《三》赤絲再逅(えにし ふたたび)-5-
その時、不覚にも世凰はその侵入に気づかず、寝台の上で浅い眠りに微睡んでいた。
ふいに身辺に忍び寄って来る気配を感じて思わず飛び起きた時には、すでに相手は寝台の脇近くに、ひっそりと佇んでいた。
殺気は全く感じられなかったが、もしもこれが刺客であったなら、彼の命はとうに無かったであろう。
〈何たるざまだ、世凰!!〉
己の拳士としての確実な衰えに愕然とした世凰は、同時に突き放した自嘲をも、我が身に浴びせかけるのだった。
侵入者は、音も立てずにさらに近づくと、床の上に半身を起こした世凰の前に跪き、一礼して覆面を取った。
まだ若い、野性味溢れる美女である。
「お久し振りでございます、鳳様!」
ことさら感情を押し殺し、冷たく冴え渡る美貌には全く見覚えはなかったが、涼やかなその声音に、確かに聞き覚えがあった。
「あなたはもしや、蓮小父上の屋敷でお会いした方では!?・・・」
「憶えていて下さいましたか!嬉しゅう存じます」
押さえた声音に女心がちらりと覗いて、僅かに彼女の表情が和らいだ。
言うまでもなく、武菊玲である。
「斯様な御無礼の振舞を、お許し下さいませ。正面からでは、とてもお目通り叶うまいと存じましたゆえ」
相変わらずの歯切れの良さで、彼女は非礼を詫びた。
「やはり、あなたでしたか!あの折りの厚情、私は決して忘れてはおりません。今改めて、あなたに御礼申し上げねばならない」
世凰は、素早く寝台から降り立ち、彼女に向かって丁重に頭を下げた。
碌に礼も言わずじまいだったあの夜のことが、心の片隅に、ずっと引っかかっていたのである。
「そのようなことなさいますな、鳳様!」
菊玲は、即座に彼を押し止めた。
「それならば、私の方が余程に、あなた様へお礼申し上げねばなりませぬ」
だが、その詳細は敢えて語ろうとはしなかった。
「申し遅れました。私、緋の頭領・武成公の娘にて、周改め武阿孫の妻・菊玲と申します」
彼女は改めて名乗りを上げ、それに伴う驚愕の事実をも、彼に伝えた。
世凰は息を呑んだ。
「あなたが阿孫の!?では、では阿孫は・・・生きているのですね!?」
彼は我知らず、自分も菊玲のすぐ側にしゃがみ込み、その肩に手まで置きながら、急き込んで尋ねた。
まるで無意識のうちの行動であったとは言え、人妻の身でありながら命懸けて恋焦がれる男の顔を間近に見、吐息に触れ、さらに、その体温をも感じ取ってしまった菊玲の胸中たるや、果たしていかばかりのものであったろう!?
〈抱かれたい!!このひとに・・・ただ一度だけでよいから!〉
突如として身の内に沸き立った女の激情に、さしもの彼女としたことが危く押し流されそうになり、ほんの一瞬、目を伏せた。
しかし、すぐに女豹のように光る双眸を上げた彼女は、きっぱりと答えたのである。
「はい!御安心下さいませ。我が夫・阿孫は、確かに存命しております」
そして菊玲は、鳳家焼き打ちの際、世凰の後を追う筈が、予想だにせぬ成り行きで阿孫を救うに至ったこと、彼の大方の回復を待って、共に千江郡に立ち戻り、阿孫を見込んだ父のたっての勧めで、一月前に彼と夫婦の契りを結んだことなどを、手短に話して聞かせた。
「そうだったのですか・・・」
世凰は深く感じ入り、大きく嘆息した。
まさに奇しき因縁、と言わねばなるまい。この菊玲という女がどんな事情で、緋賊とはいえ、仮にも豪族の娘の身から妓女にまで落ちたのかは知らぬが、その彼女が、世凰の仇敵に関わる情報をもたらしただけでなく彼の命も救い、さらに阿孫をも救って、その妻となったとは!
人の世の縁というものは、かくも不可思議で、また、文深きものなのであろうか?
世凰の心情を知ってか知らずか、菊玲は再び冴え冴えとした表情に戻り、懐から一通の分厚い書状を取り出して、彼に手渡した。
「本日まかり越しましたのは、偏に、夫・阿孫よりのこの書状をお届け致すためにございます。御返事はいりませぬゆえ、何卒御一読頂きますように」
そして彼女はすっくと立ち上がった。
「無事役目を果たしました上は、長居は無用。これにて御免蒙りまする。御身、呉ぐれもお厭い下さいませ。いづれまた、必ずお目にかかります」
菊玲はあくまでも事務的にそう言い残して立ち去ろうとした。
「菊玲殿、と申されましたね。あなたには、まことに何とお礼を申し上げてよいか解らぬ。この上ながら阿孫のこと、どうかよろしくお頼み致します」
心からの謝意と願いを籠めて、世凰は再び、低く頭を垂れたのだった。
「どうぞお顔をお上げになって、世凰様!・・・」
菊玲の声はなぜか、先程までとは打って変わった女らしいものになっている。
「この菊玲はあの夜、命よりも大切なものを、あなた様にお救い頂きました。あなただけは・・・あなた様だけは、いつの日も気高く誇り高く、そのお顔を上げていて下さいませ!」
訴えるように彼を見つめた瞳がしっとりと濡れて、このところ、ひどく敏感になっている世凰の心の琴線に、何かが微かに触れた。
「菊玲殿!?」
彼は菊玲の瞳から、その『何か』を読み取ろうとしたが―その作業は、彼女の次の言葉で、永久に中断されることとなったのである。
「あの方を・・大切になさって下さいませ。先ほど厨房にて、一心に、あなた様のための薬湯を煎じておいででした。まこと、あなた様にふさわしき御方と、お見受け致しましてございます」
〈美明のことを言っているのだ!〉
そう思った途端、世凰は忽ちにして身も世もなく狼狽し、菊玲の心を探るどころか、寧ろ彼自身の胸の内を、彼女に露呈する破目になってしまった。
頬が、首筋が、自分でも呆れるくらいの速さで紅潮してゆくのが良く解る。
その様子を見守る菊玲の、女の感情が複雑に交錯する表情さえも、彼の目にはまるで入らなかった。
武菊玲が、一陣の風となって窓から去って行った後に、程無く、薬湯を捧げ持って室に入って来た美明は、寝台の側で真っ赤になって立ち尽くしている世凰を見つけ、一体どうしたのだろう?と、首を傾げたことだった。
美明の父・白民雄は、一介の地方豪族ではあったが、なかなかに剛直な気性の持ち主で、そのうえに義侠の気風をも併せ持った一廉の人物であった。
それゆえ、一人娘の美明がお尋ね者として宣軍に追われる鳳世凰という若者を海峰山の山荘に匿っている、という報告を家臣の一人から受けた時も、多少驚きはしたものの、却ってその家臣に向かって堅く口止めしたくらいである。
「そのまま、そっとしておくがよい。決して、騒ぎ立ててはならぬぞ。他言も無用じゃ!」
以前、娘が危いところをその若者によって救われ、どうやら事無きを得た経緯を、彼はついぞ忘れることなく、深い恩義に感じていたからだ。
そのような正義感溢れる若者が何故『謀反人』などと呼ばれて追われるに至ったのか、彼には少なからず、納得出来かねるものがあった。
そこで民雄は、多くの人材を動かして手広く情報を搔き集め、そのあたりの事情を詳細にわたって調べ上げてみた。
その結果、鳳世凰は全くの潔白であり、奸物共のために濡れ衣を着せられているに過ぎぬ、と判明して、彼は大いに憤慨したのである。
さらに彼は、細やかな情報活動の副産物として、若者の類い稀れな逸材振りをも、併せて知ることとなった。
こうなると断然、民雄としては、この不遇の貴公子を放っておくことが出来なくなった。
彼は何度か山荘を訪れ、回復途上にある世凰を見舞いかたがた、彼と語り合った。
そしてますます、深みに嵌った。
その絶世の美貌もさることながら、彼の持つ内面の素晴らしさが、民雄を圧倒したのである。
斯かる状況にあってさえ少しも損なわれぬ眩しいほどの貴質を、侠気を湛えて躍動する熱い血の激しさを、目の辺りにして思い知るにつけ、彼はこの若者の存在すべてに、もうぞっこん、惚れ込んでしまったのだった。
それ許りか、民雄は、娘・美明の恋まで知った。
彼が掌中の珠の如く愛してやまぬ一人娘は、こともあろうに、世にも稀なる秀れた若者を『初恋』の相手に選んだのである。
今年ではや二十四になろうかという彼女にとって、余りにも遅すぎる初恋の訪れではあったが・・・。
〈それも、よかろう〉
民雄は思った。
美明はこれまで、ずっと『男嫌い』で通っていた。
『白家の姫様は、変わり者よ。殿御に触れると、総毛立つそうな!』などと人に噂もされ、彼女自身もまた『私は一生、お嫁などにはまいりません。いつまでも、お父様のお側に置いて頂きとうございます』そう公言して憚らぬ、そんな娘であった。
その美明が今、ひょっとしたら命をも懸けて、一人の青年に恋焦がれている。
民雄はそこに、人智では計り知れぬ、稀有の巡り合わせを感ぜずにはいられないのだ。
―もしや、宿縁とでも呼べるものではあるまいか?―
鳳世凰という若者に巡り合うために、美明は我知らず、一人として男を寄せつけようとせぬ『男嫌いの、風変わりな娘』を通し続けて来たのではなかったか?
彼女の夫となるべく運命が定めた、この世でたった一人の男―それが、もしも本当に彼であるのなら、娘にとって、また父親にとっても、どんなに喜ばしいことだろう!!
年齢的には、確かに美明よりも二才下、それだけを取ってみればs、双方どちらかの負い目であると言えなくもない。
だがしかし、娘の将来を託すには充分すぎるほど充分な逸材ではあった。
実に手前勝手で、はたまた思い込みも著しいこの期待に、民雄は、我ながら苦笑してしまったのだが、やはり心のどこかに、捨てきれぬ望みとして持ち続けている。
娘を思う、ごく当然の親心だった。
けれども彼は、世凰に対して一度もその話題を持ち出したことはなかったし、これからも決して、そうしようとは思わない。
もしも万一、そういう縁を持って生まれついたものならば、周囲であれこれと騒ぎ立てるまでもなく、自然の成り行きで結ばれもしようし、又、そうでないなら、美明には何とも不憫だが『ゆきずりの片恋』で終わるであろう・・・。
殊に、今の世凰は大望を抱く身、このようなことで彼の心を乱してはならぬ。
民雄は、娘のたに何もしてやれぬ歯痒さ、もどかしさに大いに苛立ちながらも、黙って彼らを見守ろうと決心したのだった。
白家の山荘に身を寄せてから三月余り、やがて、夏もその終わりを迎えようとする頃には、世凰の傷は、もう完全に癒えていた。
先日、菊玲がもたらした阿孫の書状には、忌わしいあの日から今日に至るまでの、彼自身の運命の変遷とその心情とが、こと細かに綴られていた。
鳳家と世凰への不忠を詫び、いつの日か、世凰が見事、本懐遂げんことを切に願い、その折には必ずや、命を賭しても馳せ参じんとの決意が誠心誠意吐露された文面は、世凰の胸の奥までじんと沁み通り、深い溜息すら洩れさせた。
忠義心厚き阿孫は、傷ついた身で、いつの日も彼の安否を気遣い続け、妻・菊玲の助けを借りてようやくその消息を摑み得るや、直ちに書状を届けさせたのであろう。
阿孫のいる千江は、遠い北の果てだった。
「阿孫よ。もう私のことなどは忘れて、そなたはそこで、菊玲殿と静かな余生を送るがよい・・・」
遥かなる阿孫に向かって、世凰は、心からそう語りかけずにはいられなかった。
彼は心中、近々白家を去ることを決意していた。
だが、旅立つその前に、ぜひともしておかねばならぬことがある。
今日の日まで、彼が悶悶と悩み苦しみ、それでもなお断ち切れぬ思いを確認して、改めて心に誓ったかの女への愛を、伝えねばならない。
〈あなたが好きです。美明殿。多分、あなたも私を・・・そう信じても、いいですよね!?〉
翡翠の簪の由来について先日語って聞かせた時、彼女の表情はおろか、全身をまで満たした深い安堵感を、みるみる瞳に湧き上がった涙の美しさを、彼は忘れない。
そして何よりも―世凰は、あの日自分が演じてしまった不様極まる狂態を、薄々記憶していた。
思い出すのもおぞましい悪夢に嘖まれ、心身共に、ありとあらゆる恥部を曝け出してしまったであろう我が身を、美明は温かいその胸で、丸ごと受け止めてくれたに違いないのだ。
〈あれは確かに、彼女だった!〉
けれど彼女は、一言も、何も語ろうとはしないし、侍女たちに聞き出そうとしても、美明に堅く口止めされているらしくて、何も洩らしてはくれない。
そうまでして、自分の名誉を守ってくれる美明。
しかも、決して気持ちを押し付けようとはせず、ただ黙って側にいる・・・。
『一緒に生きたい。生きて欲しい!』
もしも、そう告げたなら、彼女は何と答えるのだろう?
〈私には、あなたしかいない!だからせめて、この想いを伝えて行きたいのです。そして、叶うものならば、美明、いつの日か、あなたを我が妻に!!・・・〉
しかし、揺るぎないその想いの一方で、いざ自分の身の行末を思う時、世凰の心は揺れるのだ。
よしんば首尾よく本懐を遂げたとしたところで、その後は!?・・・生涯追われる身となるであろう我が運命に、この先、安息の日々が巡って来るとはとても思えない。
そのように過酷な渦の中に美明を巻き込むことが、果たして、彼女にとっての幸せと言えるのだろうか?
けれども、彼の激しい恋心は、当然自らに課すべき分別すら飛び越え、猛然と駆け出してしまった。
若さは純粋、且つエネルギッシュだ。
さらにその上、少なからず自分勝手でもある。
それが恋愛ならば、なおのこと。
必ずしも相手にとっての幸せにはつながらないと頭では解っていても、所詮、迸る情熱の前に理性など無力、遮るものは、すべて敵!
困難が大きければ大きいだけ、却って奮い立ち、満身創痍となろうとも、ひたすら愛する者を求めて突き進まずにはいられないのだ。
世凰とて、同じであった。
心を決めた彼は、亡き姉に向かってこう語りかけた。
「姉さま!今こそ、世凰は旅立ちます。あなたと父上の御無念をこの手で晴らし、見事、本懐遂げるために!
そして、あなたが生前、そう望んで下さったように、一人の男として―姉さま、あなたからも!・・・」
〈ひとまずは、胡北郡に身を隠そう〉
彼はそう思っていた。
二日後、世凰は、美明にだけ行き先を告げると、珠林の白民雄に会うため、人知れず山荘を後にした。




