4~普通じゃない女子高校生と山の神様~
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入学して二日目、四月十日。俺はほとんどの授業を寝て過ごした。そんなんじゃいけないと思いつつも、寝不足の身体は休息を求めてしまう。買ったばかりの新しいノートには、黒板を写したはずの意味不明なミミズがいっぱい。我ながら情けないが、おかげで下校時間を迎える頃には頭がすっきりして身体もだいぶ軽くなっていた。
「阿弓君、もう出られるかしら?」
最後列の席を立って、爛堂が帰り支度をする俺に声を掛けた。
「あら、下校も一緒ですのね。羨ましいですわぁ。はぁ、わたくしの運命の人はどこにいるのかしら?」
隣の席に座る春木にはまだ運命の出逢いが訪れていないようだった。うらめしそうに俺たちを交互に見て手を振る。
「わたくしも早く素敵な彼氏とラブラブになりたいですわぁ」
いや、俺と爛堂は全然ラブラブじゃないんだけどね……。苦笑いしながら春木に別れを告げ、俺たちは教室を出た。
「運命の人って……恋って、そんなにすごいものなのかしら?」
乙女な春木に影響されたのか、爛堂がぽつりと呟く。
「俺も彼女いない歴が年齢と一緒だからわかんないけど、単純に憧れるよね。カレシとカノジョって関係に。好きな人と付き合えて一緒にいられるって嬉しいじゃん」
恋がしたい。それは普通の高校生であれば誰もが望むこと。赤面しながら好きな女子に告白したり、休みの日にデートしたり、夜通しメールしたり電話したり、めちゃめちゃ楽しそうじゃん! 手とか繋いじゃってさ、二人だけにしか分からないニックネームで呼び合ってさ、そんでチューなんかした日にゃあ、俺はもう人生のピークを迎えたと思うね。
と、ニヤケながら考えて、俺はふと思った。
「爛堂。お前は凍之介が好きだったんだろ?」
「違うわよ。言ったじゃない。凍之介さまは尊敬すべきお方であって、恋の対象なんて恐れ多いわ」
「じゃあ、凍之介以外では? 誰か気に入った奴いなかったの?」
「…………」
「人間じゃなくてもさ、同じ物の怪仲間でイケメンとかいたんじゃないの?」
「…………」
「もしかしてお前、今まで恋愛したことないの?」
「…………」
長い沈黙が質問を肯定していると見なしていいだろう。爛堂は何か腑に落ちない顔をして、一瞬だけチラとこちらを見た。
「えーっ! だって、幾つだよ? お前、二百歳は越えてるんだろう? そんなに長く生きていたら、一回くらいドキドキすることがあっていいんじゃない? 恋は人間も妖怪も関係ないでしょ」
民話で読んだ雪女は、自分の本当の姿を見られた人間の男と結婚して子供まで作っていたはず。
「それは、だって…………発情しないから、愛も恋も必要ないのよ」
「なるほど、物の怪は発情しないのか。だから恋はしない……って、そんな理屈があるか。人間だって好きな相手の身体が欲しくて恋愛するわけじゃないんだから。なんか気になる、無意識のうちに目が追ってしまう、そんなところから『ああ、自分はあのコが好きなんだな』って気付いて、もっと仲良くなりたいとか、ずっと一緒にいたいなとか思うわけじゃん。心が相手を無意識に求めるんだろ? えっちしたいから好き、ていう恋心はむしろ邪だな」
「え、え、え、えっちって……! そういう意味で言ったんじゃないわ」
陶器のように白く、血が通っていないとばかり思っていた爛堂の肌が、みるみるうちに赤く染まっていく。見ているこっちが戸惑うほどの動揺っぷり。
「ん? そうか。恋をしたことがないって……それはつまり、お前が……」
俺の中で確かな方程式ができあがり、視線は自然と爛堂の身体へ向いてしまう。つま先から頭の先まで、制服の下に隠れる肉体にはまだ誰の手も触れたことがないという意味。
――バシッ!
「あいたっ!」
俺の頬は小気味良い音と共に引っぱたかれ、視線はむりやりそらされた。
「いやらしい! 変な想像をしないでちょうだい」
「変な想像をしてしまうような話をしたのはそっちじゃないかっ」
頬を押さえて反論するも、爛堂は無視。急に歩幅を広げてぐんぐん廊下を歩いていく。
「……乙女ちっくな恥じらいを見せる年でもないだろーに」
「うるさいわよっ」
俺のおふくろなんか、年頃の息子の前でも堂々とマッチョな男のセクシーさを語るってのに。女でも年を経るごとに羞恥心は薄れていくもんだと思ったけど、爛堂は違うらしい。カレシいない歴二百数十年とは、あまりに長すぎて気が遠くなる。
「遅いわ。早くして!」
「ハイハイ……」
急かす爛堂に俺は仕方なくひょこひょこついていく。人形のように無表情で無感動な奴と思っていたのは間違いだったみたい。本当は結構感情的なタイプなのかも。
「バカな話はおしまいよ。これから一緒に行ってほしいところがあるの」
おしまいって言っても、一番最初に話を振ってきたのは爛堂なんだけどね……。そう思いつつ、二回目のビンタを食らいたくもないので反論はしない。素直に頷いて「どこに?」と返した。
「姿乎命さまのところよ」
「朝に会った美禰が仕えてるっていう山の神様? 俺がついていってもいいの?」
「神はお高くとまっているという意味で偉いんじゃないのよ。必要と思えば、相手を選ばず会ってくださるわ。でも、くれぐれも失礼のないように。姿乎命さまは礼儀を知らない者を嫌うから」
神様に会うなんて、死んで天国にでも行かない限りかなわないと思ったけど、結構あっさりかなってしまうようだ。急に緊張してきて、どんな挨拶をすればいいんだろうと考え始める。けど、適当な言葉を思いつく前に、爛堂は俺の手をつかんで人気のない階段の踊り場で跳ねた。
「んっ?」
一瞬、だった。右腕がくいっと引っ張られたと思ったら、視界には緑が広がっていた。放課後の学校のざわめきが途切れて、代わりに耳には鳥の鳴き声が飛び込んでくる。あたり一面、見えるのは木、木、木。それも人間の手がまったく入っていない、ありのままの自然がそこにはあった。
「ここは?」
キョロキョロと周りを見回しても場所を特定できるようなものは何もなく、どこへ移動したのか分からない。
「森吉山よ。学校から直線距離で四十六キロくらい飛んだかしら? 姿乎命さまは県内の山を転々としているけど、ここにいらっしゃることが多いの」
森吉山とは、北秋田市にある古い火山。高山植物が多く咲くため、学生が遠足や課外授業で登ることが多いと聞いたことがある。標高は一四五四メートルと低く、中高年が登山をするにも丁度良い山だとか。
「以前はマタギがたくさん登ってきたものだけど、今は行楽目的の登山ばかりね」
「へえ」
マタギはクマやカモシカを獲る狩人のこと。雪深い秋田では冬の間は農業ができない。食料と毛皮を手に入れるため、獣を狩る猟が昔から行われてきた。山の神とは、動植物や自然を守るためだけでなく、そうした山に生きる人々もずっと見守ってきたのだろう。
何かを探すように上を見る爛堂の真似をしてみるも、高い木に囲まれた青い空が見えるばかり。その神様とやらはどこにいるのか。
――ぬるん。
「ひゃっ!」
俺の頬に生ぬるいものが触れた。思わず身体がびくついて、滑稽なくらいピョコピョコ跳ねてしまう。
「な、なんだっ? 虫? とかげ?」
東京生活が長い俺は、そういう類がとんでもなく苦手だ。ごしごしと頬を手で拭って辺りを見回す。
「若くてピチピチした男は、やっぱり甘いのぅ。それも熟しきっていない分、甘みがしつこくない。いいのぅ」
「うわわわわっ!」
やや後ろを振り返った俺の視界いっぱいに花があふれていた。咲き乱れる色とりどりの花がはしゃいだ声で喋っている。
「氷御、この人間はなんじゃ? 儂への貢ぎ物か? ちぃと若すぎるが、食えんこともない。存分に楽しませてもらおうぞ」
唖然として身を縮める俺は、目の前の喋る花が女性の頭だと気づくまで数秒かかった。しかも、なぜか逆さ吊りにぶら下がっている。
「……それは貢ぎ物ではありません」
げんなりした様子で爛堂が言うと、花頭が「んふふふ」と笑ってくるりと身を翻した。動作があまりに素早くて目が追えない。俺には突然消えたようにしか見えなかった。
「き、ゃあ!」
しかし、次の瞬間、爛堂が不自然に膨らむスカートを押さえ出した。風も吹いていないのにパタパタとひらめくスカートの陰には揺れる花々が見える。
「イタズラが過ぎますよっ!」
言葉遣いは丁寧でも、口調は子どもを叱りつける母親のように。爛堂はスカートの中に潜り込む花頭に言った。
「んふふ。氷御は相変わらず色気がないのぅ。いい年をして綿のいちご模様か。サテン生地にレースがひらひら~っとか、黒のTバックとか、両側を紐で結ぶやつとか、いろいろあるだろうに。つまらん」
「つまるもつまらないもありませんっ!」
「おい、男よ。おぬしも見るか? 氷御のパンツ」
必死に反抗する爛堂をからかって、花頭はスカートの裾をめくり上げようとする。素早さでいったら花頭のほうが断然上。爛堂の手をすり抜けてスカートの端を引き上げた。
「お、わっ!」
俺の目には白地にいちご模様の綿パンツが飛び込んでくる。
「や、や、やめてくださいっ!」
爛堂が堪らずに大きな声を上げると、花頭はスカートに執着するのをやめて爛堂をぎゅうと抱きしめた。頬に顔をすりつけて迷惑なほど密着する。
「んふふふ。愛い奴じゃのぅ、氷御は。いじめ甲斐があるわ。男よ、おぬしが何者か知らんが、氷御は儂のものじゃ。へたに手を出したら許さんぞ」
含み笑いをしながら俺に言うコイツは、もしかして……?
「姿乎命さま、おふざけはお仕舞いですよ。今日は大事な話があって参ったのです。これは、阿弓冬志。天刃鬼と冷御の件について重要な関わりを持つ人間です」
「ど、どーも……」
この、頭に花を咲かせたエロ女が、どうやら山の神様らしい。
ゆるいウエーブがかかった艶やかな金髪を頭上で高く結い上げているものの、なぜか前髪は鬱陶しく垂らしたままで、そこにはどう見ても生の花々が色とりどりに咲き乱れている。冠というか、斜めにかぶったベレー帽のようにも見えるというか。だから、小さく薄い唇は見えるけど、鼻は見えそうで見えず、目にいたってはまるで見えないという状態だった。けれど、パッと見には童話の天の羽衣伝説に出てきそうな天女という雰囲気。和服とも違う朱色の着物をまとっていて、二の腕から背へかけては乳白色の領巾をふわふわと漂わせていた。しかも、手よりも袖が長く裾も引きずるほどなのに、神様はおそろしく動作が機敏だった。機敏すぎて俺の目では姿乎命さまの動きがとらえきれない。
「氷御と会うのは久しぶりだというのに。もう少し遊んでくれても良いではないか。つれないのぅ。まぁ、良いわ。
美禰! 二人を館へ連れてまいれ!」
神様は口惜しそうに爛堂へ頬ずりしたが、諦めて鼠少女を呼ぶとフッと姿を消した。
「はいはいっ。かしこまりましてございますですっ!」
どこにいたのか、ピコピコと丸い大きな耳を動かしながら美禰が駆け足で飛び出てくる。
「さあっ! お二人とも参りますですよ。この美禰の両手をじっとご覧くださいませっ。いち、にの……さんっ!」
小さな手が広げられて、言われるままに見つめると掛け声と共に一拍手。その瞬間、ぼわんと煙が巻き起こって俺は思わず目を閉じた。とっさに身の危険を感じて顔を腕で覆うが、気付けば薄暗い建物の中にいる。
「あっれ? ……どうなってんだ?」
「ここは姿乎命さまのお館じゃ。人間よ、くれぐれも無礼のないよう気をつけよ」
爛堂と同じ注意を促してから美禰は先に立って建物の奥へ入っていく。その後をついていきながら爛堂が説明してくれた。
「小玉鼠はもともと、身を弾けさせたり大きな音を出したりして山を汚す人間を驚かす妖怪なの。美禰はただ驚かせるだけじゃなく、爆発を使って移動や攻撃もできるのよ」
見た目は小学生でも三百年以上生きてるし、神様に仕えてもいるんだから、それなりの能力は持っていて当然か。俺は小股でちょこちょこ歩く美禰の後ろ姿を眺め、その影が伸びる壁から天井へ何気なく視線を移していった。
平安時代よりもっと昔というか、中国の雰囲気も少し混じった造りは余計な装飾もなく簡素。でも、静かに澄んだ空気が漂っていて、自然と背筋が伸びるような厳かさを感じた。
「こんな建物、どこに建ってた?」
思わずそんな質問が口をついて出る。だって、聞きたくなるのも無理はない。ついさっきまで見えるのは木ばかりだったんだから。館はそれなりの大きさがありそうで、こんなものが近くにあれば屋根の端くらい見えたはずなのだ。しかし、爛堂は呆れ顔で言う。
「そんな質問するだけ無駄ね。姿乎命さまは人間の考えが及ばないようなところに存在しているお方よ。現実世界とは次元が違うわ」
はて、次元が違うとは?
「俺も今、異次元にいるってこと?」
「まあ、そう思っても間違いじゃないわね。でも、それ以上は追求しないほうが賢明よ。どれだけ考えても答えなんて出ないもの。神の世界を人間が把握しようなんて、生意気にも程があるわ」
確かに、恐れ多いかも。姿乎命さまに逢えただけでも有り難いと思うべきか。(ただ、肝心の神様がちょっと……気になる行動を取ってるんだけど)
美禰の後について廊下を進むと、突き当たりに扉が開け放たれたままの部屋があった。入り口には大きくたわむ濃い紫色の布がかかっていて、部屋の中までは見えない。美禰は扉の手前で立ち止まり、こちらを向いて頭を下げたまま動かなくなった。爛堂も数秒、敷居を跨がずにお辞儀をして固まってしまう。なんだ?
「早う、入れ」
奥から聞こえる面倒くさそうな声でやっと顔を上げ、爛堂は部屋の敷居を跨ぐ。神様の許しを得ないと入れないということか。俺はにわかに緊張してきて、ぎこちなく爛堂を真似た。一礼してから部屋に入るが、思いのほか敷居が高くて危うく転びそうになる。ヤバい、ヤバい。
「遠慮などいらぬわ。とっとと入ればいいものを」
部屋の奥は一段と高くなっていて、そこに姿乎命さまは座って……いや、ほとんど寝そべっていた。脇息にもたれて瑠璃色の杯を傾けている。
「今日はお目通りかないまして……」
「いらんいらん! 堅苦しい挨拶なんぞ時間の無駄じゃ。早う、本題に入れ」
爛堂が言いかけた挨拶を切り上げさせてフランクに話を進める様子は、周りが言うほどマナーにうるさいタイプとは感じないけど。俺は爛堂の後ろでじっと神様の機嫌を窺ってみる。
「では、さっそく。昨日、天刃鬼と冷御が来ました。用件は相変わらずですが、彼らが用意しているという『最高の依り代』が木ではないと判りました。何年か前に天刃鬼が、依り(・)代は(・)穏様を(・)降ろ(・)せる(・・)ほど(・・)に(・)成熟する(・・)まで(・・)時間がかかる(・・・・)と申したことから、我々は穏様を木に降ろすと考えていましたが、それは間違いだったのです」
「ほう。しかし、奴らは特別に神殿を造っているわけでもあるまい。御霊代として剣や鏡を造れるほど、天刃鬼も冷御も器用な物の怪ではなかろう。穏様とてなり損ねとはいえ、元は神。神木も用意せずにどうやって封印を解き、降ろすというのだ」
二人がいつから協力関係にあるか知らないが、穏様は木に降臨されると予想していたようだ。確かに、神社にはしめ縄を巻いた巨木がご神木として立っていることが多い。あるいは大きな石だとか。穏様がそもそも神だったと考えると、その予測は至極真っ当だといえる。というのも、社を造って神殿に神を祀るという文化が定着するまでは、木や森、岩といった自然物そのものを神体と見なしていたそうだから。神社の次男坊だった義父が昔教えてくれたことを思い出したのだ。
姿乎命さまは首を傾げて続けた。
「岩や鉱石を依り代にするとも考えられるが、それでは天刃鬼が申した『依り代が成熟するまで待つ』という言葉の意味が通じぬ。本当の依り代とは、いったい何じゃ?」
「人間です。霊媒体質を持つ人間に憑依させるのです」
「人間?」
唇に傾けていた瑠璃の杯が止まり、姿乎命さまはヒクと片方だけ頬を歪めて笑った。
「笑止なことを言うのぅ。氷御よ。おぬしは賢い方だと思っていたが、儂の見込み違いか? 人間が穏様を受け止められるわけがなかろう。触れれば気が狂うか死ぬか、どちらかじゃ」
「それが、可能なんです。時代を超えて受け継がれた特異能力を持つ人間なら、穏様に堪え得るはず」
「時代を超えて受け継がれた特異能力? 誰じゃ、それは」
「ここにいる、阿弓冬志の妹です」
それまで、俺の存在に気づいてもくれなかった姿乎命さまが、爛堂から視線を移す。顔を覆う花のせいで目の動きはこちらからまったく見えないが、きっと俺を見ているに違いない。考えるよりも先に身体が動いて、「どうも……」と小さくお辞儀してみた。どんな挨拶をするべきかと悩んだ割には適当すぎるだろ、俺。
でも、神様はそんなことを気にする様子もなく、数秒俺を凝視していた。
「……儂には、この人間が霊媒体質とは思えんのだが」
爛堂の話が、姿乎命さまにはあまりピンときていないようだった。
「血族であれば、妹が持つであろう波動と同じものが少なからずあるはずじゃ。しかし、こやつは霊や念を降ろすどころか、普通に他人を気遣うこともままならぬ鈍感。間抜けにしか見えん」
「間抜けって……!」
そこまで言わなくてもいいじゃない! と突っ込みたくなるが、相手は神様。喉元まで出かかった言葉を慌てて飲み込み、咳払いをしてから二人の会話に参加する。
「俺の鈍感さはともかく……妹とは義理の兄妹なんです」
「ほう、義兄妹か。ならば、おぬしにそうした波動が見えなくて当然か」
どうやら、姿乎命さまにはオーラのようなものが見えているみたい。テレビで霊能力者が芸能人のオーラを黄色だとか赤だとか言うのを見たことがあるけど、そんな感じなんだろか。
「俺の妹には子どもの頃から不思議な勘の鋭さがありました。神社の家系で、親族にも霊感のある人間がいたと聞いています」
「なるほど、巫女か。しかし、霊媒体質を持つからといって安易に依り代になれるほど穏様は軽々しくない。天刃鬼が狙うだけの理由があろう。冬志とやら、妹が産まれたのはどこの神社だ?」
聞かれても俺は即答できない。だって、実家とは不仲だった義父の神社に俺は一度も行ったことがないのだ。必死に記憶の糸を辿る。
「えーと……しら、しろ? しらわし? だったかな」
「なんと、白鷲神社か! それは狙われるはずだ」
姿乎命さまがハッとして納得したように頷いた。なんだ?
「白鷲の神主である平居家は陰陽道に明るかったからな。今はせいぜい元旦に賽銭を集めるのと厄払いくらいしかしていないだろうが、昔は憑き物払いができることで名が知れていたのじゃ。白鷲の巫女ならば格が違う。人間でも穏様の依り代になりうるかも知れんな」
「はあ……そう、なんですね」
とりあえず相づちを打ってはみたものの、俺はいまいち凄さがわからない。ぼんやりした返事に姿乎命さまはふふと笑った。
「かつて、降霊や憑き物払いができる者は特別な存在として重宝されておったが、現代にはいらぬか? 少なくとも冬志には価値が理解できんようだな。まあ、平成の世においては悪霊よりも化け物よりも、人間が一番恐ろしいからのぅ。文明の進化は神をも排除する勢いじゃ。ふふふ」
姿乎命さまの笑いは決して自虐的には聞こえない。むしろ、滑稽でならないという嘲笑に受け取れる。俺はどうリアクションして良いかわからなくて無言。なんとも複雑な気分のまま話は勝手に切り替えられ、姿乎命さまは俺と爛堂の顔を交互に見た。
「で? どうするのじゃ」
それは、俺たちと同じ目線を持った者の言い方ではなく。上から俺たちを見下ろす傍観者の質問。問題の当事者として姿乎命さまは聞いているわけじゃないのだ。
「依り代が木なら見つけて切り倒せば良かったが、人間ならばどうする、氷御?」
「第七節気を迎える前に救い出します。依り代が捕らえられているのは、おそらく男鹿。大体の見当もついています」
「男鹿……天刃鬼が拠点としている寒風山か」
寒風山は、大半を芝生で覆われたなだらかな山容の低山である。幼稚園の頃に一度だけ登ったことがあるが、子供もピクニック感覚で登れるような山に妖怪が棲んでいるとは意外。しかも、寒風山は一面が草原で眺めが良いことでも有名なのに、天刃鬼はあの巨体をどこに隠しているんだろう? 素朴な疑問が湧き上がったけど、俺は黙って二人のやり取りを聞いていた。
「……つきましては、姿乎命さまにお願いがございます」
「何じゃ? たとえ氷御の願いであっても、儂から天刃鬼と冷御に手を下すことはできんぞ」
「いいえ。そんな無謀なお願いは申しません。少しばかり、雨を降らせてほしいのです」
「雨?」
「はい。もし私が天刃鬼たちにかなわず命を落としそうになったら、雨をください。それを頼りに阿弓冬志の妹だけは救い出せると思うのです」
――えっ?
爛堂の言葉に、俺はギョッとしてしまう。だって、命を落としそうになるって……。コイツにはもう死ぬ覚悟があるというのか。
「ふむ、良かろう。それで穏様の復活が阻止できるのなら、山に雨を降らせるくらい容易いわ。しかし、今からそんな保険をかけるとは随分と弱気じゃのぅ」
「最悪のケースを考えておいたほうが安心できるだけです。阿弓冬志の妹を取り戻せたら、あとは自分が逃げるだけですから」
「はたして、そうかのぅ?」
姿乎命さまは探るような口調で問いかける。脇に置いた四角い高坏に瑠璃の杯を置いて、脇息に頬杖をついた。爛堂をじっと見つめる。
「どれだけ逃げても、冷御がいる限り同じことが何度でも繰り返されるだろうに。自分の〝影〟を葬り去らなくて良いのか」
「……」
それは、双子の姉妹を始末するべきではないかという意味。命を狙われるのが今回で二度目なのだから、そう聞かれても不思議じゃない。また、穏様の復活を阻止するには、今莉を取り戻すより天刃鬼と冷御を潰したほうが確実でもある。
けれど、何度襲われるとしても、爛堂は冷御を殺すなんてできないだろう。同じ命を分け合って産まれた分身を傷つけることすらできないのだ。だって、昨日の夜に冷御と対峙したとき、爛堂は防戦に徹していた。本心では仲良くしたいと思っているのだから、攻撃しないのも当然。
姿乎命さまの質問に爛堂は無言で俯いたまま。何も言わないけど、それはつまり冷御を手に掛ける意志がないということ。言葉がなくても雰囲気で伝わってくるし、姿乎命さまもそれを察して呆れたようにため息をついた。
「自ら苦労を背負い込むとは物好きじゃなぁ。いつ襲われるかわからんようでは、心が安まる暇もあるまい。とはいえ、所詮は氷御の問題。儂がとやかく言ってもどうにもならん。冷御に襲われて命を落としても仕方なしと考えるなら、そうして生涯を終える運命が、氷御には元から定められておるのだろうよ」
じっと何も言わずに聞いている爛堂にとって、姿乎命さまの言葉は一見冷たそうに感じる。でも俺は、長い間懇意にしている間柄であっても変にベタベタとした感情で馴れ合わない二人に好感を抱いた。姿乎命さまは爛堂を本当に可愛がっているからこそ、安易に救いの手を差し伸べないんだろうし、返答に困るような核心をついた質問もあえてするんだと思った。
話を聞いているだけの俺もつい神妙な心持ちになってしまう。
「ただ……個人的には、氷御のつるつるぷりんとした可愛い尻を愛でることができなくなると、ちと寂しいかのぅ。んふふふふ」
「!」
神様らしく凛とした雰囲気を漂わせていたのに、姿乎命さまは急にただのエロ女へ成り下がったようだ……。真剣な面持ちだった爛堂も、みるみるうちに頬を赤く染めていく。
「おい、冬志とやら。おぬしは氷御の尻を見たことがあるか? これがなかなか肉付きが良くてな、肌触りもつるつるで気持ち良いのだ」
突然に話を振られても、内容が内容なだけに俺はただ焦るばかり。
「パンツは小学生並みに色気がないが、中身はぷりぷりじゃ。堪らんぞぉ! んふふふふ」
「やめてください!」
下ネタに赤面するほどガキじゃないが、あからさまな姿乎命さまの言いようと爛堂の困惑ぶりに俺も妙な汗をかき出す。というか、この二人はいったいどういう関係なんだ? いわゆる〝百合〟のお世界の住人? 頭の中では、まだ見ぬ爛堂の尻と女同士が乳繰り合う妄想が一気に膨らむ。いや、考えちゃダメだ。理性を失うな! 雄の本能がエロモードに切り替えられる前に、なんとか食い止めなければ。
気づけばこめかみを汗が流れていた。俺ってば、どんだけ動揺してんだよっ。
「は、ハンカチハンカチ……」
男子高校生の妄想力侮るなかれ。ブレザーのポケットからハンカチを取り出して、俺はもみあげを伝う嫌な汗を拭う。
「なんじゃ、それは!」
途端に、姿乎命さまが鋭く厳しい声で怒鳴った。俺に対してまっすぐに人差し指を向けている。
「へっ?」
「冬志、おぬしはいったい……何で顔を拭いておるのじゃあっ!」
部屋中がビリビリと震えそうな大声を出して、姿乎命さまは激怒していた。
「え、何って……ハンカ……うわっ!」
俺は手に握ったものを目の前に差し出してギョッとした。それはハンカチじゃなく、腰ゴムが伸びてよれよれになった古いボクサーパンツ。朝に美禰が寮の部屋から持ち出したのを取り上げて、ポケットに入れっぱなしにしていたのだ。
「どういたしましたっ? 何か起きましたですかっ?」
どこに控えていたのか、慌てた様子で美禰が姿乎命さまの足下に駆け寄る。そして、ご主人様の人差し指が向く先に俺の古いパンツがあるのを見ると、驚愕の表情で喚いた。
「に、ににに、人間めっ! くれぐれも無礼のないようにと申したではないかっ! そのような小汚い下履きを姿乎命さまの目に入れるでないっ。馬鹿者!」
ただ狼狽するだけの俺の手から爛堂がパンツを取り上げた。
「何やってるのよ!」
「いや、ポケットに入れたの忘れてて……」
「姿乎命さまは下着に格別の思い入れがあるお方なの。こんなゴミ同然のパンツを見たらお怒りになるわ」
「は? 格別な思い入れ……?」
また別の意味で、俺は戸惑う。
「男子たるもの、下履きはふんどしに決まっておる!」
恐ろしく通る声で姿乎命様は断言した。脇息にもたれていた上体を起こし、さらに立ち上がってまっすぐに背筋を伸ばしている。その堂々とした態度に迷いは一切感じられない。
「ボクサーパンツなどというふざけた代物はもちろん許し難いが、さらに履き古しとは下劣極まりないっ! 美禰よ、ふんどしを持てぃ!」
圧倒的な迫力で、姿乎命さまは俺のパンツを痛烈批判したのだった。
え? それってもしかして、フェチ? 神様ってば、パンツに独自のな偏愛を傾ける下着マニア……?!
いろんな意味で唖然とする俺に、姿乎命さまは強い口調で説教を始める。
「良いか、冬志よ! 男の美しさは引き締まった尻に表れるのだ。ちなみに、最も美麗なのはえくぼが出る尻だがな。それをパンツの布地なんぞで隠してたまるか。キリッと絞ったふんどしで惜しげもなく露わにするのが最高なのだ! ほれ、下劣なパンツを脱いでこれを締めぃ! 有名百貨店でも売っていない超レアアイテムじゃ」
――いや、このお方は下着マニアというより、尻マニアのようだった。
美禰が恭しく差し出す白のふんどしには、『SHIKOME’S』という刺繍が入っている。確かに超レアアイテムだけど、本当に有り難いのかどうかは微妙……。
呆然として手が出ないでいる俺の代わりに、爛堂が「もったいないことです」と言いながらふんどしを受け取った。頭を押さえつけられて、無理矢理にお辞儀をさせられる。
「ど、どうもありがとうございます……」
つられて出る感謝の言葉には気持ちがこもるわけもなく。山の神様がデザインする稀少品は、おそらく一度も身につけられることがないままタンスの肥やしになるだろう。どうにも妙な気持ちになったが、姿乎命さまは満足げに一人で頷いている。
「また一人、迷える子羊を導くことができたわい。良かった、良かった」
俺からすると、姿乎命さまのほうが神様としてよっぽど迷走していると思うのだが。釈然としない俺に、爛堂が小声で囁いた。
「疑問に感じることがあるでしょうけど、今は胸にしまっておいてちょうだい」
「はあ……」
どうやら、姿乎命さまの偏った好みには爛堂も首を傾げたくなる部分があるらしい。まあ、〝つるつるぷりん〟発言や、スカートめくりから察すると、神様のお気に入りというのもなかなか大変なのかもしれない。
「しかし……妙だな」
やっと機嫌が直ったはずの姿乎命さまが、それでも怪訝そうに呟いた。美禰と爛堂はもう一度ビクリと肩を震わせる。
「まだ何かお気を煩わせるものがございますでしょうかっ?!」
再び足下にすり寄ってご主人様の顔色を窺う美禰は必死の表情。
「いや、この男には変な気が漂っておると思ってな。人間には珍しい色だのぅ……」
顎を撫でながら、姿乎命さまは俺をしみじみと見つめている。怒っているわけではないとわかって美禰はホッと一息ついたが、一方の爛堂は姿乎命さまの指摘を予想していたかのようにハッとした。何も聞かれていないのに一歩進み出て話し始める。
「それは、普通の人間にはない能力が備わっている、ということでは……?
姿乎命さまは覚えておいででしょうか? かつて私が穏様を降ろされそうになったとき、一人の人間が身代わりとなって命を落としたことを」
「確かあれは……阿弓の跡取りではなかったか」
「ええ、その通り。ここにお連れしたのは、凍之介さまの子孫にあたる阿弓冬志なのです」
爛堂の説明に姿乎命さまは遠い記憶を辿ったらしく、「ああ」と小さく感嘆した。
「氷御はふたたび阿弓の家の者に守られるということか」
「さて、それは……。私が守られるのか、この者を私が守るのかはわかりません」
「普通の人間にはない能力があるのなら、そこを頼らない手はないだろう。ふふ」
姿乎命さまは意味ありげな笑みを浮かべると、爛堂から俺に視線を移した。
「冬志よ、氷御を失うのは儂も惜しい。くれぐれも頼む」
神様のお願いは一方的で命令に等しい。俺の返事を聞くことなく、姿乎命さまは長い袖と裾を翻してくるりと背を向けた。もはや用はなしと席を立とうとする。
「阿弓の人間がいるのなら、儂が雨を降らせる必要もないかもしれぬが……幸運を祈る!」
最後の一言は振り返りもせずに告げられ、右手だけがひらひらと振られた。大きくたわむ紫色の布をくぐって、姿乎命さまは奥へ消えていく。
「はあ……まったく。肝を冷やしましたですよっ! 人間めが薄汚れた下履きを取り出したときは心臓が止まるかと思いましたです、ホントにっ」
主人の姿が見えなくなると、美禰がどこかから走り出てきてブツブツと文句を言った。ピョンと大きく跳ねて俺の肩にしがみつき、「無礼のないようにと言うたではないか! このこのっ!」と頭をぺしぺし叩く。
「あいてててっ。だって、俺も俺だけど姿乎命さまも姿乎命さまだろう、あれは!」
首をすくめて小さな手を避けながら、感じたことを正直に言ったつもり。
「何じゃ、その言い方はっ! 人間の分際で生意気なっ!」
「いや、ごめんごめん! バカにしてるわけじゃないよ。まさか神様が尻フェチで下着マニアだなんて思いもしないからさ」
「しーっ! しーっ!」
「しーっ! しーっ!」
俺の発言に美禰と爛堂は慌てふためいた。唇の前に人差し指を立てて、二人はまったく同じポーズを取っている。
「声が大きい、馬鹿者っ!」
囁くような小さな声で器用に怒鳴る美禰は、今度は平手ではなく拳で俺の頭を殴った。爛堂も鼻先を擦りつけんばかりの勢いで顔を近づけ、警告してくる。
「姿乎命さまの〝格別な思い入れ〟には触れないことよ。ちょっと首を傾げたくなるようなことをおっしゃられても、下手に口を挟んではダメ。姿乎命さまはご自分の趣味に意見されるのも、ご自身の好みとは違うものを見聞きするのもお嫌いなの。それに、特に変わった嗜好を持っているという自覚が、姿乎命さまにはないわ。奇異の眼差しを向けられたり、フェチ・マニアなどという言われ方をされたりするのは心外もいいところ。許し難いことなの。だから、今度からは何を言われても当たり障りなくスルーしてちょうだい」
「それって……尻ネタ? パンツネタ?」
「しーっ! しーっ!」
「しーっ! しーっ!」
二人は俺の口をふさいで黙らせようとする。四つの手のひらが俺の顔に覆い被さり、呼吸すら危うくなりかけた。
「ちょっ! ちょっと、苦しいっ! わかったから! もう何も言わないから、お前らやめろっ」
気づけば、俺だけじゃなく美禰も爛堂もハアハアと無駄に息切れしていた。
「阿弓君。命が惜しかったら、姿乎命さまのお好きなものに妙な口出しは一切しないように。過去に、軽い気持ちで意見したらとんでもない仕打ちに遭った物の怪がいたわ」
「命が惜しかったらって……? そこまで厳しいタブーなの? なんだかわかんないけど、わ、わかったよ……」
下着マニアだろうと尻フェチだろうと、個人の勝手でいいじゃないと思うんだけど。何を見ても聞いても知らんふりを決め込まなければならない、とは逆に厄介な話。ただ、姿乎命さまの性癖を必死なほどスルーしたがる二人を見ていると、何か特別な事情でもあるのかなと思えてくる。どっちにしろ、触らぬ神に祟りなし。パンツと尻の話題が出ても、今度からは適当に愛想笑いをしていようと俺は決めた。
「はあ……妙に疲れたわね。私たちもそろそろ帰るわ」
「左様ですか。お気を付けてお帰りくださいませです……ふぅ」
なぜか爛堂と美禰には疲労の色が見えている……。俺のせいかもしれないが、だったら二人とも前もって姿乎命さまの性癖を教えてくれればよかったのにと思ってみたり。美禰がまだじっとりしたまなざしを向けるも、文句を言うのすら面倒臭くなっているようだった。覇気のない声で「今一度、美禰の両手をご覧くださいませ」とだけ言う。小さな可愛らしい手が「いち、にの、さんっ!」というかけ声と共に一拍手。湧き上がる煙に視界が一瞬遮られて、ふたたび目を開けたときにはもう館は跡形もなく消えていた。両目に映るのは木々の緑だけ。
「いろいろありがとう、美禰」
姿が見えなくなってしまったというのに、爛堂は空へ向かって律儀に礼を述べた。すると、返事の代わりか、不自然なつむじ風がぴゅうと俺たちの間をすり抜けていった。