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赤の理由 青の盾  作者: 賢木 緋子
第3章・滲み出す影
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滲み出す影・10

 赤。

 目の前は一面真っ赤に染まっていた。


 全身は鉛のように重く、床に沈み込んでいく。身じろぎすることすら出来ない。こんなことをしている場合ではないと心が悲鳴をあげているのに、意識は混濁して昏睡と覚醒の狭間を漂っていた。

 少年は為す術もなく床に横たわり、惨状を目の当たりにしていた。それ以外のことが許されていなかった。後ろ手に手錠をかけられて拘束されていた。

 この特殊な手錠は屋敷の宝物庫で厳重に保管されていたものだった。一族の先祖がその特異な才能を集結させて作り出した国宝級の手錠。罪人の魔力を封じ込めて抵抗を抑える代物。あまりに効果が強すぎたため、国の司法の場には流れずに屋敷に眠っていた粗悪品かつ強化品。

 ――それが今や、子孫を拘束する枷になっている。しかも、国の法に則れば罪人確実の奴らの手によって。皮肉にも程があった。

 生温かいドロリとした悪臭が鼻腔に絡みつく。少年の嗅覚は完全に麻痺していた。

 目に焼きついているのは、赤。

 晩餐の間の床には真紅の絨毯が敷かれていた。少年の近くは美しい色と毛並みが保たれている。それが、離れれば離れるほど、濃い色の斑が混ざり始める。とある地点から先は元の絨毯の色が完全に塗り潰され、赤黒い――血の海ができていた。

 血の海に浮かんでいるのは、残骸。

 今日まで生きていた人間を構成していた、その成れの果て。

 少年は薄れゆく意識の中で、柘榴のようだと思った。中に詰まっていた諸々がごっそりとこぼれ出て散らばっている。内臓、肉、脳漿――それらは絢爛なシャンデリアの灯りに照らされて無意味に艶めいていた。血の海の広がりは止まる気配すらなく、噴水のように勢いよく飛沫を撒き散らした。

 人間というものがこうも醜悪に形を変えられるとは、少年は知らなかった。知りたくもなかった。

 両親、祖父、叔母、叔父、大叔父、従姉妹。

 だった、もの。

 中途半端に原型を留めた亡骸は、食事をするはずだったこの部屋で乱雑に積み上げられていた。

 「……まだ意識があるのか。さすがはカーディナルといったところか」

 少年の体に影がかかった。少年が残された力を振り絞って目線を上げると、冷え切った目がこちらを見下ろしていた。

 先生と呼んでいた男。

 完璧に整えられていた男の服装は今や至るところに血がこびりついて、破れて、二度と袖を通せない状態にまで損なわれていた。眼鏡のレンズには赤い飛沫の跡が残り、口元にも血の筋が垂れていた。

 この中に男自身が流した血は一滴もない。

 「どう、して……」

 少年の喉は萎縮していた。普段のものとはかけ離れた、意味が伝わるのかも怪しいかすれ声しか出なかった。それでも、これだけはどうしても訊かないわけにはいかなかった。

 男は道端のゴミでも見るような目で少年を見下ろしていた。だが、何かに興が湧いたのか、涼やかな笑みを浮かべると、

「……この国は『ノブレスオブリージュ』で成り立っている。以前お話ししましたよね?」

昨日までのように授業の真似事を始めた。

 選ばれし者の義務。この国を生かしているルール。

 特殊な魔術を扱う一族は、強大な権力、財産、名声を得る。だがそれは無条件に得られるものではない。能力と人生を国に捧げてこその対価だった。

 「君たちの一族は魔術の才に恵まれている。一般人とは比較にならないほどの魔力を有し、扱える系統の幅も広い。だが、それだけで第2位の地位につけるわけがない。『天装自在てんそうじざい』のリーヴィ家すら差し置いているのは、ひとえに《赤戒せきかいくさり》のおかげです」

 魔力コントロールのハイエンド、国の司法を支える唯一無二の能力が《赤戒の鎖》だった。

 この国には死刑制度がない。最も重い刑罰は無期懲役――に加えて、名前と全魔力の接収と定められている。

 魔力の強さは人によって個人差がある。だが、どんなに微弱な魔力しか持たない人間がいようと、魔力持ちでない人間は存在しない。こんな世界において全魔力を失うことは、生きることに支障をきたすと共に最大の屈辱を与えられるに等しかった。

 対象者の能力を強化できる人間がいないわけではない。しかし、その効果は一時的であり、強化の幅もたかがしれている。強化も弱化も自由自在、なおかつ全魔力の封じ込めを永続的に行えるのは、少年の一族にのみ許された秘術だった。

 「国にとって、国民にとって、カーディナル家の価値は『裁き』にある。誰もそれを疑わない。だが――」

 男の口元がぐにゃりと歪んだ。

 「君たちの一族の真価は別のところにある」

 「…………別……?」

 「そして愚かしいことに、君たち自身はそれに気づいていない。歴史の裏に置いてきて、忘却の彼方だ」

 執事兼家庭教師だったその男は、これまで決して表には出さなかった粗雑な動作で、いたぶるように少年の右肩を踏みつけた。

 「ん、ぐっ……!」

 血にしとどに濡れた靴底。弾みで少年の顔に赤い汁が飛ぶ。

 「――だから、私たちが、代わりに使ってあげますよ。君たちの真価を。知ってしまった者の義務としてね」

 少年はもう、上を見るのも限界にきていた。視線が床に水平になったとき、男の足の隙間からそれが見えた。

 離れたところに、自分と同じように倒れ伏した姉の姿。

 姉の周りには複数人の足が突っ立って檻のように囲んでいる。ふらふら動き、回るそれらは、生贄を崇めたてる儀式を行っているようにも感じた。

 姉は仰向けになり、自分を見下ろす女に何かを叫んでいる。

 聞き取れない。何を言っているのか、判らない。

 姉の声が一瞬止む。次の瞬間、それは絶叫に変わった。


 少年の瞳に映ったのは、姉の胸に刀身の長い剣が突き立てられ、すぐに引き抜かれて血が盛大に噴き出すところだった。


 どんどん、どんどん、血が流れ出る。綺麗に保たれていた淡い色のドレスが穢れていく。

 結末が分かっているのに、何もできない。止まらない。掬った水が手のひらから漏れていくかの如く、姉の命が流れていく。

 仰向けになっていた姉の顔がゴトリと横を向いた。距離はあるが、少年と向かい合う形になる。

 澄んだ彼女の目からは光が徐々に消えようとしていた。

 好奇心の権化でいつも忙しなく動いていたあの目が、「なんでもやりたい」と微笑んでいたあの目が、新しいものを見るとキラキラ輝いていたあの目が――泥のような色に変わっていく。

 誰でもいい、何でもいい。時間を止めて欲しいと少年は祈った。姉の夢を守って欲しいと願った。

 それは虚しい、意味の無い懇願だった。

 姉の目が完全に何も映さなくなったとき、少年は理解してしまった。

 あれだけ楽しみにしていたのに、やりたいことのない自分なんかよりもずっと価値のあるものを求めていたはずなのに――。


 姉が『なんでも出来る』未来は、もうない。


 それを悟ったとき、少年の意識をかろうじて繋いでいたものがプツリと途切れた。少年は意識を保つことを自ら放棄し、再び闇の中に堕ちていった。

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