消えない傷跡・8
「じゃあ、これからここに『門』を開くよ。準備はいい?」
時刻は深夜1時を回っていた。狂ったように吹き荒れていた嵐も少しは弱まり、完全に止んだわけではなかったが小雨と言っても差し支えないくらいになっていた。
「……ちょっと待ってくれ。なんでここなんだ?」
思わず口を挟む。
魔術に取りかかろうとする未知に、秋水は訊ねた。というのも
(なんでよりによってこの河原なんだ)
未知が『門』の出現場所として定めた場所が、玖凪が歌の練習場としていたあの河原だったからである。
断腸の思いで捨てたものが、家に帰ってきたら元の場所に置かれていたかのような、不可解な気味の悪さを感じずにはいられなかった。
――同じ場所と言っても昼間のそれとはまったく別のものとなっていたが。川をずっと眺めていると自ら落ちて深く深く水底に沈んでいる気分になる。雨で増水した川は夜に溶け、暗がりの中で轟々と流れていた。
「魔術を使うときは空間の善し悪しが質を左右する。それはいいよね?」
事情を知らない未知は、秋水がこの場所を気にする理由も解らず不思議そうな顔をしていたが、それでも律儀に答えてくれる。
「一番近いとすれば……うん、幽霊を例にするのが分かり易いかもしれない」
「幽霊?……意外だな」
「ん? 何が?」
「幽霊という単語がお前の口から出てきたことが。そういうの信じるタイプの人間じゃないと思ってた」
「それは少し正確じゃないね。実際にいるのかどうかは知らないけど、私は幽霊の被害にあったことも、恩恵に預かったこともない。だから、居ようが居まいが意味はないってところさ。――それはさておき、幽霊が出て怖いシチュエーションっていうのはけっこう限られてるよね。ひと気のない丑三つ時とか、場所であれば廃校舎に廃病院に墓場? 幽霊が自分の力を最大限振るえるのは、そういう場所や雰囲気とセットである場合だ。炎天下の渋谷の交差点とかに出るところってあまり想像できないし、想像したところでそんなに怖くないでしょ」
まあ、たしかに。
「魔術も似たような性質があって、威力を発揮するにはそれなりの土台――舞台といってもいいかな。それが必要になる。で、あの世界であればふさわしい雰囲気を用意するのは比較的簡単だ。魔術が使えるのが当たり前な世界だからね。でも、こちらではそうもいかない」
まったく逆。こちらでは魔術を使えないのが当たり前だから。
魔術を使えない世界は魔術を拒絶する。そういう状況で、数少ない舞台を探すのは非常に骨が折れるのだった。
未知はその辺の魔術師とは比べものにならないほど強い力を持っている。しかし、その未知をしても異世界移動魔術には細心の注意を払わなければならない。ただでさえ、数時間で『門』を開こうなどという無茶をしているのだ。出来る限り魔術を使うに相応しい時間・服装・場所といった要素を揃える必要があった。
「豪雨で川の流れは速くなっている。これは非日常の揺らぎをもたらし、魔術が生じてもおかしくない雰囲気を増長させる。加えて、水場っていうのは気が清浄なことが多い。街中で魔術を使うには一番お気軽で確実な場所だ。中でもこの辺は妙に澄み切っていたから選んでみたんだけど……何かあった?」
気が澄み切っている――もちろん秋水はその理由に心当たりがあったわけだが、
「いや、なんでもない。なにも、ない」
つい数日前に広がっていた夢のような光景を未知に話すことはなかった。
「よし。秋水くん、少し離れてて」
未知も深く聞き出すことはせず、魔術を使う態勢に入った。
水嵩の増した川を正面にして、石が転がっている河原の中心に位置を取る。
未知の両腕がしなやかに動いて上に伸びる。顔と同じ高さで固定されると、突き出された右手と左手が軽く重ねられ、親指と人差し指が小さな三角形の小窓を形成した。
瞑想をするときのように、未知の目蓋がゆっくりと瞳を覆い隠す。
一瞬すっと深い呼吸、代わりに流れ出てきたのは
「――紫苑の小径、群青の空、滑落の果て蝶の羽」
『門』を開くための詠唱だった。
「往路行くは冒険者の出立、復路戻るは君臨者の凱旋、暁、夕照、氷柱が示すは澪標」
ぶわり、と未知のロングコートの裾が舞い上がる。
足元に展開された魔法陣から強力な魔力の塊が湧き上がり、呼応するかのように周りで幾本もの細い光の柱が立ち昇った。場に撒かれていたのは浄めの水晶。光の柱はそれらから出現して雨粒を纏い、膨張し、範囲を広げて場を占有する。
「傀儡の島、逆巻き、流転する時の欠片、涼風は憂い薫風は嗤う、不落の城に響く鐘の音」
朗々と、厳かに響き渡る声。
それは魔力と空間を調和させて新しいものを創り出す。
ポッ、と。
掲げた未知の手の先に一際明るい光の球が灯った。
すぐさまそれは周囲の光をもれなく吸収し、ぐにゃりと、高温で熱したガラスが滑らかに伸びていくのと同じように形を変えていく。光の筋は闇に尾を引き、網膜に軌跡の残像を焼き付ける。
そしてとうとう――
「来たれ、《虚会の門》!」
人が辛うじて一人通れる程度の、控え目なサイズの『門』が成った。
『門』よりも『枠』と言ったほうが正しいかもしれない。暗い河原に、輝く四辺を持つ長方形が浮かんでいた。ただしその枠の中は周囲の闇よりも一層暗く、底がまったく見えない深淵。
自分を逃がしてくれる非常口だということは秋水も頭では理解しているのだが――拒絶反応か。
一瞬、『門』が出たときにみぞおちのあたりが鈍く痛んだ。
「ん、こんなものかな」
光で出来た『門』が安定していることを確認してから、未知は手を下ろす。
「前に使った『門』より通りにくいかもしれない。中間まで出てしまえば関係ないけど、しばらくは辛抱だね」
「それはかまわないが――大丈夫か?」
垂れ下がっている未知の両手。その先が彼女の意思とは関係なしに小刻みに震えていることを秋水は見逃さなかった。
術の反動だった。
「あー、ちょっとカッコ悪いけど、筋肉痛みたいなもんだよ。大丈夫大丈夫」
未知は手をプラプラと動かし、平気であることを見せつけると笑った。
「さあ、久しぶりの里帰りだ。残念ながらお土産は用意してないけどね。すぐに出発してもいいかな」
『門』が発生した以上、ここにとどまっている理由はない。
未知はすでに『門』の中に体の半分を入れて手招きをしていた。
秋水は闇の色に少しだけ躊躇したが、悟られないうちに滑り込む。
水に浸かるときに似た、独特の抵抗があった。それはすぐに消えてひんやりとした感覚が後ろに流れていく。
(あ……)
そのせいか。
急に冷やされた秋水の脳はある可能性に思い至った。
大丈夫だとは言っているが。
未知は今、秋水が思っている以上に消耗しているのではないかと。
普段、未知は秋水に対してかなり気を遣っている。秋水を傷付けないように、秋水が余計なことで悩まないように、まるで一際割れやすい卵を扱うかの如く言動には細やかな配慮をしていた。気を遣っていると気取らせないくらいには徹底して。
その未知が、らしくもない軽口をもらした。
この状況で秋水が過敏になっているために気付けただけの、些細な内容。今更傷付くものではないから、別に言ってもらってもかまわない。だが、余裕のあるときの未知であれば検閲をかける一言だった。
土産を用意していない里帰りだと。
秋水がそんなものを渡したいと思う人達は、もういない。




