消えない傷跡・7
何処で間違えた?
寒凪秋水は自問する。
分かれ道は一回でなかった。が、何度考えても一番の選択ミスはあの時だという結論になってしまう。
桜が舞い散る夕暮れ、暴走する魔力を前に途方に暮れている玖凪を助けた時だと。
あの時見て見ぬ振りをすれば、彼女が秋水に対して興味を持つこともなかった。ただの下宿生と従業員という関係のまま、必要以上の接点を持たず――結果、こんな大怪我を負うこともなかった筈だ。
もちろん、あの大暴走を止めたことで街や通行人の被害はゼロで済み、玖凪の罪悪感も緩和されたことは事実だが、それが頭のいかれた男に殺されかけることと引き換えであると知っていたならば秋水は手を差し伸べることはしなかった。というより出来なかっただろう。
「……ごめんな」
横たわる玖凪に許しを乞う。彼女は応えない。秋水を笑って許すことも、怒って拒絶することもない。
ただ、意識のないままそこにあり続ける。
その様が自分を責めているように感じて、秋水は目を逸らすことができない。
美味しそうにクレープを頬張る姿、千佳の手を優しく引く姿、河原で澄んだ歌声を響かせる姿――平和だった時間の玖凪が頭の中を嵐のように駆け巡り、それとは反対の状況にある現在とのギャップが秋水を責めたてた。
初めて玖凪と出逢ったとき、何故《赤戒の鎖》を使おうとしたのか。今でもよく理解し切れていないあの時の感情を、秋水は再度トレースしてみる。
コップのふちから水がふわりと湧き出るような感覚だった。異常なほど、魔力を使うことに対するハードルが低くなっていた。
未知をはじめとした他の魔術師がどう認識しているのかは知らないが、秋水自身の体感としてカーディナル家の魔力コントロールは魔術というよりも体質に近いものだと考えている。例えるなら、他の魔術が100mの全力疾走とかバスケの1試合分とか、疲労度が高い運動に相当するとすれば、《赤戒の鎖》は歩行程度の労力で済む。だから他の魔術を使うより負担が軽い分扱い易いという理由はあるが――それでも納得には程遠い。
ふと気づく。
もしかしたら自分は、玖凪を助けたくて助けたわけではないのかもしれない。
魔力に翻弄されて今にも泣き出しそうな顔をしていた彼女。そこに、何も出来なかった5年前の自分を重ねて見てしまったのでは。
客観的に見れば玖凪を助けた行為だが、本当に助けたかったのは情けない自分自身。
だとすれば――最低だ。
エゴに玖凪を巻き込んで、危険に晒した。
『大罪人』に目をつけられた以上、玖凪に安息のときは来ない。秋水がこの世界に居続ける限り、人質として狙われ続ける。
逆に言えば、秋水がこの世界を離れればその危険から解放されるということ。
抵抗する人間を引きずって目的の世界に渡れるほど、異世界移動魔術は簡単なものではない(未知なら出来るかもしれないが、それにしても大きなリスクを伴う)。人質をわざわざ異世界に連れて行くのが割に合わない行為なのは自明の理だった。
では、殺してからその骸を持って異世界へ渡り、見せつけとして利用する可能性は?
「ない」とは言い切れないが、その可能性は著しく低い。手間に対してあまりに見返りがなさすぎる。心理的に大きな衝撃を与えることは確実だろうが、それと引き換えにブチ切れた未知を筆頭とした警備隊を相手にすることを考えれば敢えて取るべき作戦ではなかった。
「ごめんな」
もう一度、玖凪に同じ言葉をかける。
顔を合わせるのはこれで最後になるだろうに、償いらしい償いも出来ないのが不甲斐なかった。
何か。何か、残せるものは――。
自分が出来ること、持ち物。それらを素早く並べた秋水は、唯一価値があると言えるものに思い至った。
自分の胸元から華奢な鎖で繋がれたそれを引っ張り出す。
金細工が美しいペンダント――姉の形見の品だった。花々が模られた意匠には、やはり男性である秋水よりも女性が持つに相応しい優雅さがある。頭上の蛍光灯を反射して、キラキラと眩いばかりの輝きを放っていた。
実際のところ、玖凪がそれをもらって喜ぶかどうかはわからなかった。この償いすら自己満足に過ぎない。
しかし、それでも秋水は何もしないという選択肢を選ぶことができなかった。
玖凪の手に触れる。
厚みのない掌は白く、ひんやりとしていた。壊れそうなくらい頼りなく、本当に同じ人間の手なのかと疑わしいほどだった。
玖凪の手にペンダントを軽く握らせて、その上に自らの手を重ねたまま、秋水は暫し目を瞑る。傍から見れば、それは聖女に祈りを捧げている咎人のようだった。
そうしてから時計の秒針がどれだけ進んだか――。
ドアがノックされる。時間が来たらしい。
秋水は玖凪から手を離すとゆっくり立ち上がった。部屋を後にする。
これ以上、彼女が傷つくことはない。名残惜しさをその希望で振り切って。




