ただ君だけを見つめていた
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その人はいつも三駅あとに乗って来る。
駆け込み乗車は危険ですのでおやめください、という駅員の声がホームに響き、つづいて電車のドアが閉まる。
彼女があらわれるのは、いつもおやめくださいの「お」のあたり。もうすこし時間に余裕をもてばいいのにと毎朝思う。
僕が彼女を初めて見たのは一年ほど前のことだ。忙しなく入れ替わる人群れに、誰かの背広から漂うナフタリンの香り、季節ごとに衣替えをする中吊り広告に、建物と建物の間を過ぎるときだけ差し込む朝日。そんなものに慣れ過ぎていた僕の目は、彼女の姿を映してやっとその色彩をとらえた。
彼女は息を切らして肩を上下させ、膝に手をついている。背を伸ばした瞬間に、後ろで縛った一房の髪がまるで生き物のように跳ねた。
僕はそれ自体が世界の神秘のように思われて、ただ黙って見つめている。
今日も彼女は胸の前で、にぎりこぶしをふたつつくる。どうやらそれが彼女なりの毎朝の儀式であることを僕はこの一年で知った。さあ、今日も一日がんばるぞ。そんな声がどこかから聞こえてくるような気がして、僕は彼女のこの儀式がとても好きになった。
話したことは一度しかないけれど、彼女はとてもあたたかい人だと思う。最初にそう思ったときのことを僕は今でもはっきりと、寸分たがわず思い出せる。
いつものように頬を上気させてあらわれた彼女は、ちょうど彼女と入れ替わりに下りて行った中年男の座席に、僕のとなりに腰を下ろした。荒い息をととのえ、乱れた髪を手櫛で梳いて、いつものように胸の前でにぎりこぶしをふたつつくった。そのようすがあまりにも幼かったものだから、僕は自然と彼女を見ていた。一駅が過ぎ、二駅が過ぎ、どうやらお疲れのようすの彼女は座席の狭い空間で器用に船をこいでいる。電車はすすみ、その次の停車駅で老夫婦が乗ってきた。おばあさんはおじいさんの手を引いている。杖をついているおじいさんは見るからに足が悪そうだし、そのうえ耳が悪そうだった。おばあさんがおじいさんの顔に顔を近づけて、車内に響く大きな声で話しかける。車内の多くの人がスマートフォンから視線をあげ老夫婦を一瞥し、どこか迷惑そうな顔をうかべてスマートフォンへと視線をもどす。僕はそのようすをまるで映画を観るみたいにながめ、そして少しだけ浮いた腰をしずめる。
僕が動かなくてもだれかが、そんな考えが頭をかすめる。
「すみません、どうぞ」
車内の大多数と同じようにスマートフォンへと視線をもどした僕は、その声でまた顔をあげた。僕がそこで見たものは、さきほどまで船をこいでいた彼女が老夫婦に席をゆずる姿だった。なにかがもやっと胸のうちでひろがった。
どうもありがとう、おばあさんのほがらかな声が聞こえて僕のとなりにおじいさんが腰かけた。僕は胸のうちのもやっとが、さらに広がるのを感じていた。
「おばあさん、どうぞ」
気がつくと勝手に口が動いていた。いえいえ、そんな。控えめに断るおばあさんに、いいんです次で下りますから、そんな嘘までついていた。
おばあさんに席をゆずって、僕は彼女の隣に立つ。会話なんてもちろんなくて、僕はだまって桜をながめた。右から左にながれてゆく薄桃色の町並みを、もう春か、なんて言い訳がましい感慨を抱いて見つめていた。
駅について僕は下車した。嘘をついてまで席をゆずったなんて、恥ずかしくってばれたくなかった。彼女もいっしょに電車を下りた。
ホームに降りて佇む僕を、彼女は小首をかしげて見つめている。
「なにかいいことあったんですか」
耳に心地よい声だと思った。
「桜がとても綺麗でしたので」
顔をそむけてビジネス鞄をかかげてみせると、彼女のくすりとした笑みがとても可憐に咲いていた。
あれからもう一年かと思うと、月日のながれる早さを感じる。
あの出来事があってから僕らは一年間、毎朝顔を合わせている。しかし、会話を交わすことはない。彼女は僕の最寄り駅から三駅のところで乗って来て、僕よりひとつ前の駅でいつも先に下りてしまう。
今日も彼女が乗ってきた。胸の前でにぎりこぶしをふたつつくって、僕は勝手に元気をもらう。でも、今日は少し違った。
「ありがとうございました」
彼女が電車を下りる際、感謝の言葉と共に一綴りの便箋をくれたのだ。
名前も知らないやさしいあなたへ
はじめまして、なんて変なかんじです。でも、ちゃんと言いたいのではじめまして。よくわからない手紙を渡されてさぞやお困りのことと思います。ごめんなさい。でも、どうしてもあなたに伝えたかったんです。
あなたとわたしが出会ったのはちょうど一年前の今日でした。朝日の眩しい良く晴れた日で、あなたは嘘までついておばあさんに席をゆずっていましたね。憶えてますか、一回だけ話したこと。電車を下りてずっとホームでにやにやして突っ立ってるから、なにかいいことあったんですかってわたし聞いたんです。そしたらあなたなんて言ったと思いますか? 桜がとても綺麗でしたので、ですよ。わたしもうおかしくって、思わず笑っちゃったんですよ。ほんとにその頃辛い時期で、転勤したばかりの頃で仕事ぜんぜん上手くいかなくて、毎朝仕事に行きたくないなってそんなことばかり考えていました。あの朝わたしはそんな自分を変えようと思って、席をゆずってみたんです。一日一善、自分のしたことでだれかが助かる、喜んでくれる。そんなことがわたしはすごく欲しかったんです。だから、おばあさんにありがとうって言われたときとってもうれしかったんです。でも、それだけじゃありませんでした。あなたも席をゆずったんです。わたしのした行動をみて、だれかが行動を起こしてくれた。それがものすごくうれしかった。しかもあなたはバレバレの嘘までついていて。ああ、いいことしてよかったってわたしはそのとき心から思えたんです。仕事はとてもつらいけれど、でも、人間ってこんなにやさしいんだって、わたしあなたを見て思ったんです。本当にありがとうございました。
一年間、何度も同じ路線の、同じ時間の、同じ車両に居合わせて、二人して競うように席をゆずりましたよね。そんな毎日がわたしすごく楽しかった。唐突なんですけど、わたし今度結婚するんです。お腹の中に赤ちゃんがいて、わたしお母さんになるんです。来週には田舎に帰ってそのまま地元で子供を育てます。自然の中で育てたくって、旦那もこころよく受け入れてくれました。自分が親になるってなんだか不思議な気持ちです。正直ちょっと不安です。でも、わたし思うんです。この子が生まれてくる世界は、こんなにもあたたかくて素敵なんだよって。あなたがわたしに教えてくれたように、わたし、この子に教えてあげたいんです。そんな気持ちをくれたあなたに、だからどうしても帰る前に伝えたくって、本当に本当にありがとうございました。あなたの毎日があたたかく、しあわせなものでありますように。
仕事場から帰宅する電車の車内で僕は手紙を読んでいた。
あたたかなものが体の芯からあふれ出し、こぼれて頬から流れ落ちた。
便箋にできたいくつもの波紋が、どうしようもなく想いを残す。
ああ、そうだ。僕はやっと気づいていた。
ただ君だけをずっと見ていた。名前も知らないやさしい君に、僕は恋をしていたんだ。
読んでいただきありがとうございました。