2~普通じゃない女子高校生と俺のご先祖の関係~
今さらのように、続きます。。。
一足先にシャワーを浴びて出た俺は、彼女が寝間着代わりにするという白い襦袢をガウンのように着ていた。当然ながら女物で袖も丈も短く、俺が着るとつんつるてんである。
「しかしなぁ……あれは何だったんだろう」
シングルより狭いベッドに腰掛けて、自分の両手をじっと見つめた。火事場の馬鹿力なんて言葉があるけど、俺が天刃鬼を吹っ飛ばしたのは、そんなものでは片づけられないだろう。生身の人間が発揮できる力ではないし、超能力と言われたほうが納得できる。しかし、どこにでもいる普通の男子高校生の俺が、突然に不思議なパワーを使えるとは考えられない。やっぱり、爛堂との関わりが何か原因しているに違いなかった。
「申し訳ないけど、私はバスタオルを一枚しか持っていないの。それを貸してくれる?」
シャワールームから顔だけを出した爛堂が、俺が使ったタオルを指さした。濡れた髪と顔が、彼女が全裸であることを予想させる。俺は、できるだけ視線をそらしてタオルを手渡した。
「つめたっ!」
目をそらすがために意図せず触れてしまった爛堂の指は、湯を浴びた直後とは思えないほど冷たい。まるで冷水をかぶっていたみたいだ。
「この私があたたかいシャワーを浴びると思って? そんなの自殺行為だわ」
「あ……そうか。なるほど」
子どもの頃にばあちゃんから聞いた民話では、実は雪女である女性を嫁にした男が、嫌がる嫁を無理やり風呂へ入れたら溶けて消えてしまった、という内容があったっけ。爛堂もそれと同じか。
「熱いお湯も夏も苦手なの」
身体にバスタオルを巻いただけの状態で、爛堂はシャワールームから出てくる。まだ肌寒い季節なのに平気な顔をしているのは、雪女だからなのだろう。
というか、見た目はピチピチの十六歳なのだから、露出過多は目に毒。早く何か着てほしい。見ないようにと自分に言い聞かせながらも、雄の本能は彼女の胸や腰をどうしてもちらちらと確認してしまう。巨乳ではないが、それなりにバストはありそうだった。Dカップってところか? 七十五点。
自分の母親以外でバスタオル一枚の女性を身近に見たことはない。風呂上がりのおふくろがパジャマも着ずに缶ビールをぐいぐい飲む姿は女を捨てているとしか思えないが、同じ格好の爛堂は恐ろしく美しい。アップにした髪からほつれ毛がかかる細いうなじは、いつも髪に隠れているせいか一段と白くなめらかに感じる。首から肩、背中にかけてのラインが女らしく、たまらなく艶めかしいのだ。グラビアアイドルなんかにはない、楚々としたいやらしさというか。
「……何を見ているの?」
「ん? え、あっ! 何も、何も見てないよっ!」
ぼーっと爛堂の半裸身に目を奪われていた俺は、恥ずかしいくらいに動揺してしまう。慌てて目をそらして腰掛けていたベッドから立ち上がるが、立ち上がったからといって何をするわけでもない。一歩二歩、意味もなくウロウロしてから、俺はなぜか青眼の構えを取った。
「す、素振りでもしようかなっ。うん。そうだ、そうしよう。体力、つけとかないと」
ちなみに繰り返すが、俺は剣道の経験などない。
「だって、さっきの冷御なんか、すごかったもんな。氷の棘みたいなやつ投げてきて、な!」
何も持たない状態で素振りもへったくれもないけど、俺は自分の中の煩悩を消すべく両手をものすごい速さで上下に振った。振りながら、とりあえず何か喋らなければと話し続ける。何でもいいから喋っていれば、目に焼き付いて離れない爛堂のバスタオル姿が薄れると思ったのだ。
「……冷御は最強だから」
「ん?」
俺が〝とりあえず〟で話した内容に、爛堂は真面目に返答したようだった。
「私も一族の誰もかなわないわ。冷御の攻撃力は群を抜いて優れているの。まともにやり合ったら、私でも死んでしまうでしょうね」
淡々と話す爛堂は、クローゼットから白い襦袢を取り出してなで肩に羽織る。裸の背中や二の腕が見えなくなって、細いうなじだけが襟から覗いた。ちょっとガッカリしつつも、俺は理性的な紳士であろうと努める。煩悩が消え去るように、しゃかりきになって妙な素振りを繰り返した。
「死んでしまうって……こわっ! お前ら双子だろうが。それぞれ信念が違うのは仕方ないけど、もう少し仲良くしてもいいんじゃないかー?」
兄弟姉妹は仲良くするものという人間界の道徳は幼稚園児でも理解しているのだが。物の怪の世界は同じ命を分け合っても、死を望むまで憎み合うのが珍しくないのか。
爛堂は肩越しにこちらへ向けていた視線をそらし、目を伏せる。うつむく顔にはいつものように表情がないけど、そこには今まで感じたことのない雰囲気が漂っていた。なんというか、寂しさ?
「……人間と物の怪は違うわ」
呟く声は小さく、力なく唇からこぼれた。
「そりゃ違うだろうけど。でも違うっていってもなぁ。たった二人きりの姉妹で殺し合いなんて、そんなバカな話ないだろ。妖怪には心ってものがないのか?」
「……」
至極あたりまえのことを俺は言ったつもり。でも、爛堂は屁理屈すら返さずにうつむいていた。数秒。十数秒。数十秒。もう一分経っただろうかという頃、俺はふと素振りを止めて爛堂を見た。微動だにせず、長いまつげも伏せられたまま。ただ、ぷっくりした唇が堅く結ばれて僅かに震えている。
「あれ……もしかして怒ってる? 俺、なんか変なこと言った? え、何?」
爛堂は何の感情も表さずに平気でコワいことを言う女なだけに、無言でいられると焦る。そんな俺の心を読んだのか、爛堂はやっと顔を上げて俺をまっすぐ見据えた。
「そうね。妹さんと仲が良い阿弓君の言うとおりかもしれないわね」
口では俺の意見をあっけなく肯定しつつも、彼女が漂わせる空気は微妙。本音は違うということがありありとわかる。
「殺し合いなんて、バカな話よ。私たちはもう二百年も喧嘩し続けているのだから、大バカ姉妹ね。江戸の時代から私を憎んで、穏様の依り代にさせようとしている冷御の執念も、ここまで来るとあっぱれだわ」
「うええっ! お前ら、二百年前からあんなこと続けてるの?」
物の怪は喧嘩も桁違いか? 何百年、何千年も生きる妖怪にとっても、二百年という時間軸はきっと長いはず。大体、そんなに長い間対立し合うのも疲れるだろうに。冗談じゃなく、コイツらバカだ。
「ふん、冗談じゃないほどバカで悪かったわね。私だってすっかり疲れちゃったわよ」
あ、心を読まれた……。
爛堂は妖しい光の宿る濃いワインレッドの瞳で、俺の本音を覗いている。
「依り代として狙われるのは今回が初めてじゃないわ。人の心を読むのが得意な私を冷御はずっと妬んでいたの。彼女は雹を降らせたり、氷を武器にして自在に操ったりするのが上手な攻撃型だけど、私のような能力は備わっていない。同じ命を分けて産まれたといっても、似ているのは顔だけ。中身はぜんぜん違うし、自分にないものを持つ私を冷御は憎らしく思っていたわ。命が二つに分かれずに自分だけで誕生していたら、完璧な妖力を持つことができたのにって」
堰を切ったように喋り出す爛堂はさらに続けるのだが、それは自分に言い聞かせているふうにも聞こえた。
「そんな冷御を私も嫌いになれれば良かったけど、同じ顔をしている彼女を憎むのはなかなか難しいことよ。何度も仲良くしようと思ったわ。でも、冷御が私の気持ちを受け入れてくれないのだから……仕方ないじゃない。私だって、阿弓君にバカバカ言われなくてもわかってるわよ」
珍しく感情がにじむ口調に俺は戸惑うしかない。明らかに苛立っている爛堂は不機嫌な目で睨んでいた。その責める目に凄まれると謝らないわけにもいかない。
「ご、ごめん……なんていうか、からかうつもりはなかったんだ」
背中を向けて襦袢の腰を紐で結ぶ彼女に歩み寄り、そっと顔を覗き込む。
「何?」
ふてくされた声で俺を見返す爛堂。仏頂面には変わりないが、それは能面のように心がない無表情ではなかった。バカバカ言った俺を腹立たしく思うのもあるんだろうけど、それだけじゃないもどかしさ、というか。
本音では仲良くしたい。でも受け入れてもらえない。さらには、殺し合いをするほどに冷御と険悪な関係になっていることを、たぶん爛堂本人が一番納得していないに違いなかった。
「……そうだよな。せっかく姉妹で産まれたのに、仲良くできないとつらいよな」
だって、爛堂の抑えきれない感情は腰紐を結ぶ手にも表れている。荒々しく紐を引っ張り、雑に扱うがために上手く結べないでいた。そんな様子がなんだか切ない。
ぎこちない蝶々結びがむなしい三回目に突入するのを見て、俺は何気なく、本当に何気なく、手のひらを爛堂の頭に乗せた。ポンポンとあやすように軽く撫でる。
子どもの頃、機嫌を悪くした今莉にそうすると必ず笑ってくれたっけ。今莉と爛堂が似ているわけじゃないけど、そんな癖が無意識のうちに出ていた。
「たぶん……いつか解り合えるときが来るさ。大丈夫だよ」
慰めが適切かどうかはわからないが、何も言わないのも冷たすぎると思った。
けれど、爛堂は肩を震わせて身体を強ばらせていた。三回目として挑戦した蝶々結びも、途中で手を止めてしまって結びきることはできない。それどころか、紐がくちゃくちゃになるほど強く両手を握りしめ、その拳は小刻みに揺れていた。
あれっ? 俺また余計なこと言った? さらに怒らせた?
爛堂の頭を撫でていた手をおそるおそる引っ込め、ゆっくりとかがんで顔を覗き込もうとすると、それを避けるようにぷいと背を向けられた。もはや、俺は何も言うべきではないようだ。
そして、今さらのように気づく。彼女は俺より何百年も長く生きている経験豊富な人生の先輩であるということを。根拠のない慰めでごまかされるほどガキじゃない。知ったふうな口を利くなと凄まれるのを予想した。あるいは、いい加減にしろと喉の奥を冷たく凍らされちゃうのかも。雪女を怒らせて良いことなんかない。
「あっ……わわわ! ごめん! ごめん! ごめん! ごめん!」
謝り倒すしかない、俺。逃げられるなら今すぐにでも逃げたいけど、自分の部屋が大惨事の俺はどこにも行けない。爛堂の怒りを静めるか半殺しに遭うかの二者択一。そりゃ、謝るに決まってるでしょ。喜んで土下座もするさ。
「ごめん! すいません! 申し訳ない、ホントに」
顔を背けてこちらを見ようともしない爛堂の前へ、俺は何とか回り込もうとする。とりあえず、目を見て真剣に謝っているとわかってもらいたい。
「爛堂、ごめんっ! ごめんってば!」
どうしても向き合いたくないらしい彼女の肩をつかみ、むりやりに顔を合わせて俺はハッとした。
「……泣いて……る?」
そこには、眉根を寄せて涙を流す少女がいた。人間の命を虜にしながら何百年も生きながらえる妖怪の姿などない。俺の目には繊細でかよわい十六歳の女子高校生が映っていた。
「泣いて……なんか、いないっ……!」
慌てて襦袢の袖で顔を隠し、爛堂は切れ切れに涙を否定する。強気を装っているけど、揺れる声は今にも崩れそうな弱々しさを隠しきれない。無表情の彼女を見慣れているだけに、鋼のごときポーカーフェイスの崩壊に呆然とした。
「ど……ど、どうしようっ?」
「どうもしなくていいわよっ。とりあえずティッシュを取ってちょうだい!」
両肩をつかんでいた俺を突き飛ばして、爛堂は机の上のティッシュボックスを指さす。言われるままに箱を取ると、俺は爛堂が涙を拭いて鼻をかんだ使用済みティッシュを渡されるままに受け取った。右手には使用前、左手には使用済みのティッシュがみるみるうちに山を作る。それを後生大事に捧げながら、俺は爛堂の顔をおそるおそる窺った。
「はあ、驚いた。人間のくせに生意気ね」
最後の一枚をくしゃっと丸めると、くるりと振り返ってそれを俺の額に投げつける。少し目の下が赤い気がしないでもないけど、爛堂はいつもどおりの能面フェイスに戻っていた。正直なところ、どうして彼女が涙を流したのかはわからなかった。でも、冷御のことで心がざわついたのは間違いない。そして、俺が大変な失言をしたらしいことも間違いないだろう。
彼女の中に眠るパンドラの箱を開けてしまった俺は、何を言われてももう反論できない。するつもりもない。だって、何より俺自身が、心のプライベートテリトリーに他人が入るのを嫌うから。知らず知らずのうちに、爛堂の心へ土足でずかずかと踏み込んでいた自分が情けない。自己嫌悪に陥っていた。
「私は泣いちゃいないわ。双子だろうが姉妹だろうが、冷御とは相性が悪いんだから。二百年も喧嘩し続けて変わらないんだもの。いまさらどうにもならないわよ。この世に生まれて十六年ぽっちの阿弓君に心配されるなんて、笑い話にもならない。余計なお世話よ」
堂々と言い切った爛堂は、人生の酸いも甘いも知り尽くした物の怪のしたたかさを漂わせる。十六歳の少女のかよわさはすでになくなっていた。
「それに、あのとおり冷御はとことん人間が嫌い。特に、偉そうにふんぞり返って小判をばらまく豪商や上級武士が嫌いだったわ。子どもの頃から遊郭に出入りして、下品な成金男を怖がらせては、いい気味だと喜んでいたもの。だから、江戸の時代に穏様の封印を解こうとする物の怪が現れたとき、彼女は率先して進言したのよ。人の心に入り込むのが得意な私が、穏様の魂の容れ物になる、と。ええ、私を依り代にするべきと言い出したのは、ほかでもない冷御なの」
自分を売った姉妹を憎めない爛堂は、きっと俺が思っているよりも優しい奴なんだろう。そりゃ、やるせなくなって涙も出てくるわけだ。俺のちんけな慰めが通用するはずがない。
「……なるほどね。じゃあ、あの天刃鬼って奴と冷御のコンビも二百年か」
「いいえ。江戸期に穏様を復活させようと言い出したのは天刃鬼じゃないわ。当時はあいつもまだ青二才。そんな大それたこと、できやしない。主謀したのは、空虚で鬱々とした顔のない妖かし、ぬらりひょんよ。つかみ所がなくて存在感もあまりなかったのに、何もない顔の裏でとんでもない陰謀を企てていたの」
まあ、現代においても、大人しそうなタイプほど猟奇的な事件を起こすものだ。空虚で鬱々としているからこそ、そのぬらりひょんは何かにすがりたくて邪悪な念を解放させようとしたのかもしれない。
「あのとき、私は人間でいうところの十二歳くらい。妖力も未熟で知恵もなかったわ。悪知恵が働く冷御のほうが、よほど賢かったでしょうね。私は呆気なく奴らにつかまって穏様の魂を降ろされる寸前までいってしまったのよ。一人きりでは何もできず、ろくな抵抗もできなかったから。でも、助けてもらったの」
「誰に? もしかして……冷御?」
ちょっとためらってから冷御の名前を挙げたが、残念ながら爛堂は首を左右に振る。またしても失言をした? とビクついたけど、爛堂は気にせずそのまま話を続けた。
「人間よ。私は人間に命を救われたの。空が雲に覆われて、おぞましい黒い念が取り憑こうとしたとき、私の前に凍之介さまが立ちはだかって代わりに穏様を受け止めてくれたわ」
「いのすけ?」
そういえば、今朝も爛堂はそんな名前を口にしていたような……。頭の片隅に残るかすかな記憶が引っかかった。でも、いったい誰なんだ、それは。
「凍之介さまは私が物の怪であるということも知らず、年端もいかぬ娘を手込めにするとはけしからん、と武士のご子息らしく勇敢に戦ってくださったのよ。でも、穏様を受け止めきれる人間なんかいない。末代まで祟りそうな暗黒の念に、凍之介さまは命を奪われてしまった。実際に、凍之介さまが亡くなってから、お母さまだったか叔母さまだったか、後を追うように亡くなったと聞いたわ。阿弓の家はもう駄目だろうと、周りの物の怪たちは言ったものよ」
「阿弓の家?」
爛堂の昔話を聞いていたつもりが、急に自分の名前が出てきてギョッとする。怪訝な顔をしているであろう俺に、爛堂はゆっくりと頷いた。
「そう、阿弓凍之介さま。あなたのご先祖よ」
「はぁ……?」
突然の展開に気の抜けた声しか出ない。
「今朝あなたを見たとき、私は疑いながらも錯覚したの。だって、視界に飛び込んできたのは二百年前のあのときと同じ場面だったから。凍之介さまが必死の形相で駆け寄ってきた姿と阿弓君がぴたりと重なったわ。死んだはずなのに、どうして? と。だって、いとも(・・・)簡単に(・)私の(・)結界を(・)破って(・・・)くる(・・)なんて(・・・)、凍之介さま(・・)以外に(・)いない(・・・)んですもの」
――ということは、つまり。
ぽかんとする俺に、爛堂は断言した。
「阿弓君にも、長い年月をかけて受け継がれる能力が備わっているのよ」
天刃鬼にぶん投げた光の塊や、自分を守ってくれた電磁波のバリヤーみたいなものが、代々伝わる阿弓家の能力? まさか?
「まあ、凍之介さまは良い意味で鈍感なお方だったから、自分に不思議な力があることに気づいていなかったようだけど。剣の稽古を積んでいるおかげだと思い込んでらしたわ。
それはそうと、阿弓の家が絶えたという噂は嘘だったみたいね。こうしてあなたまで血族が続いているんですもの。阿弓家はもともと秋田藩に仕えていた武家でしょう?」
「うーん……どうなんだろ? わかんないなぁ」
俺が知るご先祖はせいぜい死んだじいちゃんくらい。それより前の親戚なんて、聞いたこともない。爛堂の話がどうもピンと来なかった。
「あ、そういえば、ばあちゃんがウチはそもそも分家だとか、言ってたかなぁ。墓参りに行くと、すごく立派な本家のお墓をいつも掃除してたっけ。本家を継ぐ人はもう誰もいないから、ばあちゃんもそのまたばあちゃんも本家のお墓を面倒見なきゃいけなかった、みたいな話は昔聞いたような気がする」
でも、それ以上は知らない。自分が武家の出だとは思いもしなかった。
「ふうん。まあ、現代で自分の出自を正しく把握できている人は少ないでしょうから。何代も前に若くして亡くなったご先祖を知らなくても、不思議じゃないわね」
今から二百年前というと、いわゆる幕末期より少し前になるんだろうか? 世の中にはまだ開国や倒幕といった流れはなく、秋田も平穏な江戸後期を送っていたに違いない。
「その、凍之介って奴は俺に似てるの? どんな奴だった?」
にわかに自分の先祖への興味が湧いてくる。時代も異なる血族と会っている人物から話を聞けるなんて、普通ではあり得ない。
「顔自体は全然似てないわ。どっちが美男かと聞かれれば断然、凍之介さまのほうが眉目秀麗ね。私たちが入学した高校の前身、慶徳塾に通ってらして学問も剣術もよくできた方だったの。しかも、阿弓君に比べると品が良くて思いやりがあって、私のような者にもとても優しくしてくださったのよ。阿弓君はどうだか知らないけれど、凍之介さまは聡明で読み書きを教えるのも上手だったし、礼儀作法も少し学ばせていただいたかしら。そのうえ……」
「へー、そーなんだー!」
まだまだ後が続きそうな爛堂の話を、まったく気持ちのこもっていない相づちで強引に切り上げさせる。どっちがイケメンかなんて聞いちゃいないし、俺と比較しろなんて誰が言ったよ。
つまり、凍之介は俺より全然イイ男だったというわけだな。
「そうね。優劣をつけるなら、凍之介さまのほうがずっと格上だわね」
「くっ……! 心を読むなぁっ!」
心を読むまでしなくとも、憮然とした表情で俺が何を考えているか、爛堂は楽にわかっただろう。俺の頭の中では勝手に凍之介のイメージが作り上げられていく。アイドルみたいなイケメンで頭が良くて、運動神経も優れている。しかも性格まで良いときたら、とんでもなく嫌な奴じゃないか。学級委員長とか生徒会長タイプだろ、きっと。それも、女人気はすこぶる高いのに、同性の男からはめっきり支持されない感じ。言うことなすこと嫌味な男に違いない。
「……それに、阿弓君も知っていると思うけど、江戸時代は身分制度がはっきりわかれていて、本当であれば武士のご子息である凍之介さまとは口を利くことすらできなかったのよ。私は粗末な着物しか持っていなかったし、わら草履さえなくいつも裸足だったから。でも、凍之介さまはそんな乞食同然の私にも、武家の娘に対するのと同じように接してくださったの。これからは女にも学問が必要だと、慶徳塾で学んだことをわかりやすく教えてくださったわ。とてもお優しい目と声は、何百年経とうと忘れないでしょうね」
「ん?」
ちょっと待て。
聞いてもいない凍之介情報をさらに続ける爛堂は、心なしか嬉しそうに見えないか? 話し方はいつものように淡々としているけど、声のトーンが少しばかり高いような気がする。 ウキウキしているというか。うっとりしているというか。
「爛堂、お前もしかして……凍之介が好きだったんじゃないか?」
「バッ……! な、な、な、何を言って……っ!」
面白いくらいに動揺する爛堂に、もはや鋼のごときポーカーフェイスはなかった。大きく目を見開いて頬を赤く染め、言葉のでない口をぱくぱくと開けたり閉めたりする様は、『イエス』という返事に他ならない。これまでの爛堂の仏頂面はいったい何だったんだろう? と呆れるほど、奴は人間らしく取り乱していた。
「ほほーぅ。そうなのか。クールを気取ってるお前でも恋とかするわけね。へぇー」
ニヤリと笑みが浮かぶ今の俺こそ、凍之介よりずっと嫌味な奴かもしれないが、恋愛沙汰にはとんと縁がなさそうな爛堂だけに、冷やかし甲斐がある。
「こ、恋っ? 私みたいな者が、凍之介さまに恋なんて……あり得ないッ!」
「妖怪が人を好きになっちゃいけないってルールもないだろーぅ? 恋愛が禁止なわけでもないでしょ。いーじゃん、いーじゃん」
うふふ、とほくそ笑んでしまう俺は、結構いや、かなり性格悪いのかも……。そんな俺に爛堂はクッションを思いっきり叩き付けて全力否定する。
「違うわよっ! 好きじゃないっ!」
「いてて。そこまで全否定したら、天国の凍之介もガッカリするだろ。かわいくないなぁ」
「ふん、かわいくなくて悪かったわね。凍之介さまはそういうお方じゃないのよ。尊敬するべき存在としてお慕いしていただけだわ」
「ふうん、お慕いしていた、ねぇ……」
それを恋心というんじゃなかろうかと、俺は思うのだが。
「ニヤニヤしてるんじゃないわよ。やっぱり凍之介さまとは月とスッポンね。本当に血が繋がっているのかしら?」
鼻息を荒くして爛堂はぶつぶつと独りごとを言うと、一方的に話を切り上げた。そして、おもむろに机の上へ教科書やノートを並べだす。
「何してんの?」
「明日の準備よ。現国と英語、数Ⅰ、科学……二日連続で遅刻はさすがにまずいでしょ。特に、人間の阿弓君は早く寝たほうがいいんじゃないの?」
ベッドの脇に置いてある目覚まし時計を見ると零時半を指していた。確かに、これはまずい。俺は最低でも八時間は睡眠がほしいし、すこぶる寝起きが悪い。七時から始まる食堂での朝食にありつくには、最低でも六時四十五分に起きなきゃいけない。寝る前からすでに睡眠不足が決定してしまった。「ヤバいヤバい」と慌ててベッドに潜り込むが、ふかふかの布団で寝ようとした俺を、爛堂はゴミくずのようにつまみ出した。
「誰がベッドに寝ていいと言ったのよ。寝る場所ならほかにもたくさんあるでしょう?」
……まだまだ夜は冷えるというのに、床で寝ろというのか。予想はしていたけど、そりゃないだろう。カーペットを敷いていない床板は冷たく、横になるには固すぎる。ここで一晩を明かすのは人間の俺にとって拷問以外の何者でもない。
「これを貸してあげるわよ」
小さく身を縮める俺を哀れに思ったのか、爛堂はベッドに潜りながら毛布を寄こした。ひんやりして肩や腰の骨が痛い床にじかに寝るよりはましだけど、それでも毛布一枚だけなんて。俺はみずから毛布にす巻きになって、みの虫のように丸まった。
「じゃあ、おやすみ」
無情な爛堂の声が聞こえると共に部屋の電気が消える。
一分、五分、十分……。眠りについてしまえば寒さも感じなくなるかと思ったけど、そもそも寒くて寝付けやしない。しかも、毛布を巻いているとはいえ、床の固さは想像以上だった。みの虫状態で俺はゴロゴロと寝返りを打ってしまう。だって、どう体勢を変えても体が休まる気がしないんだから。
「ぶ、えっくしょい! っくしゅっ!」
くしゃみが立て続けに出るのも当然だろう。毛布越しでも床へどんどん体温が奪われていくのがわかって、俺は縮めた足をすりあわせ始めた。もこもこホカホカの靴下が欲しい。ゴロゴロ、すりすり、ゴロゴロ、へっくしょい! すりすり、ゴロゴロ、へっくしょい!
「……うるさいわね」
「さみーんだよっ!」
唸るような爛堂の一言に、俺は思わず大声を出した。
「床の上でなんか、寝れるか。寒さを何とも思わないお前とは違うんだよっ」
というか、雪の化身である爛堂が床の上で寝ればいいんじゃないか。
「贅沢を言うわね。でも、私は固い床の上でなんか寝ないわよ。乞食じゃあるまいし」
「おいおい、俺は乞食でいいのかよっ!」
毛布みの虫状態で、俺はずりずりとベッドへ這い寄る。そんな俺を冷たく見下ろして、爛堂はため息をついた。
「しょうがないわね。詰めてあげるから入ったらいいわ」
ぺろんとめくられる布団が、俺には天国の入り口のように見えた。毛布にくるまったままで、急いでベッドへよじのぼる。ホカホカではないものの、ほんのりと爛堂の体温が感じられた。
「はーぁ。あったかい! やわらかい!」
こわばっていた体が一気に弛緩するのがわかる。ふわっとした布団に包まれて身も心もやっとリラックスできた、はずだった……。
「狭いわね、やっぱり」
吐息が頬に触れて目を開けると、爛堂の顔がドアップで目に飛び込んでくる。
「う、わぁっ!」
驚く俺を迷惑そうに見る彼女との距離は鼻先三センチもないだろう。少し体を動かしただけで爛堂の腕や足に触れてしまう。
今さらのように、俺は女性と同じ布団の中にいるのだと自覚した。それが爛堂だろうと、実は何百年も生きている妖怪だろうと、女体には変わらない。急に恥ずかしくなって可能な限り体を離そうと思うものの、シングルより狭い寮のベッドではそううまくいかない。どうしても密接してしまうのだった。女の子と最後に手を繋いだのは幼稚園か小学校低学年のときか。中学では仲の良い女子の先輩からよくからかわれはしたけど、それ以外で女子と親しくする機会はなかったし、身体になんて触ったこともない。彼女いない歴は年齢と同じ十六年。そんな俺が今ここで十六歳(に見えるだけの二百数十歳?)の女子(と言い切るには自信がないけど、男子ではないからやっぱり女子だと思う妖怪)と肌が触れそうになっているのは、本当に驚きの展開だった。
身じろぎする爛堂の太ももが俺の右手の甲に触れている。左足の膝に当たっているのは彼女のすねだろうか。自分以外の身体の温度をこんなにも近く感じた経験はない。もちろん、爛堂に対しては特別な感情なんかないが、健全な人間の男子は女体と接近してドキドキするのが当たり前。顔と身体が急に熱くなったのは、布団に潜り込めたからだけじゃないようだ。ぶっちゃけ、俺は妙な気分になっていた。目はいっそう冴えて、爛堂と触れている右手の甲や左足の膝が痺れるほど火照ってくる。
「阿弓君」
「はぃっ!」
唐突に名前を呼ばれて、動揺のあまり変に掠れた声が出た。
「あたたかいわね」
「そ、そりゃ布団はあったかいだろ。床より何倍もあったかいよ」
頑張って頑張って、平静を装う俺。
「そうではなくて。人間はあたたかいのね」
薄闇に慣れた目が、まっすぐに自分を見据える爛堂をとらえた。長いまつげがゆっくりと瞬きする。
「私たち物の怪は冷たいわ。我ながらガッカリするほど」
「まあ……爛堂は雪の化身だから熱くはないだろうな」
「人間が羨ましい。他人を思い、優しくすることを当たり前だと考えるんですもの。世の中の舵取りをして当然よ」
「ん?」
会話が噛み合っていないと気づくも、爛堂の言わんとすることがすぐには汲み取れない。
「人間に泣かされるのは阿弓君が二人目。昔、凍之介さまにも細かくお気遣いいただいて、私は泣いてしまったの。あたたかな手で頭を撫でてくださったわ。そういうところは、あなたたちとても似ているわね」
そう言うと、爛堂は目を閉じた。長いまつげが伏せられて目の下に小さな影を作り、そのまま深い眠りが訪れたようだった。爛堂は女の子らしい可愛い寝息を立て始める。
はて。どういう意味だろう?
俺は爛堂が話した内容を頭の中で反芻したが、いまいち分からない。人間はあたたかい。他人を思い、優しくできる。凍之介も気遣いができて、そんなところが俺と似ている。だから、爛堂は泣いた。
はて。
そうしてあれこれ考えているうちに、俺もいつの間にか寝てしまったのだった。