茹ったカエルが気づくとき
家族が五人、お客が一人。そして、カップが五つ。
ゆらゆらと波打ちそうな液面を見つめながら、来客用のお盆にコーヒーカップを載せて運ぶ。
何度もこなしてきた作業の癖に、その歩みはひどく重い。
「おまたせしました」
廊下に着座してふすまを開ける。この家に嫁いできたときに教えられた通りに入室をする。
ぴたり、と止まった会話を振り払い、おそらく表情に乏しいまま客の前にカップを差し出す。彼女は小さくお辞儀をして苦笑した。
「なに勝手なことしてんだよ」
家族分のカップをそれぞれの場所においていたら、唐突に声が上がる。
夫が発したそれは、責めるようなからかうような、どこか気安い雰囲気をかもし出していた。
「あら、だってブラックで飲めないでしょ?」
ニコニコと笑っている彼女は、どうやら彼女のために添えられたスティックシュガーをそのまま夫のカップに投入したらしい。
彼はずっとそのまま飲んでいた、はずだけれども、とそのやりとりをぼんやりと見つめる。
「今いくつだと思ってんだよ、ったく」
彼はカップを彼女のものと交換し、まだ熱いそれを口に含んだ。
何が面白いのか、彼女はずっと笑ったままだ。
ぴたりと会話がとまった他の家族を置いてきぼりにして。
「……失礼します」
お盆を握り締めながら退出する。
だれも、私の分のカップがないことに気がついてもいない。
それどころかどこかほっとしたような表情すらみせていた。
邪魔者が早々に立ち去ってくれる、とでも言いたげに。
そこまで考えて、少し卑屈すぎたな、と反省をする。
けれども、静かに閉めたふすまの向こうから、聞こえてきた義理の妹の声に現実を知らされた。
「……さんがお姉さんだったらよかったのにぃ」
どこか甘えを含んだ声が私の背中に投げかけられる。
そしてそれを咎める声が上がらない、という事実にも。
ゆらり、と音を出さないように歩き出し、いまだに不慣れな台所へと戻る。
使用した調理器具を洗いながら、自分のものではない道具たちを見回す。
私が買ったものや、持ち込んだものはどこかにしまわれてしまった。それを取り出して並べる努力も、気力もとっくに消えてしまったことに気がつく。
私は、家族ではなかったのだという事実とともに。
「あの……」
こちらに向けた背中に声をかける。
夫は、めんどくさそうに返事をする。
「明日も早いんだ」
それだけで、私はもう何も言えなくなる。
タオルケットを握り締め、丁寧に直しながら自分の体にかけなおす。
幾度その言葉を聞いたのかもわからない。
忙しい仕事、忙しい遊び。
そして、忙しいおつきあい。
その中に私が入り込む余地はない。
私は、「妻」でもないのだと、ようやく自覚した。
そして、書置きと記入した離婚届だけを置いて、私はこの家から逃げ出した。
「おはようございます」
「おはよー」
返された挨拶に気持ちが温まる。
思えば、ろくに挨拶すら返されなかったことを思い出す。
非正規、ではあるけれどもデイケアでの仕事にありつけたのは今が人手不足なおかげだ。
あまり職歴がない自分にとってはありがたいことである。
あの日、衝動的に、けれどもどこか計画的に飛び出した私は、あの土地を離れ大学時代に住んでいた付近へとたどり着いた。
あそこにはいられず、けれども地元へ戻る気もない自分にとって、数少ない知っている地域、である。
数年で再開発が進み、少しだけおしゃれな地域になっていたことに少し驚いたけれども。
私以外にも、わけありな雰囲気を漂わせた従業員たちと一緒に、ルーチンの仕事を淡々とこなす。
もちろん、嫌なことは山ほどあるけれども、それでもそれが報酬として返ってくると思えばどうということはない。
息子の嫁に、と冗談を言うおじいちゃんにも「私、バツイチなので」と答える余裕すらできてきた。
まだ正確にはバツイチではないけれど。
一度、決着をつけなければいけないな、と思いながらもその足はあちらの方向へはむいてくれない。
「バツイチなんっすか?」
この施設の最年少のアルバイト男性にたずねられる。
「そうだけど?」
コンビニのサンドイッチにかじりつきながら答える。
あの家では、私は夫以外の二つ分の弁当を作成していた。
義理の父と義理の妹。
まだ大学に通う彼女と、会社勤めをしている義父はあたりまえのようにその仕事を私へと押し付けた。今まで料理上手な義母が行っていたそれらに比べ、日々苦情を言われた思い出しかないけれど。
おかげさまで現在では料理の腕は上がったが、反比例するようにその作業が大嫌いになってしまった。
「へーー、じゃあ、僕ねらっちゃおうかな?」
どこか大型犬を思わせる人懐っこい彼が冗談めかして口にする。
いや、完全に冗談だろう。
彼はまだ若く、そして私はバツイチ(未定)なのだから。
「おばさん相手にそんなこと言っちゃだめだよー」
けらけらと笑いながら答える。
私は言葉一つを重く受け止めすぎる嫌いがある。
そしてそれが積み重なっていつかは大爆発。とても悪い癖だ。
だけどあの家では澱が折り重なったかのように、徐々に徐々に私の思考を暗くして口を重くさせていった。
家族、だけれども家族ではない。
私は家族、という言葉が今でも大嫌いだ。
「おばさんって言ったって、僕とそう違わないじゃないですかー」
大学の研究のためにアルバイトに来ている、という彼は現在二十歳前後のようだ。
還暦もすぎれば六歳差などたいしたことはないだろうが、今ではその差は十分すぎる差だ。
乾いた笑いを返しながら、サンドイッチを食べ終わる。
お茶を飲み干して、時計を確認する。
気安い時間は終わったのだと、アピールをする。
聡い彼はそれだけで押し黙ったまま残りの弁当をかきこんでいた。
「偶然ですね」
ニコニコと、人の良い笑顔で彼が近づいてくる。
敷金も保証人も要らないアパートというのも探せばそれなりにあるものだ。私は検索していたそれにすぐさま申し込み、そして現在もそこに暮らしている。そして、そのアパートの近くには時勢に乗り遅れた、けれどもそれなりに必要とされる中規模な本屋が存在している。
休みの日には暇な私はそこへ行っては色々物色している。
あの頃は、そういったことも良い顔をされなくて、萎縮していた。
ひとりとなったばかりの自分は、久しぶりの本屋に舞い上がって、手にとっては金額に驚いて本棚へ返していったという苦い思い出を持っている。
「……こんにちは?」
朝でも夜でもない時間帯に、とりあえず無難だと思われる挨拶を返す。
朝のおはようと違って、どこか間抜けな響きがする。
「本、好きなんですか?」
「え?ええ、まあ新刊はあまり買えないけどねー」
正直に返答する。
良い、と思う本もとりあえず文庫落ちを待って買うことが多い。単純にスペースと金額の問題だ。
「僕、結構本もってますよ?見にきます?」
とことこと私の後をついて周る彼が唐突なことを口にする。
意味がよくわからなくて、本を手に取ったまま見上げる。
彼は、背が高くてひょろっとした体つきな割には力があった、などとまったく関係のないことが思い浮かんだ。
「あー、私もう帰るから」
そっと本を戻して、ぎこちなく笑みを浮かべる。
「そっか、残念」
大してがっかりした顔をもしないで笑う。
そう、これはきっと彼なりの冗談なのだと言い聞かせる。
手を振って歩き始めた私に彼の声がかかる。
「またね」
念を押されたように、妙に力強い声でそれは私の耳に届いた。
「届け、出してくれた?」
数ヶ月ぶりに訪れたその家は、どこか薄汚れた印象を与えてくれた。
温かみがあってよく磨かれた廊下も、整理整頓された台所も、どこか雑然としている。
掃除がされていないわけではないけれど、何かが足りない。
そんな風に微妙に変化していた。
無言のまま「夫」は私を平手打ちした。
乾いた音が響く。
ごくり、と義理の妹「だった」彼女が息を呑む音が聞こえるほどに。
「どこ、行ってたんだ?」
「あなたには、興味も関係もないと思うのだけど」
じんじんと痛む左ほほをさする。
熱を帯びて、口の中はどこかが切れたのか血の味がする。
「お、おねーさん、それは」
激高したままの夫に代わり、義妹に声をかけられる。
「私、あなたの姉だったことなんてあったかしら?」
くすり、と笑う。
以前の自分だったらとてもこんなことは言えはしなかった。
不満を溜め込んで、それでも自分のせいだと思い込んで。
卑屈で、後ろ向きで。
些細なきっかけ一つで変わってしまった自分に驚く。
いや、元に戻っただけなのかもしれない。
そんな私は、あの頃の夫とつきあってはいないはずだから。
あの人と結婚してもらって姉と呼べばいいじゃない。
そんな言葉を呑み込む。
たぶん、彼女は悪くない。
ほんのちょっとだけ意地悪な心で、私に対して優位な立場を見せ付けただけだ。
夫と同じ地域で育って、一時期彼とおつきあいもして、そしてこの地域にまだ根を張っている彼女が、よそから来た私に対してそういう態度をとってしまうこともわからないでもない。
よくある田舎、が排他的であることも、自分の実家の経験で痛いほどよくわかっている。
だからといって、それに夫や義妹、彼らの両親が追随することは許されないと思うけれど。
「地元のお嬢さんでももらったら?よくわかるでしょ、風習も何もかも」
とりたてて特徴のない、だからこそゆるゆると消滅に向かっているどこにでもある田舎町。
その中にはその中のルールがあって。それを逸脱するものを許すことはない。遠巻きにしてじわじわと追い込み、気がつけば孤立している。しかもそれを悪気はなくやってのける。
きっとお客にきた彼女は親しげに下の名前で呼ばれ、私は「若嫁」であり、年をとれば「大嫁」となる。
いや、それは些細な現象だ。
周囲の誰に、どう呼ばれたとしても関係がない。
「私、家族じゃないでしょ?」
しっかりと夫の目を見据える。
逸らされた視線は床を向いている。
磨きが足りない床は、どこか油っぽさが残っている。
「あ、おかーさん、おかーさんが」
「だから?」
ここの家を一手に担わなくてはいけなくなった、義母が入院していることはここにたどり着くまでに散々聞かされた。
もちろん善良な第三者たち、という野次馬にだ。
けれども、私はその言葉にはちっとも揺らがなかった。
小さないやみや、当てこすりを繰り返した義母だけれども、結局彼女もどこまでも「よそ者」だったのだと実感しただけだ。
「さっさと書いてくれないと、診断書とって出るところ出なくちゃいけないんだけど」
少しだけ見上げて、けれどもきっぱりと言い放つ。
ただの平手打ち、だけれどもきちんと手順を踏めば診断書は出してくれるだろう。それがささやかな傷だろうが、手を上げた方が不利となる。
彼は両手で握りこぶしをつくりながらこちらを睨み返す。
「男か、男ができたのか」
下種な言葉に心底がっかりをする。
自分が悪かったとは少しも思わない、思えない。そして私もそれについて告げてはあげない。
「あなたじゃあるまいし」
単純に言葉を返す。
あの彼女と何かがあった、とは思っていない。
けど、気持ちの上で「何もなかった」とも思ってはいない。
その心までも縛ることはできないし、そんな権利はないことも知っている。
けれども、この地域で、この家で、彼は私の側に百パーセント立たなくてはだめだ、というわがままな気持ちは揺らいでいない。
絶対にやましいことなどない、と言い切れない彼はだまりこくる。
新しく取り寄せて、自らの分を書き込んだ離婚届を差し出す。
「お願いね、あなたのことが好きだったのは確かだから」
笑えてた、と思う。
最後の残りかすのような思いを吐露して、私はその屋敷を後にした。
繰り返し送られる別人格が憑依したとしか思えないメールと泣き言、そしてなぜだか義理の母からの嘆願を振り払う日々に飽きた頃、ようやく届けは私の実家へと送られた。
その頃には離婚に難色を示していたはずの両親の態度すら軟化し、ねぎらいの言葉とともにため息を吐かれるまでになっていた。
そして、私は正式に彼の妻ではなくなった。
「偶然ですね」
じろり、とにらんでしまったのは私が悪いわけではないと思う。
聞けば彼の家は小さな駅をはさんで反対側で、品揃えもそこそこなこの本屋へ通う理由などないのだから。
「僕、もうすぐバイトやめるんですよ」
相変わらずひょこひょこと後をついて来る彼が少しだけ驚く情報をもたらす。
彼は自分の勉強のために今の施設でバイトをしているだけで、いずれは大学へ戻って勉強をして、そして就職するだろう人材だ。若い男はありがたいけれど、彼はあくまで一過性の戦力として、頼り過ぎないように調整されていたはずだ。
「まあ、学生は勉強が本分だからねぇ」
ばばくさいことを言いながら、好きな作家の文庫本を手に取る。
もちろん買えないことはない、けれども、色々な予算を考えて躊躇する。
一人暮らしには色々と物入りだ、ということに久しぶりにうろたえた。
鍋一つとっても買わなければ、自分のねぐらで袋ラーメンすら作れないのだ。
離婚が成立するまでは、私はどこか不安定な立ち位置で生活していたのかもしれない。少し余裕ができればあれほど嫌になった料理がしたくなり、現在はこつこつと集めている最中だ。
「あ、これ僕持ってますよ?」
「ほんと?」
反射的に振り返ってしまった自分は悪くない、と思う。
好きな作家さんで、図書館でも借りられなくって、それでも欲しくって。
うずうずと次の言葉をまつ私に彼がにこりと微笑む。
「僕の部屋、来ます?」
ぐるぐると色々な考えがめぐり、そして結論をだす。
「じゃあ、いいや。本は逃げないし」
たぶんきっと、文庫になったからには絶版にはならない、はず、ならないよね?
未練がましく本棚へと戻し、そして彼に背中を向ける。
「冗談ですよーーー」
彼のひとなつっこい声が追いかけてくる。
私が彼の部屋を訪れるようになるのはもっとずっと後の話。