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鳳凰傳  作者: 桃花鳥 彌 (とき あまね)
15/37

《三》赤絲再逅(えにし ふたたび)-2-


さて、山荘に到着するなり(ツァオ)博士は、(ただ)ちに世凰(シーファン)の横たわる一室に(しょう)じ入れられ、さっそく診療が開始された。

「うむ・・・」

 彼の傷の状態を丹念(たんねん)に調べ上げたのち、博士は低く嘆息(たんそく)()らして眉をひそめ、腕組みを()こうともせずに、じっと考え込む(ふう)であったが、やがて、やっとのことで重い口を開いた。

「これは、(ただ)ならぬ深傷(ふかで)じゃ!表の傷もさることながら、問題は体内の傷。それも、昨日や今日受傷したものではなく、少なくとも、四、五日は()ておろう。何しろ、日が()ち過ぎておる。この状態で、よくぞこれまで持ち(こた)えたものよ!」

 (メイ)(ミン)は、彼の言葉の一言一句を、身の細る思いに息を詰め、不安の極地(きょくち)で聞いていた。

 何か言おうにも、まるで声が出ない。

 博士は続けた。

「もしもこれが常人(じょうじん)であれば、とうに命は無かろうほどの傷。なれどこの御仁(ごじん)は、余程(よほど)(きた)え上げられた体力、並びに精神力をお持ちのようじゃ。しかも、その上、受傷の直後に何らかの薬を服用し、それが内外共にうまく作用して、化膿(かのう)を最小限に喰い止めたと見える。それにしても・・・難しいのう!・・・」

 彼の沈痛(ちんつう)な表情に加えて、(さじ)を投げる直前とも受け取れる、差し迫ったその言葉は、(メイ)(ミン)目眩(めまい)すら感じさせ、彼女をして、思わず(ツァオ)博士に取り(すが)らせてしまった。

(ツァオ)先生、どうぞ!どうぞこの方を、お助け下さいませ‼お願いでございます‼」

 彼女の必死の懇願(こんがん)に対しても、(ツァオ)博士は、決して気休めなどは口にしなかった。それほどまでに、世凰(シーファン)の容態は深刻だったのである。

「はっきりと申し上げた方がよかろう。助かる見込みは、十中二、三分・・いや、それ以下かも知れぬ。万一の場合も大いにあり得ることを、お心に留めておいて下され」

(ツァオ)先生!」

 (メイ)(ミン)は、あらん限りの想いをその瞳に()めて(ツァオ)博士を見詰め、はらはらと真摯(しんし)な涙を(あふ)れさせた。

「この方に、もしものことがありますれば、(わたくし)、生きてはおりませぬ!どうか、この方のお命を‼・・・」

「⁉」

 (ただ)ならぬ彼女のひたむきさに驚いて〈(メイ)(ミン)殿、この御仁(ごじん)は、そなたの?・・・〉そう問いかけようとした(ツァオ)博士だったが、彼はそれを口にすることなく、ただしげしげと、彼女の顔を見やっただけであった。

「解り申した、(メイ)(ミン)殿」

 少なからず感じるものがあったらしく、(ツァオ)博士は表情をやや(やわ)らげ、(おだ)やかな口調(くちょう)に戻ってこう言った。

「この(ツァオ)(シュエ)(リャン)、医師として、この身に出来得る限りの、最善を尽くしてみましょうぞ!」

 そしてすぐに、こうも言った。

「しかしながら、何せ、出血が多すぎる。よいか、この病人を、決して動かしてはなりませぬぞ!ここ四、五日が、大きな峠となろう。非常に困難ではあるが、それさえ乗り切れば、何とか望みが出るやも知れぬ。ともかくは、やってみるまでじ!!(わし)はこちらに泊まり込むゆえ、どなたかを我が屋敷へやって、(さい)にその(むね)、伝えては下さらぬか」

「は、はい!ありがとうございます!!]


 (メイ)(ミン)の声は、不安と、そして一条の光を得た喜びとに、ともすれば(ふる)えがちであった。


 それからの数日間に(わた)る日々は、彼らにとって、まさに『死』との闘いの毎日であった。

 一進一退を頻繁(ひんぱん)に繰り返す世凰(シーファン)の病状は目が(はな)せず、又、息も抜けず、極度の緊張の中で死神と対峙(たいじ)する病室内には、一種の悲壮感(ひそうかん)すら(ただよ)っていた。

 しかしながら、(ツァオ)博士の、いわば医師生命を()けたとも言える献身(けんしん)的、()つ適切な治療(ちりょう)と、(メイ)(ミン)の、文字通り不眠(ふみん)不休(ふきゅう)看護(かんご)、そして何よりも、彼自身の強靭(きょうじん)な生命力とによって、世凰(シーファン)は幾たびかの死線を乗り越え、ごく(わず)かずつながら、容態は快方へと向かい始めたのである。

 だが、当然のことながら、完全に昏睡(こんすい)状態から脱するまでには至っていない。

 さらに十日後になって、その日の診療を終えた(ツァオ)博士が、(メイ)(ミン)に向かって言った。

「恐らく、最も危険な状態は、(すで)に脱したであろう。あとは、この御仁(ごじん)の体力が回復するにつれて、傷も()えて来る。(わし)一旦(いったん)、屋敷に戻るゆえ、もしも何か変わったことがあったなら、すぐに知らせなされ。可能な限り、二、三日置きには来て見る積りではいるがの」

 そのあとで、彼は急にしみじみとした口調になった。

「それにしてもそなた、何と、よう()くされたのう。いや、若いということは、よいものじゃ。まっこと、よいものじゃて・・・」

 感に耐えぬ様子でそう言い残し、十数日ぶりに、自分の屋敷へと戻って行った。

 半月近くもの間、(メイ)(ミン)と同じく、ほとんど一睡(いっすい)もせず、心血(しんけつ)(そそ)いで世凰(シーファン)の治療に専念し続けた(ツァオ)博士の心労(しんろう)たるや、若い(メイ)(ミン)の比ではあるまい。

 年齢的に見ても、当然、その極地に達している筈であった。

 にもかかわらず、彼は、医師として一人の若者の命を救い得たことに無上(むじょう)の喜びを感じつつ、心持ち覚束(おぼつか)ぬ足取りで、上機嫌(じょうきげん)に去ってゆく。

 その後ろ姿に向かって、(メイ)(ミン)は、ありったけの感謝の念を()め、深深(ふかぶか)(こうべ)()れるのだった。


 (ツァオ)博士を見送った(メイ)(ミン)は、別室で横になるよう(すす)める(ルイ)(ニャン)たちを振り切り、再び、まっすぐに世凰(シーファン)の病室に取って返した。

 ただ一人、彼の枕辺(まくらべ)に座る彼女は、連日連夜の献身(けんしん)疲労(ひろう)困憊(こんぱい)し、目の下にはうっすらと、黒い(くま)まで出来ていた。

 けれども、今、彼女の心身を()たすのは、疲労感などではなく、限りない至福感(しふくかん)であった。

〈私はとうとう、この方をお助けすることができたのだ!〉

 その喜びが、ふいに彼女を涙ぐませ、よりやさしい視線を世凰(シーファン)の寝顔に(そそ)がせる。

 濃い眉の下の美しい彼の()は、まだ(かた)く閉ざされたまま、くっきりと長い睫毛(まつげ)を見せているばかりだったが、その(ほお)(あた)りには、ほんのりと赤味が()し始めている。

 (ひい)でた(ひたい)に、()()()と乱れかかった黒髪、見事に通った高い鼻梁(びりょう)、そして、やや肉厚(にくあつ)の、形の良い(くちびる)・・・。

 彼の美貌を形成する逸品(いっぴん)の一つ一つが、すべて、少しずつ生気(せいき)を取り戻し、息づき始めていた。

〈何て、お美しい男性(かた)なのだろう‼〉

 (メイ)(ミン)(つくづく)感嘆し、同時に又、熱い溜息(ためいき)も落とす。

何故(なぜ)、あなたのような方が、人間としてこの世に生まれておいでになったの、世凰(シーファン)さま!?〉

 何とも不思議な気がした。

 けれど、寝台の側の脇机に並べられた、高雅(こうが)翡翠(ひすい)(かんざし)一振(ひとふ)りの短剣とを見るたびに、(メイ)(ミン)はたまらなく、切ない気持ちになってしまう。

 中でも、とりわけ翡翠(ひすい)(かんざし)が、彼女の乙女心を()き乱すのだった。

 世凰(シーファン)が、瀕死(ひんし)の重傷を負いながら肌身(はだみ)(はな)さず、内懐(うちぶところ)の奥深くに守り抜いて来た品々に、果たしてどんな由来(ゆらい)があるのか知る(よし)も無く、(メイ)(ミン)はひたすら心惑(まど)わせる。

〈どなたの(かんざし)かしら?この方が、これほどまでに大切になさるからには、よほど愛する方のものに違いないけれど・・・〉

 悲しい・・(たま)らなく悲しい・・・。

 だが、どうしようもないことだった。

 そうと解ってはいても、やはり悲しい―恋する女心というのは、なぜ、こんなにもいじらしいのだろう?

〈きっと、この方にふさわしい、美しい女性(ひと)に違いない・・私などが、いくらお(した)いしたところで、どうなるものでもないのに・・・〉

 涙がこぼれそうになった(メイ)(ミン)は、そこで急に我に返り、思わず自分を(しか)りつけた。

〈何を考えているの、馬鹿な(メイ)(ミン)!!今は、そんな時じゃないでしょう!?あなたという人は、本当に、何て恥知(はじし)らずな女なのかしら!?〉

 気を取り直し、再び世凰(シーファン)の顔に視線を転じた彼女は、彼の額にうっすらと汗が(にじ)んでいるのに気づいて、(ころも)(そで)でそっと(ぬぐ)ってやり、乱れかかった前髪を、指先で整えてやった。

 こうして、誰に見咎(みとが)められることもなく彼の黒髪に()れられるのも、今のうちだけなのだ。

 (メイ)(ミン)はまたも、切なさに嘆息(たんそく)した。

 その時である。

 何の前触(まえぶ)れもなく(しつ)の扉が開き、()(わず)かなその隙間(すきま)から(ルイ)(ニャン)の顔が、これまたほんの少しだけ(のぞ)いた。

「お嬢様。もし、お嬢様!・・・」

 (ルイ)(ニャン)(ひそ)やかに呼びかけた。

「なんです(ルイ)(ニャン)、お行儀(ぎょうぎ)の悪い!ちゃんと外から、声をおかけ‼」

 (メイ)(ミン)は、先程(さきほど)からの自分の行動はおろか、心の(すみ)ずみまでも、残らず(ルイ)(ニャン)に見通されてしまったかのような錯覚(さっかく)(おちい)り、ひどく狼狽(ろうばい)して、我知らず、彼女を(しか)りつけてしまった。

 恥ずかしさに(ほお)火照(ほて)り、赤く染まっているのが、自分でもよく解る。

「はい、申し訳ございません、お嬢様。でもちょっとだけ、こちらにおいでになって下さいまし」

 何も知らない(ルイ)(ニャン)は、(メイ)(ミン)突然(とつぜん)見幕(けんまく)に多少、驚きはしたものの、なおも声を(ひそ)めて、彼女を呼ぶのをやめない。

 (メイ)(ミン)は仕方なく椅子(いす)から立ち上がり、世凰(シーファン)を残して廊下へ出た。

「なんなの?早くお言い!」

 彼女は相変わらず、機嫌が悪い。

「はい。申し上げますわ。お嬢様」

 なんだってお嬢様は、こうも御機嫌斜(なな)めなのだろう?それに、とても赤い顔をなすって・・・。ひょっとしたら、看病疲れで、お熱でもおありになるのじゃないかしら!?・・・などと、心配したり(いぶか)ったりしながらも、(ルイ)(ニャン)は、小さな声で話し始めたのだった。

「実はね、お嬢様。他でもないあの方のことなんですけど・・・」

「あの方がどうかして!?」

 (ルイ)(ニャン)の言葉をはねつけるように、(メイ)(ミン)は切り口上(こうじょう)で聞き返した。

「まあ!そんなに(こわ)い顔をなさらないで下さいましな!」

 (ルイ)(ニャン)は、目を丸くして当惑する。

「いえね、どうやらあの方、(シュエン)朝のお(たず)ね者らしいんですの。ほら、またお(にら)みになる!・・ほんとにもう、何なんですの⁉あ、いえいえ、ごめんなさいまし・・それでね、あの方、謀反人(むほんにん)ということになっていて、街中、人相書きで一杯・・これ、何夫(ホーフー)が言ったんですのよ。あたしが言いふらした訳じゃございませんわ!だから、いちいち(にら)みつけないで下さいまし!」

「えーっと、何処(どこ)まででしたっけ?あ、そうそう。何でも、先日、(シュエン)の軍勢が(フェン)家のお(やかた)に踏み込んで、沢山の人を殺した挙句(あげく)、お(やかた)に放火までしたんですって!本当に非道い奴らですことね‼この間の火事は、それだったんですわ。で、その時に(シュエン)の何とかという将軍と(たたか)って、重傷を負ったまま逃亡なさったあの方を、今、(シュエン)軍が総出で、探索(たんさく)の真っ最中・・・」

(ルイ)(ニャン)、いいからもうおやめ!」

 (メイ)(ミン)は、一気にまくし立てていつまでも止まりそうにない(ルイ)(ニャン)を、(きび)しい口調(くちょう)で押し(とど)めた。

「でも、お嬢様!」

「いいから!もうおやめと言っているのです!!」

 (メイ)(ミン)はとうとう、語調で()(ふせ)せるようにして、(ルイ)(ニャン)に口を(つぐ)ませてしまった。

 ()()せられて、(だま)り込むしかなかった(ルイ)(ニャン)は、まったくもって(あき)れ返った。

 今までにただの一度として、彼女は、女主人のこんなにも激しい語気を聞いた(おぼ)えが無かったからである。

〈お嬢様。あなたはやっぱり、この方を・・・そうなんですの!?〉

 (ルイ)(ニャン)の胸のどこかが、その時なぜか、ほんの少し甘酸(あまず)っぱく痛んだ。それが何ゆえの痛みであったのか、彼女自身にも解らないのだが・・・。

「うぅ・・」

 苦しげな(うめ)き声に、二人は同時にギョッとして、室内に目を転じた。

 どうやら世凰(シーファン)が、悪夢にうなされ始めたようだ。

 (メイ)(ミン)は、咄嗟(とっさ)に身を(ひるがえ)すや室内に走り込み、彼の枕辺(まくらべ)に駆け寄るなり、その顔を(のぞ)き込んだ。

 世凰(シーファン)は、(しき)りに(くちびる)を動かして、何かを言おうとしている。

 (ひたい)には、幾つもの玉となって脂汗(あぶらあせ)が吹き出し、少なからぬ発熱のために、(まぶた)から(ほお)にかけて、ぼうっと薄紅色(うすべにいろ)上気(じょうき)していた。

世凰(シーファン)さま、しっかり!しっかりなさって‼」

 (メイ)(ミン)は気が気でなく、その名を呼びかけては、(せわ)しく手を動かして、()()無く流れ落ちる汗を(ぬぐ)い続けるのだった。

(ツァオ)博士を呼びにやりましょうか?もし、お嬢様!」

 (ルイ)(ニャン)の声さえも、彼女の耳には入らない。

そのうちに、世凰(シーファン)の容態が、次第(しだい)尋常(じんじょう)ならざる様相(ようそう)(てい)し始めた―。


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