向かって彼は歩いてくる。

「よかった!御無事だった・・・」

 愛しいその姿がかなりの速さでぐんぐん近づいて来るのを確実に捉えはしたものの、(メイ)(ミン)の瞳は、つぎつぎに(あふ)れ出す()()ない涙のために視界を(さまた)げられ、濡れそぼった睫毛(まつげ)の下で戸惑うばかりである。

 そして、ついに、世凰(シーファン)が山荘の門まで辿(たど)り着くのを待ち切れず走り出した彼女は、物も言わず、まるで体ごとぶつけるように彼の胸に飛び込んで行った。

(メイ)(ミン)殿!?」

 思いがけない激しさで思いをぶつけて来た彼女に少々面喰(めんくら)いはしたが、(たちま)ち彼の胸に、(メイ)(ミン)に対する(たま)らぬほどの(いと)おしさが()き上げて来た。

〈好きだ!私は、あなたが好きだ!!〉

 世凰(シーファン)は力の限り彼女を抱きしめ、その黒髪に(ほお)を押し付けた。

 (かた)く抱き合ったまま、二人は彫像(ちょうぞう)のように動かない。

 気を()かせた積もりなのだろう。瑞娘(ルイニャン)の姿はいつの間にか、その場から消え失せてしまっていた。


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