滲み出す影・2
玖凪とのおつかい騒動から二日経った火曜日。
秋水は弁当配達を終えて店に戻る途中だった。
時刻はもうすぐ夕方6時。夕飯時であることを考えると、コトリ弁当に戻れば新しい注文が入っている可能性がある。
だが、緊急時には容赦無く鳴る携帯電話が無言を貫いていることから、そこまで急いで帰る必要もないだろう。そう判断した秋水はゆっくりとバイクを走らせていた。
中ノ瀬橋の上流には上ノ瀬橋というなんの捻りもない名前の橋がかかっている。その橋の手前で信号待ちをしている間、周りを軽く見回した。
部活帰りの高校生が複数人のグループを作って他愛ない話に笑い合っている。橋のたもとには歴史を感じさせる古本屋があり、中から店主が出てきて緩慢な動きで外灯をつけていた。その隣の喫茶店にはどうやら個展が開けるギャラリーが併設されているらしい――。
今までの自分であれば、こんなふうに注意を払うことはなかった。配達して帰る、ただ必要最低限のことしか行わなかった。
『後は自分で探しておくから』
影響しているのはやはり――。
思えば、日曜日の玖凪だって花瓶を割ったことがあるから店の場所を知っていたわけではないだろう。こうやって普段から見ていたから、必要なときに思い出した。玖凪だけではない、程度の差こそあれ大抵の人間がそれをしている。
その『大抵』の中に入っていなかった自分。
そんな単純なことに気づかなかった自分は、今まで何を蓄積してきたのだろう?
信号が青になった。
前の車に続いて前進し、何の気なしに川の上流を見たとき。
「……?」
河原の辺りに不可思議なものを見つけた。直進するはずが、思わずその方向に曲がる。
近づいてみると見間違いではなかった。
河原の上空が大きなシャボン玉の膜のような光るもので覆われていた。
「何だこれ……」
川沿いの道路にバイクを停める。
異質な空間の中心。そこで独り楽しそうに歌を歌っていたのは、
「〜♪」
白南風玖凪その人だった。
学校帰りなのか制服を着ている。特徴的な髪型のせいで遠目からでもすぐにわかった。
限りなく澄んだ歌声が夕空に響き渡る。緩やかで優しい曲調。どこで息を継いでいるのかわからないほどに滑らかな歌い方。
……ぽっ、と。
旋律に合わせて艶やかな虹色の光が大気に舞う。玖凪の周りを浮遊するそれはさながら自由を謳歌する蝶や小鳥のようだった。
歌詞は普段この国の人間が使う言葉とは異なっていた。しかし、異世界移動の副作用で秋水にはその意味が解る。
水面にうつる月はゆらりと揺れて、あなたを探し揺蕩う
水上をなでる風はふわりと舞って、宛先のわからない歌を運ぶ
見えるでしょうか、私の歌が
聴こえるでしょうか、私の想いが
光に抱かれて明日はまた続く
シャボン玉の膜に見えたものの正体は、大気中に放出された微細な魔力の粒だった。それが夕日に照らされて辺り一帯が夢のように照り輝いていた。
これは指パッチンと同種の行為、すなわち過剰な魔力の放出だった。玖凪は歌に乗せて無意識のうちに魔力を発散させている。
魔力の粒で満たされた空間。
そんなものを見かけたら、秋水は即刻離れるし、ましてや中にいることなど数十秒だって耐えられまい――そのはずなのに。そのはずだったのに。
それなのにどうして。
体を動かすのが億劫なほどに居心地がいいと感じているのだろう?
胸が痛いほどに温かい気持ちになっているのだろう?
ああ、本当にあいつは――
「変なやつだ……」
秋水はバイクから離れてゆっくりと歩き出した。




