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鳳凰傳  作者: 桃花鳥 彌 (とき あまね)
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美貌の天才拳士『鳳世凰』が世紀末を舞台に恋と冒険の日々を繰り広げる本格伝奇ロマン!《プロローグ》巻ノ一 翔琳鳳凰《一》鳳雛籃離(たびだち)《二》宿星邂逅(であい)

ーアレクサンダー・傳聲フーシェンへ捧ぐー

「鳳凰傳」主な登場人物


(フェン) 世凰(シーファン)

本編の主人公。『翔琳鳳凰』と(うた)われる天才拳士にして『(フェン)美人』とも称される絶世の美男子。広東(かんとん)の名だたる名門の御曹司(おんぞうし)に生まれながら、その宿(しゅく)(せい)ゆえに波瀾(はらん)の運命を辿(たど)る。


(パイ) (メイ)(ミン)

(ツァン)(リン)の豪族・(パイ)家の一人娘。美人ではないが、気高(けだか)く、(たお)やかな女性。世凰(シーファン)に危難を救われて以来、命懸()けで彼を愛し抜く。


(フェン) 香蘭(シャンラン)

世凰(シーファン)が愛してやまぬ、四才年上の姉。彼の理想の女性でもある。誇り高く、勝気な美女だが、(こま)やかな愛情の持ち主。


(フェン) (ツェン)(テー)

世凰(シーファン)の父。建国の祖・華皇家直系の流れを()む名門の当主にふさわしい、高潔な人物。一人息子の世凰(シーファン)にはやきもきさせられるが、その実、可愛くて(たま)らない。


(ヨン) (フー)(ルン)

(フェン)家の食客(しょっかく)の一人であったが、(なみ)(すぐ)れた器量を持つ好漢。世凰(シーファン)と親友の(ちぎ)りを交わし、血縁を()えた深い(きずな)で結ばれ合う。


(チョウ) 阿孫(アスン)

世凰(シーファン)の乳母の息子。彼とは乳兄弟に当たる誠実な青年。幼少の頃より(フェン)家に引き取られ、兄弟同様に育つ。香蘭(シャンラン)(ひそ)かに(した)っているが、(のち)に運命が激変する。


(ウー) (チュイ)(リン)

北方の武闘集団「(フェイ)(ツェィ)」の、頭領の娘。義侠の血滾(たぎ)る野性的な美女。苦界(くがい)に身を落としていた(おり)世凰(シーファン)を知り、本来の自分に立ち戻ると同時に、彼を熱愛するようになる。


(パイ) 民雄(ミンシオン)

(メイ)(ミン)の父。一介(いっかい)の地方豪族ながら、義に厚く剛胆(ごうたん)な、(ひと)(かど)の人物。世凰(シーファン)にほれ込んで肩入れしたばかりに、罪人となってしまう。


(リエン) (シェン)(チェン)

(フェン)家の遠戚・(リエン)家の当主。腹黒い叔父(おじ)の為に孤立する世凰(シーファン)に、(ただ)一人手を差し伸べる、誠意の人。だが、彼もまた、悲惨な運命に()かなければならなかった。


瑞娘(ルイニャン)

(メイ)(ミン)の侍女。栗鼠(りす)のような瞳を持った、利発な娘。


(ツー)(ジュエ)禅師(ぜんじ)

九龍山翔琳寺・第二十八代大管主。「拳聖」の(ほま)れ高き、孤高の傑僧。世凰(シーファン)天賦(てんぶ)を見抜き、秘拳中の秘拳「梅花鳳凰拳」を、自らの手で伝授する。


(ツイ) (ワン)(シウ)

(フェン)(ツェン)(テー)の腹違いの弟だが、実は(おな)(どし)生来(せいらい)の腹黒さで(フェン)家乗っ取りを(たくら)み、悪に加担(かたん)して、実の(おい)世凰(シーファン)を、散散(さんざん)に苦しめる。


(ヤン) (ティエ)(ユイ)

世凰(シーファン)宿敵(しゅくてき)の一人。野卑(やひ)粗暴(そぼう)俗物(ぞくぶつ)で、妖奸・(イェン)大剛(ダーガン)の部下。彼と語らい、(フェン)家滅亡の黒幕となる。


(イェン) 大剛(ダーガン)

時の覇者(はしゃ)(シュエン)王家の重臣。世凰(シーファン)の最強の宿敵となる恐るべき殺人拳の(つか)い手で、自他共に認める男色家にして、サディスト。美貌の世凰(シーファン)に、最後まで異様な執着(しゅうちゃく)()りを示す。








遥か(いにしえ)の書に曰く

鳳凰(ほうおう)は、()(せい)なり」と――――



プロローグ


白雲出()づる()龍山(りゅうざん) その名も高き翔琳寺(しょうりんじ)


英雄(ますらお)幾多(あまた)(つど)うなか


黒髪(いま)だあどけなく 玉の額に振りかかる


梅花(ばいか)(ごと)美丈夫(ひと)の有り



花の(かん)(ばせ)匂い立ち 星(いだ)きたるその瞳


細身なれども血は熱く


ひとたび敵に(まみ)ゆれば 鬼をも(ひし)ぐ破邪の拳


民衆(ひと) 鳳凰(ほうおう)称賛(たたえ)たり




巻ノ一 翔琳(しょうりん)鳳凰(ほうおう)


 《一》鳳雛籃離(たびだち)


「若君、若君、お待ち下されませ。これ、世凰(シーファン)さま!ええい、お待ち下されと申しておりますに!!」

 老人は、白髪頭(しらがあたま)を振り立てて、ややヒステリックに声を荒げながら、どうにかしてその若者の歩みを止めようと、先程から躍起になって奮闘していた。

足の速い若者へ、息せききって追い(すが)り、手を引っ張ったり前へ廻り込んだり、挙句の果てには、まるで米つきバッタのように三拝九拝(さんぱいきゅうはい)したり・・・を繰り返す老人の姿は、どこか年老いた(たぬき)彷彿(ほうふつ)とさせた。

 そんな彼を、無言のまま、手を振り払ったり、右へ左へよけたり、或いは全く無視したりしながら、実に迷惑そうにあしらっていた若者であったが、その余りのしつこさについにたまりかねたと見え・・・。

「いい加減にしたらどうだ、(クァン)じい!?」

 ()()、と形容しても何ら(はばか)る必要もないほどの美貌からは少々意外な感じもする、低い声音(こわね)で抗議した。

「何を(おお)せられます、世凰(シーファン)さま!」

 老人も負けてはいない。一生懸命、若者の白衣の袖を(つか)みながら・・・。

「このような一大事を、いい加減にせよとは何たるお言葉。まったく以って、聞き捨てなりませぬ!あれほどお父上が御心痛遊ばすものを、あなた様はいかなる御所存にて、再び翔琳寺(しょうりんじ)へなどお戻りなされますや!?さあ、このじいめにお聞かせ下され。さあさあ、思われるところ余さず、言うてみなされ!!」

 ものすごい見幕で一気にまくし立てた挙句にいきなり()せてしまい、彼はゴホゴホと咳込んだ後、ゼイゼイ荒い息をついた。

 見れば見るほど狸そっくりの愛嬌があるにもかかわらず、その少なからぬ()()な言動といい、若者を()()()(にら)みつける眼光の鋭さといい、(クァン)老人、とても一筋(ひとすじ)(なわ)ではゆかぬ()頑固ジジイの面目(めんもく)躍如(やくじょ)である。


どのくらい時を彷徨(さまよ)い、また(さかのぼ)れば良いのか、見当もつかぬ―――。

広大な亜細亜(あじあ)の一角に横たわる華の国は広東(カントン)郡・慶安(チンアン)の街はずれ、武術の聖地(メッカ)として名高い翔琳寺(しょうりんじ)をその山懐(やまふところ)に抱く(ファ)(ナン)郡・九龍山の(ふもと)へと達する古い街道の上で、この押し問答は繰り返されていた。

 時折、()れ違う人々が、彼らに好奇の視線を向け、中にはわざわざ立ち止り、指差しながら何事か(ささや)き合う者までいる。

「よいか、(クァン)じい!」

若者は、もう我慢(がまん)できぬとばかりに、キッとその美貌を引き()めた。

「何度同じことを言わせるのだ。父上は、私を(だま)して呼び戻されたのだぞ、重病だなぞと!だが、急いで帰ってみるとどうだ、ピンピンしてるじゃないか!おまけに、会った事もないどこかの娘と婚約しろ、とまで言われる。私は御免だ!それで確かに、父上と口論になった。だが、もうその話は片付いたのだ。よって再び、翔琳寺(しょうりんじ)へ戻る。それの、どこが悪い!・」

「悪うございますとも!」

 (クァン)老人は、頭から本当に湯気を立てながら、(わめ)き散らした。

「お父上が、(うそ)をつかれてまであなた様を呼び戻されたお気持ちが、お(わか)りにならぬとは言わせませぬぞ!こう申しては何でございますが、お父上もあのお(とし)ゆえ、ただ一人の跡継(あとつ)ぎであらせられるあなた様をお手許にて教育された(のち)、速やかに家督(かとく)をお譲りになりたいのでございます。それを、あなた様ときたら!・・」

 老人はまたも息が切れ、大きく方を上下させたが、そのくせ「だから、もうその話しは・・」片付いたと言うのだ!と若者が言い放とうとするのを「何で片付いてなどおりましょうや!!」(かん)(ぱつ)いれずに(さえぎ)った。

「いったい何年、翔琳寺(しょうりんじ)などにお留まりになればお気が済むのでございますか!?実に十四年間でございますぞ、()()()()()()()()!!あなた様も最早(もはや)二十一、もうそろそろ、御自身及びお(いえ)のことを、真剣にお考えになるべき御年(おんとし)でございましょう!?」

「うるさーい、(だま)れ!!」


いやはや・・・・・。


若者が、いや、遠く建国の祖・華皇朝尊帝の直系の皇子にして英傑の(ほま)れ高い(フェイ)(シオン)公の流れを()む、と伝えられる名だたる名門「(フェン)家」の御曹司(おんぞうし)世凰(シーファン)が、(ゆえ)あって(ファ)(ナン)省・翔琳寺(しょうりんじ)に預けられたのは、(わず)か七才にも満たぬ時だった。

というのも、彼が生まれた時、丁度、(フェン)家に逗留(とうりゅう)していたある高名な占い師が、こんな予言をしたからだ。

「この御子(おこ)は、まさしく万人(ばんにん)に比類無きお方。いわば、生まれついての貴公子であらせられる。恐らくは、(おん)()()(フェイ)(シオン)公の再来でもありましょう。なれどそれゆえに、またとない波乱万丈(はらんばんじょう)宿(しゅく)(せい)をも、(あわ)せてお持ちじゃ。七才までに、一旦(いったん)家を離れさせなければ、幼くして非業(ひごう)の最期を()げられるべき災厄(さいやく)から、万に一つも(のが)れる(すべ)とてございますまい。このこと、ゆめゆめお忘れなきよう・・・」

世凰(シーファン)の母・秀麗(シウリー)は、この時、夫よりも十二才年下の二十六、三国(さんごく)に並ぶ者無しと(うた)われるほどの絶世の美女であったが、彼を生んで間もなく、その予言を気にかけ、息子の将来に胸を痛めつつ、(はかな)く世を去った。

夫・(フェン)(ツェン)(テー)は生まれたばかりの世凰(シーファン)と、その四才上の姉・香蘭(シャンラン)とを残されて、途方(とほう)()れた。

彼はとりあえず、夫と乳呑(ちのみ)み子を同時に亡くし、香蘭(シャンラン)と同い年の息子を(かか)えて(わび)び住まいを余儀なくされていた、素性(すじょう)(いや)しからぬ(チョウ)夫人を見出(みいだ)して世凰(シーファン)乳母(うば)とし、阿孫(アスン)という名のその息子も、一緒に屋敷に引き取ってやった。

 そして、愛情(こま)やかで利発(りはつ)なだけでなく、思いの(ほか)深い教養を身に付けていた彼女に、子供たちの養育をも任せ、ひとまずは胸を()(おろ)ろしたのであったが、例の不吉な予言は、常に彼の頭と心にこびりついて離れず、父・(ツェン)(テー)を大いに悩ませ続けた。

 四十路(よそじ)に手が届こうという年になって(ようや)く、しかも愛妻の命と引き換え同然に(さず)かった、たった一人の男子である世凰(シーファン)を手離すことなど、とても出来はしない。だが、そうなければ、最愛の息子は、幼いままに非業(ひごう)の最期を()げるのだと言う・・。彼は心の休まる時が無かった。


その間にも、月日は矢のように流れ、子供たちはそれぞれ、美しく、(すこ)やかに成長して行ったが、特に世凰(シーファン)は成長するにつれ、亡き母に生き写しとなった。

香蘭(シャンラン)は、弟をそれは可愛がり、世凰(シーファン)も又、美しい姉を、その勝気(かちき)さをも含め、この上なく(した)った。二人は片時も離れる事なく、いつも一緒だった。

「ねえさま、ねえさま・・」

 幼い世凰(シーファン)の、まるで花びらのような(くちびる)からは、一日中、姉への呼びかけが(こぼ)れ続けた。そんな二人を、いつも少し離れた所から、阿孫(アスン)がひっそりと見守っているのだった。

 子供たちの愛らしい成長()りに目を細める(ツェン)(テー)の心からはいつしか薄れつつあった黒い不安が、猛然と牙を()いて彼らに襲いかかったのは、世凰(シーファン)が、あとふた月で七才の誕生日を迎えようとしていたある日のことだった。

 前夜までは何ともなかったのに、翌朝になって突然、彼は原因不明の高熱を発した。

 それからの三日三晩というもの、その熱は少しも下がる気配(けはい)とて見せず、幼い世凰(シーファン)を徹底的に苦しめ続けたのである。

 (フェン)家は文字通りの大騒ぎになった。早速(さっそく)数多(あまた)の、名医という名医が招集され、入れ替わり立ち替わり脈をとったが、皆、一様に眉間(みけん)(しわ)を寄せ、沈痛な表情で首を横に振るばかりであった。

 (ツェン)(テー)は、生きた心地(ここち)もしなかった。

「七才までに家を離れさせなければ、この子は幼くして・非業(ひごう)の最期を()げるであろう・・・」

 占い師の言ったあの言葉が、今、おぞましいばかりの現実感を(ともな)い、大音響(だいおんきょう)となって、彼の頭の中に繰り返し(ひび)き渡った。

「もしや―もしや、あの予言が的中したのでは?」

 そうだとしたら、彼の最愛の息子は、このまま苦しみ抜いた挙句(あげく)に死んでゆかねばならないのだろうか?・・・。日頃は沈着・冷静な(ツェン)(テー)も、この時ばかりは、子を想う哀れな父親でしかなかった。彼は半狂乱になって、ありとあらゆる神仏に祈り続けた。

何卒(なにとぞ)、息子をお救い下さいませ!どうしても叶わぬと(おお)せならば、わが命を引き換えに!・・・」

 その(かん)にも、世凰(シーファン)の呼吸は乱れるばかりで、顔には全く、血の気というものが()せてしまっていた。

 そんな弟の手を、両手で包むように握り締めながら、香蘭(シャンラン)は何百回、何千回となく、一途(いちず)な祈りを繰り返していた。

「神様!香蘭(シャンラン)は、娘になっても、お嫁にゆけなくても構いません。だからどうか、私の世凰(シーファン)を連れてゆかないで下さいまし!!・・・」

十一才の香蘭(シャンラン)は、娘になったら、きっとどこかの素敵な皇子(おうじ)様のもとへ嫁ぐのだと、いつも夢見ていたのだった。

 だが彼女は結局、皇子(おうじ)様よりも、弟を選んだのである。

そして、乳母・(チョウ)夫人と息子・阿孫(アスン)は、三日の間、(ひそ)かに(しょく)()っていた。


―四日目の朝、ついに奇跡が起こった。あれほど高かった世凰(シーファン)の熱が、見る見る下がったのだ。医師の一人が脈をとり、もう大丈夫、というように大きく(うなず)いて見せた。世凰(シーファン)の枕元には二、三人の医師たちが残り、ずっと彼に付き(つそ)っていた。彼らには、万一世凰(シーファン)が死んだ場合に立会人となり、官庁に提出するための報告書を作成しなければならぬ、という義務があったからである。

 なまじ名門というものは、何かにつけて手数を踏まねばならない。

 まる三昼夜というもの、それこそ一睡(いっすい)もせずに息子の寝台の(かたわ)らに(ひざまづ)き、その恢復(かいふく)を神仏に祈り続けた(ツェン)(テー)は、さすがに疲れがどっと(あふ)れ、がっくりとその場に座り込んでしまった。ふと気付くと、熱が下がってすっかり寝息の(おだ)やかになった世凰(シーファン)に寄り添うようにして、香蘭(シャンラン)もまた、すやすやと眠っていた。


その事があってから、(ツェン)(テー)は、真剣に息子を手離すことを考え始めていた。

 出来るだけ早い方がよい、と彼は思った。あれ以来、世凰(シーファン)は、あんな大病を(わずら)ったことなどまるで嘘のように元気になり、毎日跳()んだりはねたり、香蘭(シャンラン)のあとにくっついて、はしゃぎまわっていた。

だが、いつまたあのようなことが起こるか、(わか)ったものではない。七才の誕生日までは、あとひと月しかないのだ。手離すとは言っても、何もそのまま、一生帰ってこないと言う訳ではない。ほんの二、三年で良いのだから・・・。その(かん)勿論(もちろん)(つら)いであろうが、永久に彼を失うことを思えば、(むし)ろたやすいことではないか。(ツェン)(テー)は、あれこれと考えあぐねた末、かねてより知己(ちき)の間柄にあったある高僧に、相談を持ちかけてみた。

翔琳寺(しょうりんじ)に、お預けなさるがよい」高僧は即座にそう答えた。

「御承知の如く、翔琳寺(しょうりんじ)は武術の総本山にして、さらに精神をも鍛錬(たんれん)する場所。そこに於いて心身共に(きた)えられれば、必ずや、御子息(ごしそく)の為にもなろう。拙僧(わし)が大管主殿宛に添状(そえじょう)を書いて進ぜるゆえ、それを持たせて、すぐにでも出立(しゅったつ)させなされ。こうなれば、ひとときなりとも早い方がよい」

なんとも急な話ではあった。だが、その言葉に従うより他に、道があるとは思われぬ。(ツェン)(テー)は息子を翔琳寺(しょうりんじ)に預けよう、と決心した。

 その前に、何はさておき、まずは世凰(シーファン)自身にそれを納得させねばならない。彼は息子を書斎に呼び、噛んで含めるように訳を言い聞かせ、翔琳寺(しょうりんじ)行きを(うなが)した。

 ところが意外にも「はい、わかりました。ちちうえ。しーふぁんはしょうりんじへまいります」美しい()をキラキラさせながら、あっけらかんとそう答えて、彼は結構、平気なようだった。家を離れるのは嫌だと泣き出しでもしたら、一体どう(なだ)めすかして旅立たせたものかと、ひどく心配していた(ツェン)(テー)の方が、(かえ)って拍子抜けしてしまったくらいである。

 それでも、さすがに姉と別れる段になると、その世凰(シーファン)も、少々べそをかいた。

彼にとって、とにかく一番辛かったのは、他ならぬ、姉と一緒にいられなくなることだったのだろう。

 しかし、結局彼は、一滴の涙もこぼすことなく家を出て、街はずれまで見送ってくれた姉に向かってたった一度振り返り、手を振っただけで、もう二度と未練がましい振る舞いをせず、健気(けなげ)にもまっすぐに前を向いて、翔琳寺(しょうりんじ)へと去って行ったのだった。


翔琳寺(しょうりんじ)大管主・(ツー)(ジュエ)禅師(ぜんじ)は「拳聖」と(たた)えられる拳法の達人であったが、世凰(シーファン)を一目見るなり、その稀有(けう)なる天賦(てんぶ)の才を見抜き、同時に、生まれながらの天真爛漫(てんしんらんまん)素質(そしつ)をも深く愛して、我が身一代にて、もはや絶つ積りであった秘拳中の秘拳・梅花(ばいか)鳳凰(ほうおう)(けん)を、その豊かな教養と崇高(すうこう)な精神と共に、自らの手で、彼に伝授したのである。

 梅花鳳凰拳(ばいかほうおうけん)―別名「破邪(はじゃ)(けん)」とも呼ばれ、その名の如く、伝説の(ずい)(ちょう)・鳳凰に由来(ゆらい)すると伝えられる。流れるような連続技(わざ)駆使(くし)して(あたか)も舞うように(たたか)う、優美この上ない拳法でありながら、見た目とは裏腹に、内に秘められた「気」の(すさ)まじさは想像を絶する破壊力を持ち、敵はおろか、ややもすれば自らの肉体をも粉砕しかねぬ、とまで言われていた。

 されにその奥義(おうぎ)たるや、死に直面して初めて(さと)るものとされ、最高技「鳳凰(ほうおう)(しょう)(てん)(きゃく)」は、超人的な跳躍力(ちょうやくりょく)神技(かみわざ)とも言える瞬発力(しゅんぱつりょく)を要求される、まさに「死」を()した(あら)(わざ)であり、(おう)()を得ぬうちは使用を決して許されぬ、いわば「禁じ手」となっていた。

従って、生半可(なまはんか)な人間では(かえ)ってその身を(ほろ)ぼすことになるため、これを継承(けいしょう)できるのは、万人(ばんにん)に一人とさえ言われる。かほどに苛酷(かこく)な拳ゆえに「秘拳中の秘拳」と称されて、やがては(ほろ)び去る宿命を余儀(よぎ)なくされていたのである。

「その拳、(みだ)りに常人(ひと)に伝うべからず。

   万世()稀有(まれ)なる逸材(もの)にぞのみ、

      ()えて、これを伝うべし―」


世凰(シーファン)は、禅師のもとで、言語(げんご)を絶する厳しい修業に耐え抜き「梅花(ばいか)鳳凰(ほうおう)(けん)」の、恐らくは最後の継承者として、見事花開いたのであった。(ツー)(ジュエ)禅師の眼力に、やはり狂いはなかったのだ。(もっと)もその世凰(シーファン)を以ってしても、(いま)(おう)()には達していないが・・・。

 ともかくも十四年の歳月(さいげつ)は、彼を不世出(ふせいしゅつ)の拳士に成長させ、翔麟寺(しょうりんじ)屈指(くっし)の高弟として、天下にその名を知らしめている。

 一体誰が言い出したものか世の人々は、眉目秀麗(びもくしゅうれい)の若き達人を、ひとかたならぬ憧憬(しょうけい)()め、その名を(もじ)って「翔琳(しょうりん)鳳凰(ほうおう)」と呼ぶようになっていた。

 しかしながら、この世凰(シーファン)という若者には実に風変りなところがあり、時折ふいに寺から姿を消してしまうことが、しばしばあった。何の前触(まえぶ)れもなく、である。そのまま数日、長い時には数カ月も行方不明になっていたかと思うと、またいつの間にか戻って来て、何喰わぬ顔で、()かし饅頭(まんじゅう)などをパクついてたりするのだ。

 そういう、どこか凡人とは違った(つか)み所のなさが、(かえ)って寺内(じない)の者たちからは好意を寄せられて「鳳凰殿は帰巣(きそう)遊ばされたか?」「いや、未だ飛翔(ひしょう)中のようじゃ。今回は、ちと遠方へ飛んでゆかれたと見える」などと言う会話が、ごく当たり前に交わされるようになっていた。

 彼ほどの高弟ともなれば、無論、寺の内外出入り自由であったし、その気になれば、実家に帰る事も許される。にもかかわらず、世凰(シーファン)翔琳(しょうりん)()での生活が妙に(しょう)に合うと見え、すっかり居ついてしまった格好になっていた。そのせいかどうか、広東(カントン)省の屋敷に顔を見せるのはせいぜい年にニ、三回程度、悪くすると、全く帰って来ない年さえある始末だった。

 それでも数年前までは父の(ツェン)(テー)も、彼の息子が、帰省するたびに目に見えて(たくま)しく成長してゆくのを喜んだ。

 幼い頃は、さながら美少女そのものであった世凰(シーファン)の顔立ちも、其の端麗さの中に、次第に凛凛(りり)しい男らしさが加わり、頼もしくさえ感じられるまでになっている。

 しかしながら、ここ最近の(ツェン)(テー)は、果たして世凰(シーファン)は本当にこの鳳家を継ぐ気があるのだろうかと、ひどく気を()み続けるようになった。

 もともと災厄(さいやく)を除くための方便(ほうべん)として、ほんの二、三年の積もりで(あず)けた翔琳寺(しょうりんじ)に、世凰(シーファン)はすっかり居ついてしまい、実に十四年間というもの、ほとんどすべての日々を、そこで暮らしているのだ。

〈あやつめ!どちらが本当の自分の家なのか、取り違えてでもいるらしい〉このままでは一生、翔琳寺(しょうりんじ)で暮らす、などと言い出しかねず「まあ、そのうち帰って来るであろうさ・・・」などと、悠長(ゆうちょう)なことを言ってはいられなくなって来た。万が一そんなことにでもなれば()()()()事態、尊帝以来の名門を()って鳴るこ(フェン)家はどうなるのであろう?

 姉の香蘭(シャンラン)に、しかるべき家柄の養子を迎えて家督(かとく)を継がせる、という方法も考えてはみたが、十九才の時、やはり名門の(ほま)れ高い(タイ)家の嫡男(ちゃくなん)輿(こし)()れすることになっていたにもかかわらず、その夫となるべき人に急死された彼女は、もう一生夫は持つまいと、(かた)く決心していた。

 そんな事情で、この方法は、まず無理。どうにもこうにも切羽詰(せっぱつ)まった(ツェン)(テー)は、とうとう「わしは重病に(かか)ってしまった。すぐに帰って来い」と、嘘の使者を立てて、息子を翔琳寺(しょうりんじ)から呼び戻したのであった。

 その上、彼は、念には念とばかりに、かねてより心に留めていた某家の娘との縁組(えんぐみ)を急ぎまとめさせ、用意万端整えて、世凰(シーファン)の帰館を待ちかねていた。

 ところが、知らせを受けて急遽(きゅうきょ)()けつけた世凰(シーファン)は、父のこの策略に激怒したのである。無論、父の心情を理解せぬ彼ではない。自分に()けている父の期待も、我が身の勝手さも、良く解っている。

 嘘をついてまで自分を呼び戻した親心を気の毒に思う反面、見も知らぬ娘との縁組までが周到(しゅうとう)に用意されていたことに対して、潔癖(けっぺき)な彼は極度に反発した。


「いい加減にして下さい、父上!私は翔琳寺(しょうりんじ)に戻ります!」

 そう言い捨てて、その足で屋敷を飛び出そうとした世凰(シーファン)を止めたのは、他ならぬ姉の香蘭(シャンラン)だった。

世凰(シーファン)。お父様のお気持ち、理解出来ぬあなたではないでしょう?このような事をなさったのは、よくよくの御心痛から。ここは気を(しず)めて、あなたの思うところを正直に申し上げた上で、お父様と話し合ってごらんなさいな。きっと道が開けるでしょう。とにかく、このままではいけませんよ」

 姉に(さと)されると、世凰(シーファン)としては、それ以上逆らえない。

「申し訳ありません、(ねえ)さま。世凰(シーファン)が、大人気(おとなげ)のうございました」

 彼は素直に姉に()びて、思いとどまった。この(さち)薄い美しい姉に対して、彼が物心ついた時からずっと(いだ)き続けて来た「姉弟愛」と呼ぶにはあまりにも深い憧憬(しょうけい)は、成人した今も、いささかも色褪()せてはいなかったのだ。

 結局世凰(シーファン)は、それからの七日間を実家で過ごし、父と姉と共に十分話し合った上で、三年後には必ず帰って来て家督(かとく)を継ぐことを、二人に約束した。

 そして、八日目の朝(つまり今朝(けさ)のことだが)再び翔琳寺(しょうりんじ)へ戻るべく、屋敷を出たのだった。

 ところが、どこでどうして耳に入ったものか、代々、(フェン)家の執事(しつじ)を務める家柄の隠居で、(みずか)らも、父・(ツェン)(テー)の少年時代から実直に仕え、今は老いて屋敷を退(さが)っている(クァン)(ハイ)(リン)が、今回の騒ぎを聞きつけてやって来た。

 そして、他の家臣たちが止めるのも聞かず、さきほどのようにうるさく説教しながら、何と、慶安(チンアン)にある(フェン)家の屋敷からとうとうここまで、ついて来てしまったのだった。以上が、ことここに至るまでの経緯(いきさつ)である。

世凰(シーファン)さま!大体あなた様は・・・」

 老人が性懲(しょうこ)りもなくまだ何か言おうとするのを、もう全く無視して、ふと後を振り返った世凰(シーファン)は「(ねえ)さま!?」と小さく(つぶや)いた。侍女も従えずに、たった一人で彼らのあとを追ってくる香蘭(シャンラン)の姿を、その目に(とら)えたのである。

 「へ?」

 彼の(つぶや)きを聞いた(クァン)老人は、世凰(シーファン)の後から伸び上がるようにして、(かな)(つぼ)(まなこ)をキョトキョトさせていたが、やがて香蘭(シャンラン)の姿をはっきりとみとめ、彼女に向かって(あわ)てて頭を下げた。

 どういう訳か、彼もまた、昔から香蘭(シャンラン)(ひい)さまには弱いのだ。

(クァン)じい」

 香蘭(シャンラン)は二人に追いつくと、老人に向かって語りかけた。

「お前の忠義(きも)()は、とても(うれ)しいわ。お父さまも、それは喜んでおいでです。でも、もう世凰(シーファン)を行かせてやって下さいな。この子が困っているではありませんか」

「し、しかし、(ひい)さま!・・・」

 (クァン)老人がモガモガと何か言いかけたが彼女はやさしく(さえぎ)った。

「お父さまは、今度の事、何もかもお許しになっておいでですから。世凰(シーファン)は、必ず三年後には帰って来ると約束してくれました。それでもう充分。だから、この子を解放してやって下さいな。他の者では、とても(クァン)じいが納得してくれまいからと、お父さまが私をお寄越しになったのですよ」

 そういって香蘭(シャンラン)は、袖で口許(くちもと)を押え、クスリと笑った。

 しかし、すぐに真顔(まがお)に戻ると、弟に向き合った。

世凰(シーファン)。このたびあなたの我儘(わがまま)を許して下さったお父さまのお心、決して忘れてはなりません。そして、この(クァン)じいの忠義の気持ちも・・・。誰もが皆、(フェン)家の行末(ゆくすえ)を思い、何よりも、あなたのことを思っているのですから」

「わかりました。ありがとう、(ねえ)さま!」

 自分に対する父と姉の深い愛情を痛いほどに感じながら世凰(シーファン)は彼独特の、輝くような笑顔を見せた。

「父上に、くれぐれも御息災(ごそくさい)でとお伝えください。勿論(もちろん)(ねえ)さまも。それから(クァン)じい、心配かけて済まなかった」

 はっきりと自分で納得しさえすれば、こういう時、世凰(シーファン)という若者は実に(いさぎよ)い。姉のみならず(クァン)老人にまで素直にペコリと頭を下げた。

 さすがの(クァン)老人も、香蘭(シャンラン)の出現ともども、これが強烈なる連続パンチであった。

「わ、若君。若君さま!そ、そ、そのように、おつむを下げ遊ばすものではございませぬ!・・・な、なんともはや勿体(もったい)なき限りにて、面目次第もございませぬ!!」

 つい先ほどまでの、あの喰らいつくような見幕(けんまく)は、一体何処(どこ)へやら。(クァン)(ハイ)(リン)は、急にアタフタ、オロオロと、何となく辻褄(つじつま)の合わぬことまで口走って、すっかり弱気になってしまっている。

 世凰(シーファン)は、突然妙なおかしさがこみ上げて来て、(あや)うく吹き出しそうになったのを、やっとのことで我慢(がまん)した。

「では、世凰(シーファン)、これでお別れしましょう」

 香蘭(シャンラン)は、静かに別れを告げた。

「元気でね。いつも変わらず、溌剌(はつらつ)としたあなたでいてちょうだい。そんなあなたが、(ねえ)さまの誇りですもの」

 そう言って彼女は微笑したが、そのほほえみは、心なしか、とても(さび)しそうに見えた。世凰(シーファン)は、一瞬、不吉なものが胸をよぎるような気がしたが、すぐにそれを打ち消した。

 しかし、自分でも気づかぬ意識の下に、何かが(わだかま)った。

「行って参ります、(ねえ)さま!」

 世凰(シーファン)は、香蘭(シャンラン)に向かって一礼するなり、さっさと歩き始めた。

道中(どうちゅう)、気をつけてね」

 彼女の言葉に、くるりと一度振り返り、それはもう愛くるしくほほえんで手を振ると、姉のお(かげ)で、やっと頑固ジイさんから解放された彼は、まるで一刻も早くこの場を去ろうとでもするように、もう(あと)も見ずに、スタスタと去って行く。

 身長の割に手足が長く、従って実際よりはずっと(たけ)(たか)く見えもするそのほっそりとした体を包んだ(しら)(ぎぬ)装束(しょうぞく)(すそ)を、折からの風に(ひるがえ)しながら足早に遠ざかってゆく弟の後姿を、香蘭(シャンラン)はその場にじっと(たたず)んで、見えなくなるまで見送っていた。

〈何だか、十四年前に似ているわ・・・〉

 彼女はふと、そう思った。だが、あの時の少々ぎこちない笑顔に比べて、今の弟のそれは、何と屈託(くったく)がないことか。年を追う毎に(たくま)しく、そして美しく成長してゆく彼の行末を、なぜか自分は見届けてやれないのではないか、という予感が、唐突(とうとつ)に彼女の脳裏(のうり)(かす)め、またたく間に消えた。

〈今のは,何だったのかしら?・・・〉

 密かに戸惑う香蘭(シャンラン)(かたわら)らでは、(クァン)老人が、何やらバツの悪そうな顔つきで、盛んにブツブツと(ひと)(ごと)を言いながら突っ立っている。


時、(あたか)(シュエン)朝末期。風雲急を告げる(きざし)(かすか)かに(おのの)きながらも、地上は未だ、つかの間の平和に酔い()れていた。



《二》宿星邂逅(であい)



 広東(カントン)郡を抜け、(ツァン)(リン)省・(ハイ)(フォン)山にほど近い林道(りんどう)にさしかかった時、世凰(シーファン)は、風に乗って聞こえて来る異様なざわめきに気づいて、ふと足を止めた。

 耳を澄ませると、それはどうやら道の左手、なだらかな斜面を少し(くだ)った、連翹(れんぎょう)花木(かぼく)が群生する場所の(あた)りから聞こえて来るようだ。

 茂みの(かげ)になって様子は見えないが、何らかの、小さな争いが起こっているらしい。

 世凰(シーファン)はそっと、そのほうへ近づいて行った。

()()()()()」と言ってしまえばそれまでだが、好奇心旺盛(おうせい)な彼としては、何事によらず、気になったことは放っておけないのだ。

 ましてや争いごととなれば、必ず難渋(なんじゅう)している人間がいる、ということではないか。彼の中で持ち前の正義感が頭を(もた)げて来たとしても、致し方あるまい。

 そこでは、十数名の男たちが、誰かを取り囲むような格好で立っていた。全員、狩り支度をしているところを見ると、どこかの貴族あたりが、家臣を引き連れて()(あそ)びに来ているらしい。

 この一帯は、野兎や鹿等が多く棲息(せいそく)していて、ちょっとした狩猟地の(おもむき)があり、退屈しのぎに猟をするには、もってこいの場所であった。

 そのため、結構身分のある連中が、お忍びで遊びに来るのだ。この男たちも差し詰め「御多分(ごたぶん)()れず」といったところか。

 だが彼らの、その殺伐(さつばつ)とした雰囲気(ふんいき)はどうだ。とても、由緒(ゆいしょ)ある身分の者たちとは思えない。大方(おおかた)(シュエン)朝に取り言って(にわ)か出世した、()()()()()()()ででもあろう。

 それに引き換え、彼らに取り囲まれた人々―清冽(せいれつ)気高(けだか)さに(あふ)れた若い女と、彼女のお()り役らしい品のいい老女、それに、実直を絵に描いたような中年の下男までもが、そこはかとない奥ゆかしさを感じさせて、間違いなく、この土地の古い豪族にゆかりの者たちであると確信させた。

〈これは放ってはおけぬ!〉そう決心すると世凰(シーファン)は、足音をさせぬよう細心(さいしん)の注意を払いながらさらに近づいて、彼らのすぐ横手の(しげ)みで様子を(うかが)うことにした。

 ここならば、やりとりがはっきりと聞こえて来る。

「これほどお()び申し上げましても、お許し頂けませぬか?」

 若い女は、あまり大きくないが、よく通るしっかりとした声音(こわね)で自分の前に立ちはだかっている首領(しゅりょう)(かく)らしき髭面(ひげづら)の男に向かって問いかけた。

 取り立てて美人という訳ではない。けれども、いかにも勝ち気そうな切れ長の瞳と、やや紅潮した白い細面(ほそおもて)の顔には、おのずと身に備わった高貴さが(ただよ)い、不思議な美しさを放って、凛然(りんぜん)たる(おもむき)があった。

 その有様が〈どことなく、(ねえ)さまに似たひとだ・・・〉という漠然(ばくぜん)とした想いを、世凰(シーファン)に抱かせたのである。

 彼女の足許には、恐らくはその手から落ちたものであろう、黄色い花弁を今が盛りと咲きほころばせた見事な連翹(れんぎょう)の枝が、まるで敷き詰めでもしたように、一杯に散らばっていた。

「許せぬ、と申したらどうするね、え?」 

 男は、いかにも好色そうな髭面(ひげづら)の口をいやらしく(ゆが)めて、ニヤリと笑う。

〈なんだ、あいつか!・・・〉世凰(シーファン)は確かに、その顔に見覚(おぼ)えがあった。

 まるで値踏(ねぶ)みでもするように、男は、(にご)った目で女の体を見上げ見下ろし、執拗(しつよう)で無遠慮な視線を()わせ続けている。彼の従者たちも、主人同様、下卑(げび)性根(しょうね)をそのまま表情に(ただよ)わせながら、成り行きを楽しんでいるのだった。

「お許し下さいませ!何卒(なにとぞ)、お許しを!」

 老女は何とか女主人を守らねばと必死の懇願(こんがん)()り返し、下男は下男で、地面に頭をこすりつけて土下座している。

 その中にあって、若い女だけが昂然(こうぜん)と胸を張り、少しも(ひる)むことなく、相手と向かい合っていた。

「共の者が、あなた様の狩りのお邪魔を致したのであれば、明らかに、主人である(わたくし)の手落ちでございます。いかようにもお()び致しますゆえ、この者をお手に()けられるのだけは、御容赦(ごようしゃ)頂きとう存じます!」

 彼女は、下男の命乞(いのちご)いをしているのだ。

 さては、下男が狩りの邪魔(じゃま)をしたから手打ちにしてやる、などと、難癖(なんくせ)をつけられでもしたらしい。早い話が、老女と下男を共に連れた若い女に目を付けた『よからぬ男共』が、(いや)しい魂胆(こんたん)見え見えに、彼女ら主従(しゅじゅう)をいたぶっているのである。

「ほう?いかようにも()びるとな?」

 ()()()とばかりにそう言うなり、髭面(ひげづら)の男はいきなり剛毛(ごうもう)密生(みっせい)した太い腕を伸ばし、女の白い(あご)を乱暴に(つか)んだ。

()びのしようによっては、許さんこともないが・・・」

「何をなさるのです!」

 女は水際立(みずぎわだ)った気高(けだか)さで力一杯、無礼(きわ)まるその手を振り払った。

その拍子に、勢い余った彼女の右手は、背後からたわわに伸びていた連翹(れんぎょう)の花枝に激突し、数本の枝が折れて、黄色い花びらが一度にパッと散りかかった。

かなりの衝撃があった(はず)だが、女は右手を(かば)おうともせず、怒りに両の瞳を燃え上がらせながら、男を(にら)()えている。

 思いもかけぬ彼女の抵抗に()い、男は(かえ)って、異常にその獣心(じゅうしん)()き立てられたらしい。ギラギラと血走った目で、何の造作(ぞうさ)もなく女の手首を捕らえるが早いか、そのまま強引に、彼女の体を引き寄せようとした。

「お、お嬢さまっ!」

 身を()って女主人を(かば)おうと駆け寄った小柄な老女を、男はこの上もなく邪険(じゃけん)蹴飛(けと)ばした。

「ばあやっ!」

 女が叫んだのと、世凰(シーファン)が、すっとその場に姿を現したのとが、ほぼ同時であった。まるで予期せぬ彼の出現に、一同は驚愕(きょうがく)し、髭面(ひげづら)は、(つか)んでいた女の手首を思わず離してしまっていた。

 女は、本能的に世凰(シーファン)の側に走り寄る。

「見苦しいことだな、(ヤン)(ティエ)(ユイ)殿」

 彼女をそれとなく(かば)いながら、世凰(シーファン)は、蛇のような目で自分を(にら)みつけている髭男(ひげおとこ)に向かって、軽蔑(けいべつ)を含んだ微笑を投げた。(と、連中には見えた)

「う、き、貴様っ!」

 (ヤン)と呼ばれた男は、ただでさえ(みにく)髭面(ひげづら)を、さらに(ゆが)めた。

「貴様、確か、広東(カントン)(フェン)めの小倅(こせがれ)だな?」

(フェン)世凰(シーファン)、と言ってほしいな」

 しかし、世凰(シーファン)は、動じる様子もない。

「私は、あんたに小倅(こせがれ)呼ばわりされる筋合(すじあ)いなどないもの」

 そう言いながら、彼は腰に()していた大きな(はく)(せん)を抜き取り、鮮やかな手つきでパッと開くと、呑気(のんき)そうにパタパタとあおぎ始めた。

 その態度が、なんとも人を()っていて〈馬鹿にされた!〉(ヤン)満面(まんめん)(しゅ)(そそ)ぎ、今にも(つか)みかからんばかりに逆上した。

 もとはやくざ上がりだ、などと噂されるこの男、これでも、今を時めく、(シュエン)王朝系の新興貴族である。

 どういう経緯(いきさつ)からか、彼は(たく)みに時代の波に乗り、(シュエン)朝に取り入って出世などしてしまい、今では『()()』にまで成り上がって、権力を(かさ)威張(いば)り散らしていた。

 野卑(やひ)粗暴(そぼう)俗物(ぞくぶつ)にして、思い上がりも(はなは)だしい(ヤン)(ティエ)(ユイ)は、去年の秋、どこで見かけたのか、こともあろうに広東(カントン)の名門中の名門・(フェン)家の姫君、すなわち世凰(シーファン)の姉・香蘭(シャンラン)に猛烈に懸想(けそう)し、妻に寄越(よこ)せと強談(ごうたん)に及んだ甲斐(かい)もなく、ものの見事に拒絶されたのだった。

 常日頃(つねひごろ)から、自らのコンプレックスの裏返しで(フェン)家をこころよく思っていなかった上、プライドまで傷つけられた(ヤン)は、それ以来、あからさまに(フェン)家を目の仇にし、異常なくらいに憎悪(ぞうお)するようになった。

 その()っくき(フェン)家の、生意気な小倅(こせがれ)()められたとあっては、(ヤン)としても、おめおめと引き下がる訳にはゆかぬ。

〈「半殺しにしてくれるわ!」噂によるとこの小倅めは『翔琳鳳凰(しょうりんほうおう)』などと、ふざけた綽名(あだな)で呼ばれる程の(つか)い手だというが、たかがスネカジリ息子の手すさび、何ほどのことがあるものか!〉

 そんな(ティエ)(ユイ)の胸の内も知らぬ()に、世凰(シーファン)は相変わらず涼しい顔で白扇を使っている。

「とにかくもう、大人気(おとなげ)ない真似(まね)はおやめになったらどうです?」

「うるさい!小僧めが!」

 (ヤン)は恐ろしい形相(ぎょうそう)のまま、どなり散らした。

「私は小僧じゃない、本当に解らない人だな、あんたは」

 またもやさらりと受け流されて、揚の怒りは心頭に達し、それこそ、怒髪天(どはつてん)()いた。

「この思い上がりの小僧めを、足腰立たぬようにしてやれ!」

 (ヤン)地団駄(じだんだ)踏みつつ、家臣に命令した。

「おう!」

 と、答えて、いかにも気の荒らそうな筋骨(きんこつ)(たくま)しい大男が、前に進み出てきた。と思うと、いきなり、細身の世凰(シーファン)(ひねり)(つぶ)さんばかりの勢いで飛びかかった。

 ところがー。

「ウグッ」

 その男は奇声を発するや、急に前のめりになった。

「ヒエッ!」

 次にそう叫ぶと両手で頭を(かか)え、そのままトトトッと後退したところでなぜか立ち止ると、突如(とつじょ)白目(しろめ)()き、ドタ―ッとばかりに、地響(じひび)き立ててぶっ倒れてしまった。

「?」

 常人(じょうじん)の目には、男がさんざん一人(ひとり)相撲(ずもう)を取った挙句(あげく)、勝手にのびてしまったとさえ見えて、何がどうなったのか、その詳細(しょうさい)を見届けた者は(ほとん)ど無く、一同、唖然(あぜん)として立ち尽くすのみであった。

 細っこい、ひどく綺麗(きれい)な青二才が、()()()()()のは間違いないのだが、果たして奴は、()()()()のだろう?

 人々の目は、再び世凰(シーファン)に集中した。

 その世凰(シーファン)は、例の白扇をたたんで右手に持ち、端然(たんぜん)とその場に立っていた。

 どうやら男は、その扇子で、目にも止まらぬ早業(はやわざ)()って続けざまに鳩尾(みぞおち)と脳天とをしたたか打ち()えられ、(たま)らず(もん)(ぜつ)してしまったものと見える。

「この野郎!」

 やっと我に返った家臣が二人、お里丸出しに口汚(ぎたな)(ののし)りながら一度に襲いかかったが、結果は全く同じであった。

 ほんの短時間のうちにあまりにもあっけなく、大の男が三人、大地にのされて不様(ぶざま)(ころ)がっている有様(ありさま)は、何とも言えずに奇妙で、()滑稽(こっけい)ですらあった。

 当の世凰(シーファン)は、呼吸一つ乱れてはいない。

「く、(くそ)!」

家臣たちの余りの不甲斐無(ふかいな)さにますます腹を立てた(ヤン)が、いまにも出て行きそうになった、その時だった。

「まあ、待て、(ヤン)

 今まで彼らから少し離れた場所で、じっと事の成り行きを見守っていた中年男が、威厳(いげん)のある声音(こわね)で押し(とど)めた。

 年の頃、四十前後というところか。がっしりとした、いかにも武人(ぶじん)らしい体格で、堂々たる自信に(あふ)れた重厚な(つら)(がま)えの、だが反面、その身全体に何とも言えず陰湿(いんしつ)嗜虐(しぎゃく)的な(かげ)りを(ただよ)わせた男である。

「もう、やめておけ。ここはひとまず、引き上げたがよかろう」

「し、しかし(イェン)将軍!」

 腹納まらぬ(ヤン)が、ムキになって何か言おうとする。

「とにかく、わしの言うことを聞け!」

 と、押さえておいて、(イェン)将軍と呼ばれた男はその男は、つかつかと世凰(シーファン)の前に歩み寄った。

 二人の視線が(から)み合い、一瞬、目に見えぬ火花が散った。

(フェン)世凰(シーファン)、とか申したな」

 (イェン)は鷹のような鋭い目で世凰(シーファン)見据(みす)え、しばらくの(のち)、ふっとその目を細めた。

「わしは、(シュエン)の将軍・(イェン)大剛(ダーガン)。必ずや近い将来、おぬしとの手合(てあ)わせの機会が(めぐ)って来よう。その日を楽しみに、美しいその顔、ようく(おぼ)えておくぞ!」

 そう言い残すと(イェン)は「引け!」と一声。

 男たちはたちまちその言葉に従って、負傷した仲間を助け起こし、潮の引く如く去ってゆく。さすが見事な、統率力であった。

 その中にあって、(ヤン)(ティエ)(ユイ)だけが、忌々(いまいま)し()にしつこく振り向いて、もう一度、世凰(シーファン)(ねめ)()けた。

(イェン)大剛(ダーガン)か。底知れぬ奴!・・・」

 (ヤン)のことなど全く無視して、世凰(シーファン)は、去ってゆく(イェン)将軍を見送りながら(ひと)(ごと)を言った。彼にとっての最大の宿敵となる男との、最初の邂逅(かいこう)である。

 だがしかし、彼は、(イェン)の本当の恐ろしさに、まだ気づいてはいなかったのだ。

 去ってゆきつつ(イェン)が何を考えていたかその胸中を知ったなら、いかに世凰(シーファン)とて、おぞましさに戦慄(せんりつ)したことだろう。

〈あの青二才、噂以上の掘り出し物。(ヤン)などのお(もり)に来た甲斐(かい)があったと言うものよ。あの美しい体を、必ずや、我が(ふく)()拳で引き裂いてみせようぞ!おお、そうじゃ。死に化粧(げしょう)は、やはり『伏魔(ふくま)念誦(ねんじゅ)』がよい。()()めの鳳凰(ほうおう)か・・・。思うだに鳥肌が立つわ。ふふ、楽しみ、楽しみ!・・・〉

 (イェン)大剛(ダーガン)こそ、世に恐れられる殺人拳・妖州(ようしゅう)伏魔(ふくま)(けん)(おう)()(きわ)めた、稀代(きだい)(つか)い手であった。

 正式名『庸州(ようしゅう)伏魔(ふくま)(けん)』は庸州(ようしゅう)()眉山(びざん)伏魔堂(ふくまどう)に伝わる、あくまでも実践本意、相手を倒すことのみを目的とする拳法である。

 そのためには手段を選ばず、非情の(わざ)()って急所を(ことごと)く攻撃し、ついには死に至らしめるのだ。

 古来(こらい)より(じゃ)(けん)(さい)たるものとされ、翔琳寺(しょうりんじ)をはじめとする正当な拳流からは、()(かつ)の如く、()み嫌われていた。

 数ある殺人技(わざ)の中でも、とりわけ残虐(ざんぎゃく)なものと言われるのが『伏魔(ふくま)念誦(ねんじゅ)』と名付けられた一手(いって)である。明らかに相手の心臓を(ねら)って繰り出される峻烈(しゅんれつ)な拳は、しかし決して即死を許さず、計算された正確さで肋骨(ろっこつ)を折る。折れた肋骨(ろっこつ)は、かなりの長い時間をかけて、じわじわと心臓に喰い込み続け、やがての(のち)にようやくこれを突き破って『死』を迎えることが()()()のだ。

 そこに至るまでの犠牲者(ぎせいしゃ)の苦しみたるや、鮮血に(まみ)れて、まさに七転八倒(しちてんばっとう)、言語を絶するであろう地獄の辛酸(しんさん)()め尽くさねばならない。気も狂わんばかりに(もだ)え苦しむその一部始終を、勝利者は冷ややかに見守りつつ、念仏(ねんぶつ)の一つなど(とな)えてやるのも、また一興(いっきょう)―。

 これほど残虐な(わざ)が、この世にまたとあるだろうか。(イェン)との出会いは明らかに、世凰(シーファン)のゆくてに暗澹(あんたん)たる影を落とすことになったのであるが、神ならぬ身が、(おの)の運命の(さき)()きなど知ろうはずもない―。

 ふと何事か思い当たった世凰(シーファン)が、去ってゆく一団から視線を転じて急に振り向いたのと、女が遠慮(えんりょ)がちに声をかけようしたのが偶然一緒になり、その結果、二人はまともに顔を見合す格好(かっこう)になった。

 途端(とたん)に彼女は、ぱあっと頬を染めて口ごもり、視線を(そら)らせて(うつむ)いてしまった。むくつけき男共にさんざん(から)まれながらも一歩も引かなかったあの勝気(かちき)さが、まるで(うそ)のようである。

 けれど世凰(シーファン)の方は。女の様子などにはまるで無頓着(むとんちゃく)、にこりともせず、すぐに彼女の右手に視線を移した。

 やはり、傷ついている―。

 白く(たおやか)な手の甲には、折れた枝先で(えぐ)られた傷がはっきりと(きざ)まれ、かなり出血していた。もとより大した傷ではないが、とかくこういった(たぐい)の傷というものは、安易(あんい)に放っておくと意外に(うみ)を持ち、思わぬ(あと)を残すことがある。

 世凰(シーファン)は、ひょいと彼女の右手を(つか)むなり、なんのためらいもなく、傷口にその形のよい唇を当て、()(けつ)を吸い出し、そして吐き捨てた。

 二、三度それを繰り返した(のち)、今度は、自分の白絹の(そで)(ぐち)()()もなく引き裂き、包帯(ほうたい)代わりにくるくると巻きつけて、(あざ)やかに手当てを終えてしまったのである。

 余りにも自然で手際のよいその振舞(ふるまい)が、抵抗心の(しょう)じるうき(すき)など全く与えず、女は耳の付け根まで深紅(まっか)に染めながらもされるがままになっていたし、老女と下男も、彼を止めるどころか、うっかりすると感動さえしかねない様子で、一部(いちぶ)始終(しじゅう)を見守っているだけであった。

「さあ、これでひとまずは大丈夫」

 世凰(シーファン)は初めて、女に向かって口を開いた。

「だけど家に戻られたら、必ず、ちゃんとした手当をなさい。念の為に、一度は医者に見せておいた方がよいかもしれません」

 そして、女が小さく(うなず)いたのを見届けると、にっこりと、ある意味では罪作りと思えるくらいに(あでやか)やかな笑顔を見せた。

「あの・・・」

 その時になってやっと、老女が声をかけて来た。

 振りむいた世凰(シーファン)に向かって、彼女はなぜか、ほっと(ひと)呼吸置いてから丁重(ていちょう)に頭を下げた。

(あやう)いところをお救い頂きまして、まことにお礼の申し上げようもございませぬ」

 下男は下男で、さきほどから地面に頭がくっつきそうなくらいに体を折り曲げ、何度も何度も、おじぎを繰り返している。口下手(くちべた)な彼はうまく感謝の気持ちを言い表すことも出来ず、頭ばかりを()げ続けているのだろう。

「いえ、さほどのことではありません。では、私はこれで」

 世凰(シーファン)はそう言って、あっさりと歩き出そうとする。

「お、お待ち下さいまし、若さま!」

 老女は(おお)(あわ)てに慌てて追い(すが)った。

「お待ち下さいまし。あの、私共(わたくしども)は、この先の(ハイ)(フォン)山の山荘に住まい致します(パイ)家の者でございます。あちらの方は、お嬢さまの(メイ)(ミン)さまと申されまして、(わたくし)めとこの男とは、お(つか)え申し上げている者にございます!」

 早口で、必死に身分を告げる彼女にしてみれば、危難を救ってくれたこの美しい貴公子を、女主人のためにも、このまま行かせてしまってなるものかと一生懸命なのだろうが、当の世凰(シーファン)は、どうも年寄りが苦手であった。

 (クァン)じいといい、この老女といい、くどくど、しつこく言われるのが嫌いなのである。

(フェン)さま!」

 構わず歩き出そうとした彼をどうにか落ち着きを取り戻したらしい女主人―(パイ)(メイ)(ミン)が呼び止めた。先刻のやり取りで、彼の名を知ったのだろう。

 しかし、彼女はまだほんのりと(ほお)を赤らめていたし、手当を受けた右手は、もう一方の手で、しっかりとその胸に抱きしめたままだった。恐らくは彼女にとって、生まれて初めての、過激(・・)な体験であったに違いない。

「もしも、もしも御迷惑でなければ、ぜひとも、私共の山荘へお立ち寄り願えませんでしょうか?ここから、さほどの距離はございませぬ・・・(チュー)(リン)()ります父にも使いを出し、お礼を申し上げさせたいと存じます。それに、せっかくのお召物(めしもの)にまで、傷をおつけしてしまいましたので・・・」

 だんだんと先細(さきぼそ)りになってはゆくものの、彼女の声音(こわね)にはどこか、いかにも乙女らしい期待感が()められていた。

折角(せっかく)ですが」

 ところが、このあっけらかんとした若者はにべ(・・)もない。

「私は、これから修業先に戻らねばなりませんので。それに、衣装のことなど、どうぞ御心配なく」

 けろっとして言うばかりで、何とも取りつく島さえない。

「でも・・・」

 (パイ)(メイ)(ミン)は、ひどく落胆した様子であったが、すぐに気を取り直し、健気(けなげ)に笑って見せた。

〈あ!〉

 思い()けなくその(かた)(ほお)に、深いえくぼが(きざ)まれた・・。

〈可愛いな!・・〉

 世凰(シーファン)の胸の奥で、ほんの少し、波立つものがあった。けれども、異性に関して全く()()()なこの若者は、それさえも自覚しようとはしないのである。

「ならば(フェン)様、無理にお止めは致しますまい・・・道中(どうちゅう)お気をつけて、おいでになりますように。本当にありがとうございました」

 当人さえも気づかぬ(かす)かな感情の波立ちを、ましてや彼女が察知できる(はず)もなく、(パイ)(メイ)(ミン)は、自分にこの若者を引き止めるだけの魅力の無いことを(さび)しく感じながら、丁寧(ていねい)に礼を述べた。

 彼らは会釈(えしゃく)()わし合い、そして別れた。

(フェン)世凰(シーファン)さま!・・・」

 見る見る遠ざかってゆく端麗(たんれい)な後姿に向かって、(メイ)(ミン)は、熱にうかされたような(うる)んだ瞳で、その名を(つぶや)いた。

 彼の(くちびる)()れた傷口が、燃えるように熱い。

 それは決して、痛みのせいばかりではなかったのだ。

 何となく一方的なようではありながら、実はその出会いこそが、(フェン)世凰(シーファン)(パイ)(メイ)(ミン)との、まごうかたなき運命の出会いだったのである。


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