《三》赤絲再逅(えにし ふたたび)-4-
宣軍による世凰探索は、このところ、特にその熾烈さを増していた。
彼らの手によって、鳳家の宏大な館は紅蓮の炎の中に焼け落ち、見る影もない無残な廃墟と化したその姿を、焼土の上に曝すのみとなっている。
そして、そこに屯していた四十名近くの若者たちも、大半は命を落とした。
にもかかわらず、残り数名と、彼らの最大の標的であった鳳世凰は逃亡してしまったのである。
延将軍に敗れて瀕死の重傷を負いながらも、尚且つ脱出して行った彼の行方を追って、宣軍は連日、ただひたすらに東奔西走した。
揚鉄玉は、内心、気が気ではなかった。
「何としても生きのびて、いつの日か、必ずや本懐遂げて見せようぞ!!」
そう言い放った時の、おぞましいほどに美しい世凰の瞳が、拭い去ることの出来ぬ刻印となって彼の心に刻みつけられ、夜となく昼となく浮かび上がって来ては、揚を不安に陥れた。
「よいか!?草の根分けても奴を探し出し、有無を言わせず、引っ捕らえて参れ!だが決して、すぐに殺してしまってはならぬぞ。必ず延将軍、並びにこの揚鉄玉の目の前に引き出した上で、処刑に及ぶのだ!!」
彼は配下の者たちに向かって、再三再四、しつこく念を押した。見つけ次第に殺してくれたりなどしたのでは、自分の中に蟠る唯ならぬ不安が永久に払拭されぬような、そんな気がしたからである。
〈彼奴の死に様を、しかとこの目で確かめぬうちは、枕を高うして寝られもせぬわ!〉
彼の命令に従って、付近一帯の山野を手分けして隈無く探し廻った宣軍は、幾度となく山狩りまで行って世凰の行方を追い求めたが、ついに鼠の死体一つとして、見つけ出すことは出来なかった。
「何ということだ!揃いも揃った役立たずめがっ!!」
揚は、どうしようもない怒りに、全身を震わせて激昂した。
しかしながら、延将軍の反応はといえば、彼とは明らかに、趣を異にしていたのである。
「まあまあ。よいではないか、揚。何もそこまで、急勝に焦ることもあるまいに」
例の底知れぬ落ち着き振りで、延は、憤懣やるかたない揚をたしなめた。
「例え、生きて逃げおおせたとしたところで、あの深傷。そうそう遠くまで、ゆける筈もなし。この辺り一帯、聊かなりとも奴に縁のある者どもを虱潰しに当たってゆけば、必ず、手掛かりは湧いて出るわさ」
延はどこか、この状況を楽しんでいる節さえあった。
「手懸りさえ摑めば、こちらのもの。今の奴を捕らえるのは、赤児の手を捻るよりも容易いではないか?いかに翔琳鳳凰などと持て栄やされようとも、空を飛ぶことまでは出来まいからの」
そう言っておいて、後は独り言になった。
「しかし、じゃ。余りに容易うに片付いてくれては、面白うない。何事にも、張り合いというものが無うては、とんとつまらぬでのう・・・」
延の言葉の裏に潜む異様な思惑を、柄にもなく察知してしまった揚は、何やら奇妙な戦慄に背筋が寒くなった。
—鳳家ゆかりの親族・知人はもとより、その使用人の端ばしに至るまで、宣の厳しい探索は及んだ。
中でも、他の親族とは行動を分かち、ひたすら世凰に誠意を尽くしてやまなかった彼の蓮審陳一族に対する詮議に至っては、まさに『過酷』の一語を極めた。
一度ならずも二度、三度と館に踏み込まれるそのたびに、床の錦毯という錦毯は、すべて土足で踏みにじられ、家具・調度の類は、用を為さぬまでに粉々に叩き毀され、さらに天井や壁、そこら中至る所に槍を突き込まれて、穴だらけにされてしまった。
そればかりか、当主・審陳をはじめとする家族・使用人、一人残らず、殴る蹴るの手酷い暴行を受けたのである。
これらはすべてが、崔王秀の讒言に端を発していた。
審陳が己れの意向に従わず、密かに世凰と通じていることを嗅ぎつけた崔は、とてつもなく彼を憎み、どうやら蓮が、自分の屋敷の奥深くに世凰を匿まい、風にも当てぬよう手厚く看護しているらしい・・・などど、揚を焚き付けたのだった。
その当然の結果として、蓮家は、斯様な惨状を呈する破目に陥ったのだ。
老いの身の審陳は、それがもとですっかり体をこわしてしまい、明日をも知れぬ病の床に臥してしまったが、不幸はそれだけには止まらず、さらに容赦の無い追い打ちが、彼らに襲いかかった。
『不届きにも鳳世凰の謀反に加担したかどにより、云々(うんぬん)・・・』という内容の達し状が、ある日突然舞い込んで来、蓮家所有のかなりの領地・財産は、すべて没収されたのである。
度重なる酷い仕打ちに、蓮家は悲嘆のどん底に突き落とされた。
精根尽き果てた蓮審陳は、最早、床の上に起き上ることすら出来ぬ状態となり、蓮夫人は、実家からさえも見放された。
目出度く整っていた娘たちの縁組も、悉く破談の憂き目に遇い『謀反人の一味』という公札を、門前に高々と掲げられた蓮家には、ついに、人の訪れも途絶えた。
「これも皆、父上のせいですぞ!父上が、鳳世凰などに肩入れされるゆえ、我らはこのような辛酸を嘗めねばならぬ破目に陥ってしまったのです!!」
そんな状況の中、蓮家の三人の息子たちは、異口同音にこう言い捨て、病身の父や家族たちを置き去りにして、さっさと家を出て行った。
残ったのは、ただ泣きさざめくしか能の無い女たちと、一番末の息子・俊陳だけである。
臆病でひ弱な俊陳は、兄たちのように家を捨てるだけの行動力も無かったし、宣王家の無法を跳ね返し、ゆくゆくは蓮家を再興してやろう、などという気概も気骨も、当然の如く持ち合わせてはいなかった。
結局のところ、彼が家に残った理由はただ一つ、見知らぬ世間に出て行って『世の荒波』というものに揉まれるのを厭ったからに他ならず、家族の面倒を見る気など、さらさら無いに等しい。
これぞ、裏なりの萌!と、呼ぶにふさわしく、なよなよとどうしようもない、大人しいだけが取り柄といえば取り柄の、そんな才子肌の若者であった。
審陳は、我が息子たちの揃いも揃ったその不作ぶりを、血涙流さんばかりに嘆き悲しんだが、今さらどうなるものでもない。
彼はますます落胆し、急速に衰弱して行った。
月は間断無く満ち欠けを繰り返し、日は流れ去って、いつしか初夏を迎えていた。
鳳世凰の行方は、依然、杳として知れず、揚鉄玉を始めとする宣軍の焦燥をよそに、何一つ、手懸かりのかけらさえも摑めぬままであった。
そのうち、誰言うとなく、こんな噂が立ち始めた。
・・二月ほど前、華南郡の外れの寒村に、体中に傷を負った一人の若者が辿り着いた。親切な村人が引き取って介抱したが、致命的な深傷に手の施しようもなく、日を経ずして落命してしまったので、村外れの共同墓地に葬ってやった・・というのである。
〈奴か!?〉揚は、久々に色めき立った。
華南郡といえば、九龍山・翔琳寺の所在地。
世凰とは、因縁浅からぬ土地柄ではあった。
探索開始直後に翔琳寺に押しかけて行った宣軍が、こっぴどく門前払いを喰わされていただけに、もしも事実関係が明らかになれば、それに何かの理由をこじつけて焼き打ちでも行い、溜飲を下げてやろうと企んだ揚は、さっそく、数名の役人をその地に派遣し、真偽のほどを確かめさせることにした。
役人たちは、村に到着するなり、すぐに糾明に取り掛かったのではあるが、何せこの村は老人ばかりで、さながら姥捨て山の感があり、つい昨日の出来事すらも憶えていない者が殆ど、という始末。
全く、埒も何もあかばこそ、詮議とやらは一向に捗らなかった。
やっとのことで、少しはましな耳の遠い老人を見つけ出し、頭痛がしそうなほどに割れ鐘のような声を、その耳許で怒鳴り散らして問いただしたところ、確かに、そういう出来事があるにはあったらしいが、若者を介抱して最後を看取ってやった村人というのが、これまた一人暮らしの老人で、つい半月ばかり前に死んでしまったと言う。
今にもヒステリーを起こしそうな癇の虫を、苦心惨憺して宥めすかした哀れな役人たちは、他に手段も浮かばぬままに、若者の墓を掘り返して、せめて遺体なりとも持ち帰ろうと決心した。
ところが・・・である。
どう見ても半ボケ揃いとしか思えぬ老人たちの方が、彼らより、一枚も二枚も上手だった。
若者の様子から、唯ならぬ事情を感じ取ったらしいかの老人は、後日の災厄を恐れる余り、その遺体を深夜、誰の手も借りずに密かに埋葬したようだ。
無論、何の目印も残さなかったため、若者が葬られた場所を正確に知っている者は一人もいない。
そればかりか次々と、ひょっとしたら先陣争いでもしているのではないかと思えるくらいの勢いで、毎日のように村人が死んで行くため、それらの墓がごちゃごちゃと入り乱れ、どれが誰のものやら、さっぱり解からない有様となっていた。
いくら何でも、そこら中に盛り上がっている土饅頭を一つ残らず暴き立てる訳にもゆかず、とどのつまり役人たちは『骨折り損のくたびれ儲け』を地で行った格好となり、心身共に疲労困憊、全員が真っ青な顔をして、スゴスゴと引き上げて来た。
「えええいっ!この、この、こォの役立たずめらがっ!!何故、辺り構わず掘り返してはみなんだのじゃ!さては貴様ら、労を厭いおったなっ!!」
揚鉄玉の思惑は見事に外れ、翔琳寺焼き打ちの目論見は、あっけなく潰え去った。彼は、腹立ち紛れの見幕で役人たちを怒鳴りつけ、頭ごなしにありとあらゆる罵詈雑言を浴びせかけて、それこそ散々(さんざん)に口汚く罵り倒したが、どういうものか『もう一度行って来い!』とだけは言わずじまいであった。
世凰の傷は、その後、まずは順調に回復しつつあった。既に、床を離れて付近を散策することも出来るまでになっている。
しかし、右胸にくっきりと無惨な刻印を刻む傷跡は、時折り思いがけぬほどの痛みを彼にもたらしたし、ごくたまにではあったが、未だに少量の吐血を見ることもある。
拳法の鍛錬を再開する状態にはとてもまだ至ってはいないにせよ、それでも彼の彼の体は、確実に快方へと向かっていた。
それと並行する形で、ある大きな変化が、世凰の内部で起こりつつあった。
いつ頃からそうなったのか、彼自身にも定かではないのだが、ふと気づいた時には、彼の感性はひとりの女性に対して甚く鋭敏になり、彼女の一挙手一投足は勿論、その表情の微妙な変化にさえも、細やかに反応するようになっていた。
白美明――。
亡き姉・香蘭以外に、彼を初めて魅き付けた女性の名である。
〈何て、綺麗なんだ!〉
〈あっ、可愛い!〉
・・・何気ない彼女の仕草一つ一つに、何度、密かな溜息をついたことだろう?姉以外の女性には、ついぞ感じたこともなかった胸のときめきは、しかも姉に対するそれとはまた微妙に異なり、何やら訳の解らぬ息苦しさまで伴っている。
〈姉さま、何とかして下さい!世凰は、何が何だか、よく解らないのです。あなたが生前話して下さったのは、このことだったのですか!?〉
彼は途方に暮れて、知らず知らず、姉に問いかけるのだった。
『そういうものなのよ、世凰!・・・』
姉の声が、聞こえて来るようだ。
〈そうあっさりと言われたって!・・・一体、どうすればいいんです!?〉
彼は自分自身に戸惑い、もて余し、果ては抗ってみたりもしたが、結局、どうすることも出来ず、日が経つにつれ、いや、一刻一秒ごとにと言っても過言ではないくらいに急速に、そして一途に、彼の心は美明へと傾いて行った。
そんなある日、世凰は全く思いがけない人物の、密やかなる訪問を受けたのである。




