《三》赤絲再逅(えにし ふたたび)-2-
さて、山荘に到着するなり曹博士は、直ちに世凰の横たわる一室に招じ入れられ、さっそく診療が開始された。
「うむ・・・」
彼の傷の状態を丹念に調べ上げたのち、博士は低く嘆息を漏らして眉をひそめ、腕組みを解こうともせずに、じっと考え込む風であったが、やがて、やっとのことで重い口を開いた。
「これは、唯ならぬ深傷じゃ!表の傷もさることながら、問題は体内の傷。それも、昨日や今日受傷したものではなく、少なくとも、四、五日は経ておろう。何しろ、日が経ち過ぎておる。この状態で、よくぞこれまで持ち堪えたものよ!」
美明は、彼の言葉の一言一句を、身の細る思いに息を詰め、不安の極地で聞いていた。
何か言おうにも、まるで声が出ない。
博士は続けた。
「もしもこれが常人であれば、とうに命は無かろうほどの傷。なれどこの御仁は、余程に鍛え上げられた体力、並びに精神力をお持ちのようじゃ。しかも、その上、受傷の直後に何らかの薬を服用し、それが内外共にうまく作用して、化膿を最小限に喰い止めたと見える。それにしても・・・難しいのう!・・・」
彼の沈痛な表情に加えて、匙を投げる直前とも受け取れる、差し迫ったその言葉は、美明に目眩すら感じさせ、彼女をして、思わず曹博士に取り縋らせてしまった。
「曹先生、どうぞ!どうぞこの方を、お助け下さいませ‼お願いでございます‼」
彼女の必死の懇願に対しても、曹博士は、決して気休めなどは口にしなかった。それほどまでに、世凰の容態は深刻だったのである。
「はっきりと申し上げた方がよかろう。助かる見込みは、十中二、三分・・いや、それ以下かも知れぬ。万一の場合も大いにあり得ることを、お心に留めておいて下され」
「曹先生!」
美明は、あらん限りの想いをその瞳に籠めて曹博士を見詰め、はらはらと真摯な涙を溢れさせた。
「この方に、もしものことがありますれば、私、生きてはおりませぬ!どうか、この方のお命を‼・・・」
「⁉」
唯ならぬ彼女のひたむきさに驚いて〈美明殿、この御仁は、そなたの?・・・〉そう問いかけようとした曹博士だったが、彼はそれを口にすることなく、ただしげしげと、彼女の顔を見やっただけであった。
「解り申した、美明殿」
少なからず感じるものがあったらしく、曹博士は表情をやや柔らげ、穏やかな口調に戻ってこう言った。
「この曹学良、医師として、この身に出来得る限りの、最善を尽くしてみましょうぞ!」
そしてすぐに、こうも言った。
「しかしながら、何せ、出血が多すぎる。よいか、この病人を、決して動かしてはなりませぬぞ!ここ四、五日が、大きな峠となろう。非常に困難ではあるが、それさえ乗り切れば、何とか望みが出るやも知れぬ。ともかくは、やってみるまでじ!!儂はこちらに泊まり込むゆえ、どなたかを我が屋敷へやって、妻にその旨、伝えては下さらぬか」
「は、はい!ありがとうございます!!]
美明の声は、不安と、そして一条の光を得た喜びとに、ともすれば震えがちであった。
それからの数日間に亙る日々は、彼らにとって、まさに『死』との闘いの毎日であった。
一進一退を頻繁に繰り返す世凰の病状は目が放せず、又、息も抜けず、極度の緊張の中で死神と対峙する病室内には、一種の悲壮感すら漂っていた。
しかしながら、曹博士の、いわば医師生命を賭けたとも言える献身的、且つ適切な治療と、美明の、文字通り不眠不休の看護、そして何よりも、彼自身の強靭な生命力とによって、世凰は幾たびかの死線を乗り越え、ごく僅かずつながら、容態は快方へと向かい始めたのである。
だが、当然のことながら、完全に昏睡状態から脱するまでには至っていない。
さらに十日後になって、その日の診療を終えた曹博士が、美明に向かって言った。
「恐らく、最も危険な状態は、既に脱したであろう。あとは、この御仁の体力が回復するにつれて、傷も癒えて来る。儂は一旦、屋敷に戻るゆえ、もしも何か変わったことがあったなら、すぐに知らせなされ。可能な限り、二、三日置きには来て見る積りではいるがの」
そのあとで、彼は急にしみじみとした口調になった。
「それにしてもそなた、何と、よう尽くされたのう。いや、若いということは、よいものじゃ。まっこと、よいものじゃて・・・」
感に耐えぬ様子でそう言い残し、十数日ぶりに、自分の屋敷へと戻って行った。
半月近くもの間、美明と同じく、ほとんど一睡もせず、心血注いで世凰の治療に専念し続けた曹博士の心労たるや、若い美明の比ではあるまい。
年齢的に見ても、当然、その極地に達している筈であった。
にもかかわらず、彼は、医師として一人の若者の命を救い得たことに無上の喜びを感じつつ、心持ち覚束ぬ足取りで、上機嫌に去ってゆく。
その後ろ姿に向かって、美明は、ありったけの感謝の念を籠め、深深と頭を垂れるのだった。
曹博士を見送った美明は、別室で横になるよう勧める瑞娘たちを振り切り、再び、まっすぐに世凰の病室に取って返した。
ただ一人、彼の枕辺に座る彼女は、連日連夜の献身で疲労困憊し、目の下にはうっすらと、黒い隈まで出来ていた。
けれども、今、彼女の心身を充たすのは、疲労感などではなく、限りない至福感であった。
〈私はとうとう、この方をお助けすることができたのだ!〉
その喜びが、ふいに彼女を涙ぐませ、よりやさしい視線を世凰の寝顔に注がせる。
濃い眉の下の美しい彼の瞳は、まだ堅く閉ざされたまま、くっきりと長い睫毛を見せているばかりだったが、その頬の辺りには、ほんのりと赤味が点し始めている。
秀でた額に、はらりと乱れかかった黒髪、見事に通った高い鼻梁、そして、やや肉厚の、形の良い唇・・・。
彼の美貌を形成する逸品の一つ一つが、すべて、少しずつ生気を取り戻し、息づき始めていた。
〈何て、お美しい男性なのだろう‼〉
美明は熟感嘆し、同時に又、熱い溜息も落とす。
〈何故、あなたのような方が、人間としてこの世に生まれておいでになったの、世凰さま!?〉
何とも不思議な気がした。
けれど、寝台の側の脇机に並べられた、高雅な翡翠の簪と一振りの短剣とを見るたびに、美明はたまらなく、切ない気持ちになってしまう。
中でも、とりわけ翡翠の簪が、彼女の乙女心を搔き乱すのだった。
世凰が、瀕死の重傷を負いながら肌身離さず、内懐の奥深くに守り抜いて来た品々に、果たしてどんな由来があるのか知る由も無く、美明はひたすら心惑わせる。
〈どなたの簪かしら?この方が、これほどまでに大切になさるからには、よほど愛する方のものに違いないけれど・・・〉
悲しい・・堪らなく悲しい・・・。
だが、どうしようもないことだった。
そうと解ってはいても、やはり悲しい―恋する女心というのは、なぜ、こんなにもいじらしいのだろう?
〈きっと、この方にふさわしい、美しい女性に違いない・・私などが、いくらお慕いしたところで、どうなるものでもないのに・・・〉
涙がこぼれそうになった美明は、そこで急に我に返り、思わず自分を叱りつけた。
〈何を考えているの、馬鹿な美明!!今は、そんな時じゃないでしょう!?あなたという人は、本当に、何て恥知らずな女なのかしら!?〉
気を取り直し、再び世凰の顔に視線を転じた彼女は、彼の額にうっすらと汗が滲んでいるのに気づいて、衣の袖でそっと拭ってやり、乱れかかった前髪を、指先で整えてやった。
こうして、誰に見咎められることもなく彼の黒髪に触れられるのも、今のうちだけなのだ。
美明はまたも、切なさに嘆息した。
その時である。
何の前触れもなく室の扉が開き、極く僅かなその隙間から瑞娘の顔が、これまたほんの少しだけ覗いた。
「お嬢様。もし、お嬢様!・・・」
瑞娘は密やかに呼びかけた。
「なんです瑞娘、お行儀の悪い!ちゃんと外から、声をおかけ‼」
美明は、先程からの自分の行動はおろか、心の隅ずみまでも、残らず瑞娘に見通されてしまったかのような錯覚に陥り、ひどく狼狽して、我知らず、彼女を叱りつけてしまった。
恥ずかしさに頬が火照り、赤く染まっているのが、自分でもよく解る。
「はい、申し訳ございません、お嬢様。でもちょっとだけ、こちらにおいでになって下さいまし」
何も知らない瑞娘は、美明の突然の見幕に多少、驚きはしたものの、なおも声を潜めて、彼女を呼ぶのをやめない。
美明は仕方なく椅子から立ち上がり、世凰を残して廊下へ出た。
「なんなの?早くお言い!」
彼女は相変わらず、機嫌が悪い。
「はい。申し上げますわ。お嬢様」
なんだってお嬢様は、こうも御機嫌斜めなのだろう?それに、とても赤い顔をなすって・・・。ひょっとしたら、看病疲れで、お熱でもおありになるのじゃないかしら!?・・・などと、心配したり訝ったりしながらも、瑞娘は、小さな声で話し始めたのだった。
「実はね、お嬢様。他でもないあの方のことなんですけど・・・」
「あの方がどうかして!?」
瑞娘の言葉をはねつけるように、美明は切り口上で聞き返した。
「まあ!そんなに恐い顔をなさらないで下さいましな!」
瑞娘は、目を丸くして当惑する。
「いえね、どうやらあの方、宣朝のお尋ね者らしいんですの。ほら、またお睨みになる!・・ほんとにもう、何なんですの⁉あ、いえいえ、ごめんなさいまし・・それでね、あの方、謀反人ということになっていて、街中、人相書きで一杯・・これ、何夫が言ったんですのよ。あたしが言いふらした訳じゃございませんわ!だから、いちいち睨みつけないで下さいまし!」
「えーっと、何処まででしたっけ?あ、そうそう。何でも、先日、宣の軍勢が鳳家のお館に踏み込んで、沢山の人を殺した挙句、お館に放火までしたんですって!本当に非道い奴らですことね‼この間の火事は、それだったんですわ。で、その時に宣の何とかという将軍と闘って、重傷を負ったまま逃亡なさったあの方を、今、宣軍が総出で、探索の真っ最中・・・」
「瑞娘、いいからもうおやめ!」
美明は、一気にまくし立てていつまでも止まりそうにない瑞娘を、厳しい口調で押し止めた。
「でも、お嬢様!」
「いいから!もうおやめと言っているのです!!」
美明はとうとう、語調で捩じ伏せるようにして、瑞娘に口を噤ませてしまった。
捩じ伏せられて、黙り込むしかなかった瑞娘は、まったくもって呆れ返った。
今までにただの一度として、彼女は、女主人のこんなにも激しい語気を聞いた憶えが無かったからである。
〈お嬢様。あなたはやっぱり、この方を・・・そうなんですの!?〉
瑞娘の胸のどこかが、その時なぜか、ほんの少し甘酸っぱく痛んだ。それが何ゆえの痛みであったのか、彼女自身にも解らないのだが・・・。
「うぅ・・」
苦しげな呻き声に、二人は同時にギョッとして、室内に目を転じた。
どうやら世凰が、悪夢にうなされ始めたようだ。
美明は、咄嗟に身を翻すや室内に走り込み、彼の枕辺に駆け寄るなり、その顔を覗き込んだ。
世凰は、頻りに唇を動かして、何かを言おうとしている。
額には、幾つもの玉となって脂汗が吹き出し、少なからぬ発熱のために、瞼から頬にかけて、ぼうっと薄紅色に上気していた。
「世凰さま、しっかり!しっかりなさって‼」
美明は気が気でなく、その名を呼びかけては、忙しく手を動かして、留め処無く流れ落ちる汗を拭い続けるのだった。
「曹博士を呼びにやりましょうか?もし、お嬢様!」
瑞娘の声さえも、彼女の耳には入らない。
そのうちに、世凰の容態が、次第に尋常ならざる様相を呈し始めた―。




