巻ノ二 鳳凰雌伏 《一》静暇嵐襲(あらしのまえ)-1-
世凰が鳳家に戻って来てから、はや一か月余りが過ぎ去ろうとしていた。
あの屈辱の日以来、彼は文字通りの四面楚歌の中にいて、ろくに外出もせず、屋敷に閉じ籠りがちの毎日を送っていたが、決して、気力を失ってぼんやりとしていた訳ではない。
最愛の父と姉を一度に失った衝撃は計り知れず、加えて、崔王秀に煽動され牛耳られて、挙ってこれに靡いた親族たちは、小僧っ子同然の若い総帥などには、まるで見向きもしない。
徹底的に打ちのめされた彼の魂は深く傷つき、その傷の深さたるや、到底癒やす術とて見当たらぬほどであった。
並の人間ならば恐らく、二度と再び立ち上がることは出来まい失意のどん底にあって、さすがの彼も、しばらくの間、相当参っていたのは事実だ。
だがしかし、この世凰という若者は、そのまま腑抜けになってしまうほど弱い人間ではなかった。
考えようによっては、そうなった方が、いっそ本人にとっては楽であろうと思えるのだが、持って生まれた誇り高き意志の力と、幼少の頃より、かの翔琳寺に於て鍛え上げられた強靭な精神力とが、ただ鬱々(うつうつ)と敗残者の如き日々に埋もれるのを、決して彼に許さなかったのである。
〈最早、一人で構わぬ!私の家だ。私自身の力で守ってゆくのは当たり前だ‼〉
決然と、彼は誓った。
背反著しい親族の中で、唯一孤高の貴公子に心を寄せ、多少なりともその力となるべく密かに手を差し伸べてくれたのは、誰あろう、又しても誠意の人、蓮審陳であった。
七日毎に行われる喪中の法会一つ取ってみても、初七日こそ、主だった者はほぼ全員が顔を揃えはしたものの、早くも二七日、三七日あたりから金で雇ったおざなりの代人を立て、形ばかりの見舞を届けさせておいて後は知らん顔、などという言語道断の仕打ちを平気で為す連中とは明らかに行動を分かち、審陳はきちんきちんと、七日ごとに鳳家を訪れては世凰を労い、彼と共に仏前に額ずいて、亡き人々の冥福を、心から祈ってやまなかった。
しかしながら、そんな蓮老人が次第に一族の中で孤立してゆくのを見るに忍びず、つい先日、四七日目の法会を終えた直後に、世凰は、自分の方から彼に申し出た。
「蓮小父上。まことに不躾ながら、御自身での御来駕は今回限り・・次回からは、ぜひとも代人をお立て下さい。この上の御厚情を賜りましては、却って小父上のお立場が危くなります」
彼は伏して蓮審陳に非礼を詫び、彼自身による法会への列席を、堅く辞退したのだった。
当主となった世凰への試練はまだまだそれだけではない。
鳳家所有の宏大な領地に関する重要書類が、案の定、崔王秀のために持ち出されていたのだ。
しかも、それらはすべてに渡り、どさくさ紛れにいつの間にか書き換えられて、崔家の所有地として登記済みとなってしまっていた。
財産乗っ取りは明白!と崔を糾明しようにも、巧妙に仕組まれた陰謀には確たる証拠は何も無く、万事休す! 鳳家は、丸裸の状態に陥ったかと思われた。
しかし、僅かに数か所ながら、最も実り豊かな土地が、世凰の為に残されていたのである。
父・貞徳が、万一の時を考え、阿孫に託していた一通の書付けによって、鳳家はなんとか、破産の危機を免れることができたのだった。
さすがの悪党・崔も、そこまでは見抜けず、歯ぎしりして悔しがったと言う。
その財産を、世凰は惜しげもなく割き、あの夜犠牲となった多くの家臣や、下働きの者をも含めた召使いたち一人一人の残された遺族すべてに、誠心誠意の謝罪と償いを行った。
たまたま凰家に仕えていたばかりに災禍に巻き込まれ、命を落とした者たちに対する、当主として当然と言えば当然の、せめてもの心尽くしであった。
遺族たちの誰もが、思いがけない若主人の厚意に感激し、涙ながらに彼の志を押し頂いて、恨み言を言う者など、ただの一人もいなかった。
その行為が、計らずも、世間における世凰の評判を高める結果となったのは言うまでもない。
もともと鳳家には、華美を嫌う貞徳の方針によって、他家ほどに過剰な数の召使いを置いていなかった。
従ってその殆どを失った今、鳳家に残っているのは、周阿孫と、彼に同行していて難を免れた五人の家臣、それに、あの下働きの女・琴娘だけである。
仮にも「豪族」と名の付く家柄としては余りに少人数で、何とも貧弱な限りではあったが、彼らは心を一つに合わせ、不遇に甘んじるうら若き当主を盛り立てようと粉骨砕身、忠誠の限りを尽くしたし、当主は当主で、彼らに心からの信頼を寄せ、主従というよりは、寧ろ「朋友」として接したのだった。
暮らし向きは、決して以前ほど豊かでなかったにせよ、鳳家は依然として名門中の名門と呼ぶにふさわしく、昂然と胸を張って、その気概と体面とを保ち続けていた。
ところで――。
貞徳の死によって、結局そのままになってしまっていた例の縁組については、ごく最近になって、先方から何やかやと仰仰しい理由をこじつけ、破談を申し入れてきた。
が、いかに勿体をつけたところで「貴家の家運が、傾いたゆえに」という本音は見え見え、本来ならば当然、先方が鳳家に対して明らかな「婚約不履行」を行った事になり、莫大な違約金を支払わなければならない。
けれど世凰は、相手の申し入れを二つ返事で快諾したばかりか、そういう金銭的な問題には、一切触れなかった。
もともとが、彼の与り知らぬところで取り交わされた縁組であり、正直言って,とうの昔に忘れ果てていたことだ。
それに、理由はどうあれ、何かにかこつけて相手から金を巻き上げてやろう、などというさもしい根性は、爪の先ほども持ち合わせてはいない。
現在、甚だしく手許不如意である、と噂される鳳家から、目の玉が飛び出る位に法外な金額を吹っかけられるのではないかと、内心ヒヤヒヤしていた先方の当主は、思いもよらぬ上首尾に、大いに胸を撫でおろしたことだった。
もっとも、当の娘の身にしてみれば、それはこの上もなく理不尽で、また、酷い仕打ちであるに違いなかった。
不世出の天才拳士として天下に勇名を馳せるその一方で、別名「鳳美人」とも称され、当代一の美女と誰もが信じて疑わぬ都の名妓・玉翠燕でさえもが、何かの折りに偶然その姿を垣間見て『私が人から天下の美女だと呼んでもらえるのは、彼が男に生まれてくれたお陰だわ・・ああ、よかった!』と、冷や汗拭いて嘆息したとか・・・。
或いはまた、その道の好き者で鳴らす宣王家のある親王が、よせばいいのに彼にちょっかいを出し、言わずもがなの手痛いケンツクを喰らわされた、などというまことしやかなうわさが語り草になるほどの美貌を誇った世凰であった。
まさに音に聞こえた絶世の美男子たる鳳世凰への未練は並み大抵のものに非ず、泣くわ喚くは、食事さえも拒むわ、挙句の果てには『死んでやる‼』などと、刃物まで持ち出すわで、諦めさせるのが、何ともはや至難の技だったらしい云々・・と、世間の人々は、相手方への反感も手伝って大袈裟な粉飾を施し、面白おかしく味付けしては、実に口さがなく噂し合った。
そうこうするうちに七七の法会も終わり、慌ただしい毎日に一段落がついて頃『翔琳鳳凰』と謳われた若い当主を慕って、あちこちから、生きのいい武芸者たちが鳳家の門を叩くようになった。
世凰が、快く彼らを迎え入れたため、その数は見る見るうちに増え膨らみ、極く僅かの間に、三十名を軽く超すほどにもなってしまった。
どれもこれも純粋で意気盛んな若者たち、それに、年頃もほぼ同じときている。
俗に言う『食客』などと呼ぶには、余りにも健康的で屈託がなく、心許し合える友として付き合うにふさわしい、そんな連中であった。
中でも傑出した男が一人、いた。
その名を、詠胡竜という。
彼は、蓮河郡・黎陽の街で文房四宝(筆・墨・硯・紙)及び、古今東西の書画骨董を扱う大店の長男だったが、幼い頃から、拳法を始めとする武芸十八般を好み、なまじ天賦の才を持ち合わせていたが為に、長じた後も家業そっちのけでこれにのめり込む結果となり、今では勘当同然に家を離れ、諸国を修業して歩いていた。
しかし、さすがに筆を持たせれば、こちらの方も大したもので、性格そのままに豪快にして真摯、まことに見事な書であった。
世凰は、とりわけ彼と意気投合し、親友の契りを結んだのである。
彼らは和気藹藹と寝食を共にし、鍛錬に励み、また拳法談議に花を咲かせては、夜を徹して語り合うこともしばしば、青春の香気溢れる、実に充実した毎日を送っていた。
驚いたことに、かの琴娘は、若い武芸者の一人・譚某と恋仲になり、喪中ではあったが、世凰の計らいでささやかながら華燭の典を挙げ、晴れて夫婦となった。
そんなある日のこと、蓮審陳からの書状を携えた使者が、密かに鳳家を訪れて来た。
「まことに勝手な言い分ながら、世凰殿には、本日、我が屋敷まで御足労ねが致し」
簡素な文面が認められ、「『是非とも内々(ないない)にてお話し申し上げたき儀、これあり。書状にては、憚られる事ゆえ・・・』とのお言葉にございました」
その主人に似つかわしいい実直者の使者は、一言一句忠実に、あるじからの口上を伝え終わると、来た時と同じく、密やかに裏門から帰って行った。
〈何事だろう?〉
訝りながらも、世凰は、わざと夜になるのを待って屋敷を出た。一族内における蓮家の体面を考慮して、人目に立つ昼間の訪問を避けたのである。
人通りの途絶えた深夜の大路小路を抜け、やがて蓮家の館に到着した彼は、裏門に廻って、門脇の潜り戸から邸内に入った。
裏庭から中庭を横切って辿り着いた玄関口には、一人の召使いが、灯りを手に待機しており、先に立って彼を案内してくれた。
長い廊下をしばらく歩いて仄暗い一室に通されると、そこには、既に当主・審陳が待ち受けていた。
「よう、お越し下された。呼び出しの書状など差し上げて、まことに申し訳のう存じております」
彼は椅子から立ち上がると、一方ならず恐縮した様子で世凰の手を取り、自ら上手の席へと導いた。
「いえ、私の方こそ、散々に御無沙汰致しました上に夜分遅くなりまして、申し訳ございませぬ」
世凰は、それとなく上座を辞退しながら、丁寧に詫びの言葉を述べた。
「いやいや、お手前のお心遣いのほどは、この老いの身に沁みて忝く思うております」
蓮老人は、ほとほと感じ入った様子でそう言い、しばし目を伏せた。
「一族の者の目を憚る余り、お手前の御言葉に甘え続けてお見舞にも伺わぬこの老いぼれの不甲斐無さを、どうぞお笑い下され。この身に、たとえ一人たりとも、お手前の如き気骨ある男子あらば、このように不様な真似などせぬものを・・・。我が倅どもは、どれもこれも打ち揃いて・・・」
そこまで言うと、さすがに苦笑した。
「いや、これはまた!・・お許しあれ、老いぼれのつまらぬ愚痴などお聞かせ申すために、わざわざお越し頂いたのではない。実はの、世凰殿・・・」
老人は、俄かに声を潜めた。
「何を隠そう、他ならぬ貞徳殿及び香蘭殿の死にまつわるおぞましき事実を、その耳に聞き及んで参った者がおりますゆえ、是非とも、直接お手前にお聞き願いたい、と存じましてな・・・これへ参られよ」
そういって彼は衝立の蔭に向かって声をかけた。
その声に応えて、暗い衝立の蔭から、一人の女が姿を現した。
まだ若い女のようには見受けられたが、どこまでも仄暗い部屋の中で、しかも彼女は、意図的に逆光の位置に立ったと見え、顔立ちなどは殆ど識別できない。
が、辛うじて、その衣裳の有様などから、一般の婦女ではなく、多分妓女の類であろう、と推察できた。
彼女は、二人に対して丁重に一礼し、ひっそりとその場に佇んでいる。
「この者は,実のところ賤しき身分なれど、同じ類の輩とは比ぶべくもない、心映え良き女にござる。以前、我が身の施したる僅かな事を、未だに深く恩義と感じ、折あらば必ずや報いたいと申してくれましたが、この度、たまたま揚鉄玉と申す宣朝貴族の祝宴に侍り、驚くべき事実聞き込んで注進に及んでくれ申した・・老いぼれが世凰殿に心寄せおることを存じておりますでな・・かような訳にて、この者の申すことに一言一句の嘘偽りの無きこと、老骨が保証致します」
言いながら審陳は、とうとう世凰をその席に座らせてしまった。
「この身はしばらくの間、席を外しおりますゆえ、ごゆるりと、詳細お聞き下され。ここには誰一人近付かぬよう、堅く申し付けてありますでな」
蓮老人はそう言い残して、足早に姿を消した。
世凰は、女と向かい合う形で室内に取り残された。
「そなた、そのままでは辛いであろう?こちらへ来て、掛けるがよい」
彼がそう促しても、女は首を横に振って辞退した。
「いいえ、若様。お心遣いは忝うございますが、宴席なればいざ知らず、私が如き賤しい身分の者が、あなた様のような貴きお方と席を共にするなど、恐れ多いこと。私は馴れておりますゆえ、何ともございませぬ。このままにて、お話申し上げましょう」
涼やかな声音で歯切れよくそう言うと、彼女は立った姿勢のまま、話し始めた。
「私が聞き及びましたのは、こうでございます・・・」




