三つの欲望
長椅子が並べられた教会の礼拝堂。
そこには巨大なステンドグラスがあり、人々が一番多く訪れる昼前の時間帯には日光を透過して幻想的な光景を演出する。
今日は礼拝が行われない日なので最高の時間を独り占めできるのは幸運なのだが、色彩豊かな光を浴びる神父の顔は辛気臭い。
冷静沈着で理性の塊である神父がこんな表情をするのは滅多にない。
「今日はわざわざお越しいただき、ありがとうございます」
「御用の際はいつでもお呼びください。こちらもお世話になっていますので、ご遠慮なく」
これは社交辞令ではなく、以前に迷惑をかけたことがあるのだ。
姉と戦い片腕を失って姿をくらましていた期間、多くの人が私の身を案じて教会を訪れ、神父と共に祈りを捧げてくれていたらしい。
「皆様とても心配されていましたからね。特にスーミレさん、チェイリさん、クヨリさんに……あとはレオンドルドさんも頻繁に顔を出していましたよ。彼の祈っている姿を見たことはありませんが」
そう言って含み笑いをする神父。
「チャンピオンですか」
それは意外だった。
彼ならドンと構えて気にしないものだと思い込んでいたが。
「これは貴重な情報の提供ありがとうございます。酒の席でからかう材料が増えました」
「程々にしてあげてくださいね。このまま雑談を楽しみたいところですが、そろそろお呼び立てした理由をお話しします」
神父の表情と和んでいた空気が引き締まる。
厄介事か悩み事の相談だとは思うが、彼が頭を悩ませる案件と言えば彼女達の存在。
色気を具現化させたかのようなシスター。
負けん気が強く偉大な祖先の血を引く少女。
元は敵でありながら神父に惚れた淫魔サキュバス。
この内の誰か、もしくは全員に関してだろう。
「実は最近、夢見が悪くて寝不足気味なのですよ」
「夢ですか。ちなみにどのような内容の夢を?」
「情けないことに性を刺激するようなものでして。麗しい乙女が現れ私を誘惑してくるのです。必死に抗っているのですが相手はあきらめようとしません。妙に鮮明な夢でして」
「……ほう」
誰の仕業か予想はついた。
とはいえ証拠もないのに決めつけはよくない。もう少し詳しく聞き出してみるか。
「夢の女性は何と言っているのですか」
「淫乱な言葉も多いのですが、他にも頻繁に口にするのが『種族の壁なんて関係ない』『禁忌の恋こそ燃え上がる』でしょうか。私の『性欲』レベルが高すぎるせいで未だにこのような欲望に悩まされることになろうとは。聖職者として失格です」
「……ほう」
犯人が確定した。
神父は肩を落として自身に失望しているが当人は何も悪くない。
これは全て彼女の仕業だからだ。
――人の夢に現れ精気を吸い取る悪魔サキュバス。
夜な夜な神父の夢に現れては誘惑しているのは取り巻き三人衆の一人。
昼間の誘惑だけでは埒が明かないと、種族としての本領を発揮してきたか。
サキュバスが人の精気を吸い取るという話は有名なのだが、夢を操作できることを知る者は少ない。
それもそのはず、サキュバスの夢を見た者は魅了され人に決して明かそうとはしない。日に日に弱っていき、最終的には淫夢に取り込まれ衰弱死するのだ。
彼女の場合は神父を殺したいのではなく、純粋に魅了して独占したいだけだろう。
「神よ、お許しください。私の信心が足りぬばかりにこのような夢を……」
神の像に向かって祈りを捧げる神父の頭上には『理性』の文字と数字が浮かんでいる。
またレベルが上がっているな。
「神父様ぁ、ここにいらしたんですねぇ。お話は終わりましたかぁ」
脳に浸透して性欲を刺激するこの声はシスターか。
礼拝堂に繋がる扉を少しだけ開けて、半身を出してこっちを覗き込んでいる。
呼吸が乱れて頬が上気した状態で扉の縁にしなだれかかるシスター。服装はいつもの修道服なのだが裾が捲れ上がって太ももが露出していた。
この状況は狙ってやっているとしか思えないのだが、実はそうではない。注意深く観察をすれば全ての行動に説明がつく。
息が荒いのは神父を探していたから。
服が乱れているのも同様の理由。
女性の下腹部を扉に擦りつけているように見えるが、あれは疲れているから体を預けているだけ。……だろう。
『色気』『煽情』『魅了』を高レベルで兼ね備えた彼女は無意識に人の欲情を煽る。
おまけに『鈍感』もあるので自分の姿がどれだけ危険なのかに気づいていない。
「もう少しで話が終わりますので、先に昼食をとっていてください」
「はあーぃ。分かりましたぁ」
扉を開けて滑り込んできたシスターが神父の隣に並んで微笑んでいる。何の邪気もなく純粋に笑っているはずなのに背筋がぞわっとする。
彼女の三つのスキルも順調に成長しているのを実感させられるよ。
この威力に晒され続けている神父の『理性』は尋常ではないレベルに達している。
寝るまでシスターのスキルに抵抗して、夜はサキュバスの淫乱な夢。
休む暇のなく押し寄せる誘惑の波状攻撃だな、これは。
「おや、何故私を拝むのです?」
「男として感心して、つい」
神父は首を傾げているが一人の男としてその偉業を称えたい。
しかし、ここまで『理性』が育っているのであれば、そろそろ高位スキルに目覚めてもいいだろうに。
全ての欲望を捨て去った一人の僧侶には伝説のスキルが存在した。という逸話を耳にしたことがありそれは『理性』が進化した先にあるものだと思っていたのだが。
レベルだけではなく何か別の条件が存在すると仮定するべきか。
「そんな拝まれるような者ではありませんよ、私は。尊敬に値する聖職者というのは、かの御仁……タセルク様ぐらいではないでしょうか。全ての欲望を捨て人の為に生涯を尽くしたという」
偶然にも神父は同じ人を思い浮かべたようだ。
丁度いい。同じ宗派である神父なら俺よりも詳しい事情を知っている可能性が高い。知っていることを全て吐き出してもらおう。
「商人の私でも聞き及んでいますよ。詳しくは存じませんが、どのような御方だったのでしょうか?」
「若かりし頃は素行の悪い青年で悪事に手を染め、ありとあらゆる欲望に溺れ、街では鼻つまみ者だったそうですよ」
「それは……意外ですね」
生まれついての聖人かと思えばチンピラのような存在だったとは。
「そうですね。私も初めてその事を知った時には驚愕しました。憧れの存在であるタセルク様に限って、と。あの御方を陥れる嘘ではないかとも疑ったのですが、自ら多くの人に語られた自伝だそうです」
人から人へと伝わる話には誇張や嘘が多く含まれるが、当人が語っていたとなると話は別だ。
神父の話に高位スキルへのヒントはないかと注意深く耳を澄ます。
「このまま粗暴な行為を続けていれば、いつか野良ゴブリンのように野垂れ死ぬ。そう覚悟されていたそうなのですが、このままではいけないと神の教えに目覚め欲望に抗う日々を過ごしている最中、何の前触れもなく唐突に全ての欲が消えたそうです。そして今までの行いを恥じ、人々の為に残りの人生を尽くす。そう決められたのです」
指を組み合わせ天に向かって語る神父をよそに俺は考え込んでいた。
さっきの話、何か引っかかる。
深読みしなければ欲を尽くして飽きたとも考えられる。しかし、そんな単純な物だろうか。権力者は死ぬまで欲望に身を落とし、堕落した者を何度も見てきた。
生まれ持っての素質と言ってしまえばそれまでだが、なら神父にはその素質があるはず。何が違うのか。
「素朴な疑問なのですが、それほど偉大な方ならスキルも優れていたのでしょうね」
「それがですね、若い頃はろくでもないスキルしか所有されていなかったそうですよ。壮年にあの有名なスキルに目覚めたそうですが」
ん? 今の発言に『直感』が反応した。
何が引っかかったのかまでは分からないが、一言一句思い出して反芻してみるか。
後半の有名なスキルに目覚めたのは周知の事実だ。今更どうとも思わない。
問題は前半部分か。「若い頃はろくでもないスキル」となるとおそらく欲望系のスキルが揃っていた。
神父だって『性欲』『食欲』のスキルを高レベルで所有している。……『食欲』を試しに高レベルで売ったのは俺だけど。
待てよ、神父とタセルク。
そして、欲望。
やはり、高位スキルへの進化の方法は……。
「どうかされましたか?」
「いえ、なんでもありませんよ」
思考の海に深く潜りすぎていたようだ。
心配そうに顔を覗き込んでいた神父に曖昧な笑みを返す。
確信ではないが目途はついた。一度、彼の信仰する宗派の大神殿に忍び込んで資料をあさるのもありか。
「話が冗長でしたか。タセルク様の話になるとつい盛り上がってしまいまして、申し訳ありません」
「そんなことはありませんよ。ところで、睡眠不足の件に関してなのですが。打開策を思いつきました」
「本当ですか! どうにも眠りが浅く、このままでは日常生活にも支障をきたしてしまいそうで」
安堵して胸を撫で下ろしている。
よく見ると目の下に薄っすらと隈ができ、肌も少し荒れているように見えた。
「その方法なのですが私の所有するスキルの中に『睡眠欲』というものがありまして、これは眠りたいという欲求を強くするのですが、その他にも眠りを深くするという作用があります。これを高レベルで所有すれば悪い夢など見ずに安眠は間違いなしですよ」
「おー、そうなのですか。回収屋さんが言うのであれば間違いありませんね」
信用しきった顔で大きく頷く。
神父の顔の造りは厳ついはずなのだが時折、男の俺でも見惚れそうな表情を見せる。
包容力と安心感を与える男らしい横顔だ。あの三人が惚れるのも無理はない。
これで人の三大欲求である『性欲』『食欲』『睡眠欲』が揃った。頻繁に様子を見に来るように心がけよう。
「ふふっ、今日もダーリンはぐっすり眠っている、か、し、ら」
二階にある神父様の寝室の窓際で、下着よりも布面積が少ない格好をした美女が舌なめずりをしている。
そんな彼女の背後に『隠蔽』『忍び足』でそっと近づき、口を押えてから声を掛けた。
「こんばんは。綺麗な星空ですね」
「むぐっ⁉」
逃れようと派手に暴れていたが、俺の顔を見て動きを止める。
「むごむぐぐごん?」
「はい、回収屋ですよ。深夜ですからお静かに」
もう大丈夫だろうと口から手を放す。
サキュバスは大きく深呼吸をしてから、まじまじと見つめてくる。
「なんでこんなところに。……まさか私と一緒に夜這いを? 前からダーリンと仲いいから怪しいと思ってたのよ。あっ、だから神父さんは私の誘惑に負けないのね。たまにいるのよ、誘惑が全く通用しないのが」
何度も頷くたびに上下に揺れて、豊かな胸を覆う僅かな布が外れそうになっている。
これがシスターなら無意識だと思うが、サキュバスは狙ってやっていそうだ。
天然と計算の差か。
「それは偏見では? それに私も神父さんもその気はないですよ」
「男色となると私じゃなくてインキュバスの出番になっちゃうから、一安心ね。あら、でも、そうなると何しているの?」
「神父様が最近寝不足で困っているとの相談を受けまして」
「あ、あら、大変。」
サキュバスは指をもぞもぞさせて視線が定まらず、露骨に怪しい態度をとる。
この状況でとぼけて誤魔化せるとでも。
「もう二度と卑猥な夢を見させないと誓うのであれば見逃してあげますよ」
「うっ、むむむっ」
「これを知ったら神父さんはどう思うのでしょうね。嫌われたくはないのでしょう」
「あうぅ。で、でもお」
おや、これでも譲らないのか。
神父を引き合いに出したらあっさり退くと予想していたのに。
「こんなことをしないで正々堂々と挑んでみてはどうですか?」
頑なに首を縦に振らないサキュバス相手に諭してみる。
夢魔に対して夢を禁じるのは酷かもしれないが、どうしてもここで説得しなければならない。
何故なら神父に売った『睡眠欲』に夢を見なくなる効果など存在しないからだ。
あれは『睡眠欲』を売るための方便に過ぎず、実際は眠りたいという欲求が増えるのみ。ただ全てが嘘だという訳でもない。
眠る欲望が強くなることで睡眠が好きになるのは間違いない。
普通なら眠り姫のように一日の大半を寝て過ごすようなスキルであっても、神父の『理性』の前では『睡眠欲』の効果なんて焼け石に水だ。
俺の説得を聞いて俯いて黙ったサキュバス。
話が通じたようだな。内心で安堵の息を吐く。
黙ったままゆっくりと顔を上げたサキュバスは、目に涙を湛えていた。
「だってえええっ! あの女、おかしいのよ! なんで淫魔である私よりあの女の方が色っぽいのよ! 清楚なふりしてあんな淫乱女見たことないわっ!」
酷い言われようだ。けれど髪を振り乱して非難したくなる気持ちも分からなくはない。
シスターは無意識に人を欲情させる才能の持ち主。
サキュバスと似たスキルを所有しているが、そのレベルが全て軽く上回っている。
淫魔としてのプライドを傷つけられたら、自分の最大の持ち味を生かして行動したくもなるだろう。
「あの人は特別ですからね」
「絶対生まれる種族間違ってるわ……」
思わず同意してしまいそうになる。
サキュバスとして産まれていたら、今頃は彼女よりも遥か高みに立っていた存在……だったかもしれない逸材だ。
清純に生きたいと願っているシスターにしてみれば迷惑な話で、誉め言葉として受け取ってはくれまい。
「商人は売れない商品がある場合、様々な手を尽くすものですよ。もっと別の視点から異なる方法で売り込んでみてはどうですか」
「別の方法?」
「あなたが認めるシスターでも落とせない相手ですよ。お色気路線をあきらめて別の魅力で勝負を懸けてみてはいかがでしょう」
「別の魅力? 他の女の魅力って家事かな。料理は……回収屋さんから既に購入したし、あとは掃除や洗濯ぐらいよね。どっちもあんまり自信はないんだけど」
魔物のサキュバスとして生きてきた彼女が家事とは無縁なのは分かりきっていた。
「そういえば偶然にも先日、家事スキルを大量に買い取りまして、宜しければ手頃な価格でお売りしますよ」
「買う、買います!」
「もう少し小声でお願いします。神父様が起きるかもしれませんので」
小声で話すように促したが、そんな心配は必要ない。
今日来ることを予見していたので、教会の人々は予め眠らせておいた。
家事に関するスキルを買い取ったサキュバスは満足そうだ。教会での家事一式はシスターが行っているので、彼女がそのスキルを活かす機会があるとは思えないのだが……黙っておこう。
「これでダーリンを虜にしてやるんだからっ!」
「頑張ってくださいね」
背中から蝙蝠のような羽根を広げ飛び立とうとした彼女に手を振る。
サキュバスは羽ばたく直前に俺へ振り返った。
「本当に感謝しないとね。ダーリンに一目惚れした私に住んでいる場所を教えてくれたのも回収屋さんだったし。その後も料理スキルや家事に関するスキルも売ってくれた。悪魔相手にも公平に接してくれて、ありがとう」
男に媚びるような笑みより、今浮かべている表情の方が魅力的だ。
それにいつか気づけるといいが。
「いえいえ、商売に垣根はありませんよ」
決して、淫魔の彼女を唆して神父の『理性』スキル向上に一役買ってもらったわけではない。
神父が睡眠不足に陥り追加で『睡眠欲』を買ったのも偶然の産物に過ぎない。
闇夜に消えていく彼女の背を見届けてから、小さく息を吐く。
「さて用件も済みましたし『計算』のスキルは外しておきましょうか」




