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それでも

「take your marks」

掛け声と共に学校のプールの低い飛び込み台に両足を乗せて前掲姿勢になり、台の端を掴む。

照りつける太陽。僅かに集まった視線。高まる緊張。

「ーーピッ」

笛の音を模した声が始まりの合図。

矢を射出するようなイメージでより遠くへ、より真っ直ぐ身体を伸ばして一点での着水を目指すーーも、素人にはなかなか難しいものだ。いつも通りに破裂音と共に水の世界へ。

ヒリヒリする腹の痛みに耐えつつ、まずは一掻き一蹴り。飛び込んだ勢いを活かすように力強く且つしなやかに水の塊を蹴りつけてから両手で押し出す。トップスピードを失うと同時に最初の呼吸が出来るといい。

ここから先はルーチンワークだ。両足を揃えて曲げて蹴り、ニ、三秒伸びてから腕を掻きさっと呼吸をする。これの繰り返しである。

かといって流れ作業というわけではない……!

今測っているのは百メートル平泳ぎだ。陸上とは違い短くはない。最初から全力で泳ぐと後が辛くなる。

となると、ペースは……こんもんか。

キックは斜め下四十五度に向けるよう意識。伸びはおよそ二、三秒。手の軌跡や掻く強さと速さも微調整し、極力呼吸は一瞬で。

実際速い人の場合だと『考えるな、感じろ』で泳ぐ方が好タイムに結びつくが、自分のような遅い者や初心者にはこれが大切だ。

それに何より意識しなければならないのはーー。

壁まであと五メートルの地点で隣のコースのヤツとすれ違った。ということは相手との差はざっと十メートルか。自分にとっての二十メートル地点で既に三十メートル泳いでいることになる。

割と厳しい状況である。焦りは禁物。急がば回れ、まさにその通りだ。

ここで焦ってしまうとすぐ先のターンで失敗する虞がある。

ターンは両手でパッとタッチするのと同時に身体を引きつけ、壁を思いきり蹴って新たな推進力を得る。スピードとタイミングが命だ。それから身体をバネのように射出させることをイメージ。

けのびの勢いがある程度無くなったところで再び一掻き一蹴り。ここで少しでも距離を稼ぐ……!

けれども隣のコースとの差は縮まっていないようだ。むしろ少し広がっている……?

落ち着け、マイペースだマイペース。

変に焦ってキックを連発するのは逆効果。一回、一回大切に水を捕らえるようなイメージを以て、推進力を最大限に活かせるよう努める。出来るかどうか別として。

五十メートル地点のターン。頭が水面から上がる刹那に、頑張れという声が聞こえた気がした。

やっと半分。ここの五十から七十五メートルが個人的に一番辛いところだ。ラップタイムを確認するといつもここだけ三秒程度長くかかっている。

一掻き一蹴りをしても僅か五メートルしか稼げない。

手足が徐々に重くなってきている。自分は本当に進んでいるのか少々不安になってくる。

それから、ふと実感した。

水の中はなんて静かなのだろう。そうか、水は抗うべきものでもなければ不自由な地獄でもない。ただ、身体の動きを流れに馴染ませるんだ。以前顧問が『水泳に筋力は関係無い。力をどう遣うかだ』と説いていたが初めて意味を掴みかけた気がしてきた。

そしてターン。よし、ラスト二十五メートル!

力を出し切るつもりで一発一発の動作を、最高のパフォーマンスで行う。

呼吸の瞬間、隣のコースがプールから上がっているところが見えた。だから何だ。

対岸目指してとにかく泳ぐんだ。

ラスト十二・五メートル。四肢に鉄塊をくくりつけたように重い。頭も働かなくなってきた。いや、ここまでくれば余計なことを考えるべきではない。隣で泳いでいたヤツが余裕そうに談笑しているとかどうでもいい。どうでもいいんだ、進め!

二十五メートル×十五メートルの広い空間をたった一人で突き進む。

ラスト五メートル。あと一、二回。

キック…………パッ。キック……ーーゴール。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

「二分七秒一五」

ストップウォッチを握ったマネージャーが告げた。

「……え?」

「タイム、二分七秒一五だよ」

「マジか……」

と呟きながらプールから上がり、適当な所で腰を下ろす。プールサイドは掃除してもキリがないくらいで、少し泥が付くかもしれないがこの際どうでもいい。

「はい、じゃあ次の人~」

キャプテンが声を掛け、六人が割り振られた飛び込み台の所へ移動した。

それにしても、二分七秒一五か……。遅い。遅すぎる。いくら練習後の疲れた状態で測ったとはいえこれは論外だ。

どれくらい酷いかといえば女子の後輩でも二分もかかっていないし、マスターズを基準に考えれば壮年の男性がギリギリ出場できるタイムと同じくらいである。

ーーはあ。なんで水泳部に入ったのだろう。『初心者OK』なんて文言にふらっと惹かれてしまったのだろう。かつて習っていたとはいえ泳力は小学生の頃から止まったままだったのに。

「Take your marksーーーーピッ」

どうやら次の計測の準備が整ったようだ。やはり根っからの水泳部 員はスタートの体勢すら様になっている。容赦ない真夏の陽光を反射するゴーグルが、あたかも彼らの眩しさを象徴しているようだ。

「――ピッ」

合図とほぼ同時に飛び込み台から射出された五本の矢。それぞれが 五メートル地点のフラッグに届いてしまいそうなくらい高く遠くへ飛び、自然な流れで頭、肩、腰、脚、爪先の順で一点着水。まるで、というよりも放物線そのものだ。これだけでも見応えがあるが、彼らにとってはまだまだ序の口。そのまま水中をすーっと流れるように距離を稼ぐ。

五、六コースの平泳ぎはごく単純な一掻き一蹴りの動作だけで既にプールの真ん中まで進んでしまう。あれほどの推進力はどこから発生しているのか甚だ疑問である。

四コースでのフリーは明らかに力を抜いているようにしか映らないのに、スイスイと流れるように泳いでいる。早送りの映像を見せつけられているようにしが感じられない。

三コースのフリーは対照的にガツガツとしていて力強い。キック一発一発が強くて打ちつける度に水飛沫が上がっている。腕はより遠くへと大きな何かを掴もうとするかのように伸ばされる。まるで、貪欲に獲物を追い求める獣のようだ。見ているだけでも心をも掴まれるようである。

二コースのフリー。この様子を正確に表現できる言葉はこれしかないだろう。

『圧巻』

速い。とにかく速い。動きがどうのこうのではない。一度は経験があるだろう。本当にすごいものに直面すると語彙力を失うことが。このフリーはまさにそれだ。

一コースのバタフライは一つ一つの動作がダイナミックだ。身体が実際の大きさ以上に大きく見えて、あたかも海獣を目の当たりに している気分になる。

普段の練習では各部員のスピードごとにA、B、Cに分かれているためこういうときにしか優れた泳ぎを、生で眺める機会がない。参考になるポイントを見出そうとじっと観察しているうちに彼らは百メートルを泳ぎきった。チラッと時計を確認すると一分二十秒前後しか経過していなかった。

「みんなお疲れ~。もう一回測りたい人いる? ………………いないね?ダウンして~!明日はAP練だよ。疲れ残さないでね~!」

ダウンとはクールダウンの略で、火照った身体、強張った筋肉を冷やしたり、解したりするようにゆっくりと泳ぐ、というものだ。これを行うのと行わないとでは翌日の疲労の残り具合がだいぶ異なるそうだ。なお自身で比べたことはないため、実際には効果を実感できていないが。

半分以上の部員がスタートするのを待ってから、ふらふらしつつプールに軽く飛び込んだ。

タイム計測とは逆に、脱力した状態での一掻き一蹴り。もちろんあまり進まない。そのままルーチンワークをこなすようにゆるーくキックと息継ぎを繰り返す。

俺はこの瞬間が大好きだ。練習の度に限界まで追い込まれる身体を全力で甘やかすこの瞬間が。むしろ幸福感さえ覚える。

まったく平泳ぎは最高だぜ。この一本のために俺は生きている。

ああ、そうか。

だから水泳部に入ったんだ。自分はきっとワースト一位から抜け出せないだろう。それでも日々高みを目指してて泳ぐ。

部内で迷惑がっている人も少なくないかもしれない。それでも部に居残って泳ぎたい。

マイナスの感情に支配されることもあった。

それでも練習をサボろうとは思わない。引退と自らで定めた時期まで意地でも泳ぎ続けようとした。

ぜんぶ、ぜんぶ、水泳――特に平泳ぎが『好きだ』という気持ちがあるからだ。これさえ捨てずに保ち続ければ、きっとどこまででも行けるかもしれない。例え茨道でも地獄でも。

『好き』というものさえあれば、暗闇の世界もきっと照らされる。これだけは忘れないでいよう。

それに面と向かって馬鹿にされたことがあるだろうか?嘲笑されたことがあるだろうか?

答えはノーだ。陰でどう思っているかは知らないが、むしろ親身にアドバイスしてくれたのではないか?

つまり仲間の存在も大きな助けになるのだ。この二つが揃っているとは、なんて素敵な環境なのだろうか。

そんなキザな言葉が沢山、疲弊しきった頭に浮かんできた。あとで思い返せばきっと赤面するに違いない、とも思いつつ。

読んでいただき、ありがとうございました。この作品には自身の水泳部員としての二年間を、短いながらも込めました。

低評価でも構わないので、感想や評価をいただけると有難いです。

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