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赤の理由 青の盾  作者: 賢木 緋子
第4章・消えない傷跡
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消えない傷跡・3

 「ディアナちゃーん、遅いよう」

 官舎の地下、白い壁が続く殺風景な廊下に、場違いなほどふんわりとした可愛らしい声が響いた。

 階段を降りたばかりのディアナが右手にある小部屋を覗き込むと、そこで待っていたのは白衣の天使だった。

 「悪いね。分隊長から聞いたんだけど、呼んでた?」

 「呼んでた呼んでた。急ぎというわけではなかったんだけど、先延ばしにする話でもなかったからね」

 肩より少し上で切り揃えられたボブの髪はパステルピンクで、くりくりした目はこげ茶。愛玩動物を思わせる可憐さを備えた彼女は、こう見えてもディアナより年上である。制服はディアナが着ているかっちりとした軍服よりも女性らしさが強調されているワンピースタイプのもので、色は目が眩むほど清潔感にあふれた純白だった。

 白衣の天使ことルチアは、ディアナとは旧知の仲である。本来彼女は国立病院に勤務する魔術医師だが(看護師ではないから厳密には白衣の天使とは呼べないのかもしれないが)、警備隊からの依頼を受けて出向中の身だった。ルチアが所属する医療班は警備隊内部にあるわけではない。警備隊員や重大事件の関係者の治療にあたる専門組織ではあるが、あくまでも国立病院の付属機関である。だが、警備隊に関係するせいか便宜上第7部隊と呼ばれることも多かった。ちなみに、医療班と同じく警備隊直轄ではないが番号を振られた組織は他にもあり、王室守護隊が第8部隊、そして司法部隊が第9部隊と呼ばれていた。

 「あの子の検査結果、出たよ」

 書類やら筆記用具やら、なんだかよくわからないおもちゃのようなものまで、これでもかと乱雑に積まれた机の上に手を伸ばし、ルチアは一枚の紙をつまみ上げた。ぺらりと向きを変えるとディアナに文字が見えるようにしてくれる。

 そこにある文字は――。

 「異常なし。オールグリーン。魔術にかけられているわけではないし、危ない薬も使われてない。身体的にはなんら問題はないね」

 「そう……よかった」

 「保護されたときについてた手枷はヤバかったけどね! さすがはカーディナル家秘蔵の品」

 「え? あの手枷、監獄で使われてるものと一緒じゃないの?」

 「全然違うよう。威力が桁違いに。一般的に使われてるやつが睡眠導入剤だとしたら、あれは麻薬レベル」

 「そのたとえは適切なの……」

 「冗談じゃなくて、そのまんまだよ。ま、あれのせいで数日は魔力が低下してたけど、今では元に戻ってるから。大丈夫」

 ルチア本人に直接呼び出されなかったことから薄々察していたが、深刻な問題が見つかったというわけではないようだった。

 ――しかし、いい知らせをしているはずのルチアはどこか浮かない顔をしている。

 「ルチア、何か気になることでも?」

 「んー、まあね」

 ルチアは腕組みをして何もない空間を上目遣いに睨んでいた。左手の人差し指が上下してトントンと一定の拍子を取っている。これは難しいことを考えるときのルチアの癖だ。このとき、ルチアは警備隊の男性陣を虜にしてしまう糖度が高いオーラを取り払っている。濃く煮出した紅茶色の目はまったくブレることなく、現状を冷徹に分析しようとする医師のそれだった。

 「こういうことを魔術医師として言うべきではないのかもしれないけど……あの子の場合、異常があったほうがよかったのかも、ってね」

 「え?」

 本人が言ったとおり、本当に医師のものとは思えない台詞だった。真意を掴み損ねたディアナに、ルチアは医師として諭すように告げる。

 「異常の原因が分かれば対処できるよね? 魔術医師としては出し惜しみすることなく、思いっきり治してあげられる。でも、あの子の場合は身体的には異常がない。理由は分かるけど対処法が分からない。だから、私にはお手上げ状態なの。最短の治療を施してあげることができない」

 患者を治してあげられない医師。

 綿菓子のような見かけに反して責任感が強いルチアのことだ、それはきっと、全身をかきむしりたくなるほど悔しいことに違いなかった。

 そしてルチアは、友人としてディアナに懇願する。

 「あの子を治してあげられるのは、きっとディアナちゃんだけ」

 「ルチア……」

 ルチアの強い視線がディアナの瞳に注ぎ込まれる。思わず目を逸らしそうになって、必死に耐えた。

 本当に、そうなのだろうか?

 その役目を期待されて、自分が世話係に任命されたのは重々承知している。しているはずなのだ。

 だが、1週間が経つのに、毎日顔を合わせているのに、未だにあの子とは会話らしい会話が成立していないという事実が重くのしかかる。

 先の見えない状況のせいで、ここ数日は彼を「救いたい」という熱意よりも「救えない」という諦めのほうが大きくなってきていた。

 「大丈夫だよ、ディアナちゃんなら」

 こちらの葛藤を見透かして友人は言う。

 「普通の人の何倍も考えてきたディアナちゃんなら、あの子に寄り添える。誰よりもいろんな種類の感情を溜め込んできたディアナちゃんなら。完全には理解できなかったとしても、共感できなかったとしても、一番近くに」

 「…………」

 「立場的にも一番近いし。そもそもディアナちゃんは、出来ないことをしてみるためにこの仕事に就いたんじゃなかったの?」

 ルチアの言葉が怖気付いていた心に火を灯す。

 そうだ。無理を言って警備隊に入ったのは――自分にしか出来ないことが他にあるかもしれないと思ったから。そう信じたかったから。一人で閉じこもっているよりも、意味のあることに時間を使いたかったから。

 では、きっと、それが今なのだ。自分で選んだことから逃げるわけにはいかない。

 会うのを躊躇する気持ちを振り払って、白い廊下の先を見やる。

 「うん……ありがとう、ルチア」

 「どーいたしまして。むしろこちらこそありがと」

 ようやくルチアがお似合いの甘い笑みを浮かべてくれた。

 「ディアナちゃん、何かオモチャ持ってく? ビックリアイテムあるよ」

 不意に、ルチアのワンピースのポケットからカエルの形をした玩具がぴよんと飛び出した。……なんでこんなもの用意しているのか。

 「こういうの使えばあの子も反応してくれるかなーって思って。他にもいろいろ買い込んでるよ! どう?」

 「国のお金で無駄遣いするな」

 絶対に、ただの趣味だ。

 「こんなものでも効果があったら無駄じゃないでしょー。無駄じゃないと証明するためにも、持ってって」

 「いや、遠慮しとく……。今日は少し気になるものを持ってきてるし」

 「ふうん、残念」

 「それよりルチア、この控え室ものが散乱しすぎ。私が戻ってくるまでに綺麗にしておくこと。――じゃないと、公費でオモチャ買ってましたって報告するよ?」

 「えぇー、それだけは勘弁」

 片付け下手なルチアがぶーぶー文句を言うのを尻目に、ディアナは廊下を進んだ。

 白い廊下は距離感を失わせる。吸い込まれるような錯覚にとらわれながら、とある病室の前まで辿り着いた。

 この中の光景は、おそらく昨日とまったく変わっていない。

 でも――今日こそ。

 ディアナは大きく息を吸い込むと、銀色のドアノブに手をかけた。

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