白南風玖凪の日常はかくのごとし・2
白。
凍空。
足音。
光。
赤。
カーテンの隙間から漏れてくる朝日に眩しさを感じながら、ベッドに横たわった玖凪はぼんやりと天井を眺めていた。先ほどの断片的で意味の分からないイメージは全て夢であったと気づいて、わずかにずり落ちた布団に再び包まる。
至福の微睡み時間を堪能するのは、いつもと同じこと。
しかし、今朝は少しだけ違うこともあった。
微睡んで閉じた目の内側にフラッシュバックする、鮮やかな色。
ちかりちかりと。
昨日の少年の赤色が、目に焼き付いて離れないのだった。
布団の中で二度寝と洒落込もうとしている怠惰な態度とは裏腹に、玖凪は考えを巡らせる。
あの人はどこの誰だったんだろう? あの不思議な感覚はなんだったんだろう? なんであんなことができたんだろう? あれほど目立つ赤だもの、見つけようと思っても難しくないはず。
昨日の衝撃的な出来事の後、この下宿に戻ってから何度も同じことを考え続け、玖凪の頭の中では一つの結論が出ていた。
すなわち、あの少年にもう一度会う、ということである。
今日は片っ端から情報収集しようという決意を胸に、それでもあと5分をやめられずにぬくぬくしていると。
「玖凪ちゃん、遅刻だよ遅刻」
落ち着いているというか、のんきというか、どこか浮世離れしていてつかみどころのない声が聞こえた。
「ふえ?」
「正確には、学校には遅刻しないかもしれないけど、部活の朝練に遅れるよということだけど」
目の前の掛け布団をずらしてみると、そこに立っていたのはこの下宿の管理人だった。
栗色の長い髪をシニョンでまとめ、すぐに壊れそうな華奢な作りの眼鏡をかけている女性である。歳はまだ若く20代の半ばにも届いていないくらい。しかし不思議な貫禄があり、50代と言われても一瞬信じてしまいそうな雰囲気を漂わせていた。その顔は非常に均整がとれていて、街を歩けば多くの人が振り返るだろうと思う。
まあ、このまま外に出たら、別の理由で振り返られるだろうけど。
というのも、現在彼女が着ているのは、某量販店で買ったカエルの着ぐるみだからである。
「すごいよね、こういうものがあるなんて知らなかったよ」
お腹のあたりの生地をびろんと伸ばしながらご満悦な彼女は、カエル以外にも様々な着ぐるみを持っていて、ルームウェアがわりに着回している。流石に外出時は着替えているらしいが、ちょっといろいろ心配ではある。宅配便が来たときとか。
そんな管理人の名前は、月影未知という。
「未知さん、今日は木曜日だから朝練ない日ですよ」
「あ、そうだったかな? ごめんごめん」
未知は一週間前に管理人になったばかりなので、まだ玖凪の生活パターンを把握しきれていない。
その前はいかにも管理人という感じのおばちゃんがいたのだが、家庭の事情だかで辞めてしまった。
ちなみに、現在ここにいる下宿生は玖凪一人だけである。そんな下宿に管理人が必要かと思われがちだが、未知の仕事は管理人だけにとどまらない。
オーナー夫妻の本業は弁当屋であり、別棟で営業を行っている。『コトリ弁当』という名のその弁当屋は夫婦二人が仲睦まじく経営している小さなお店だが、たかが弁当されど弁当、舌に覚えがある食通たちをも唸らせると評判だ。松波高等学校とも提携していて、昼食時には校内で特製弁当を売っている。猫の手も借りたいほどの忙しさらしく、未知は管理人としての仕事が一段落したらそちらの手伝いもしているのだとか。
正直、オーナー夫妻にとって、下宿は副業というかオマケである。それでも続けているのは、学生時代に苦労した旦那さんが下宿で大層世話になり、自分と似たような境遇の子に手を差し伸べてあげたいと思ったかららしい。
「別棟を遊ばせるのがもったいないからとも言っていたけどね」
現実的すぎる理由を付け足した未知はさておき、玖凪はいそいそと布団から這い出る。
「朝練がなかったとしても、早めに起きるのはいいことだよね。美琴ちゃんなんてだいぶ前に起きていたよ」
「それを言われてしまうとツラいものがあります……」
「オーナーさんが朝食を用意してくれていたから、早く準備したほうがいい」
部屋から出て行くカエルの後ろ姿を見送って、玖凪は準備を始めた。