《三》赤絲再逅(えにし ふたたび)-6-
五日間をかけて領地の見回りに出ていた民雄が帰館するのを待ち兼ねたように、白家に古くから仕える老召し使いの霍が、来客を告げにやって来た。
「どなたかね?」
五日の日程を丸々一杯に使って、広大な領地の実態をつぶさに検分し、監督官たちにあれこれと細かい指図を与えたりなどして精力的に動き回って来た民雄は、少なからぬ疲労感を覚えていたのだ。
六十三才という年令のせいも、あるのかも知れない。
今日は一日、ゆっくりと休養しようと思っていた矢先だったので、彼は聊か、うんざりしてしまった。
また、近所に住むお喋り男の郭幹文でもやって来たのだろう。郭は、悪気は無いのだが、甚だオッチョコチョイで軽薄な男だった。
その上、男のくせに無類のお喋りと来ているので、民雄にとっては、彼の相手をするくらい煩わしいものは無かったのだが、その彼の気持ちも知らぬげに、郭の方は妙に民雄に馴ついていて、しげしげと白家に通って来ては、まさに口角泡を飛ばして喋りまくり、大いに民雄を悩ませるのであった。
今日のように疲れている日に、よりによって郭などに取りつかれては、たまったものではない。
だから、もしも来客が郭ならば、即座に面会を断る積りだった。
「郭氏なら、丁重にお断り申し上げてくれないか。『今日は気分が勝れませんから』と言って」
「いえいえ、旦那様」
民雄の言葉を聞くと霍は金壺眼を精一杯丸くして、とんでもない、とばかりに手を横に振った。
「郭様などではございませぬ。お若い女の方でございます。それはそれはもう、お美しい方ではございますが、ただ惜しむらくは・・・」
霍は、いかにも残念そうに一旦言葉を切って、切なそうに声を潜めた。
「実に惜しいことに、ではございますが、どうやらお風邪でも召しておいでのようで、お声が今一つ、低うございますです、はい」
「はて?」
若くて美しくて、おまけに風邪を引いて声の低い女、と言われても、民雄には何一つとして、心当たりは無い。
「その方の名は、何とおっしゃるのだね?」
「はい、旦那様。その方が申されますのには『鳳姫』とお伝え下さればお解りになるだろうと・・・」
「鳳姫!?」
声に出してその名を呟いた途端〈あっ!!〉民雄は、喉まで出かかった叫びを漸く堪え、首を伸ばして飲み下した。
〈世凰殿!何という大胆な真似をなさるのだ!?〉
『鳳姫』というのは、世凰の亡き母・秀麗の呼姓である。姫家から嫁いで来た彼女は、鳳貞徳の妻となってからの姓を『鳳姫』と名乗った。
妻が、その旧姓を夫の姓の下に重ねて自らの呼称とするのが華の国に古くから伝わる習慣だったのだ。
以前、母のことについても世凰から聞かされていた民雄は、心臓がでんぐり返るほどに驚いてしまった。
海峰山の山荘から、彼は抜け出して来たのに違いない。
人目を忍ぶために女装をしたのだろうが、反対に、人目を引いてしまったのではないだろうか?
(実際、その後よもしばらくの間、近所では、いい年をした白家の当主と、屋敷に入ったきり、二度と出ては来なかった謎の美女との、ゾクゾクするような艶笑譚で持きりであったという)
何のために、そんな危険を冒す必要があるのだ!?
一時ほどではないにせよ、宣軍は未だに諦めもせず、最近では、この近辺の至る所にまで、探索の手を伸ばしているというのに・・・。
やはり、しっかりしているようでも、まだ若いのだ。
若いだけに、時として前後の見境もない行動に奔ってしまうこともあるのだろうが、それにしても、取りかえしのつかぬことにでもなったら、いったいどうする積りだ!?
ここはひとつ、手厳しく諫めてやらねば!
「よいか!客人のことは、決して、誰にも口外してはならぬぞ!!」
ことさら堅く霍に口止めすると、民雄は、重々しい足取りで客間へと向かった。
本当は今にも走り出しそうになるのを、懸命に堪えていたのである。
一人書斎に残された霍は―彼は口止めなどするまでもなく、非常に口の堅い男だったが―ぶつくさと独り言ちた。
「旦那様と来たら、照れてござるわい。あのようにしつこう、口止めされずともよいものを。それにつけても、あれでなかなか隅に置けぬお方じゃて・・果たしていつの間に、傾国の美女などと知り合われたものやら・・・・・」
客間に一歩踏み込んだ白民雄は、思わず目を瞠ったきり、その場に立ち尽くした。
楚々(そそ)とした絶世の美女を、そこに見出したからである。
なまじ衣裳が地味な分だけ、却って美貌が際立ってしまっているのだ。
しばらくは声も出ずに突っ立っている民雄に向かって、彼女はにっこりと、こぼれるように艶やかな笑みを湛えて一礼した。
「お疲れのところへ突然お伺い致しまして、まことに申し訳ございませぬ」
しかし、その低い声音は、紛れもなく世凰のものであった。
「一体全体、どういうお積りじゃ、世凰殿!!!?」
民雄は、やっとのことで問いかけた。
「無謀だとおっしゃるのでしょう?それは私にもよく解っております」
世凰はなおもにこにこしていたが、急に表情を改めて、こう切り出した。
「不躾ではございますが、民雄殿。本日は、お別れのご挨拶かたがた、たってのお願いの儀あって参上致しました」
「別れ、と申されるか!?」
民雄は、又々驚いた。
全くもう、この若者ときたら、何度この年寄りを驚かせれば気が済むというのだ!?
「はい。民雄殿及び美明殿を始め、皆様方の御厚意に甘え続けて、今日の日まで、口では申せぬ程の御恩をお受け致しました。それもお返し出来ぬままに、甚だ勝手を申すようではございますが、近日中にお暇致したいと存じております」
「ば、馬鹿な事を申されるな。早まってはならぬ!」
民雄は、日頃の冷静さもかなぐり捨て、すっかり狼狽の態であった。
なぜこうなるのか、自分でもよく解らない。
彼は、恰も実の息子から別離を宣告されたかの如き錯覚に、陥ってしまっていた。
「今出て行かれてどうなさる!?宣朝の手は、さらに広範囲にわたって伸び始めているのでぞ!その真只中にお手前を放り出すことなど、断じて出来ぬ!!」
どうにかして、この無鉄砲な若者を思い止まらせようと躍起になる余り、民雄は我知らず、声を荒げていた。
だが・・・。
「有難うございます。民雄殿。そこまで私の身を案じて頂きまして・・・けれど私には、是非とも成し遂げなければならぬ事があるのです。それを打ち捨てておいては、この身の生きる意味など無い、と存じます!」
世凰にこう言われては、彼としても沈黙せざるを得なかった。
世凰の切れ長二重の瞳が決然と輝きを増してゆくのを、民雄は複雑な気持ちで見守るのみである。
是非とも成し遂げねばならぬ事―言わずと知れた仇討である。
そのために生きているとまで、若者は言い切った。
その決意を、この上なく尊いとは思いながらも反面、一抹の寂しさを老人は禁じ得ない。
〈さてもや、美明には諦めさせねばならぬのか・・・〉
しかしながら、もうこの若者をいくら止めたところで無駄だということも、民雄にはよく解っていた。
「さんざん御恩を蒙りました上に、更にこのようなお願いを致すのは、まことに心苦しいのですが・・・」
彼に向ってここまで言うと、世凰は少しばかり口籠り、どういう訳か、赤くなったりした。
〈剣でもくれというのか?ならば、我が家に伝わる名刀を授けてやろう〉
民雄がそう思った時、意を決したらしい世凰が、一息に言った。
「民雄殿!御息女・美明殿を、何卒、この世凰に頂きとうございます!!」
四度!実に四度、民雄はこの若者に驚かされてしまった。
だがその驚きは、すぐに言いようのない喜びに変わった。
夢ではないか、とさえこの年老いた父親は思ったのである。
「美明を、と申されるか?」
彼は努めて平静を装い、徐に問い返す。
まさか、いい年をした男が、両手を挙げて飛び回る訳にもいかないではないか?
「その通りです。改めて申し上げる迄もなく、私はお尋ね者の身。本来ならばとても、斯様に身の程知らずの、無理なお願いの出来る立場にはありませぬ。けれども、敢えて私はお願い申し上げます!もしも私が、首尾よく事を成し遂げ、その上で生きて帰れたならば、ぜひとも美明殿を妻に迎えたい。ご承知下さいますか、民雄殿!?」
世凰は、やや鋭さを含んだ冴え冴えとした眼差しで、じっと民雄の顔色を伺っている。
〈もしも承知せぬのなら、今すぐ、引っさらってでも連れてゆくぞ!!〉
美しいその瞳は、確かにそう言っていた。
彼の視線を眩しく、だが頼もしいものに受け止めて、民雄は感動に打ち震えた。
〈我が娘・美明よ!そなたの想い、今こそ報われようとしている。さぞや、この日を待ち望んだことであろうな・・・〉
「儂には、決める権利は無い」
彼は穏やかに微笑った。
「それは美明自身が決めること。お手前の口から、直接、娘の気持ちを確かめてみられるがよい。娘が承知すれば・・・この儂に、異存のあろう筈はないさ」
「忝う存じます。民雄殿!!」
世凰の顔が、パッと輝くような笑みを見せ、見事に整った歯並みが、はっとする白さで口許から零れる。
〈ああ、この顔だ!〉
民雄は、またも感動してしまうのだ。
誰が、どう逆立ちしてみたところで到底真似出来ぬ、俗塵離れのした無垢の笑顔!
〈でかした、美明!そなたは天下一の幸せ者ぞ!〉
父・民雄は、娘の快挙に、心中躍り上がらんばかりの喝采を送ったのだった。
程なく女装を解き、身支度を整えた世凰は、民雄と共に貴族の礼節に従って別離の杯を酌み交わし、惜別の詩を詠んだ。
蛇足ながら、絶世の美女だと信じて疑わなかった客人が、実は若い貴公子だったと知った老召し使いの霍が、その金壺眼を先刻よりもさらに白黒させたのは、至極当然のことであった。
その夜半、世凰は闇に紛れて白家の屋敷を抜け出し、美明の待ち侘びる
海峰山の山荘へと戻って行った。
「何卒、御命永らえて下され、世凰殿!我が娘・美明のためにも・・・」
夜の帳の彼方へ溶け込んでゆくほっそりと華奢な後姿を見送りながら、民雄は、そっと呟いた。
やがて、足音さえもすっかり途絶えてしまった後も、なおもしばらくの間、彼はその場を動こうとはしなかった。
幸い今夜は、月も無い―。
美明は、世凰の帰りを、ひどく気を揉みながら待ち続けていた。
「あなたの御父上にお会いして参ります。心配なさらずに、待っていて下さい」
ただ、それだけを言い残して、彼は出かけて行った。
彼が何の為に父のところへ行ったのか、という事よりも、その道中の方が、美明にとっては心配だった。
もしや、宣軍に見つかりはせぬか?
誰かに襲われたりはしていないだろうか?
と、ついつい悪い想像ばかりが頭に浮かんで来てしまうのを何度も払いのけ突きのけ、彼女はひたすら、愛するひとの無事な姿を待ち焦がれた。
いつしか夜がしらじらと明けて来ても、美明は一向に屋敷の中へは入ろうとせず、じっと山荘の門の外に立ち尽くしたままで、彼方を見詰め続けていた。
「お嬢様。どうぞ中へお入りになって、お休み下さいまし!そのままでは、お体に障りますわ」
瑞娘が心配して、何度もそう勧めたが、彼女はまるで聞き入れなかった。
利口な瑞娘は、別に美明から聞かされた訳でもないのに世凰の行く先を覚っているようだった。
「御心配なさらなくたって、大丈夫ですわ。なにしろ、お強いお方ですもの。それに珠林までは、さほど遠くもございませんし・・・必ず、ご無事でお帰りになること請け合いです!」
瑞娘は女主人を元気づけようとするのだったが、斯く言う瑞娘自身も、実は心配でたまらないらしく、美明の立っているあたりをそこいら中、あっちへ行ったりこっちへ来たりしてうろうろと歩き廻った。
「本当にもう、何て方でしょう!?お嬢さまをこんなにも心配おさせになるなんて、一体どういうお積もり!?」
しまいには、怒り出す始末であった。
と、その時である。
不安に曇りがちだった美明の瞳に突然、さっと明るい光が射した。
「お、お嬢様!お帰りになりましたわ、あの方が!ほらっ、ほらっ!!」
彼女とほぼ同時にそれと気づいた瑞娘が、興奮のあまり、その場でピョンピョン飛び上がりながら、上ずった声を上げた。
夜明けの淡い光の中を足早に、そしてまっすぐに、こちらへ向かって彼は歩いてくる。
「よかった!御無事だった・・・」
愛しいその姿がかなりの速さでぐんぐん近づいて来るのを確実に捉えはしたものの、美明の瞳は、つぎつぎに溢れ出す留め処ない涙のために視界を妨げられ、濡れそぼった睫毛の下で戸惑うばかりである。
そして、ついに、世凰が山荘の門まで辿り着くのを待ち切れず走り出した彼女は、物も言わず、まるで体ごとぶつけるように彼の胸に飛び込んで行った。
「美明殿!?」
思いがけない激しさで思いをぶつけて来た彼女に少々面喰いはしたが、忽ち彼の胸に、美明に対する堪らぬほどの愛おしさが衝き上げて来た。
〈好きだ!私は、あなたが好きだ!!〉
世凰は力の限り彼女を抱きしめ、その黒髪に頬を押し付けた。
堅く抱き合ったまま、二人は彫像のように動かない。
気を利かせた積もりなのだろう。瑞娘の姿はいつの間にか、その場から消え失せてしまっていた。




