《三》赤絲再逅(えにし ふたたび)-3-
世凰は、何処とも知れぬ空間の、湿った寝台の上に仰臥していた。
身辺には、何の音も気配も、まるで感じられない。
自分が、なぜここにいるのかさえも、彼には解らなかった。
彼は―一糸纏わぬ全裸であった。
えも言われぬ象牙色の光沢を放つ瑞瑞しい裸身を惜しげもなく晒して、その場に横たわっていた。
いや、横たえられていた、と言うべきか・・・。
編髪を解かれた彼の黒髪は、漆黒の流れとなって床をうねり、そして寝台のは端ばしで、艶やかに散り惑う。
目に見えぬ何物かによって金縛りとなった体は、ピクリとも動かすことが出来ず、ほんの僅かでも身動ぎしようものなら忽ち、全身が、針で刺されるように痛んだ。
〈ここは、何処なのだ!?私は、何をしているのだろう?・・・
瞳を閉じたままで、彼は漠然と、誰にともなく問いかける。
やがて彼の周囲に、どこからか、妙に生暖かい風が吹き始めた。
血の匂いを含んだ、不快な風だ。
それと同時に、堪らぬ息苦しさが、体の上にのしかかって来た。
しかも、その直後から執拗に滑らかな皮膚を這い始めた、虫酸の走るようなおぞましい感触に戦慄し、世凰は思わず、目を開いた。
〈うっ!!〉
すんなりと伸びた長い下肢に絡みつき、チロチロと赤く燃える舌先で裸身を舐め廻す大蛇の姿を目前に見、彼は全身を硬直させたのである。
大蛇の方もまた、逸速くそれを感じ取り、猥らな作業を中断して鎌首を擡げるや、青い炎を宿す双眸で、真上から彼を覗き込んで来た。
〈貴様は、延大剛!?〉
忽ち、凄まじい憎悪が嘔気と共に世凰を襲い、彼は目が眩んだ。
ニヤリと笑った大蛇―延大剛は、瞬く間に本来の姿に戻り、寝台の傍らに佇んで、じっと世凰を見下ろしている。
だが、決して、ただ見ているのではない。
彼は視線で、この美しい若者を辱めているのだ。
明らかに『視姦』と呼ぶべき行為であった。
耐え難い屈辱から逃れる手段も無く、噛みしめた唇に血を滲ませ、憤怒の瞳を燃え立たせて紅潮する世凰の顎を摑んで強引に仰向かせ、血臭漂う身を摩り寄せて、矯めつ眇めつ眺めやった。
「可愛やのう・・ほんにまあ、可愛ゆい奴よのう!さあて、どうしてくれようか?」
陰湿な声音で独り言ちたかと思うと、延はやにわに顔を近づけ、唇を奪うと見せて、懸命に顔を背けた世凰の片頬を、ペロリ(・・・)と舐めた。
〈汚らわしいっ!!〉
彼の肌一面が痛ましく粟立つのを見て延は、舌なめずりしながらほくそ笑む。
「ふふ、どこまでも愛い奴め!鳥肌さえ立てて、抗いおってからに」
〈この上、一指たりとも私に触れるな!立ち去れっ!!〉
声は一言も発せられぬが、世凰の叫びは間違いなく、延に伝わっているようだ。
「さてもさても、相も変わらず、つれないことよ。おぬしが、ついぞ味おうたこともない快楽をば、この延が授けてやろうというに。だが、それでこそ歯応えありじゃ。おぬしがいまのまま、果たしてどこまで持ち堪えられるか・・・これは見ものよの!」
くくっと淫靡に含み笑った延大剛は、いきなりもう一方の腕を下方に差し伸ばして、つんと浮き立つ繊細な腰骨を薄く覆って張り廻らされた滑らかな表皮に殊更酷く爪を立て、弾力漲らせて息づく若い筋肉を、引き絞るように、むんずと鷲摑んだ。
〈あうっ!〉
思いもよらぬ理不尽な加虐に、白皙の美貌が眉根を寄せて仰け反り、ピクリと、心ならずも大きく波打った体が、その細腰を、さらに弓なりに撓わせる。
「ほ、さすがじゃ!思うた以上の、よい感応をしおるわ」
ニンマリとそう呟いて、彼は湿気を帯びた軟体動物そのものの触手を蠢かせ、世凰の全身を思う存分にいたぶり、苛みつつ、じわりじわりと撫で上げてゆく。
その指先の触れる所悉くに、ひとかたならぬ疼痛が走り、ピピピッ!と音を立てて、皮膚が裂けた。
間を置かず、大小無数の傷口から飛沫となって吹き出した鮮血が、象牙色の輝きを塗り込め、見る間に、目にもいたわしい真紅の裸形と化す。
「何と美しや!!まさにおぬしは、絶品じゃ!」
延は嘻嘻として、感嘆の声を上げた。
〈お、おのれ!!・・・おのれ、延!!〉
苦悶と屈辱とに我を忘れて身悶えながら、世凰は延を罵倒した。
〈化物め!!よりによって、貴様などに凌辱されるくらいなら・・・殺せ!いっそ、ひと思いに殺してくれ!!〉
寧ろ哀願とも受け取れるその言葉を、彼は声無き声で絶叫した。
「け、汚らわしいっ!!わ、わた・・しに・・・ふれる・・な!!」
切れ切れに、しかし、美明が思わず手を引っ込めてしまったほどに唯ならぬ語気の強さで口走ったかと思うと、今度は『お、おのれ!!・・おのれ、延!!』などと叫んで、顔を仰け反らせたりもする。
「殺せ!殺してくれっ!!」
苦悶の表情で散々に身悶えした末に傷口に触れ、その痛みに呻き声を上げて、またもや、のたうち回るのだ。
「世凰さま!世凰さま!お気を確かに!!どうぞ、お気を確かに!!」
彼の余りの狂態振りに愕然とし、顔面蒼白になりながらも、なお、身を以ってその傷口を庇おうと奮闘し続ける美明の髪は、もはや見る影もなく解れ、着衣の胸許までも乱れがちに成り果てて、実に惨憺たる有様であった。
けれども、見かねた瑞娘が手を貸そうと駆け寄ったのを「いいの!」美明は即座に拒絶したのである。
「いいのよ瑞娘、私だけでいいの。それよりお前は、すぐに曹先生にお知らせして頂戴!それから、この部屋には決して誰も近づかないよう、言って!!」
世凰の、このあられもない狂態振りを、決して人目に触れさせないために、そうすることによって彼の名誉を守り抜いてやるために、美明は我が身一つで、荒れ狂う彼を受け止めようとしているのだ。
〈お嬢様!あなたはそれほどまでに、この方を!・・・〉
「かしこまりました、お嬢様!」
またもや甘酸っぱく、しかも、先程よりも一層痛みの増した我が胸を、自分自身で訳も解らず叱咤して、一声残した瑞娘は、即座に室を飛び出して行った。
「殺してくれとな?おお、よいとも!乞われる迄もないわ。だがしかし、何も急ぐことはあるまい?ゆるりゆるりと、共に楽しみながら・・・のう、鳳美人殿!?」
その言葉が終わり切らぬうちに、延大剛の纏った煌びやか官衣は見る見るうちに裂け、粉々(こなごな)になって辺りに飛び散った。
筋骨逞しい堂々たる体躯が、一瞬、世凰の視界一杯に生々しく浮かび上がったかと思うと『鳳世凰!最早その身、あまねく我がものぞ!!』割れ鐘のような哄笑を渦巻かせ、再び巨大な蛇身と化した延大剛は、歓喜の雄叫びと共に、猛然と世凰に襲いかかった。
〈怖い!!〉
彼の全身を、生まれて初めての異様な恐怖心が、一気に駆け抜けた。
「い、厭だ!!厭だっ!!こわ・・い!怖い、姉さま!姉さまあっ!!」
熱に浮かされて火のように熱い息を吐き、彼はひたすら姉に助けを求めて、両手を激しく、宙にさ迷わせる。
『姉は・・・死にました』夢の中でそう言い、ふっと瞳を翳らせて微笑した彼の面差しが鮮やかに甦り、美明は胸を衝かれた。
〈あれは、本当のことだったのに違いない!〉
不憫だった。
真底、不憫でならなかった。
あの颯爽とした、さながら一幅の名画から抜け出たかと思わせる美拳士振りからは想像だに出来ぬ、恐らくは本人でさえも自覚したことなど無いであろう斯程の脆さを、洗いざらいさらけ出し、一心に亡きひとに救いを求めてやまぬ世凰のいたわしさが、今こそ美明に、すべての羞恥をかなぐり捨てさせた。
「世凰さまっ!!」
宙を泳ぐ彼の手を両の掌に受け止めるや、我が胸に強く押しつけ、彼女はそのまま体ごと、ひしと世凰を掻き抱いたのだった。
『あなたは、私の姉にとてもよく似ていらっしゃる!』夢ではあっても、世凰はそう言ってくれた。
ならば今、私はこのひとの姉になろう!それが多少なりとも、彼にとっての救いとなり得るならば、たとえこの身は姉の身替わりにすぎずとも、構わないではないか!?
「世凰!姉さまは、ここにいるわ。こうやって、しっかりとあなたを守っているわ!だから、もう大丈夫。怖くはないのよ、世凰!!」
彼の体の熱さに負けないくらい身を火照らせて、美明は世凰を抱きしめ、その耳許に幾度となく、やさしく囁き続けた。
突然、上空からサアっと射し注いだ光の帯から、すっと白い腕が伸び、延の毒牙の前に無抵抗に晒される世凰の裸身を抱き上げたかと思うと、あっという間に、煌めく結界の彼方へと運び去った。
「おのれえっ!邪魔だてするかっ!!」
今にも牙を立てんとしていた目の前の獲物を、まさかの闖入者に掠奪された延は逆上し、巨大な蛇身を猛々しくくねらせて、大地を揺るがす咆哮を轟かせたが、救い主の温かい胸に抱かれて光の中を上昇してゆく世凰の耳からは、それは急速に遠のいて行った。
〈温かい・・・何と温かい胸だろう!?誰だ…私を救ってくれた、このひとは?なぜかとても・・・懐かしい気がする・・・〉
嫋やかなぬくもりにすべてを委ね、彼は、聞き憶えのあるやさしい声音にふと気づき、瞳を閉じたままで耳を澄ませた。
「・・・世凰。姉さまは、ここにいるわ・・こうやって、しっかりとあなたを守っているわ・・・だから、もう怖くはないのよ・・」
〈姉さま!?まさか・・・〉
反射的に目を見開き、救い主の顔を仰ぎ見た世凰の口を衝いて、その、まさかの叫びが迸った。
「姉さまっ!!」
傷ついた彼を、間一髪のところで邪悪の魔手から救い上げ、堅く抱きしめながら、共に煌めく風となって飛翔するその女こそは、今は亡き姉、忘れ得ぬ香蘭だったのである。
「姉さまっ!!」
そう叫んで、自ら縋りついて来た世凰の、さすがに強い男の力に圧倒されつつ、しかもその上、床に立って前屈みに歪めた体で寝台に横たわる相手と抱き合うという、何とも不自然な姿勢から来る息苦しさに苛まれつつ、それでも彼の背に廻した腕を、美明は緩めようとはしなかった。
「世凰さま・・・お可哀相な世凰さま!美明は・・美明は・・・」
彼女の独白は、唐突にそこで止まった。
「泣いている!」
泣いているのだ、世凰が。
目覚めぬまま、彼女の胸に顔を埋めて・・・。
〈ああ、何て!・・何て愛おしいひと!!〉
一瞬、眩暈を感じるほどに魂を打たれ、堰を切って涙が溢れた。
―結ばれなくてもいい!愛してもらえなくても構わない!このひとのために生き、そして死ねるなら、ただそれだけで、私は幸せ!!波瀾の宿星に翻弄される美貌の貴公子への尽きせぬ至純の愛を、美明は今この時、はっきりと自覚したのだった。
「医者は不要のようじゃな・・・」
ポツリと呟いて微笑した曹博士は、瑞娘に眴して、半開きになっていた扉を音もなくそっと閉ざし、彼らは連れ立って足音を忍ばせ、廊下を去って行った。
それからしばらくして、博士を送り出した瑞娘が、洟を啜り上げ上げ、ひっそりと回廊を曲がってゆくのを、丁度中庭に居合わせた朋輩の侍女の一人が目に留め、実に不思議そうな顔つきで、声もかけずに見送ったのである。




