《二》凶刃魔拳(じゅうりん)-1-
三十数名の若者たちの屯する宏大な館が、突如として、揚鉄玉率いる宣の軍勢に踏み込まれたのは、崔王秀が彼の許に泣きついて行った、ほんの数日後のことであった。
世凰が、初めて仇敵の正体を知らされた夜からも、幾許も隔ててはいない。
あの夜、真実を知った彼は、即座に、遠からぬ日の仇討を心に決め、朋友を巻き添えにすることを恐れて、彼らにすべて打ち明けた上、速やかに屋敷を去るよう懇願した。
しかし、事情を知った若者たちは、出て行くどころか、忽ちにして義侠心を掻き立てられ、断固、その申し出を拒否したのである。
「世凰。いかに君の頼みでも、こればかりは、二つ返事で受け入れる訳にはゆかぬ。我々は確かに、君に対して恩義もあるが、それより何より、君という男そのものが好きなのだ。事情を知った今になって、はい、さようなら!などと去ってゆけると思うのか⁉ この上は、及ばずながら我々にも、是非とも力添えをさせてほしい!」
詠胡竜の言葉に異を唱える者は、誰もいなかった。世凰がさらに説得したところで、彼らは頑として受け付けようとはせず、一人たりとも、屋敷をでようとする者はいない。
そんなさなかの、急襲だったのだ。
「広東豪族・鳳世凰!衆を語らい、お上に謀反を企てたかどにより、召し捕る!尋常に縛につけばよし、さもなくば、手向かい致したる罪にて、この場で討ち果たすものなり‼」
多くの武装兵士を従えて、その先頭に立ち、大音声で下知文を読み上げたのは、揚鉄玉であった。
彼らの後方では、延大剛が、いつものように後手に腕を組み、ゆったりとした余裕を見せて佇んでいる。
世凰は、侮蔑と憎悪との入り混じった切れ長の瞳を、じっと揚に注いだまま身じろぎもせず、無言で彼の口上を聞いていたが、やがてその唇に、不敵な微笑を浮かべた。
「揚殿。言うに事欠いて、ついにはそのような大義名分まででっち上げられたか⁉余りのこじつけに、御自身でも面映うはありませぬか?」
「‼」
早くもカアッと頭に血が上った揚に向かって彼はさらに続けた。
「どうやら、我が父と姉同様、この世凰にも生きていてほしくはないと見える・・自らの手は汚さずして邪魔者を始末せんとする卑劣極まりない手口、臆面もなく再び使うとは、揚鉄玉、浅はかにも、語るに落ちたな‼」
「な、なにいっ‼」
ズバリと心当たりを直撃された揚は、見る見る満面に朱を注ぎ、まさに赤鬼そのものの形相を呈した。
〈なぜ、ばれたのだろう?まさか、崔の奴めが裏切ったのでは⁉〉
彼の胸中は、たちどころに、その疑念で沸き立った。
そして世凰は、眉一つ動かすことなく、凛然と奸物共に言い放ったのである。
「我が憎っくき仇敵・揚鉄玉、並びに延大剛‼鳳世凰は、決してこの場では死なぬ。何としてでも生きのびて、いつの日にか、必ず本懐遂げてみせようぞ‼」
その絶世の美貌が、今や恐ろしいほどに冴え渡り、炯炯と燃えさかる憤怒の瞳でまともに見据えられた揚鉄玉の全身は、何とも得体の知れぬ畏怖の念に搦め取られて粟を生じ、さらにその上、隈無く総毛立った。毛穴という毛穴が開き切り、とめどなく流れ出す冷たい汗に少なからず狼狽した彼は、自らの心理状態を押し隠そうとして殊更金切り声になりながら、ついに本音の命令を下すに至ったのである。
「ええい、構わぬ!全員、皆殺しじゃ‼猫の子一匹たりとも、逃すではないぞ‼」
忽ち、戦闘の幕は切って落とされた。
明らかに、数と武器とにおいて勝る宣軍に対して、世凰を始めとする若者たちも、それぞれが一角の武芸者、そうやすやすと後れをとる筈もない。
彼らは阿修羅そのものと化し、我が身一つを武器に、勇猛果敢に闘い続けた。剣と拳、槍と足技、そして入り乱れる怒号―血は血を呼び、猛り狂う狂気を呼び、やがて死を呼んだ。
しかし、いかに目覚ましい奮戦を見せたところで、所詮は多勢に無勢、次々と、浮塵子の如くに押し寄せて来る新手のために、彼らの疲労は次第に、その影を濃くして行った。
一旦勢いに呑まれてしまえば、崩れ去るのは余りに早く、若い命は、見る見る散り急いでゆく。
どうにか生き残ってはいても、全員が体のどこかに傷を負い、五体満足な者など一人もいなかった。
このままでは全員玉砕、まさに火を見るよりも明らかである。
「世凰!」
すぐ近くで闘っていた詠胡竜が、相手を倒すなり、駆け寄って来た。
「このままでは全滅するぞ!そろそろ血路を開いて、落ちのびよう。特に君は大事な体だ、必ず生きろよ!生きて、時機を待て‼」
「解った!」
世凰は答え、そして詫びた。
「済まぬ‼とうとう君たちを、巻き添えにしてしまったな」
その会話も、長剣を振りかざして斬りかかって来る敵のために、度々(たびたび)途切れるのだ。二人はそれぞれ、鮮やかな手並みで、邪魔者共を葬り去った。
「そんなことは、言いっこなし!世凰、早く行け!命があったら、また会おうな‼」
返り血を浴びた精悍な顔で、ニッと笑ったかと思うと、胡竜は猛然と、敵の真只中めがけて飛び込んで行った。
追い縋る幾多の敵を倒しながら漸く屋外へ逃れ、裏門に向かって駈け出そうとした世凰の行手をゆっくりと一人の男が遮った。
宣朝将軍・延大剛-。
「久方振りであったな,翔琳鳳凰殿。折角こうして再会できたものを、この延を差し置いて、一体何処へゆかれるお積りじゃ?余りにつれないではないか」
その嗜虐的な視線をねっとりと世凰の全身に注ぎながら、延は落ち着き払った口調で言った。
「おぬし、暫く見ぬ間に、また一段と美しゅうなったな。その死に顔も、さぞや美しかろう。是非とも見たいものじゃ!」
ふっと細めたおぞましい延の視線を毅然としたまなざしで跳ね返して、世凰はきっぱりと答えた。
「言った筈だ、延大剛!私は決してここでは死なぬ‼」
「ほほっ、これはこれは!」
延は大形に目を丸くして見せつつ、せせら笑った。
「さすが、鳳美人!その名に違わぬ可愛い唇で、さてもまた、可愛いことをば囀りおるものよのう。いっそ我が下に組み敷いて、思う様、あらぬことまでも囀らせてみたきはやまやまなれど、生憎、斯かる縁には無いようじゃ・・・ならば宿命の赴くまま、我が伏魔拳に花と散れ!」
言いざま、目にも止まらぬ激烈な拳風が、唸りを上げて世凰に襲いかかった。
人呼んで、妖州伏魔拳!
その冷酷非情の殺人技を以って、古来より、果たして何百人、いや何千人の命を、塵・芥の如くに屠り続けて来たことかー。
もとより、稀代の遣い手たる延大剛の拳は、既に幾重にも血塗られ、犠牲者たちの怨念をも己が糧として吸収し尽くした結果、もはや妖気さえ帯びて、まさしく『魔拳』と呼ぶにふさわしい境地にまで達していたのである。
その魔性の剛拳が、目の前の極上の獲物を引き裂く愉悦に高らかに咆哮し、今や、猛然と牙を剥く。
執拗に、且つ過激に、彼のすべての急所を狙って繰り出されて来る凄まじい攻撃とは対照的に、世凰の梅花鳳凰拳は変幻自在、しなやかに舞ってその切先を躱しながら、見事な連続技で立ち向かった。
しかし悲しいかな、場数の違いは、おのずと格段の気迫の違いともなって如何とも為し難く、息もつかせぬ熾烈さで、さながら鎌鼬の様相を呈し荒れ狂う延の殺人拳は、いつしか世凰を圧倒し始め、一歩、また一歩と、確実に彼を追い詰めて行ったのである。
じりじりと後退る世凰の片足に、突然、何かが引っかかった。
《!!》
ごく僅かに「気」が乱れ、ほんの束の間、体のバランスが、微かに崩れた。
その一瞬の隙を衝いて「呵―っ!!」裂帛の気合もろとも、延の剛拳が世凰の左胸目がけて炸裂した。
これぞ『伏魔念誦』!
-間一髪、体を捻りざま後方に飛び退り、辛うじてその直撃は免れたものの、左胸ならぬ、右胸に受けたダメージたるや、決して軽いものではなかった。
皮膚はおろか、さらにその奥の奥まで、ものの見事に突き破られた傷口は、パックリと、柘榴のように裂けて滑らかな細身を穿ち、みるみるうちに溢れ出す淋漓たる鮮血が、またたく間に、彼の白衣を朱一色に染め抜いてゆく。
それと同時に、急激な速さで体内を遡って来た血塊が口腔を満たし、真紅の糸を引いて、唇から滴った。
世凰は、咄嗟に呼吸を整え、これに対応した。ダメージを極力、最小限に押さえるためである。
そうしておいて彼は、次なる延の攻撃を受けて立つべく、なおも身構えるのだった。
痛痛しくも凄絶なその有様を異様な輝きを一層増した延の目が凝視し続けていた。
「美しい‼」
感に耐えぬ口調で呟いた彼は、いとも露わな淫虐の笑みを、その表情に漂わせる。
「まだまだ甘いわ、鳳世凰!延大剛としたことが手加減過ぎたとはいえ、伏魔の直撃、よう躱した。ばれど、おぬしは所詮、我が敵には非ず!もはや、散りゆくがよい。二度と手加減はせぬぞ‼」
だが、何故か彼は、すぐさま襲いかかろうとはせず、滾滾と血を流しながらも構えを崩さぬ世凰の全身に絡みつかせた視線を、敢えて解き放つ気配も見せない。
「惜しやのう!・・・つくづくその身、むざと散らすには、余りに惜しゅうてならぬ逸品よ。さりとて散らさずば、これまた、我が血の鎮まる筈も無し・・と来ておる。はてさて、儂のこの性にも困ったものよの」
こう言いながら、延が余裕たっぷりに間合いを詰めようした刹那、思いもよらぬ方角から、一本の手槍が風を切って飛来した。
逸早く身を躱した延の肩先すれすれを掠め、身を震わせて大地に突き立ったその手槍がもたらした一瞬の空白が、まさに世凰を救った。
瞬時に地面を蹴った彼の体は、飛鳥の如く、背後の塀の屋根へと跳躍し、直後、白壁の向こう側に消えた。
「愚か者めが!その体で、果たして何処まで逃げおおせるものやら・・・」
延は冷ややかに言い捨てたのみで、強いて後を追おうとはしなかった。
〈だが、これでまた、後日に大いなる楽しみが残されたわ。いずれにせよおぬしは黒髪一筋先の先に至るまで、余すところなく、この延のもの・・・そうであろう⁉ また会おうぞ、翔琳鳳凰よ‼〉
彼の面上には新たなる陰湿な笑みが、陽炎のゆらめきにも似て、ゆらゆらと立ち昇っている。
そんな彼の脇を、すぐさま数名の手勢が擦り抜けて塀の外へと駈け出して行ったが、無論、世凰の姿は既に無く、、ただ白壁の所どころに、よろめく体を支えたと思しき鮮血の手形が幾つか残されているだけだった。




