《二》凶刃魔拳(じゅうりん)-2-
話は前後する。
|宣軍が踏み込んだ直後の鳳家に駆けつけて来た一人の女がいた。
忍び装束にきりりと身を固め、さながら女豹を思わせるしなやかな肢体と、野性味溢れる鳶色の瞳とを併せ持ったその美しい女は〈無念!遅かったか‼〉白壁の塀の屋根で口惜しさに唇を噛み、ひらり、と鮮やかな身のこなしで屋敷内に飛び降りた。
彼女は、人を探していた。
恋焦がれるその男性を是非とも我が手で救い出したかった。
宣の軍勢が突入する前に彼を脱出させる積もりが、ある手違いが生じたために、間に合わなかったのだ。
女の名は、武菊玲。
『緋賊』と呼ばれる北方の土豪集団の頭領・武成公の一人娘でありながら、彼女はほんの半月前まで、浮き草暮らしに明け暮れる、しがない妓女に身を堕としていた。
けれども、半月前の夜に奇しくも出合った一人の若者が、彼女を泥沼の中から救い上げた。
とは言っても、彼が、何か特別なことを彼女にしてくれた訳ではない。
ただ―『生きざま』を見せてくれた。
逆境のさなかにあってなお、聊かも誇りを、気高さを失うことなく、昂然と顔を上げて行手を見据える至純の魂がこの世に存在するのだ、という真実を身を以って彼女に教えてくれたのだ。
菊玲は、自分を恥じた。
父の後妻との折り合いが悪いという理由だけで、家も故郷も捨て、十七の時から六年もの間流浪した挙句に自暴自棄となり、ついには妓女にまで自らを貶めた我が身を、心底、恥じた。
即刻、苦界から足を洗った彼女は、本来の侠女の姿に立ち戻り、熱い義侠の血を蘇らせたのだった。
同時に、鳳世凰という名の、その若者を、彼女は激しく愛するようになった。
『火の女』菊玲にとって、愛することは即ち、命を懸けることに他ならない。
以来、彼女は、密かに世凰の身辺に気を配るようになった。
そして、今日。
俄かに不穏な動きを見せ始めた宣軍の司令官・揚鉄玉の館に潜入し、遽しくも即日の出動が決定されたのを突き止めるや、彼女は世凰に急を知らせるべく、速やかに立ち去ろうとしたが、突如立ちはだかった黒装束の一団と、心ならずも刃を交えることとなった。
主に北方に伝わる峻烈の剣流『胡蝶乱剣』の達人として、女といえども天才的な剣技の持ち主であった菊玲は、追いつ追われつの激闘の末に、十名中四名の敵を斬殺し、彼らを振り切って、漸く鳳家の屋敷に辿り着いたのだった。
だがしかし、今一歩遅かった。
この上は、一刻も早く世凰を見つけ出し、その逃亡を助けるよりほかに道は無い。
嘗て『緋賊一』と折り紙をつけられた手練れにふさわしく、誰の目にも触れることなく血闘の巷を駆け抜けながら、彼女はただひたすら、愛する男の無事な姿を探し求めた。
その眼前に、血に塗れて累累と横たわる多くの屍・・・。
それらの顔を一人一人確認するたびに、ほっと胸を撫で下ろし、短く手を合わせては歩いていた菊玲は、一組の男女の遺骸の前で、思わず足を止めた。
若者の体を庇うように折り重なって、女は息絶えていた。
全く何の容赦もなく、力任せに斬りつけられたと思われる深い刀傷は、背中一面を無残に裂いて骨まで達し、今もって鮮血を流し続けている。
にもかかわらず、そばかすだらけのその顔は不思議に安らかで、苦悶の影も見えず、うっすらと微笑さえ浮かべていた。
大方、彼女の下に横たわる若者は、夫か恋人なのであろう。
愛する者と生死を共にするという、女としての究極の喜びを、彼女の微笑は雄弁に伝えていた。
〈幸せな女!〉
菊玲はそっと瞑目し、足早にその場を去った。
やがての後、ついに菊玲は、遥か裏庭の一角で、白壁を背に絶体絶命の窮地に立つ世凰の姿を、その瞳に捉えたのである。
だが、ここから駆け付けたのでは―。
〈間に合わぬ‼〉
彼女は、傍らに打ち捨てられていた一本の手槍を咄嗟に拾い上げるなり、今まさに間合いを詰めようとする敵にめがけて、渾身の力を籠めて投げつけた。
が、敵もさるもの、槍は目標を失って、空しく地面に突き立ったのみであった。
それでも一瞬もたらされた束の間の空白をさすがに見逃さず、世凰は間一髪で窮地を脱し、傷つきながらも、館の外へと姿を消した。
それを見届けるがはやいか、菊玲もまた身を躍らせ、彼の後を追うべく、塀を乗り越えたのだった。
彼女が館の外へ降り立った時には、はや世凰の姿は視界に無かったが、点々と地面に滴る鮮血が彼の行方を示していた。
〈東へ向かわれたか⁉〉
ここから東といえば、紫雲山の方角である。
それにしても、少なからず傷ついた体で、斯くまで迅速に身を処するとは!・・・菊玲は内心、舌を巻いた。
裏門からその時、どやどやと湧いて出た烏合の輩をやり過ごし、残された血痕を辿って、長い塀のようやく途切れる曲がり角まで来た彼女は、その死角に横たわる若い男に行き当たった。
死んでいるのだと思い、合掌して通り過ぎようとした菊玲が、ふと気づいて屈み込み、その首筋に手を当てた瞬間―彼女の運命は決したのである。
〈まだ、生きている!〉
相当な深傷ではあったが、すぐに手当をすれば助かるかもしれない。大きく前方へ差し伸ばされた彼の手は、必死に誰かの後を追い求めようとして果たせなかった無念さを語って、余りある。
そう思いをめぐらせた時、菊玲は突然、予想だにせぬ激しさで胸を衝かれた。
〈もしかすると、この若者もまた、世凰さまの後を追おうとしたのでは⁉〉
見知らぬ若者の心情が、なぜか手に取るような鮮やかさで感じられて、彼女は、そんな自分自身に戸惑った。
〈私は一刻も早く、あの方を追わねばならぬ!しかし、みすみす、この男を見殺しにも・・・〉
極く短い時間のうちに、菊玲は何度も激しく躊躇したが、彼女の内にふつふつと滾る義侠の血が、そして目の前の傷ついた若者と相呼応した『何か』が、彼をこのままに見捨てて世凰を追ってゆくことを、ついに許さなかった。
「お許し下さいませ、鳳様‼」
菊玲は、血の涙を流して彼に詫び、後髪引かれる辛さに身も心も苛まれながら若者を抱き起して、信じられぬ力でその体を担ぎ上げるや、何処へともなく、忽然と姿を消したのだった。
その数刻後。
世凰の姿は、鳳家の館を西の彼方に見下ろす紫雲山の中腹にあった。
館は、燃えていた。
宣軍が放ったのであろう紅蓮の炎に包まれて、凄まじい火柱と化し、天を焦がし続けている。
誇り高き鳳一族の、まさに象徴であった壮大な城は、やがて焼け落ち、無残な瓦礫となって朽ち果ててゆくことだろう・・・。
気も遠ざかりそうな傷の痛み、多量の出血のために、幾度となく襲い来る眩暈・・・それらに歯を食い縛って耐え、世凰は、二度と再び帰ることなき我が家に、永遠の別れを告げるのだった。
断腸の思いが、彼の胸を搔き乱してやまぬ。
それは、帰るべき場所を失った悲しみにも勝る、多くの朋友たちを犠牲にしてしまったことへの深い悔恨の情であった。
〈許してくれ。みんな‼・・・〉
頭を垂れて目を閉じた途端、彼は激しく咳込み、危く、傍らの松の幹に縋って体を支えた。
咳は止まることなく続き、口許を押さえた左手の指すべての隙間からは、あとからあとから、留め処ない鮮血が溢れ出して来る。
その血量の余りの多さが、見るも無残に血を流し続ける右側の傷より寧ろ、体内に受けた損傷が容易ならざる状態にあることを、端的に、彼に告げていた。
このままでは、九死に一生を得て脱出して来たことが、まるで意味の無いものになってしまう。
世凰は、万一の時の為にと慈覚禅師より授けられ、常に身につけていた、禅師手製に成る翔琳寺秘伝の丸薬を帯の間から取り出すと、すぐさま口中に投げ込み、そのまま一気に飲み下した。
忽ち、咽の奥で、血塊と丸薬との猛烈な相克が生じ、彼は先程よりももっと激しく、その場に俯せになりながら咳込み続け、さらに夥しい吐血に苦しんだ。
しばらくの間そうやって血を吐き続けた後に、やっと体を起こした彼は、よろめき縺れる足でどうにか立ちあがり、寄る辺無い身を微かに残った気力に委ねて、山中深く、当て所も知らずに分け入って行った。
それからのほぼ四日間というもの、世凰は間断無くと言っていいほど頻繁に血を吐き、その上高熱に浮かされもして、何処とも定かでないあちこちの山中を、幽鬼となって彷徨い歩いたのである。




