《三》赤絲再逅(えにし ふたたび)-1-
白家の山荘は、蒼嶺郡・海峰山の中腹辺りに、その瀟洒な佇まいを横たえていた。
一族の中でも、特に一人娘の美明は、どういうものか、幼い頃からこの山荘を好み、珠林にある白家の館よりもここで過ごす時間の方が長く、殆ど一年中を暮らしていた。
ある日の午後。
美明は、山荘の窓からまっすぐ西の方角に、巨大な火柱が立ち、天を焦がして燃え落ちるのを見た。
「ねえ、あれは何事かしら?」
何か唯ならぬものを感じて、彼女は傍らに控えている自分付きの侍女・瑞娘に問いかけた。
「さあ、詳しい事は解かりませんけど・・お屋敷の者たちの話では、どうやら広東辺りの大きなお館が燃えているのだとか・・火事でも起こしたんじゃございませんの?」
利発な瑞娘は、栗鼠のような瞳をくりくり動かしてはハキハキと答えたが、実のところ彼女も、詳しい事は何一つ知らないのである。
「そう、お気の毒にね・・・」
そう言ったきり、美明はもう二度と、その話題に触れようとはしなかった。
その夜―。
いつもより早目に床に就いた彼女は、実に不可思議な夢を見た。
そこには、忘れ得ぬ男性がいた。
言うまでも無く、二月足らず前、あまりにも鮮やかに彼女の前に現れ、その胸に生まれて初めてのときめきを置き去りにしたきり、風のように去って行った白衣の貴公子・鳳世凰である。
あの時、彼が自らの袖口を引き裂いて彼女の右手を包んでくれた白絹の端は、美明自身の手で丁寧に洗われ、今も大切に珠玉匣の片隅に秘められていたし、彼のその手当のお陰で、傷は全く跡を残さず、きれいに癒えてしまっていた。
「その節は、まことにありがとうございました。是非とも、今一度お目にかかってお礼申し上げねば、と気になっておりましたので、こうしてお会いできましたことが、何より嬉しゅうございます」
「あれくらいのこと、気になさるものではありません。それより、こんなことを申し上げて、失礼だったらお許し下さい」
美明が声を弾ませて礼を述べると、彼は光り輝く美貌をやさしくほころばせ、優雅に白扇を使いながら、先に詫びておいて、美明を見つめ、こう言った。
「どこがどう、と言うのではないのですが、あなたは、私の姉にとてもよく似ていらっしゃる!あなたとお話していると、まるで、姉がそこにいてくれるような気さえ致します」
「まあ!私が、あなたのお姉さまに⁉それで、お姉さまは今、どちらにおいでですの?」
彼女の言葉に俄かに瞳を翳らせた世凰は寂しそうに、ふっと微笑した。
「姉は・・・死にました。私の身を思いやる余りに自害してしまいました。そして、私ももうじき、姉の許へ参ります・・・」
謎めいた一言を残し切らぬうち、彼はかき消すように姿を消した。
美明は凝然と息を呑み、次にはせわしなげにあちこちを見回して、彼を探し求めた。
すると、満々と水を湛えて流れる大河を挟んだ向こう岸に立つ、世凰が見える。
けれど、その顔は、どういう訳かひどく蒼ざめ、さらに驚いたことには、彼の白衣は血だらけだった。
「世凰さま!」
思わず河の中に足を踏み入れようとした美明の眼前、突如として大河は巨大な火柱となり、天高く立ち昇った。
二人の間を隔てた紅蓮の炎は、轟音と共に低く地上へ棚引いて、みるみるうちに向こう岸へと這ってゆき、そこに達するや、再び、一気に燃え上がって、世凰の体を押し包んだ。
「美明っ‼」
断末魔の彼の絶叫を、夢とも思えぬ生々しさで聞いて、美明ははたと目覚めた。
「どうなさいましたの、お嬢様⁉」
彼女の顔を心配そうに覗き込む瑞娘のまなざしが、すぐ目の前にあった。
「なんだか、ひどくうなされておいでなんですもの!『河が』だとか『火が』だとか・・・」
そう言いながら瑞娘は、そっと美明の額に手を当てた。
「幸い、お熱は無いようですわね。でも、まあ、こんなに汗をおかきになって!お寝間着までびっしょりじゃございませんか⁉早くお着換えなさいまし、風邪でもお召しになっちゃ、大変ですもの‼」
早口にまくし立てる一方で、瑞娘は、まだ呆然として床の上に座ったままの美明に、甲斐甲斐しく着換えをさせてやったのだった。
その夢から覚めた直後に、美明の苦悩は始まった。
〈なぜ、今日に限って、あの方の夢を見たりなどしたのかしら⁉いつもは、いくら見たいと思っても、一度も見ることができないのに・・・〉
彼女は、しきりに胸騒ぎを感じた。
〈もしかしたら、あの方の身に何かあったのかもしれない。昼間見た火柱は、確かに広東の方角だったし、鳳家のお屋敷も、広東にある・・・〉
以来、彼女は床につくたびに、何とも得体の知れぬ悪夢に苛まれるようになり、その為夜も眠れず、食事さえも、ろくに咽を通らなくなってしまった。
早速、山荘の乳母からその報告を受けた美明の父・白民雄は、娘の突然の異変振りに大いに気を揉みはしても、原因を掴みかね、どうしたものかと苦慮するばかりである。
そうこうするうちに、数日が経った・・・。
その夜も、美明は眠れぬままに、さんざん寝台の上で寝返りを打った末、夜明け近くになってついに起き上がり、瑞娘を起こさぬよう気を配りながら、足音を忍ばせて居間を出た。
美明を心配する余り、瑞娘は、何日間も彼女の寝台の側で不寝番をした挙句、今は前後不覚に、居眠りの真最中だったのだ。
屋外へ出た美明は、淡い群青色に変化してゆく暁の空を見上げ、消え残る星々の微妙な瞬きを数えて、ほうっと大きな溜息をついた。
明け方の冷気が、ひんやりと彼女の頬を撫で、薄絹の上衣を通して夜着の中まで忍び込んで来るが、うっすらと汗ばんだ肌には、いっそ心地よい。
〈思い切って、誰かを広東へやって調べさせようかしら?とてもこのまま、じっとしてはいられないもの・・・〉
そんなことを思いあぐねて、美明は薄明かりの中をあちこちと逍遥するのだったが、ふと気づいた時には、いつの間にか山荘の外にまで出て来てしまっていた。
誰にも見咎められなかったところを見ると、さては門番の何夫も、瑞娘と同じく、居眠りを決め込んでいるらしい。
「無用心だこと!」
半分呆れ気味に呟きはしたものの、美明は思わず笑ってしまた。
が、その直後、彼女の瞳は異様な光景を捉え、大きく見開かれたきり、動かなくなった。
彼女が立っている場所から、やや前方に下った辺りで途切れる奥深い雑木林の端に数本立ち並ぶ香椿の、幹の一本に体を預け、息も絶え絶えに立っている人間がいた。
〈誰なの?こんな時刻に、こんなところで、何をしているのかしら⁉〉
訝り怪しみ、美明は、知らず知らずのうちに体を堅くしていた。
そのくせ、すぐにその場を立ち去ることが、なぜか出来ずにいるのだ。
そして、次第に明るさを増してゆく早朝の光の中で、その人間の輪郭が徐々(じょじょ)に明確になるにつれ、彼女の胸は、明らかに波立ち始めた。
それは、まだ、うら若い男だったが、体力のすべてを消耗し尽くし、見る影もなく窶れ果てていた。
もともと純白であったろう着衣は無残にも引き裂かれ、夥しい血痕で赤黒く変色している。
もはや、顔を上げることも叶わぬのか、黒髪が好き放題に乱れかかったその面差しは、まぎれもなく―あのひと!
―でも、でも何故⁉・・・。
美明は、息が止まりそうになった。
「鳳さまっ‼ 鳳世凰さまっ‼」
絶叫と言うべき声で、何度もその名を呼び、彼女は裾の乱れも眼中には無く、夢中で彼の傍らに駆け寄った。
彼女のその声が、今にも気を失いかけていた世凰の意識を、一瞬、呼び醒ました。
彼は、相手を確認しようと痛々しく憔悴した瞳を上げた。
「あ・・・あなた・・・は?・・・」
しかし、ただ、それだけの言葉が唇から漏れたのみで、顔も見極めることが出来ず、崩れるようにその場に昏倒して行った。
その体を危うく抱き止め、渾身の力で必死に支えながら、美明は、忘れ得ぬひととのあまりにも衝撃的な再会に動転し、半ば錯乱状態となって、嘗てこの娘には無かったほどに取り乱した。
「瑞娘っ‼瑞娘ったら‼いいえ、誰でもいいから早く、誰か、早く‼」
あらん限りに絶叫する時ならぬ美明の声に、それが何と山荘の外から聞こえて来ることに、それこそびっくり仰天して、すわっとばかりに忽ち七、八名の者たちが、押っ取り刀で馳せ参じて来た。
ところが、である。
彼らはまたまた、仰天しなければならなかった。
何せそこには、彼らの女主人が、夜着の上に薄絹一枚羽織ったきりのあられもない姿で裾を乱し、片方は裸足になり、さらにさらに、あろうことか血塗れの若い男を抱きかかえて、顔を引き攣らせているのだから!・・・。
一同は皆、打ち揃って、口あんぐりと呆れ返るばかりであった。
「何をしているのです⁉」
美明は、そんな彼らを、もどかし気に叱咤した。
「早く早く、この方を、屋敷へ運んで差し上げて頂戴‼何夫、お前は一刻も早く、曹博士を‼」
白家の山荘は、時ならぬ大騒ぎとなった。
ともかくも、世凰を一室に運び込んで応急手当を施し、湯を沸かし、着換えを用意し―等々(などなど)、召し使いたちは総出で、山荘の内外を忙しく動き回った。
丁度、朝食の膳につこうとしていた白家代々の主治医・曹学良が、好物の朝粥を断念して、急遽、助手と共に山荘に到着したのは、それからしばらく後のことであった。
その間、美明は片時も世凰の枕辺を離れず、ボロ切れ同然になった着衣を脱がせ、侍女が控えているにもかかわらず、一切彼女たちの手を借りようとはせずに、耳の付け根まで羞恥に紅く火照らせながらも、自らの手で彼の体を拭き清めてやり、清潔な夜着に着換えさせてやった。
あれやこれや、こまごまと、甲斐甲斐しく怪我人の世話を焼く女主人の姿を、ただ呆然と手を拱いて見守っているしか能の無かった侍女たちは、室を出入りするたびに、密かに囁き合った。
「ねえねえ!ずっと男嫌いで通して来られた、あのお嬢様がよ、御自分から殿方のお着換えをさせてお上げになるなんて、あんた信じられる?」
「それもさ、直接、お手であの方の肌に触れたりなんぞなさって、隅から隅まで、それこそ隅から隅まで、舐めたみたいに・・・キャッ、あたしったらっ!でも、ほんとなのよ。ほんとにそのくらいきれいに、拭いて差し上げなさったの!あたし、目を疑っちゃった‼」
「でもさぁ、ほんっとに、なんていい男なんだろ⁉あんな美しい殿御になら、あたしだって尽くしてあげたくなるわよ。こう、やさしく撫でたりなんかしちゃってさ!」
「やーね、あんた!お嬢様と張り合おうっての⁉」
「シッ、瑞娘が来たわよ‼」
なんとも口さがなく囀り合いながら、それでも彼女たちは一様に首を傾げ、異口同音に『信じられないわ、あたし!』を、繰り返した。
しかし、一番戸惑っていたのは、他ならぬ美明自身であった。
無論、異性の体を直接目の当たりにすることなど、生まれて初めてだったし、ましてや、我が手でそれに触れるなど、考えてみた事もない。
当然、ひとかたならぬ羞恥心はあったものの、実に不思議にも、嫌悪感は微塵もなかった。
なぜこんな気持ちになれるのかは、自分でも解らない。
〈この人を助けたい‼〉
ただ、その一途な想いだけが、狂おしいまでに、内側から彼女を突き動かし、処女の羞いさえも乗り越えさせたのである。
彼女はまだ、はっきりと気づいてはいないにせよ、それは紛れもなく『愛』であった。




