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赤の理由 青の盾  作者: 賢木 緋子
第3章・滲み出す影
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滲み出す影・9

 苦しい。

 息ができない。

 「がっ……か、は……」

 外部と隔絶された地下道の一角。

 玖凪くなぎの喉から自分でも聞いたことのない奇妙な音が漏れた。

 喉に当てられているのは親友の両手。くりすの手は信じられないほどの強い力で玖凪の首を絞め上げていた。

 首にかかった手を外そうと抗うが、玖凪の握力ではびくともしない。力の入らない指がくりすの手の表面を虚しく滑った。

 どうして。

 こんなことになっている。

 涙で滲んだ視界の先にはくりすの顔があった。人形のような、虚ろな表情のまま、くりすは玖凪の首を絞め続けていた。

 怖い。この空間も、首の痛み、苦しさも。だがそれ以上に怖いのは、危害を加えているのがくりすであること――親友が自分に手をかけている理由が解らないことだった。

 頸動脈が圧迫される。

 玖凪の意識に白い斑が混ざり始めた。


 「やあ、はじめまして」


 ごぽり、何処かで水のような音。

 くりすの背後、アスファルトの床にかかった影から一人の人間が湧き上がった。

 猫背が目立つ痩せぎすの男だった。着ているのは薄汚れたコート。そのコートは異常な数の大小様々なポケットで覆われていた。大きく膨らんでいるものもあれば、何も入っていないように見えるものもある。男の体格に対して大きすぎるコートは切れかけの蛍光灯に照らされて、歪なシルエットを形成していた。男性にしては長いくすんだ灰色の髪が大した手入れもされずに無造作にまとめられていた。

 男と目が合う。くぼんだ目は爛々と狂気を孕んで赤銅色に輝いていた。同時にむせ返るような、寒気がするような嫌な感覚が強くなる。

 間違いない。

 千佳めがけて看板を落としたのも、くりすをおかしくしているのも、全部この男だ……!

 「ああ、やはり君は気づいていたか。痕跡が残らないよう、細心の注意を払ったつもりだったんだがねえ。俺も魔力探知にはそれなりの自信があるんだけど、君のほうが上かもな」

 男の声はカラカラと軽く、異質な空間に響いた。

 「敬意を表して名乗りたいんだけど、残念ながら剥奪されてるから……ん? 世界が違うからひょっとして無効か? 失敗した、こんなことなら考えておくべきだった。とりあえず今は……そうだな、ガードナーとでも名乗っておこうか」

 ガードナーと名乗った男は、コートの右胸と左腕についたポケットからそれぞれタバコとライターを取り出すと、気だるげに火をつけた。用が済んだそれらを別のポケットに突っ込む。

 「君に恨みはないんだけど、彼を誘い出すために使わせてもらうよ」

 彼。

 真っ先に脳裏に浮かんだのは、鮮やかな真紅。

 「寒、なぎ、さ……」

 すがるような声が漏れた。

 ガードナーは一瞬怪訝な顔をした。すぐに得心がいったようで意味深な笑みを浮かべる。

 「そうか、ここではそういう名前だったな。ははっ、寒凪かんなぎ寒凪秋水かんなぎあきみずねぇ……はっはははは、あは、あははははははは!」

 最初は忍び笑いだったガードナーの笑みが、次第に激しいものになっていく。おかしくて仕方が無いというように、ガードナーは空いている手を頭にかざして笑い声をあげた。高低が定まらず不安定なその声は、気が触れているとしか思えなかった。

 何が、何がおかしい?

 「傑作、本当に傑作だよ! あれだけ赤に選ばれ、赤に愛され、赤を征し、赤を解した一族の人間が、カーディナルの人間が、その名を棄ててあろうことか正反対の文字を持つとはね!」

 ガードナーはくりすの後ろからすいと前に出ると、紫煙を燻らせながら玖凪に顔を寄せた。

 「お嬢さん、俺たちの世界では、名前が重要な意味を持つんだ。わざわざそんな名前をつけてるってことは、まだ引きずっているんだねえ。こちらとしては都合がいい」

 この男が話しているのは本当に寒凪秋水のことなのか。カーディナル? 俺たちの世界? 聞いたことのない情報が、酸素の行き渡らない玖凪の脳を素通りしていく。

 「ああ、君は何も知らされていないのか。――基本的に、俺は余計なことはしない主義なんだけどね。今日はとっても気分がいいから大サービスだ」

 ガードナーは古新聞を捨てるような気軽さで、玖凪の頭に手を置いた。


 「教えてあげるよ、彼の過去を」


 途端、映像の濁流が玖凪の中に流れ込んだ。

 「…………!?」

 見てはいけないものだと心が拒否しているのに止まらない。侵食してくる黒い奔流をせき止めることができない。

 今見えている光景を上書きして、塗り潰して、どんどん実体に近づいてくる。信じていた現実が食い破られていくようなおぞましさを引き連れて。

 「い、やっ……ぁ」

 この世のすべてを足蹴にしたような笑みを浮かべたガードナーが消えた。

 こちらの首を絞めながら、頬に一筋の水滴を垂らしたくりすも見えなくなった。

 残ったのは、今でも、この場所でもない。

 5年前の、惨劇の舞台。

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