美貌の天才拳士『鳳世凰』が世紀末を舞台に恋と冒険の日々を繰り広げる本格伝奇ロマン!《プロローグ》巻ノ一 翔琳鳳凰《一》鳳雛籃離(たびだち)《二》宿星邂逅(であい)
ーアレクサンダー・傳聲へ捧ぐー
「鳳凰傳」主な登場人物
鳳 世凰
本編の主人公。『翔琳鳳凰』と謳われる天才拳士にして『鳳美人』とも称される絶世の美男子。広東の名だたる名門の御曹司に生まれながら、その宿星ゆえに波瀾の運命を辿る。
白 美明
蒼嶺の豪族・白家の一人娘。美人ではないが、気高く、嫋やかな女性。世凰に危難を救われて以来、命懸けで彼を愛し抜く。
凰 香蘭
世凰が愛してやまぬ、四才年上の姉。彼の理想の女性でもある。誇り高く、勝気な美女だが、細やかな愛情の持ち主。
凰 貞徳
世凰の父。建国の祖・華皇家直系の流れを汲む名門の当主にふさわしい、高潔な人物。一人息子の世凰にはやきもきさせられるが、その実、可愛くて堪らない。
詠 胡竜
凰家の食客の一人であったが、並勝れた器量を持つ好漢。世凰と親友の契りを交わし、血縁を超えた深い絆で結ばれ合う。
周 阿孫
世凰の乳母の息子。彼とは乳兄弟に当たる誠実な青年。幼少の頃より凰家に引き取られ、兄弟同様に育つ。香蘭を密かに慕っているが、後に運命が激変する。
武 菊玲
北方の武闘集団「緋賊」の、頭領の娘。義侠の血滾る野性的な美女。苦界に身を落としていた折に世凰を知り、本来の自分に立ち戻ると同時に、彼を熱愛するようになる。
白 民雄
美明の父。一介の地方豪族ながら、義に厚く剛胆な、一廉の人物。世凰にほれ込んで肩入れしたばかりに、罪人となってしまう。
蓮 審陳
凰家の遠戚・蓮家の当主。腹黒い叔父の為に孤立する世凰に、唯一人手を差し伸べる、誠意の人。だが、彼もまた、悲惨な運命に哭かなければならなかった。
瑞娘
美明の侍女。栗鼠のような瞳を持った、利発な娘。
慈覚禅師
九龍山翔琳寺・第二十八代大管主。「拳聖」の誉れ高き、孤高の傑僧。世凰の天賦を見抜き、秘拳中の秘拳「梅花鳳凰拳」を、自らの手で伝授する。
崔 王秀
凰貞徳の腹違いの弟だが、実は同い年。生来の腹黒さで凰家乗っ取りを企み、悪に加担して、実の甥・世凰を、散散に苦しめる。
揚 鉄玉
世凰の宿敵の一人。野卑・粗暴の俗物で、妖奸・延大剛の部下。彼と語らい、凰家滅亡の黒幕となる。
延 大剛
時の覇者・宣王家の重臣。世凰の最強の宿敵となる恐るべき殺人拳の遣い手で、自他共に認める男色家にして、サディスト。美貌の世凰に、最後まで異様な執着振りを示す。
遥か古の書に曰く
「鳳凰は、火精なり」と――――
プロローグ
白雲出づる九龍山 その名も高き翔琳寺
英雄幾多集うなか
黒髪未だあどけなく 玉の額に振りかかる
梅花の如き美丈夫の有り
花の芳顔匂い立ち 星抱きたるその瞳
細身なれども血は熱く
ひとたび敵に見ゆれば 鬼をも拉ぐ破邪の拳
民衆 鳳凰と称賛たり
巻ノ一 翔琳鳳凰
《一》鳳雛籃離
「若君、若君、お待ち下されませ。これ、世凰さま!ええい、お待ち下されと申しておりますに!!」
老人は、白髪頭を振り立てて、ややヒステリックに声を荒げながら、どうにかしてその若者の歩みを止めようと、先程から躍起になって奮闘していた。
足の速い若者へ、息せききって追い縋り、手を引っ張ったり前へ廻り込んだり、挙句の果てには、まるで米つきバッタのように三拝九拝したり・・・を繰り返す老人の姿は、どこか年老いた狸を彷彿とさせた。
そんな彼を、無言のまま、手を振り払ったり、右へ左へよけたり、或いは全く無視したりしながら、実に迷惑そうにあしらっていた若者であったが、その余りのしつこさについにたまりかねたと見え・・・。
「いい加減にしたらどうだ、観じい!?」
絶世、と形容しても何ら憚る必要もないほどの美貌からは少々意外な感じもする、低い声音で抗議した。
「何を仰せられます、世凰さま!」
老人も負けてはいない。一生懸命、若者の白衣の袖を摑みながら・・・。
「このような一大事を、いい加減にせよとは何たるお言葉。まったく以って、聞き捨てなりませぬ!あれほどお父上が御心痛遊ばすものを、あなた様はいかなる御所存にて、再び翔琳寺へなどお戻りなされますや!?さあ、このじいめにお聞かせ下され。さあさあ、思われるところ余さず、言うてみなされ!!」
ものすごい見幕で一気にまくし立てた挙句にいきなり噎せてしまい、彼はゴホゴホと咳込んだ後、ゼイゼイ荒い息をついた。
見れば見るほど狸そっくりの愛嬌があるにもかかわらず、その少なからぬ過激な言動といい、若者をハッタと睨みつける眼光の鋭さといい、観老人、とても一筋縄ではゆかぬ超頑固ジジイの面目躍如である。
どのくらい時を彷徨い、また遡れば良いのか、見当もつかぬ―――。
広大な亜細亜の一角に横たわる華の国は広東郡・慶安の街はずれ、武術の聖地として名高い翔琳寺をその山懐に抱く華南郡・九龍山の麓へと達する古い街道の上で、この押し問答は繰り返されていた。
時折、擦れ違う人々が、彼らに好奇の視線を向け、中にはわざわざ立ち止り、指差しながら何事か囁き合う者までいる。
「よいか、観じい!」
若者は、もう我慢できぬとばかりに、キッとその美貌を引き締めた。
「何度同じことを言わせるのだ。父上は、私を騙して呼び戻されたのだぞ、重病だなぞと!だが、急いで帰ってみるとどうだ、ピンピンしてるじゃないか!おまけに、会った事もないどこかの娘と婚約しろ、とまで言われる。私は御免だ!それで確かに、父上と口論になった。だが、もうその話は片付いたのだ。よって再び、翔琳寺へ戻る。それの、どこが悪い!・」
「悪うございますとも!」
観老人は、頭から本当に湯気を立てながら、喚き散らした。
「お父上が、嘘をつかれてまであなた様を呼び戻されたお気持ちが、お解りにならぬとは言わせませぬぞ!こう申しては何でございますが、お父上もあのお歳ゆえ、ただ一人の跡継ぎであらせられるあなた様をお手許にて教育された後、速やかに家督をお譲りになりたいのでございます。それを、あなた様ときたら!・・」
老人はまたも息が切れ、大きく方を上下させたが、そのくせ「だから、もうその話しは・・」片付いたと言うのだ!と若者が言い放とうとするのを「何で片付いてなどおりましょうや!!」間髪いれずに遮った。
「いったい何年、翔琳寺などにお留まりになればお気が済むのでございますか!?実に十四年間でございますぞ、じゅうよねんかん!!あなた様も最早二十一、もうそろそろ、御自身及びお家のことを、真剣にお考えになるべき御年でございましょう!?」
「うるさーい、黙れ!!」
いやはや・・・・・。
若者が、いや、遠く建国の祖・華皇朝尊帝の直系の皇子にして英傑の誉れ高い飛雄公の流れを汲む、と伝えられる名だたる名門「鳳家」の御曹司・世凰が、故あって華南省・翔琳寺に預けられたのは、僅か七才にも満たぬ時だった。
というのも、彼が生まれた時、丁度、鳳家に逗留していたある高名な占い師が、こんな予言をしたからだ。
「この御子は、まさしく万人に比類無きお方。いわば、生まれついての貴公子であらせられる。恐らくは、御家祖・飛雄公の再来でもありましょう。なれどそれゆえに、またとない波乱万丈の宿星をも、併せてお持ちじゃ。七才までに、一旦家を離れさせなければ、幼くして非業の最期を遂げられるべき災厄から、万に一つも逃れる術とてございますまい。このこと、ゆめゆめお忘れなきよう・・・」
世凰の母・秀麗は、この時、夫よりも十二才年下の二十六、三国に並ぶ者無しと謳われるほどの絶世の美女であったが、彼を生んで間もなく、その予言を気にかけ、息子の将来に胸を痛めつつ、儚く世を去った。
夫・鳳貞徳は生まれたばかりの世凰と、その四才上の姉・香蘭とを残されて、途方に暮れた。
彼はとりあえず、夫と乳呑み子を同時に亡くし、香蘭と同い年の息子を抱えて侘び住まいを余儀なくされていた、素性卑しからぬ周夫人を見出して世凰の乳母とし、阿孫という名のその息子も、一緒に屋敷に引き取ってやった。
そして、愛情細やかで利発なだけでなく、思いの外深い教養を身に付けていた彼女に、子供たちの養育をも任せ、ひとまずは胸を撫で下ろしたのであったが、例の不吉な予言は、常に彼の頭と心にこびりついて離れず、父・貞徳を大いに悩ませ続けた。
四十路に手が届こうという年になって漸く、しかも愛妻の命と引き換え同然に授かった、たった一人の男子である世凰を手離すことなど、とても出来はしない。だが、そうなければ、最愛の息子は、幼いままに非業の最期を遂げるのだと言う・・。彼は心の休まる時が無かった。
その間にも、月日は矢のように流れ、子供たちはそれぞれ、美しく、健やかに成長して行ったが、特に世凰は成長するにつれ、亡き母に生き写しとなった。
香蘭は、弟をそれは可愛がり、世凰も又、美しい姉を、その勝気さをも含め、この上なく慕った。二人は片時も離れる事なく、いつも一緒だった。
「ねえさま、ねえさま・・」
幼い世凰の、まるで花びらのような唇からは、一日中、姉への呼びかけが零れ続けた。そんな二人を、いつも少し離れた所から、阿孫がひっそりと見守っているのだった。
子供たちの愛らしい成長振りに目を細める貞徳の心からはいつしか薄れつつあった黒い不安が、猛然と牙を剥いて彼らに襲いかかったのは、世凰が、あとふた月で七才の誕生日を迎えようとしていたある日のことだった。
前夜までは何ともなかったのに、翌朝になって突然、彼は原因不明の高熱を発した。
それからの三日三晩というもの、その熱は少しも下がる気配とて見せず、幼い世凰を徹底的に苦しめ続けたのである。
鳳家は文字通りの大騒ぎになった。早速数多の、名医という名医が招集され、入れ替わり立ち替わり脈をとったが、皆、一様に眉間に皺を寄せ、沈痛な表情で首を横に振るばかりであった。
貞徳は、生きた心地もしなかった。
「七才までに家を離れさせなければ、この子は幼くして・非業の最期を遂げるであろう・・・」
占い師の言ったあの言葉が、今、おぞましいばかりの現実感を伴い、大音響となって、彼の頭の中に繰り返し響き渡った。
「もしや―もしや、あの予言が的中したのでは?」
そうだとしたら、彼の最愛の息子は、このまま苦しみ抜いた挙句に死んでゆかねばならないのだろうか?・・・。日頃は沈着・冷静な貞徳も、この時ばかりは、子を想う哀れな父親でしかなかった。彼は半狂乱になって、ありとあらゆる神仏に祈り続けた。
「何卒、息子をお救い下さいませ!どうしても叶わぬと仰せならば、わが命を引き換えに!・・・」
その間にも、世凰の呼吸は乱れるばかりで、顔には全く、血の気というものが失せてしまっていた。
そんな弟の手を、両手で包むように握り締めながら、香蘭は何百回、何千回となく、一途な祈りを繰り返していた。
「神様!香蘭は、娘になっても、お嫁にゆけなくても構いません。だからどうか、私の世凰を連れてゆかないで下さいまし!!・・・」
十一才の香蘭は、娘になったら、きっとどこかの素敵な皇子様のもとへ嫁ぐのだと、いつも夢見ていたのだった。
だが彼女は結局、皇子様よりも、弟を選んだのである。
そして、乳母・周夫人と息子・阿孫は、三日の間、密かに食を絶っていた。
―四日目の朝、ついに奇跡が起こった。あれほど高かった世凰の熱が、見る見る下がったのだ。医師の一人が脈をとり、もう大丈夫、というように大きく頷いて見せた。世凰の枕元には二、三人の医師たちが残り、ずっと彼に付き添っていた。彼らには、万一世凰が死んだ場合に立会人となり、官庁に提出するための報告書を作成しなければならぬ、という義務があったからである。
なまじ名門というものは、何かにつけて手数を踏まねばならない。
まる三昼夜というもの、それこそ一睡もせずに息子の寝台の傍らに跪き、その恢復を神仏に祈り続けた貞徳は、さすがに疲れがどっと溢れ、がっくりとその場に座り込んでしまった。ふと気付くと、熱が下がってすっかり寝息の穏やかになった世凰に寄り添うようにして、香蘭もまた、すやすやと眠っていた。
その事があってから、貞徳は、真剣に息子を手離すことを考え始めていた。
出来るだけ早い方がよい、と彼は思った。あれ以来、世凰は、あんな大病を患ったことなどまるで嘘のように元気になり、毎日跳んだりはねたり、香蘭のあとにくっついて、はしゃぎまわっていた。
だが、いつまたあのようなことが起こるか、解ったものではない。七才の誕生日までは、あとひと月しかないのだ。手離すとは言っても、何もそのまま、一生帰ってこないと言う訳ではない。ほんの二、三年で良いのだから・・・。その間は勿論、辛いであろうが、永久に彼を失うことを思えば、寧ろたやすいことではないか。貞徳は、あれこれと考えあぐねた末、かねてより知己の間柄にあったある高僧に、相談を持ちかけてみた。
「翔琳寺に、お預けなさるがよい」高僧は即座にそう答えた。
「御承知の如く、翔琳寺は武術の総本山にして、さらに精神をも鍛錬する場所。そこに於いて心身共に鍛えられれば、必ずや、御子息の為にもなろう。拙僧が大管主殿宛に添状を書いて進ぜるゆえ、それを持たせて、すぐにでも出立させなされ。こうなれば、ひとときなりとも早い方がよい」
なんとも急な話ではあった。だが、その言葉に従うより他に、道があるとは思われぬ。貞徳は息子を翔琳寺に預けよう、と決心した。
その前に、何はさておき、まずは世凰自身にそれを納得させねばならない。彼は息子を書斎に呼び、噛んで含めるように訳を言い聞かせ、翔琳寺行きを促した。
ところが意外にも「はい、わかりました。ちちうえ。しーふぁんはしょうりんじへまいります」美しい瞳をキラキラさせながら、あっけらかんとそう答えて、彼は結構、平気なようだった。家を離れるのは嫌だと泣き出しでもしたら、一体どう宥めすかして旅立たせたものかと、ひどく心配していた貞徳の方が、却って拍子抜けしてしまったくらいである。
それでも、さすがに姉と別れる段になると、その世凰も、少々べそをかいた。
彼にとって、とにかく一番辛かったのは、他ならぬ、姉と一緒にいられなくなることだったのだろう。
しかし、結局彼は、一滴の涙もこぼすことなく家を出て、街はずれまで見送ってくれた姉に向かってたった一度振り返り、手を振っただけで、もう二度と未練がましい振る舞いをせず、健気にもまっすぐに前を向いて、翔琳寺へと去って行ったのだった。
翔琳寺大管主・慈覚禅師は「拳聖」と称えられる拳法の達人であったが、世凰を一目見るなり、その稀有なる天賦の才を見抜き、同時に、生まれながらの天真爛漫な素質をも深く愛して、我が身一代にて、もはや絶つ積りであった秘拳中の秘拳・梅花鳳凰拳を、その豊かな教養と崇高な精神と共に、自らの手で、彼に伝授したのである。
梅花鳳凰拳―別名「破邪の拳」とも呼ばれ、その名の如く、伝説の瑞鳥・鳳凰に由来すると伝えられる。流れるような連続技を駆使して恰も舞うように闘う、優美この上ない拳法でありながら、見た目とは裏腹に、内に秘められた「気」の凄まじさは想像を絶する破壊力を持ち、敵はおろか、ややもすれば自らの肉体をも粉砕しかねぬ、とまで言われていた。
されにその奥義たるや、死に直面して初めて悟るものとされ、最高技「鳳凰翔天脚」は、超人的な跳躍力と神技とも言える瞬発力を要求される、まさに「死」を賭した荒技であり、奥儀を得ぬうちは使用を決して許されぬ、いわば「禁じ手」となっていた。
従って、生半可な人間では却ってその身を滅ぼすことになるため、これを継承できるのは、万人に一人とさえ言われる。かほどに苛酷な拳ゆえに「秘拳中の秘拳」と称されて、やがては滅び去る宿命を余儀なくされていたのである。
「その拳、妄りに常人に伝うべからず。
万世に稀有なる逸材にぞのみ、
敢えて、これを伝うべし―」
世凰は、禅師のもとで、言語を絶する厳しい修業に耐え抜き「梅花鳳凰拳」の、恐らくは最後の継承者として、見事花開いたのであった。慈覚禅師の眼力に、やはり狂いはなかったのだ。尤もその世凰を以ってしても、未だ奥儀には達していないが・・・。
ともかくも十四年の歳月は、彼を不世出の拳士に成長させ、翔麟寺屈指の高弟として、天下にその名を知らしめている。
一体誰が言い出したものか世の人々は、眉目秀麗の若き達人を、ひとかたならぬ憧憬を籠め、その名を捩って「翔琳鳳凰」と呼ぶようになっていた。
しかしながら、この世凰という若者には実に風変りなところがあり、時折ふいに寺から姿を消してしまうことが、しばしばあった。何の前触れもなく、である。そのまま数日、長い時には数カ月も行方不明になっていたかと思うと、またいつの間にか戻って来て、何喰わぬ顔で、蒸かし饅頭などをパクついてたりするのだ。
そういう、どこか凡人とは違った掴み所のなさが、却って寺内の者たちからは好意を寄せられて「鳳凰殿は帰巣遊ばされたか?」「いや、未だ飛翔中のようじゃ。今回は、ちと遠方へ飛んでゆかれたと見える」などと言う会話が、ごく当たり前に交わされるようになっていた。
彼ほどの高弟ともなれば、無論、寺の内外出入り自由であったし、その気になれば、実家に帰る事も許される。にもかかわらず、世凰は翔琳寺での生活が妙に性に合うと見え、すっかり居ついてしまった格好になっていた。そのせいかどうか、広東省の屋敷に顔を見せるのはせいぜい年にニ、三回程度、悪くすると、全く帰って来ない年さえある始末だった。
それでも数年前までは父の貞徳も、彼の息子が、帰省するたびに目に見えて逞しく成長してゆくのを喜んだ。
幼い頃は、さながら美少女そのものであった世凰の顔立ちも、其の端麗さの中に、次第に凛凛しい男らしさが加わり、頼もしくさえ感じられるまでになっている。
しかしながら、ここ最近の貞徳は、果たして世凰は本当にこの鳳家を継ぐ気があるのだろうかと、ひどく気を揉み続けるようになった。
もともと災厄を除くための方便として、ほんの二、三年の積もりで預けた翔琳寺に、世凰はすっかり居ついてしまい、実に十四年間というもの、ほとんどすべての日々を、そこで暮らしているのだ。
〈あやつめ!どちらが本当の自分の家なのか、取り違えてでもいるらしい〉このままでは一生、翔琳寺で暮らす、などと言い出しかねず「まあ、そのうち帰って来るであろうさ・・・」などと、悠長なことを言ってはいられなくなって来た。万が一そんなことにでもなればゆゆしき事態、尊帝以来の名門を以って鳴るこ鳳家はどうなるのであろう?
姉の香蘭に、しかるべき家柄の養子を迎えて家督を継がせる、という方法も考えてはみたが、十九才の時、やはり名門の誉れ高い泰家の嫡男に輿入れすることになっていたにもかかわらず、その夫となるべき人に急死された彼女は、もう一生夫は持つまいと、堅く決心していた。
そんな事情で、この方法は、まず無理。どうにもこうにも切羽詰まった貞徳は、とうとう「わしは重病に罹ってしまった。すぐに帰って来い」と、嘘の使者を立てて、息子を翔琳寺から呼び戻したのであった。
その上、彼は、念には念とばかりに、かねてより心に留めていた某家の娘との縁組を急ぎまとめさせ、用意万端整えて、世凰の帰館を待ちかねていた。
ところが、知らせを受けて急遽駆けつけた世凰は、父のこの策略に激怒したのである。無論、父の心情を理解せぬ彼ではない。自分に懸けている父の期待も、我が身の勝手さも、良く解っている。
嘘をついてまで自分を呼び戻した親心を気の毒に思う反面、見も知らぬ娘との縁組までが周到に用意されていたことに対して、潔癖な彼は極度に反発した。
「いい加減にして下さい、父上!私は翔琳寺に戻ります!」
そう言い捨てて、その足で屋敷を飛び出そうとした世凰を止めたのは、他ならぬ姉の香蘭だった。
「世凰。お父様のお気持ち、理解出来ぬあなたではないでしょう?このような事をなさったのは、よくよくの御心痛から。ここは気を鎮めて、あなたの思うところを正直に申し上げた上で、お父様と話し合ってごらんなさいな。きっと道が開けるでしょう。とにかく、このままではいけませんよ」
姉に諭されると、世凰としては、それ以上逆らえない。
「申し訳ありません、姉さま。世凰が、大人気のうございました」
彼は素直に姉に詫びて、思いとどまった。この幸薄い美しい姉に対して、彼が物心ついた時からずっと抱き続けて来た「姉弟愛」と呼ぶにはあまりにも深い憧憬は、成人した今も、いささかも色褪せてはいなかったのだ。
結局世凰は、それからの七日間を実家で過ごし、父と姉と共に十分話し合った上で、三年後には必ず帰って来て家督を継ぐことを、二人に約束した。
そして、八日目の朝(つまり今朝のことだが)再び翔琳寺へ戻るべく、屋敷を出たのだった。
ところが、どこでどうして耳に入ったものか、代々、鳳家の執事を務める家柄の隠居で、自らも、父・貞徳の少年時代から実直に仕え、今は老いて屋敷を退っている観海林が、今回の騒ぎを聞きつけてやって来た。
そして、他の家臣たちが止めるのも聞かず、さきほどのようにうるさく説教しながら、何と、慶安にある鳳家の屋敷からとうとうここまで、ついて来てしまったのだった。以上が、ことここに至るまでの経緯である。
「世凰さま!大体あなた様は・・・」
老人が性懲りもなくまだ何か言おうとするのを、もう全く無視して、ふと後を振り返った世凰は「姉さま!?」と小さく呟いた。侍女も従えずに、たった一人で彼らのあとを追ってくる香蘭の姿を、その目に捉えたのである。
「へ?」
彼の呟きを聞いた観老人は、世凰の後から伸び上がるようにして、金壺眼をキョトキョトさせていたが、やがて香蘭の姿をはっきりとみとめ、彼女に向かって慌てて頭を下げた。
どういう訳か、彼もまた、昔から香蘭姫さまには弱いのだ。
「観じい」
香蘭は二人に追いつくと、老人に向かって語りかけた。
「お前の忠義心は、とても嬉しいわ。お父さまも、それは喜んでおいでです。でも、もう世凰を行かせてやって下さいな。この子が困っているではありませんか」
「し、しかし、姫さま!・・・」
観老人がモガモガと何か言いかけたが彼女はやさしく遮った。
「お父さまは、今度の事、何もかもお許しになっておいでですから。世凰は、必ず三年後には帰って来ると約束してくれました。それでもう充分。だから、この子を解放してやって下さいな。他の者では、とても観じいが納得してくれまいからと、お父さまが私をお寄越しになったのですよ」
そういって香蘭は、袖で口許を押え、クスリと笑った。
しかし、すぐに真顔に戻ると、弟に向き合った。
「世凰。このたびあなたの我儘を許して下さったお父さまのお心、決して忘れてはなりません。そして、この観じいの忠義の気持ちも・・・。誰もが皆、鳳家の行末を思い、何よりも、あなたのことを思っているのですから」
「わかりました。ありがとう、姉さま!」
自分に対する父と姉の深い愛情を痛いほどに感じながら世凰は彼独特の、輝くような笑顔を見せた。
「父上に、くれぐれも御息災でとお伝えください。勿論、姉さまも。それから観じい、心配かけて済まなかった」
はっきりと自分で納得しさえすれば、こういう時、世凰という若者は実に潔い。姉のみならず観老人にまで素直にペコリと頭を下げた。
さすがの観老人も、香蘭の出現ともども、これが強烈なる連続パンチであった。
「わ、若君。若君さま!そ、そ、そのように、おつむを下げ遊ばすものではございませぬ!・・・な、なんともはや勿体なき限りにて、面目次第もございませぬ!!」
つい先ほどまでの、あの喰らいつくような見幕は、一体何処へやら。観海林は、急にアタフタ、オロオロと、何となく辻褄の合わぬことまで口走って、すっかり弱気になってしまっている。
世凰は、突然妙なおかしさがこみ上げて来て、危うく吹き出しそうになったのを、やっとのことで我慢した。
「では、世凰、これでお別れしましょう」
香蘭は、静かに別れを告げた。
「元気でね。いつも変わらず、溌剌としたあなたでいてちょうだい。そんなあなたが、姉さまの誇りですもの」
そう言って彼女は微笑したが、そのほほえみは、心なしか、とても淋しそうに見えた。世凰は、一瞬、不吉なものが胸をよぎるような気がしたが、すぐにそれを打ち消した。
しかし、自分でも気づかぬ意識の下に、何かが蟠った。
「行って参ります、姉さま!」
世凰は、香蘭に向かって一礼するなり、さっさと歩き始めた。
「道中、気をつけてね」
彼女の言葉に、くるりと一度振り返り、それはもう愛くるしくほほえんで手を振ると、姉のお陰で、やっと頑固ジイさんから解放された彼は、まるで一刻も早くこの場を去ろうとでもするように、もう後も見ずに、スタスタと去って行く。
身長の割に手足が長く、従って実際よりはずっと丈高く見えもするそのほっそりとした体を包んだ白絹の装束の裾を、折からの風に翻しながら足早に遠ざかってゆく弟の後姿を、香蘭はその場にじっと佇んで、見えなくなるまで見送っていた。
〈何だか、十四年前に似ているわ・・・〉
彼女はふと、そう思った。だが、あの時の少々ぎこちない笑顔に比べて、今の弟のそれは、何と屈託がないことか。年を追う毎に逞しく、そして美しく成長してゆく彼の行末を、なぜか自分は見届けてやれないのではないか、という予感が、唐突に彼女の脳裏を掠め、またたく間に消えた。
〈今のは,何だったのかしら?・・・〉
密かに戸惑う香蘭の傍らでは、観老人が、何やらバツの悪そうな顔つきで、盛んにブツブツと独り言を言いながら突っ立っている。
時、恰も宣朝末期。風雲急を告げる兆に微かに慄きながらも、地上は未だ、つかの間の平和に酔い痴れていた。
《二》宿星邂逅
広東郡を抜け、蒼嶺省・海峰山にほど近い林道にさしかかった時、世凰は、風に乗って聞こえて来る異様なざわめきに気づいて、ふと足を止めた。
耳を澄ませると、それはどうやら道の左手、なだらかな斜面を少し下った、連翹の花木が群生する場所の辺りから聞こえて来るようだ。
茂みの陰になって様子は見えないが、何らかの、小さな争いが起こっているらしい。
世凰はそっと、そのほうへ近づいて行った。
「野次馬根性」と言ってしまえばそれまでだが、好奇心旺盛な彼としては、何事によらず、気になったことは放っておけないのだ。
ましてや争いごととなれば、必ず難渋している人間がいる、ということではないか。彼の中で持ち前の正義感が頭を擡げて来たとしても、致し方あるまい。
そこでは、十数名の男たちが、誰かを取り囲むような格好で立っていた。全員、狩り支度をしているところを見ると、どこかの貴族あたりが、家臣を引き連れて野遊びに来ているらしい。
この一帯は、野兎や鹿等が多く棲息していて、ちょっとした狩猟地の趣があり、退屈しのぎに猟をするには、もってこいの場所であった。
そのため、結構身分のある連中が、お忍びで遊びに来るのだ。この男たちも差し詰め「御多分に漏れず」といったところか。
だが彼らの、その殺伐とした雰囲気はどうだ。とても、由緒ある身分の者たちとは思えない。大方、宣朝に取り言って俄か出世した、成り上がり貴族ででもあろう。
それに引き換え、彼らに取り囲まれた人々―清冽な気高さに溢れた若い女と、彼女のお守り役らしい品のいい老女、それに、実直を絵に描いたような中年の下男までもが、そこはかとない奥ゆかしさを感じさせて、間違いなく、この土地の古い豪族にゆかりの者たちであると確信させた。
〈これは放ってはおけぬ!〉そう決心すると世凰は、足音をさせぬよう細心の注意を払いながらさらに近づいて、彼らのすぐ横手の茂みで様子を窺うことにした。
ここならば、やりとりがはっきりと聞こえて来る。
「これほどお詫び申し上げましても、お許し頂けませぬか?」
若い女は、あまり大きくないが、よく通るしっかりとした声音で自分の前に立ちはだかっている首領格らしき髭面の男に向かって問いかけた。
取り立てて美人という訳ではない。けれども、いかにも勝ち気そうな切れ長の瞳と、やや紅潮した白い細面の顔には、おのずと身に備わった高貴さが漂い、不思議な美しさを放って、凛然たる趣があった。
その有様が〈どことなく、姉さまに似たひとだ・・・〉という漠然とした想いを、世凰に抱かせたのである。
彼女の足許には、恐らくはその手から落ちたものであろう、黄色い花弁を今が盛りと咲きほころばせた見事な連翹の枝が、まるで敷き詰めでもしたように、一杯に散らばっていた。
「許せぬ、と申したらどうするね、え?」
男は、いかにも好色そうな髭面の口をいやらしく歪めて、ニヤリと笑う。
〈なんだ、あいつか!・・・〉世凰は確かに、その顔に見覚えがあった。
まるで値踏みでもするように、男は、濁った目で女の体を見上げ見下ろし、執拗で無遠慮な視線を這わせ続けている。彼の従者たちも、主人同様、下卑た性根をそのまま表情に漂わせながら、成り行きを楽しんでいるのだった。
「お許し下さいませ!何卒、お許しを!」
老女は何とか女主人を守らねばと必死の懇願を繰り返し、下男は下男で、地面に頭をこすりつけて土下座している。
その中にあって、若い女だけが昂然と胸を張り、少しも怯むことなく、相手と向かい合っていた。
「共の者が、あなた様の狩りのお邪魔を致したのであれば、明らかに、主人である私の手落ちでございます。いかようにもお詫び致しますゆえ、この者をお手に懸けられるのだけは、御容赦頂きとう存じます!」
彼女は、下男の命乞いをしているのだ。
さては、下男が狩りの邪魔をしたから手打ちにしてやる、などと、難癖をつけられでもしたらしい。早い話が、老女と下男を共に連れた若い女に目を付けた『よからぬ男共』が、卑しい魂胆見え見えに、彼女ら主従をいたぶっているのである。
「ほう?いかようにも詫びるとな?」
得たりとばかりにそう言うなり、髭面の男はいきなり剛毛の密生した太い腕を伸ばし、女の白い顎を乱暴に掴んだ。
「詫びのしようによっては、許さんこともないが・・・」
「何をなさるのです!」
女は水際立った気高さで力一杯、無礼極まるその手を振り払った。
その拍子に、勢い余った彼女の右手は、背後からたわわに伸びていた連翹の花枝に激突し、数本の枝が折れて、黄色い花びらが一度にパッと散りかかった。
かなりの衝撃があった筈だが、女は右手を庇おうともせず、怒りに両の瞳を燃え上がらせながら、男を睨み据えている。
思いもかけぬ彼女の抵抗に遇い、男は却って、異常にその獣心を掻き立てられたらしい。ギラギラと血走った目で、何の造作もなく女の手首を捕らえるが早いか、そのまま強引に、彼女の体を引き寄せようとした。
「お、お嬢さまっ!」
身を以って女主人を庇おうと駆け寄った小柄な老女を、男はこの上もなく邪険に蹴飛ばした。
「ばあやっ!」
女が叫んだのと、世凰が、すっとその場に姿を現したのとが、ほぼ同時であった。まるで予期せぬ彼の出現に、一同は驚愕し、髭面は、掴んでいた女の手首を思わず離してしまっていた。
女は、本能的に世凰の側に走り寄る。
「見苦しいことだな、揚鉄玉殿」
彼女をそれとなく庇いながら、世凰は、蛇のような目で自分を睨みつけている髭男に向かって、軽蔑を含んだ微笑を投げた。(と、連中には見えた)
「う、き、貴様っ!」
揚と呼ばれた男は、ただでさえ醜い髭面を、さらに歪めた。
「貴様、確か、広東の鳳めの小倅だな?」
「鳳世凰、と言ってほしいな」
しかし、世凰は、動じる様子もない。
「私は、あんたに小倅呼ばわりされる筋合いなどないもの」
そう言いながら、彼は腰に挿していた大きな白扇を抜き取り、鮮やかな手つきでパッと開くと、呑気そうにパタパタとあおぎ始めた。
その態度が、なんとも人を喰っていて〈馬鹿にされた!〉揚は満面朱を注ぎ、今にも掴みかからんばかりに逆上した。
もとはやくざ上がりだ、などと噂されるこの男、これでも、今を時めく、宣王朝系の新興貴族である。
どういう経緯からか、彼は巧みに時代の波に乗り、宣朝に取り入って出世などしてしまい、今では『貴族』にまで成り上がって、権力を暈に威張り散らしていた。
野卑・粗暴の俗物にして、思い上がりも甚だしい揚鉄玉は、去年の秋、どこで見かけたのか、こともあろうに広東の名門中の名門・鳳家の姫君、すなわち世凰の姉・香蘭に猛烈に懸想し、妻に寄越せと強談に及んだ甲斐もなく、ものの見事に拒絶されたのだった。
常日頃から、自らのコンプレックスの裏返しで鳳家をこころよく思っていなかった上、プライドまで傷つけられた揚は、それ以来、あからさまに鳳家を目の仇にし、異常なくらいに憎悪するようになった。
その憎っくき鳳家の、生意気な小倅に舐められたとあっては、揚としても、おめおめと引き下がる訳にはゆかぬ。
〈「半殺しにしてくれるわ!」噂によるとこの小倅めは『翔琳鳳凰』などと、ふざけた綽名で呼ばれる程の遣い手だというが、たかがスネカジリ息子の手すさび、何ほどのことがあるものか!〉
そんな鉄玉の胸の内も知らぬ気に、世凰は相変わらず涼しい顔で白扇を使っている。
「とにかくもう、大人気ない真似はおやめになったらどうです?」
「うるさい!小僧めが!」
揚は恐ろしい形相のまま、どなり散らした。
「私は小僧じゃない、本当に解らない人だな、あんたは」
またもやさらりと受け流されて、揚の怒りは心頭に達し、それこそ、怒髪天を衝いた。
「この思い上がりの小僧めを、足腰立たぬようにしてやれ!」
揚は地団駄踏みつつ、家臣に命令した。
「おう!」
と、答えて、いかにも気の荒らそうな筋骨逞しい大男が、前に進み出てきた。と思うと、いきなり、細身の世凰を捻り潰さんばかりの勢いで飛びかかった。
ところがー。
「ウグッ」
その男は奇声を発するや、急に前のめりになった。
「ヒエッ!」
次にそう叫ぶと両手で頭を抱え、そのままトトトッと後退したところでなぜか立ち止ると、突如白目を剥き、ドタ―ッとばかりに、地響き立ててぶっ倒れてしまった。
「?」
常人の目には、男がさんざん一人相撲を取った挙句、勝手にのびてしまったとさえ見えて、何がどうなったのか、その詳細を見届けた者は殆ど無く、一同、唖然として立ち尽くすのみであった。
細っこい、ひどく綺麗な青二才が、何かをしたのは間違いないのだが、果たして奴は、何をしたのだろう?
人々の目は、再び世凰に集中した。
その世凰は、例の白扇をたたんで右手に持ち、端然とその場に立っていた。
どうやら男は、その扇子で、目にも止まらぬ早業で以って続けざまに鳩尾と脳天とをしたたか打ち据えられ、堪らず悶絶してしまったものと見える。
「この野郎!」
やっと我に返った家臣が二人、お里丸出しに口汚く罵りながら一度に襲いかかったが、結果は全く同じであった。
ほんの短時間のうちにあまりにもあっけなく、大の男が三人、大地にのされて不様に転がっている有様は、何とも言えずに奇妙で、且つ滑稽ですらあった。
当の世凰は、呼吸一つ乱れてはいない。
「く、糞!」
家臣たちの余りの不甲斐無さにますます腹を立てた揚が、いまにも出て行きそうになった、その時だった。
「まあ、待て、揚」
今まで彼らから少し離れた場所で、じっと事の成り行きを見守っていた中年男が、威厳のある声音で押し止めた。
年の頃、四十前後というところか。がっしりとした、いかにも武人らしい体格で、堂々たる自信に溢れた重厚な面構えの、だが反面、その身全体に何とも言えず陰湿で嗜虐的な翳りを漂わせた男である。
「もう、やめておけ。ここはひとまず、引き上げたがよかろう」
「し、しかし延将軍!」
腹納まらぬ揚が、ムキになって何か言おうとする。
「とにかく、わしの言うことを聞け!」
と、押さえておいて、延将軍と呼ばれた男はその男は、つかつかと世凰の前に歩み寄った。
二人の視線が絡み合い、一瞬、目に見えぬ火花が散った。
「鳳世凰、とか申したな」
延は鷹のような鋭い目で世凰を見据え、しばらくの後、ふっとその目を細めた。
「わしは、宣の将軍・延大剛。必ずや近い将来、おぬしとの手合わせの機会が巡って来よう。その日を楽しみに、美しいその顔、ようく憶えておくぞ!」
そう言い残すと延は「引け!」と一声。
男たちはたちまちその言葉に従って、負傷した仲間を助け起こし、潮の引く如く去ってゆく。さすが見事な、統率力であった。
その中にあって、揚鉄玉だけが、忌々(いまいま)し気にしつこく振り向いて、もう一度、世凰を睨付けた。
「延大剛か。底知れぬ奴!・・・」
揚のことなど全く無視して、世凰は、去ってゆく延将軍を見送りながら独り言を言った。彼にとっての最大の宿敵となる男との、最初の邂逅である。
だがしかし、彼は、延の本当の恐ろしさに、まだ気づいてはいなかったのだ。
去ってゆきつつ延が何を考えていたかその胸中を知ったなら、いかに世凰とて、おぞましさに戦慄したことだろう。
〈あの青二才、噂以上の掘り出し物。揚などのお守に来た甲斐があったと言うものよ。あの美しい体を、必ずや、我が伏魔拳で引き裂いてみせようぞ!おお、そうじゃ。死に化粧は、やはり『伏魔念誦』がよい。血染めの鳳凰か・・・。思うだに鳥肌が立つわ。ふふ、楽しみ、楽しみ!・・・〉
延大剛こそ、世に恐れられる殺人拳・妖州伏魔拳の奥儀を極めた、稀代の遣い手であった。
正式名『庸州・伏魔拳』は庸州・我眉山・伏魔堂に伝わる、あくまでも実践本意、相手を倒すことのみを目的とする拳法である。
そのためには手段を選ばず、非情の技を以って急所を悉く攻撃し、ついには死に至らしめるのだ。
古来より邪拳の最たるものとされ、翔琳寺をはじめとする正当な拳流からは、蛇蠍の如く、忌み嫌われていた。
数ある殺人技の中でも、とりわけ残虐なものと言われるのが『伏魔念誦』と名付けられた一手である。明らかに相手の心臓を狙って繰り出される峻烈な拳は、しかし決して即死を許さず、計算された正確さで肋骨を折る。折れた肋骨は、かなりの長い時間をかけて、じわじわと心臓に喰い込み続け、やがての後にようやくこれを突き破って『死』を迎えることができるのだ。
そこに至るまでの犠牲者の苦しみたるや、鮮血に塗れて、まさに七転八倒、言語を絶するであろう地獄の辛酸を舐め尽くさねばならない。気も狂わんばかりに悶え苦しむその一部始終を、勝利者は冷ややかに見守りつつ、念仏の一つなど唱えてやるのも、また一興―。
これほど残虐な技が、この世にまたとあるだろうか。延との出会いは明らかに、世凰のゆくてに暗澹たる影を落とすことになったのであるが、神ならぬ身が、己の運命の先行きなど知ろうはずもない―。
ふと何事か思い当たった世凰が、去ってゆく一団から視線を転じて急に振り向いたのと、女が遠慮がちに声をかけようしたのが偶然一緒になり、その結果、二人はまともに顔を見合す格好になった。
途端に彼女は、ぱあっと頬を染めて口ごもり、視線を外らせて俯いてしまった。むくつけき男共にさんざん絡まれながらも一歩も引かなかったあの勝気さが、まるで嘘のようである。
けれど世凰の方は。女の様子などにはまるで無頓着、にこりともせず、すぐに彼女の右手に視線を移した。
やはり、傷ついている―。
白く嫋な手の甲には、折れた枝先で抉られた傷がはっきりと刻まれ、かなり出血していた。もとより大した傷ではないが、とかくこういった類の傷というものは、安易に放っておくと意外に膿を持ち、思わぬ跡を残すことがある。
世凰は、ひょいと彼女の右手を掴むなり、なんのためらいもなく、傷口にその形のよい唇を当て、汚血を吸い出し、そして吐き捨てた。
二、三度それを繰り返した後、今度は、自分の白絹の袖口を惜し気もなく引き裂き、包帯代わりにくるくると巻きつけて、鮮やかに手当てを終えてしまったのである。
余りにも自然で手際のよいその振舞が、抵抗心の生じるうき隙など全く与えず、女は耳の付け根まで深紅に染めながらもされるがままになっていたし、老女と下男も、彼を止めるどころか、うっかりすると感動さえしかねない様子で、一部始終を見守っているだけであった。
「さあ、これでひとまずは大丈夫」
世凰は初めて、女に向かって口を開いた。
「だけど家に戻られたら、必ず、ちゃんとした手当をなさい。念の為に、一度は医者に見せておいた方がよいかもしれません」
そして、女が小さく頷いたのを見届けると、にっこりと、ある意味では罪作りと思えるくらいに艶やかな笑顔を見せた。
「あの・・・」
その時になってやっと、老女が声をかけて来た。
振りむいた世凰に向かって、彼女はなぜか、ほっと一呼吸置いてから丁重に頭を下げた。
「危いところをお救い頂きまして、まことにお礼の申し上げようもございませぬ」
下男は下男で、さきほどから地面に頭がくっつきそうなくらいに体を折り曲げ、何度も何度も、おじぎを繰り返している。口下手な彼はうまく感謝の気持ちを言い表すことも出来ず、頭ばかりを下げ続けているのだろう。
「いえ、さほどのことではありません。では、私はこれで」
世凰はそう言って、あっさりと歩き出そうとする。
「お、お待ち下さいまし、若さま!」
老女は大慌てに慌てて追い縋った。
「お待ち下さいまし。あの、私共は、この先の海峰山の山荘に住まい致します白家の者でございます。あちらの方は、お嬢さまの美明さまと申されまして、私めとこの男とは、お仕え申し上げている者にございます!」
早口で、必死に身分を告げる彼女にしてみれば、危難を救ってくれたこの美しい貴公子を、女主人のためにも、このまま行かせてしまってなるものかと一生懸命なのだろうが、当の世凰は、どうも年寄りが苦手であった。
観じいといい、この老女といい、くどくど、しつこく言われるのが嫌いなのである。
「鳳さま!」
構わず歩き出そうとした彼をどうにか落ち着きを取り戻したらしい女主人―白美明が呼び止めた。先刻のやり取りで、彼の名を知ったのだろう。
しかし、彼女はまだほんのりと頬を赤らめていたし、手当を受けた右手は、もう一方の手で、しっかりとその胸に抱きしめたままだった。恐らくは彼女にとって、生まれて初めての、過激な体験であったに違いない。
「もしも、もしも御迷惑でなければ、ぜひとも、私共の山荘へお立ち寄り願えませんでしょうか?ここから、さほどの距離はございませぬ・・・珠林に居ります父にも使いを出し、お礼を申し上げさせたいと存じます。それに、せっかくのお召物にまで、傷をおつけしてしまいましたので・・・」
だんだんと先細りになってはゆくものの、彼女の声音にはどこか、いかにも乙女らしい期待感が籠められていた。
「折角ですが」
ところが、このあっけらかんとした若者はにべ(・・)もない。
「私は、これから修業先に戻らねばなりませんので。それに、衣装のことなど、どうぞ御心配なく」
けろっとして言うばかりで、何とも取りつく島さえない。
「でも・・・」
白美明は、ひどく落胆した様子であったが、すぐに気を取り直し、健気に笑って見せた。
〈あ!〉
思い懸けなくその片頬に、深いえくぼが刻まれた・・。
〈可愛いな!・・〉
世凰の胸の奥で、ほんの少し、波立つものがあった。けれども、異性に関して全くおくてなこの若者は、それさえも自覚しようとはしないのである。
「ならば鳳様、無理にお止めは致しますまい・・・道中お気をつけて、おいでになりますように。本当にありがとうございました」
当人さえも気づかぬ微かな感情の波立ちを、ましてや彼女が察知できる筈もなく、白美明は、自分にこの若者を引き止めるだけの魅力の無いことを寂しく感じながら、丁寧に礼を述べた。
彼らは会釈を交わし合い、そして別れた。
「鳳世凰さま!・・・」
見る見る遠ざかってゆく端麗な後姿に向かって、美明は、熱にうかされたような潤んだ瞳で、その名を呟いた。
彼の唇が触れた傷口が、燃えるように熱い。
それは決して、痛みのせいばかりではなかったのだ。
何となく一方的なようではありながら、実はその出会いこそが、鳳世凰と白美明との、まごうかたなき運命の出会いだったのである。