1~普通じゃない女子高校生~
講談社ラノベ文庫新人賞、一時通過した作品です。初めてラノベというものを書いてみたので、あまりに都合の良いストーリー展開があったり、ツンデレキャラがツンデレしてなかったり。。。
1
――四月九日、火曜日。
東北の春は遅い。東京では四月に入れば桜の花びらが舞い散るけど、秋田のソメイヨシノはまだ固いつぼみ。冬の間に鋭く凍えた空気は、とてもゆっくりと、時間をかけて暖まっていく。
少ない手荷物を置いただけの寮を出て、入学式に出席するため、俺は十一年ぶりに秋田の春風に頬を撫でられていた。まだ冷たさが残っても風そのものは気持ち良く、胸の奥でくすぶる暗いわだかまりがなければ、とても清々しく感じられただろう。でも、俺はどうにもこうにも憂鬱で、可能なら今すぐにでも東京に帰りたかった。
いや、東京じゃなくてもいい。秋田以外であればどこでも構わない。もう半月もすれば桜が咲き始めて、十一年前のあのときのように、視界を遮るほどの花びらが舞うはず。そんな美しくも残酷な情景を目の当たりにするのは、つらい。桜が咲く前に、衝撃的で悲しい思い出のあるこの地を離れられたらいいのに。それが正直な本音だった。
けれど、俺はまだ十六歳で、自分の身の振り方を自由にできる年齢ではなく、急な仕事でしばらく海外へ行くことになったおふくろの言う通りにするしかなかった。母子家庭で母親の命令は絶対。長い長い人生の中で三年なんて一瞬にすぎないのだから、我慢するしかない。そう何度も自分に言い聞かせる。
「仕方ないから諦める」とか「必要な範囲の妥協」なんかは、結構得意なほうかもしれない。おふくろがあまり稼げない頃は、欲しいおもちゃがあっても我慢するのが当たり前だったし。誰もいない家には帰りたくなかったけど、鍵っ子だから仕方なかったし。嫌なことも受け入れて、当たり障りなくやり過ごす術を、俺はこの十六年の人生で学んでいた。
別に、白けているわけでもなく、卑屈というわけでもなく。ありのままの現実を認めているだけ。中学のときの担任は、そんな俺に「冷めている」「要領の良いサラリーマンのようだ」と呆れたっけ。でも、それが俺の現実。すねても仕方ないじゃん、ていう。むしろ、柔軟で協調性があるのだから、褒められポイントだと思う。
俺自身が過去の嫌な記憶にとらわれさえしなければ、高校生活を何も問題なく終えられるはず。
大丈夫、大丈夫。なんてことないさ。
そう思って楽観的に明るく毎日を送ったなら、三年なんてあっという間だ。
「それにしても……校舎までが遠いな」
今日から俺が通うことになる慶徳高校は、寮やプール、体育館などを含んだ敷地が馬鹿みたいに広かった。標高四十メートルの小さな山すべてが高校であり、整地されない自然の起伏をほぼそのまま残している。というよりも、むやみにコンクリートを流したり、地形を変えたりすることができない場所、というべきか。なぜなら、慶徳高校は江戸時代から藩校、慶徳塾として続く由緒正しい歴史を持ち、秋田藩主の居城であった久保田城跡に校舎や各施設が建てられているから。
久保田城は城壁を持たず、城を堀で囲った平山城。かつての本丸には校舎とグラウンドがあり、二の丸に弓道場や柔剣道場、クラブハウスが建てられ、一番低い平地となる三の丸に学生寮があった。もちろん、校舎のある本丸は一番高いところにある。学生寮からは「歩く」というより、「登っていく」と表現するのが正しい。寮を出たときは冷たかった指先も、数分歩いただけで十分に血が巡っていた。日の当たる場所を選んで歩けば寒さはまったく感じないし、バッグを持つ手のひらがうっすら汗ばむほど、体温も自然と高まっている。
――だから、吹雪を思わせる氷の固まりが強風と共に顔を打ったとき、俺は『冷たい』よりも、まず『痛い』と感じた。だって、うららかに晴れた四月の朝に、横殴りの雪が急に降ってくるなんて思いもしない。
思わず足を止めて頬に手を当てると、細かな氷が皮膚に張り付いている。それが雪だと認識する前に、冷たい氷の欠片と強風はふたたび俺に吹き付けてきた。
「つめたっ!」
反射的に身を縮めながらも、ばちばちと顔を打つ雪の中に目を凝らす。木立の向こう、吹く風と同じ向きで池の水面が激しく波打っているのが見えた。
「汚らわしい! 触らないで!」
鋭い声と共に、木々の間から飛び出す少女。セーラーカラーに大きなリボンの制服は、うちの高校のものに間違いなかった。池に背中を向けて後ずさっているのは、彼女の正面に誰かいるからか。両足を肩幅に広げて少し腰を落とした姿勢は、何かに対して身構えているように見える。辺りの落ち葉や小枝まで巻き上げる強風と雪の中、少女の長い黒髪とプリーツスカートは生き物のようにはためいていた。離れていても感じる、緊迫した空気。
辺りを見回しても、タイミングが悪くて近くには俺しかいない。数十メートル先に小柄な女子生徒が歩いているだけ。俺は少しだけ躊躇してから、少女のいる池へ走っていた。頭の片隅では四月の上旬に吹雪なんておかしいと思ったけど。何だか厄介な雰囲気を感じないでもなかったけど、でも女の子が危険にさらされているのを見て知らんぷりはできない。
俺は、少女が変質者に襲われていると思ったのだ。女子生徒が柔道でもやっていそうな巨漢であれば、そのまま通りすぎたかもしれないけど、見て見ぬふりをするには少女がかよわすぎた。スカートから伸びる脚は、アイドルかモデルのように細い。
そして、正義感とは違う何かが、俺を身体の内側から突き動かしていた。事なかれ主義の俺が、厄介ごとに関わろうとするなんて、ありえない。でも、理性では抑えきれない何かが、俺に彼女を助けろと訴えているようで。足は自然と動いていた。
直線距離だったら数メートルなのに、乱立する木々がまっすぐ進むのを阻む。それに、東京でコンクリートの上ばかり歩いていた俺には、木の根が這うデコボコの土はとても走りにくかった。
「あぁっ!」
少女が強く胸を突き飛ばされて悲鳴を上げる。制服の上からも細身とわかる身体が軽々と宙に浮いた。相手の動きが早すぎて、俺には彼女が何をされて吹っ飛んだのかまったく見えない。走り高跳びをするように、背面から落ちていく少女。その先には、激しく波打つ池しかなかった。
「危ないっ!」
俺が池の手前で踏み切り、彼女を抱き留めるべく両手を差し出して飛んだのと、自身の背面に池があるのを少女の目が確認したのは、同時。一秒にも満たない、とてもとても短い間に俺たちの視線は交わった。
その瞬間、長いまつげに縁取られた少女の瞳が大きく見開かれ、唇が動くのを見た。
「……っ! ……ぇっ?」
何かを呟いたけれど、俺には何を言っているか判別する余裕はなかった。でも、最後だけ『ド・ウ・シ・テ?』と、問いかける言葉を聞いた気がする。
「ふぐゥ!」
細身の女子高校生とはいえ、それなりの重さはある。間一髪で少女を抱き留めた俺は、両腕で彼女を支えながらヘッドスライディングした。いやというほど胸を打ち付けて、潰れた蛙みたいな声が出る。
「……え?」
――胸を打ち付ける? 俺は池に飛び込んだんだから、頭からずぶ濡れにはなっても、身体を何かにぶつけることはないはずだ。おかしい。
「瞬時に池を凍らせるだけでなく、クッション代わりも用意するとはな。新しい従者か? 氷御も偉くなったものだ。しかし、どれだけ力をつけようとも、所詮お前は生け贄レベルでしかない」
混乱する頭の上で、敵意に満ちた男の低い声が響いた。姿が確認できなかった変質者かと、慌てて顔を上げる。が、そこには変質者では片づけられない大男が、『浮いていた』。俺の判断が間違っていなければ、そいつは地面から三メートルほどの中空に、仁王立ちしていたのだ。
炎のように波打つ橙色の長い髪、全身を覆う黒いマント。そして、牙を剥く恐ろしい形相の仮面をかぶって、背には巨大な刃物を背負っている。そんな容姿はもはや、この世の者には見えない。
「危ないから、どいて」
早口に告げて俺の両腕から素早く立ち上がる少女は、異様な大男に怯む様子もない。宙に浮くそいつに向かって走り出す。
つまり。ついさっきまで風に水面を波打たせていた池は、女子高校生が全力疾走できるほど、キンキンに凍りついているのだ。俺はその氷の上に飛び込み、少女を抱き留めたらしい。
「いったい……どういう……?」
俺は自分の身に起きていることが理解できない。頬に吹き付ける雪も、制服の上から感じる氷の冷たさも、そして両腕に残る彼女の体重と太ももの柔らかさも、夢と思うにはリアルすぎた。
しかし、目の前の出来事をきちんと理解する前に、俺はさらに翻弄されてしまう。大男が振り下ろす刃物が頬をかすめ、僅かだが血の飛沫が跳ねた。俺の血。ぞっとすると共に、身の危険を察知して、全身に鳥肌が立つ。
「下がってて。死にたいの?」
少女はまだ起き上がれもしない俺の前に立ちはだかった。俺を見下ろす目は大きく見開かれ、ひどく充血している。
……違う。鮮血のように鮮やかな「紅」というのが正しいか。だって、目だけじゃない。さっきは黒に見えていた長い髪が、銀色にきらめいている。銀髪に紅色の目をした少女は俺を後ろへ追いやり、大きく息を吸い込んだ。制服のボタンが跳ね飛びそうなほど胸が膨らみ、小さくすぼめた口から溜め込んだ息を一気に吹き出す。でも、唇から飛び出したのは息ではなく、無数の細かい氷の粒。ガラスみたいに鋭いそれは、勢いよく仮面の大男へ降りかかった。
「ふふ。こんなもの」
しかし、不適な笑みを見せながらそいつがマントを広げると、氷粒はいとも簡単に跳ね返されてしまった。悔しがる隙も与えず、男は馬鹿デカい刀を振り下ろして逃げ回る少女を追いかけ回す。あっという間に、辺りの土が耕うん機で耕されるごとく、激しく掘り返された。
「はあ、はあっ……しつこいわね」
ハチのように機敏に逃げていた少女も肩で息をし始め、凍った池の上へ飛びすさると、両手を広げて勢いよく上へ伸ばした。弧を描く腕の動きに合わせて、池の水面には巨大な鋭い氷の角が二本隆起する。
「私だって、やるときはやるのよ」
「ふん、大人しくしていればいいものを。まったく、阿呆の極みよ。まあ……今は、勝負をつける時でもないだろう。それに、いずれ氷御にも解るはずだ。我々が望むべきものが何か。おぬしがどう決断するべきか、が」
少女の戦意に面食らったのか、諦めたのか、男は言いながら後ずさった。急に奴の輪郭がぼやけて歪み、煙みたいにゆらめきながら薄れ始める。すべてを言い終わる前に、低い声の余韻だけを残して姿は消えていた。そして、大男が見えなくなると同時に、吹き荒れていた雪がぱたりと止んで、ごうごうと風が鳴っていたのが嘘のように、あたりは一瞬で静寂に包まれた。
「なん……なんなんだ?」
口から出たのは、自分でも情けなく思うくらいに、震えた声。
「なんなの? と聞きたいのはこっち。あなたは、誰? まさか……?」
紅の瞳がぐっと近づいて、少女は俺の顔を覗き込んだ。腰までまっすぐに伸びる銀髪がさらさらと肩を滑って顔にかかる。透き通るような白い肌をしていた。
「お、俺は……阿弓冬志。キミが襲われていると思って、助けなきゃと……」
しばらく吹雪にさらされたせいか、唇がうまく動かない。ちゃんと喋っているはずなのに、口の周りの筋肉はちっとも思い通りにはならなかった。
「あゆみ……」
少女が俺の名字を繰り返しながら、なんというか、複雑な表情を見せた。驚きと戸惑いと、そして安堵した様子も少し滲ませつつ、口の中で何かを呟く。
「……信じられない。凍之介さまの? 血は絶えずに紡がれたのか……!」
けど、今の俺にはそんな彼女の心は読めない。頭の中は依然、まったく整理されることなく混乱しきっていた。
「えーと……あのぉ……なんだったの、今の? キミは何? もしかして、特撮もののロケなのかな? なんとかライダーとか、なんとかレンジャーとか。そこらへんに監督やスタッフが隠れてたりして?」
目の前の出来事をなんとかして理解しようとする俺には、そんな予測しか立たない。でなきゃ、夢の中にいるような『ありえない展開』を受け入れられるはずもない。とりあえず、『特撮もののロケを行っている監督やスタッフ』を探すべく、辺りを見回してみた。
「監督さーん、カメラさーん! おーい!」
「いないわ、誰も」
キョロキョロする俺の視界に割り込んで、少女は断言した。その瞳に、さっき見た複雑な感情はもうない。人形のような無表情で、「思い違いか。凍之介さまの血が残るわけがない」と、訳の分からない呟きをため息と共に吐いた。
「さて、私が襲われていたのは間違いないけど……でも、助ける必要は全然まったくなかったわね、阿弓君。」
凛と響く声は美しく澄んでいて、リアルに耳の中に響いてくる。池の水を瞬時に凍らし、口から氷の粒を吐きだした少女は、夢でも幻でもなく、確かに俺の前に存在していた。
「制服が濡れるわ。そろそろ立ったらどう?」
陶器のようになめらかな手を差し出して、未だに凍った池へ座り込む俺を立つように促す。その白い手を握ったとたん、背中にぞくりと寒気が走った。
――血が通っているとは思えないほどの冷たさ。
「さあ……どうしましょうね。とても困ったことになったわ」
ひんやりした手を顎に乗せ、思案するような仕草はするものの、全然困っているようには思えない口調。
「秘密を知られたからには、ただではおかない」
「え……どういう意味?」
「私の秘密を目の当たりにして、どういう意味もこういう意味もないわ。阿弓君の目の前に立っている女は、ただの女子高校生ではないということね。そして、ただの女子高校生ではないということをペラペラ喋られると、私は非常に困るの」
静かに淡々と喋る少女が、急に不気味に見えてくる。
「本来の掟を守るなら、あなたはもうすでに死んでいるわ。体中の血液を凍らされ、心臓の筋肉も氷結してお陀仏になっているはず」
「は……?」
とんでもなく物騒なことを言いながら、少女は俺の頬を人差し指で優しく撫でる。仮面の男の刃物がかすった痕が、今更のようにひりひりと痛んだ。
「でも、幸いなことに、私はむやみに殺生するのは好きではないの」
冷たい指がなぞった頬に鳥肌が立っているのを感じて、思わず手のひらを当てる。しかし、多少なりとも血が出て痛み始めていたはずの傷が、そこにはなかった。
あれ?
ぺたぺたと顔を撫でて切れた部分を探すも、刃物傷を見つけることはできない。もしかして、切れたと思ったのは勘違いだった? いや、まさか。血飛沫が飛ぶのを、俺自身がこの目で確認したんだから。さっき、この少女が撫でたがために消えたと考えるしかなかった。何? 魔法? おまじない?
「……大体にして、人間が死んで土に還るまでは途方もなく長い時間がかかるでしょう? だから、死体をきれいに始末するのは楽じゃないのよ。埋めるとしたら大きな穴を掘らなければならないし、焼くにしたって骨が残るし。死んだら放っておけばいいじゃない、という乱暴な人もいるけど、私は個人的に、白目をむいて絶命する死体を放置するのは、お行儀が悪くて嫌いなの」
彼女の話は猟奇的すぎてリアリティに欠けるし、まるでオカルト小説。なのに冗談と笑いとばすことができないのは、不思議すぎる体験をしたからか。
――助けようなんて、思うんじゃなかった。
親切心から変質者に襲われそうな女子高校生を助けようとしたことは、まったく誤った判断だったと、今ならわかる。なぜなら、彼女の言う「ただではすまない」が、かろうじて「死」を免れている時点で、俺の親切心に対する感謝はゼロだからだ。でも、なぜ心優しい俺が死と同等の仕打ちを受けなければならないのかが、わからない。俺の中では恐怖が少しずつ膨らんでいき、それは無意識のうちに表情へにじみ出ていく。
くす。
俺の狼狽を眺めながら、少女は唇の端を少し吊り上げた。初めて見る微笑みは、とても冷ややかで恐ろしい。
「あら、そんなに怖がらないで。昔から伝わる一族の掟なんてものは、ひどく厄介で、平成の時代にはてんで不似合いなだけだから。従うだけ損をするし、私は従うつもりもないわ。
ただ……」
逆接で繋がる先に待つ言葉は? わざとなのか、彼女は嫌な間を置いた。唾を飲み込むゴクリという音が頭の中でやけに大きく響く。銀髪の少女が告げる言葉をそれなりの……いや、相当の覚悟をして、俺は聞くべきだろう。
「ただ……命を奪わない代わりに、『囚われの身』になってくれないかしら、阿弓君?」
囚われの身――耳慣れない言葉に面食らってしまう。それは、昔話や身分制度があった古い時代でしか聞かない単語。暗く冷たい石の牢屋を思い浮かべてしまうが、俺は誰に、どうやって囚われるというんだろう?
少女はおもむろに俺の顎をつまんで、僅かに唇を開かせた。じっと見つめたままの紅の瞳はどんどん近づき、鼻の先が触れ合うまで顔が近づくと、彼女は俺の目から唇に視線を移す。少しばかり首を傾げ、やや背伸びをしながらまるで口づけを交わすように、自分の口の位置を合わせる。
「え? ……ええっ?」
キス、されるのだと思った。ほのかにピンク色をした少女の唇が、俺の頭の中と心をむちゃくちゃにかき乱す。恐ろしさと同じくらいに、おかしな速度で雄の本能が目覚めていった。
でも――
「ひゅうぅぅーーーーっ! ごほっ! ごほごほごほっ!」
少しだけ開かれた俺の口から喉を伝って、肺と心臓に鋭い冷気が吹き込まれた。冷たいのではなく、『痛い』。心臓を直接鷲づかみされたみたいに苦しくなって息ができなくなる。何かを言おうとしても、喉の奥がひゅうひゅう鳴るばかりで、しばらく声が出てこなかった。
「私が普通の女子高校生ではないことを言いふらしでもしたら、あなたの心臓は冷たく凍ってしまうわよ、阿弓君。雪と氷を司る私は、自分の秘密を守るためにも、今からあなたを『虜』にします」
「と……虜って?」
かろうじて出るようになっても、なお声は掠れていた。
「だから、『囚われの身』だわ。……捕虜、生け捕りにされた人。あるいは、心を奪われた者という意味もあるわね。けれど、今の阿弓君としては、捕虜が一番近いでしょうね。だって、あなたにはもう完全な自由はないのだから。心臓に『鍵』をかけてしまったの。秘密を口にしたら、鍵は動脈を閉ざして血の流れを止めるわ。姿が見えなくても、遠く離れていても、私はつねに阿弓君を見ている。あなたの命を握るのは、私よ」
――つまり、口封じ。下手なことを言えば、さっきのように、痛いほどの冷気が血管を凍らせて心臓を止めるのだろう。血が通っているとは思えない凍えた手で冷酷に握りつぶされるごとく、俺の命の灯は消されてしまう……。
高校に入学した当日、俺は普通の女子高校生ではない少女に囚われることになった。
2
「勘弁してくれよー。入学早々、遅刻するなんて。阿弓も爛堂も通いじゃなくて、寮から来てるんじゃないか! なんで遅刻するかなあー」
担任の武藤は白髪交じりの頭を乱暴にかき回しながら、俺と『爛堂氷御』の顔を交互に見た。凍った池にヘッドスライディングしたり、不気味な仮面男にバカでかい刃物を振り回されたりしている間に入学式は終わってしまったらしい。
一年三組。それが俺たちのクラスであり、不思議な能力を持つ少女とは、これから一年間を級友として一緒に過ごしていくらしかった。何もなかったかのように素っ気なくしている彼女は、いつの間にか黒い髪の毛と目に戻っている。何の感情も読み取れない無表情の顔は変わらないけど、俺は警戒していた。いつ、心臓を冷たく鷲づかみにされるか知れないのだ。
「おーい、お前はうちのクラスの……えーと、春木だったな」
ひとしきりお説教を述べた後で、武藤は俺の肩越しに誰かを見つけて声を掛けた。
「はい。そうですけど」
後ろを振り返ると、ふわふわした肩までの髪を揺らしながらこちらを見る女子がいた。
――カ、カワイイ!
しかも、制服の上からもわかる大きな胸のふくらみが、俺の目を釘付けにした。原宿あたりを歩いていたら、絶対にアイドル事務所にスカウトされているレベル。九十五点。
「この二人を教室に連れて行って、席を教えてやってくれないか。阿弓は確か、春木の隣だったと思う。爛堂は窓際の一番後ろかな。教壇に座席表あるから。じゃあ、二人とも明日からは遅刻しないように!」
そう言うと、武藤は俺たちを追い払うようにひらひらと手を振った。
「お二人とも、行きましょうか? 私は春木璃亜です。よろしくお願いします」
巨乳のカワイイ女子は穏やかな微笑みを返事代わりに、俺たちの案内役を担ってくれる。高校生活にまったく期待が持てなくなっていた俺の心が、春木の笑顔で少しだけ浮き立った。
一年三組の教室は騒がしかったが、誰もその場には馴染んでいない空気が満ちていた。同じ中学出身で固まる奴らと、顔見知りがいなくて積極的に周囲へ声を掛けている奴ら、そして、一人でいることを受け入れて孤独を守り通す奴。「奴ら」と複数形にならないのは、周りに構わず一人で机に座ったままなのが、爛堂氷御だけだったから。これから新しい生活が始まろうとしている、ウキウキとドキドキが混じった雰囲気の中、彼女だけが異質だった。
「あのぉ……聞いてもよろしいですか? 阿弓さんはもしかして、東京からいらっしゃった方ですの? 先生が、東京の中学からわざわざ入学した生徒がいるって、おっしゃってましたわ」
隣の席の春木が、目尻の下がった大きな目に好奇心をにじませて聞いた。
「うん。そうだよ。でも、本当は東京の高校に行くはずだったんだ。五歳までは市内に住んでたけど、その後はずっと東京で、戻ってくる予定もなかったんだよね」
――というか、俺としては二度と戻って来たくはなかった土地。胸の奥がキリ、と痛む。
「では、秋田にはお父さまのお仕事の都合か何かで戻られたんですの?」
「いや、ウチは母子家庭だから。秋田に実家を持つおふくろが仕事でしばらく海外に行くことが決まって、寮がある慶徳に入るしかなくなったんだ。すっかりボケちゃって老人ホームに入ってはいるけど、一応ばあちゃんがこっちにいるって聞いてるし」
それと、数年だけ俺の「親父」になった人と、その娘で俺の義妹だった、今莉も。義妹を幼い四歳の姿でしか記憶していないのは、十一年間会っていないことだけが理由じゃない。俺もおふくろも義父も、誰もがみんな、四歳より成長した今莉を見ていない。十一年前の桜吹雪が舞うあの日以降、今莉は跡形もなく消えてしまったのだ。
「まぁ、母子家庭……そうでしたの。すみませんっ! さきほどお会いしたばかりなのに、私ったら、不躾に突っ込んだことを聞いてしまって……!」
春木は気まずい顔をして丁寧に謝った。いまどき、片親しかいない家なんて珍しくもないのに、どうやらこの子はカワイくて巨乳な上、性格も良いらしい。
「気にしないでよ。それより、爛堂氷御ってどんな奴か知ってる?」
俺は話題を変えたくて、銀髪少女のことを質問してみた。
「爛堂さん? さぁ、どこの中学からいらっしゃったんでしょう? 寮に入っていると聞きましたから、市外か県外の出身でしょうか……?
ねえ、いろはは知っていて?」
急にくるりと後ろを向いて、春木は耳の上で髪の毛を短く切りそろえたショートカット女子に声を掛けた。
「え、知らないなあ。サンディは?」
ショートカットは、さらに隣にいた赤毛で長身の女子に聞く。ずいぶんと背の高い女の子だと思ったけど、こちらを振り返った顔を見てドキッとしてしまった。モデル並みに整った彫りの深い顔立ちと、十分に成熟した胸のふくらみは、もはや日本人のものではない。長いまつげに縁取られた濃い緑の瞳がくるくると動いた。
「知んねえなぁ。部活で目立つ成績でも上げでだら、名前だけでも噂になるかもしれねェけど、爛堂氷御ねぇ。聞いだことねぇなぁ」
……しかし、美しく女性的な容姿を裏切って、赤毛女子はものすごく訛っていた。
「あれ、キミが東京から来たっていう男子? 都会のコは手が早いねぇー。もう、気になる女子を見つけちゃったわけ? ふむ。確かに、爛堂さんはキレイだね」
ショートカットがニヤリと笑みながら茶化す。馴れ馴れしく俺の肩に手を回して、机に腰を掛けてきた。俺の視界に彼女の太ももが入ってくるも、なぜかスカートの下に黒のスパッツをはいていて、胸がドキドキするような色気には欠ける。筋肉質で健康的な太ももだと評価するべきだろう。四十五点。
「あ、この子は渋谷いろは、ですの。同じ中学出身の友達なんです。こちらの背の高い子は観善サンドラ。お母さまがドイツ人のハーフで、みんなサンディって呼んでます。中学時代はバスケ部のエースで、県内ではちょっとした有名人なんですよ」
春木が紹介してくれた二人は、人なつっこい笑顔を見せた。特に、渋谷はもう何年も友人でいたかのように親しげに接してくる。
「東京少年よ、このいろはが美少女の情報を探ってきてあげようか? なんなら、恋のキューピッド役をボクが買って出てあげても良いんだよ」
そして、スカートを翻してひょいと軽やかに机から降りる。パンツが見えそうになってヒヤヒヤするが、見えたのは黒のスパッツ。そうか。そういうことなのか。納得。お転婆らしい渋谷は「任せといて!」と、任せてもいないお願いを勝手に聞き入れて爛堂の席に向かった。
「いや、違うから! ちょ……待てよ!」
引き留める間もなく、渋谷は屈託のない様子で仏頂面の爛堂に声を掛けた。何をどう言っているかは遠くて聞こえないが、爛堂の無表情がこちらを向いて俺に視線を定める。そして、よくできた愛想笑いを感情のない顔に貼り付けたのだった。
「喜べ、東京少年! 爛堂さんは、キミの好意をありがたく受け止めてくれるそうだ」
戻ってきた渋谷は、俺の背中を叩いて満足げに報告した。
「彼女は市外の中学を卒業していて、ほかに同じ学校出身の生徒はいないみたい。慶徳に合格したのは、後にも先にも爛堂さんだけだってよ」
「じゃあ、あいつの本性を知る人間はこの学校にはいないってことか」
ポロリと出た呟きは、数十センチも離れていない春木や渋谷、サンディですら、聞こえるかどうかという声量。でも、急に喉の奥が乾燥して冷たくなり、俺は思わず咳き込んでしまう。
『余計なことは言わない約束よ。阿弓君』
脳内で響く凛とした美しい声は、間違いなく爛堂のもの。慌てて後ろを振り返ると、奴が鋭い眼差しをこちらに向けていた。
俺の呟きが聞こえている?
『言ったでしょう? 姿が見えなくても、遠く離れていても、私はつねに阿弓君を見ていいる、と。あなたの命の鍵を握るのは私だということを忘れないで』
じっと静かに俺を見つめる爛堂の声が頭の中に聞こえた。
こんなの、アリかよ! 恐ろしさと悔しさと、どうにもやりきれない気持ちがないまぜになって、思わず唸りながら頭をわしゃわしゃと掻きむしった。
「なんだよ、急に咳き込んだり、頭掻いたり。風邪か? それとも、好きなコに気に入れられて、おかしくなったか?」
渋谷がニヤニヤしながら肘でつついてきて、その温かさを感じた途端に喉の冷たさは消えた。
「じゃあ、もっと嬉しいことを教えてあげようか? 爛堂さんには、いま彼氏がいないんだって! 東京少年よ、こりゃ行くしかないでしょーっ!」
賑やかな渋谷の喋りに次いで、「あいやー、良がったでねぇかっ!」と容姿に不似合いな秋田弁で喜んでくれるサンディ。そんな二人より数倍テンションが低い俺はチラリと後ろを見る。爛堂は何もなかったかのように窓の外へ目をそらした。
なんなんだ、あの女!
カチンと来たけど、俺の視界にふわふわの巻き毛がシャンプーの良い匂いと共に割り込んできて、尖った気持ちの角は幾分丸くなる。
「んまあ! 阿弓さんは早くも運命の人と出逢ってしまったんですね。なんてロマンティック! とってもとっても青春って感じですの! 羨ましいですわぁ……」
春木が目をキラキラさせて運命の出逢いとやらを祝ってくれる。けど、俺としては巨乳で良い匂いの春木とのめぐり逢わせを喜びたい。なんでこうなってしまったのか。渋谷の完全なるフライングを全力で否定するしかない。
「好きとか、違うからっ! 俺はまだ恋なんかしてないっ!」
だって、恋も愛もあるもんか。俺はもう爛堂に命ごと囚われているのだから。
3
「おにいちゃん、まって。おいていかないで」
――ああ、まただ。今莉が呼んでる。両耳の上で結んだ赤いリボンが、桜吹雪の中で揺れている。自分の腰よりも高い草花を掻き分けて、一生懸命に走っているつもりなのに、しかし、四歳の少女の歩みはとても小さく、ひとつ年上の俺が歩くスピードにもまったく追いついていなかった。
「まって。そこのきのしたでまってて。すぐいくから、まってて」
乱立する野生の木々の中で、ひときわ大きい桜を指さし、今莉は何度も俺を引き留める。歩くのが遅い義妹を守るように、飼い犬のシロが跳ねながら吠えていた。普段は大人しい老犬がやたらと吠えたのは、シロも俺に立ち止まってほしかったからなのだろう、きっと。
――大丈夫だよ。ここで待ってる。だから早くおいで。
背の高い草花に埋もれそうな赤いリボンを見つめながら、俺は桜の木の下で待つ。今莉が追いつくまで、いつまでも待っていよう。
けれども、赤いリボンはちっとも近づいてこない。それどころか、どんどん遠ざかって、俺を呼ぶ声も小さくなっていく。
――今莉、おいで。どうした?
「おにいちゃん、まって! ひとりにしないで」
懸命に呼ぶ声は、もはや叫びに近い。シロの吠える声も一段と騒がしくなって、俺は焦る。そこへ、今莉が呼ぶのとは逆方向から、僅かな苛立ちを含んだ少年の声が飛んだ。
「いまり、何してるんだよ、早く走って!」
振り返ると、少し顔を後ろに向けただけで、歩みを止めようとはしない野球帽の男の子がいた。
俺だ。
必死に引き留める今莉を待たずに、先へ先へと急ぐ五歳の俺。
――待てよ。今莉がついて来れないだろう!
「嫌だよ。みんなはもっと先に行っちゃってるんだ。待っていたら俺も置いてかれちゃう」
五歳の俺の数メートル前を、少年たちが走っている。幼稚園で同じ組のケンちゃんとヒロシと、二人のお兄さんたち。「遅いぞ!」「早く来いよ」そんな声を投げかけられながら、五歳の俺も懸命に走っていた。
子どもにも子どもの都合というものがある。それが、五歳でありながら〝男のプライド〟と呼べるものだったのか、人生初の反抗期だったのかはもう覚えていない。幼稚園の年長クラスに上がり、小学生のお兄さんたちとの交流が生まれてから、俺は「今莉の優しいおにいちゃん」でいることが難しくなってしまった。
――待てよ! 今莉を待ってやれよ!
叱咤といってもいいほどの大声で怒鳴っても、五歳の俺は立ち止まらない。なんで待ってやらないんだ。聞き分けのない子だと腹立たしく思うが、相手は俺自身。自己嫌悪に陥るだけだった。
――待てよ、待ってやれよ……。ちょっと遅れるくらい、いいじゃないか。そんなくだらない意地がとんでもない事件を生むんだぞ……!
今莉が呼び止める声に足を止めなかったことを、これまでどのくらい後悔しただろう? いまだったらすぐにでも立ち止まって、いつまでも待っていられるのに。四歳の少女が獣道を歩くのは容易じゃない。一生懸命に頑張っても俺たちに置いていかれると思ったからこそ、「まって」と頼んだのだ。
あのとき、俺は今莉の声とシロの鳴き声を背中に聞きながら、一度も立ち止まらなかった。高く茂る草花を掻き分け、ケンちゃんとヒロシ、そして二人のお兄さんたちと作った秘密の隠れ家に急いでいた。そこでカードゲームの持ち札を交換し合う約束だったんだ。もちろん、キラキラ輝くレアカードを早く手に入れたくて急いでいたのもある。けど……それだけじゃなかった。
――コブつき。そのころ、どこに行くにも今莉がついてきていて、俺は周りからそう呼ばれていた。幼稚園児が思ったままを言っただけだから、悪意が含まれていたとは思わない。俺だって、そう呼ばれるのが嫌だったわけじゃないし、大人たちから「カワイイ」と評判の今莉をつれて歩くのは、子ども心に嬉しく思ってもいた。でも、幼稚園の年長クラスで仲良くなったケンちゃんとヒロシには小学校に通うお兄さんがいて、知らない遊びをたくさん知っていたし、野球もサッカーもゲームも上手だった。話すとき語尾に「だぜ」をつけたり、ちょっと乱暴な口の利き方をしたりするのも格好良く感じたんだ。
『妹』より『兄』の方が全然良いじゃないか。
そう気づいた十一年前の春は、今莉をつれて歩くのに少しうんざりしていた。妹の足の遅さと力の弱さを煩わしく思って、素っ気ない態度が多くなっていった。五歳の俺は男らしさに憧れる一方で、優しさを見失いかけていたんだ。
あの日、今莉は秘密の隠れ家にたどり着かなかった。みんなで元来た道を帰る途中、シロが腹を切り裂かれて絶命しているのを見つけて、俺は初めて今莉を心配した。くだらない意地を張っていたことを激しく後悔したけど、何もかも遅かった。ヒロシのお兄さんが大人を連れてきて、すぐに警察が到着した。シロがあまりにも残酷な死に方をしていることから、今莉がただの迷子ではなく、誘拐や何かの事件に巻き込まれたと判断されたのは自然な流れだったろう。
義父は一緒にいた俺を責めた。目に入れても痛くないほど可愛い娘がいなくなったんだから当然。俺をあからさまに避けるようになったし、それが原因でおふくろとの仲にも溝ができ始めた。
警察は警官を総動員して今莉を探したけど、手がかりは何一つ見つからなかった。家に身代金を要求する電話や手紙はなく、誘拐という見込みは徐々に薄れていった。まったく進展しない捜査に義父は苛立ってどんどん心を閉ざしていき、先に「もう無理」と決意したのはおふくろのほう。お互いに再婚同士でもう失敗はしないと誓ったはずなのに、その絆も脆く崩れて両親は離婚した。幼くてもわかるさ。今莉がいなくなったのも、おふくろと義父が離婚したのも、すべては俺のせいなのだ。自己嫌悪に押しつぶされそうで怖くて、普段はあっけらかんと忘れたふりをしてるけど、本当はつらい。今莉にも義父にも「もういいよ」「気にしないで」と許してもらいたい。
しかし、今莉はいまだに見つからず、義父は三年前に亡くなったと聞いた。神社の次男坊に生まれた義父は元々神職を継ぐ気がなく、自由奔放に生きて実家とは不仲だったそうだが、離婚後は家に戻って毎日神様を拝んでいたそうだ。
今莉の失踪についても進展はない。心ない人はお墓を用意したらどうだ? なんて言うみたいだけど、俺はまだ望みを捨てきれない。彼女がまだ生きていて、どこかで中学三年生になっているのだと信じている。それが、都合の良い妄想だと言われても、俺は信じるしかないんだ。
ざあああっ……。
一段と強い風が吹いて、薄いピンク色の花びらが視界を覆う。背の高い雑草の合間でぴょこぴょこ跳ねていた今莉のリボンが、桜吹雪にかき消されて一瞬見えなくなった。反対方向へ走る五歳の俺は、もう姿が見えない。
「おにいちゃ……まって!」
泣き声が混じる必死の叫びが、切れ切れになる。
――いやだ、待ってくれ。今莉を一人にしないでくれ。しっかりと手を握って、一緒にいなきゃダメだ! おいてけぼりにすると、あの子は……あの子は……!
ああ、そろそろ夢が途切れてしまう。そう予想できるのは、こうした情景をもう何百回も見ているから。桜が舞い散る景色は、今莉が神隠しに遭った忘れられない記憶の象徴であり、俺のトラウマ。過去に戻って今莉を取り戻したいという切ない希望が、繰り返し残酷な悪夢を見させるようだった。
――目が覚めないでくれ。今莉を助けたいんだ!
いつものように、かなわない願いを叫ぶ。夢の中では大声を出せないというけど、本当。毎回俺は精一杯に怒鳴るのに、喉には栓が詰まったみたいにまったく声が出ない。
――今莉! 今莉! ここだよ、ちゃんとこの桜の下で待っ……
「……待っているからぁっ!」
静寂を裂く叫び。それは確かに、俺の声だった。シャンパンのコルクが抜けて勢いよくアルコールの泡が飛ぶごとく、俺の大声はとても伸びやかに辺りへ響き渡る。
「……え? 声が出た……」
驚きで思わず出た呟きも音声として唇から発された。これまで何百回と見た悪夢の中で、俺が喋れたのは初めて。いつも中空を漂って俯瞰から眺めているだけだったのに。
「おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃん!」
連呼する今莉の声がふたたび聞こえ始めて、丈の長い草に埋もれそうなリボンが再び見えてきた。俺の視点はもう俯瞰にはなく、現実世界と同じ。桜の大木の下で一人立っている。
これは、まさか。どんなに願ってもかなわなかった状況じゃないのか? 俺は今莉が追いつくまでずっと待っている。神隠しになんか遭わせない。胸の鼓動が急に高鳴って、全身が心地良い緊張に包まれた。ここで今莉を待ってあげたなら、十一年前の失踪もなかったことになるんじゃないかと思えてくる。
切れ切れだった呼び声は段々と明確になってきて、俺は久しぶりに聞く今莉の声音をとても新鮮に感じた。可愛らしい声。もっとあどけないと思っていたけど、それは一人で成長してしまった俺の思い込みだったのかも。意外にしっかりとした発音ができている。
懐かしい赤いリボンが雑草を追い越してよく見えるようになり、近づいてくるにつれて前髪が揺れる様も弓形の眉も見えてきた。そう、今莉は穏やかで優しい眉をしていたっけ。それに、大きな瞳と丸く赤いほっぺが愛らしくて……。
いや、違う。
丈の長い雑草に埋もれるほどの身長しかない四歳の今莉が、急に草の上へ顔を出せるはずがない。俺に近づいてくる人影は、単に遠近法で大きく見えているだけじゃなかった。確実に背が伸びて、呼び掛ける声もみるみるうちに変化している。肩口で切りそろえていた髪の毛が胸よりも長くなって風に揺れ、まん丸の幼い顔はほっそりと痩せて顎が小さく尖っっていった。
「やっと……やっと、逢えたね。おにいちゃん」
俺の前に歩みを進めて、やわらかな笑みを頬に浮かべているのは……これは、誰だ?
「いま……り……?」
そこには、今莉の面影を残した少女がいた。
呆然と立ち尽くす俺に抱きつき、胸に顔をうずめてくる少女。背中に回る腕の感触や、胸板に押し付けられる額の体温は紛れもなく生身の人間……なのだが。
「ずっと、ずっと待ってたんだよ」
ぎゅうとひとしきり抱きついてから顔を上げて、少女が笑いかける。
「お前……いまり?」
「なあに、変な顔して。待たせたのはおにいちゃんの方なのに、妹の顔わすれちゃったの? ひどいなぁー」
無邪気にコロコロと鈴が鳴るように笑う。その特徴的な笑い声は、今莉に間違いなかった。
「えっ……と。生きてた?」
「うん。生きてた、みたい。おにいちゃんが戻って来たの、三日前でしょ? 気付いたんだぁ。おにいちゃんの匂いっていうか、なんていうか、気配? あ、来た! ってすぐわかったの!」
そう聞いて、俺は目の前の少女が確かに今莉だと確信した。彼女の言うとおり、俺が秋田に着いたのは三日前。そんな予言ができる奴なんて、めったにいない。
そう。今莉はいつも俺や義父が外から帰ってくるのを玄関で待っていたんだ。『足音が聞こえたから』とか『なんだか近くにいる気がしたの』とか、やたらと勘の強い子供だった。それだけじゃなく、天気予報が上手だったし、警戒するべき大人を遠くから見ただけで判別できたりもした。義父の実家が神社ということもあって、神職に就いていた義祖父やもっとさかのぼった祖先には霊感を持つ人が多かったらしい。義父や義叔父はむしろ鈍感なタイプという印象があったが、今莉にはそうした血が引き継がれていたようだった。
「はああぁぁ。良かったぁ……!」
胸の奥に溜め込んでいたわだかまりを全部吐き出すように、俺は深い息をついた。胸元に顔を押し付ける今莉をしっかりと抱きとめる。小さくて細い肩だけど、手のひらで感じる妹の身体はあたたかく、ちゃんと命が宿っていた。急に早まった鼓動が静かに落ち着いていくのがわかる。
「お前が無事でいてくれて、本当に良かった」
そのまま一つになってしまうくらいに、俺は今莉を強く抱きしめたまま動けなかった。手を離したらまたいなくなってしまいそうで。
「っぷわぁ! もおーっ。そんなに強くギュッてしたら苦しいよぉ」
そんな俺の腕の中で今莉は身をよじり、強引に伸び上がってくる。鎖骨のあたりにあたたかく柔らかな妹の吐息が触れてくすぐったかった。
「そんなに心配するんだったら、置いてけぼりにしないでよね」
小首を傾げながら少し意地悪な目をして俺を責める。本気じゃないとわかっているけど、謝らずにはいられなかった。
「ごめん! ほんっとに、ごめん!」
申し訳ないという気持ちは真剣そのもの。言葉だけじゃたりなくて、思いっきり頭を下げたら今莉のおでこに勢いよく頭突きしていた。ゴツッと鈍い音が脳内に響く。
「いったぁ!」
「あ、ごめん! そんなつもりじゃなくて」
俺は密着させていた身体をいったん離し、細い肩に両手を乗せてまっすぐ正面から今莉を見つめた。
「本当に、ごめんな。一人にさせて。俺が全部いけないんだ。俺のせいなんだよ。いくら謝っても許してもらえないかもしれないけど、ごめんなさい!」
全身全霊で十一年分の謝罪をした。謝らなければ、俺と今莉の間には何も始まらない。残りの人生のすべてを恨まれても仕方ないことを、俺はしてしまったのだから。
「だいじょうぶだよ」
あは、と小さな笑い声を上げる妹。
「だいじょうぶ、って。そんな簡単に。大丈夫じゃないだろ」
あまりにすんなり許されると、逆に不安になる。だって、厳しく責められるに決まってると、ずっと思い込んでいたから。責められもせずに許してもらえるなんて予想もしてなかった。
「だいじょうぶ。気にしてないよ。おにいちゃんは、あたしに怒ってほしいの? 許さないって、怒れば満足するのかな?」
少し困った顔で聞く彼女は、俺の本音を見抜いていた。許されたいとは思うけど、厳しく責められることで俺の罪が償われるような、そんな気がしていた。でも、罰は与えられない。今莉の優しい弓形の眉は困惑して八の字に歪むだけ。
「やっと逢えたのに、怒る気になんかなれないよ」
「でも……」
「ホントにだいじょうぶ、なんだよ。今、おにいちゃんの顔見れて、うれしいもん。それだけじゃダメ? 恨むとか、ホントにそういうのないんだもん」
四歳でいなくなり、こうして大人の雰囲気すら漂わせ始める年頃になるまでの時間を奪われても、今莉は俺を許すというのか?
「許すとか許さないとかじゃなくて、最初から怒ってないんだよ。ほら、おかあさんがよく言ってたじゃない? 怒ると幸せが逃げていくって」
おふくろの口癖を覚えているのか。義母なのに、今莉はおふくろによく懐いていた。
「おかあさん……か。あの、お義父さんとお母さんは……」
「知ってるよ。バイバイしたんでしょ? あるときから、おとうさんとおかあさんが繋がるあったかい光みたいなのが消えちゃったから。その後すぐに、おにいちゃんとおかあさんの気配も感じなくなっちゃったしね。寂しかったよ」
それも霊感が知らせたことなのか。今莉の記憶はまったくないわけでもないらしい。
「ずっと一人で寂しかったから、おにいちゃんが帰ってきてくれてうれしいの。ありがとう」
――ありがとう。
そんな言葉、ずるい。感謝なんて、自分勝手な兄には一番不似合いだろう。でも、にっこりと穏やかな笑みを浮かべる今莉に、もうこれ以上何かを言う気は起きなかった。責められたいなんて、俺のワガママでしかないんだから。心の底から妹をいとおしく感じて、もう一度きつく抱きしめる。
「おにいちゃんも寂しかったんだね」
腕の中で呟く彼女の言葉どおり、俺は心細かったのかもしれない。背中に回る今莉の華奢な腕が頼もしい。
「じゃあ、早く迎えに来てもらわないと、ね!」
きつく抱きすくめる俺の二の腕から伸び上がって、今莉は大きな瞳に期待をにじませた。当然のように同意を求める表情。幼い頃にお菓子をもらう順番を待っていたときと同じ、待ちかまえる目線。
「ねえ、いつ迎えに来てくれるの?」
「迎え? どこに?」
「あたしを助けに帰ってきてくれたんでしょ? もう眠り続けるのはイヤ。早く来てね」
「え?」
まるで約束をしたかのような口調。でも、俺にはまったく心当たりがない。迎え? どこへ行けと?
違和感を覚えた瞬間、腕の中の今莉が歪み始めた。きれいな卵型の顔の輪郭が揺れて、両腕にしっかりと抱きしめていた身体の感触がもろりと崩れていく。あたたかく柔らかな今莉の肩や背中が急に体温と重みを失って、俺の指先は虚空をつかむように空しく泳いだ。
――消えてしまう!
そう感じて思わず口に出たのは、
「待ってくれ!」
悪夢の中で何度も繰り返し聞いた今莉の言葉を、今度は俺が叫ぶ。しかし、いったん歪み始めた今莉は向こう側が透けて見えるくらいに霞んでいた。ついさっきまで溢れんばかりの嬉しさを浮かべていた目には、不安しかない。
「待ってるよ。ずっと待ってるよ、おにいちゃんが来るまで」
訴えながら胸元にしがみつこうとする細い指は、しかし、もう何もつかめはしなかった。唇は何かを告げようとして動くのに、声はまったく聞こえなくなる。
「いまりっ!」
びゅうううぅ。
砂で描いた絵が一瞬で散らされるごとく、今莉は春風に消されてしまった。俺の両腕が、彼女の身体を抱き留めていたままの形で残る。十一年分のわだかまりを吐き出したばかりの胸に、早くも絶望が住み着いた。二度も今莉を失うなんて。もはや残酷という言葉だけでは表せない。
「うっ……うう……」
喉の奥で言葉にならない呻きが漏れ、悔しさと悲しさで両手は固く握りしめられた。手のひらに爪が突き刺さる。
いやだ。こんなのは、いやだ。
風に舞う桜の花びらが無情に俺の頬を撫でていく。ぴたり、ぴたりと張り付いて軽く叩くように。
「……くん。あ……くん。あ……み……あゆみくん」
――?
「阿弓君。起きた方がいいわ。阿弓君」
「!」
はっとして目を開けると、薄暗い闇があった。視界の端に女の顔。凛として美しい声が俺の名前を呼び、冷たい指が頬を軽く叩いている。見慣れない部屋が学校寮とわかるまで少しかかり、俺を上からじっと見つめる女が誰か気づくまで、さらに少しかかった。
「爛堂っ!?」
ぎょっとして上体を起こすと、ベッドに腰掛けて枕元にかがみ込んでいた爛堂も上半身をそらした。制服姿で無表情の人形面は間違いなく爛堂氷御だった。窓から僅かな月の光が射すだけの部屋の中、奴の顔はビスクドールのように生気がない。
「電気くらい点けたらどうかしら?」
「いつからそこにっ? ていうか、お前どうやって入ってきたんだよ!」
食堂で夕食を摂った後、俺はいつの間にか寝てしまったようだが、部屋に戻ってきたとき確かに鍵をかけた。それも内側から。外から開けられる共用キーを持つのは寮長だけだから、生徒同士で鍵のかかった部屋を自由に出入りすることは不可能。内側から鍵をかけた部屋主が解錠しない限り、閉ざされたドアを勝手に開けることは誰もできないのだ。
「私は、普通じゃない女子高校生だから、ドアの鍵とか壁とかに遮られないの」
「は? ドアも壁も通り抜けられるってこと?」
まるでSF小説。寝起きということもあって、俺は唖然とするしかない。
「私をなんだと思っているの? 普通の女子高校生と一緒にしないで。失礼ね。
阿弓君の心臓が急に高鳴って妙だと思ったから、監視に来たのよ。面白おかしく私のことをしゃべっているか、あるいは、あいつがまた来たのかと思って……」
「あいつ? ああ、あの仮面の男? ……って、あいつは俺を襲ったりするわけ?」
冗談じゃない。なんで俺があんな化け物に襲われなければならないんだよ。
「阿弓君を私のお供か何かに思ったみたいだったから。まあ、お供も虜もあまり変わらないけどね……」
「おいおいおいっ! 桃太郎気取りか? 俺はサルにも犬にもキジにもなった覚えはねえっ!」
慌てて否定する俺に、爛堂は冷ややかな視線を向けただけ。そもそも、変な事件に巻き込んだ張本人は、ほかでもないコイツなのだ。これ以上おかしな騒動に関わってたまるか。
「まあ、死んでなくて良かったわ。訳も分からず死なれたら困るし、阿弓君も無念でしょう?」
「死んでたまるかよっ」
一方的に虜にしたんだから、もっと責任を持てっつうの。
「でも……ずいぶんと難しい過去を持っているのね。のほほんとしているように見えて意外だったわ。妹さんのことはお気の毒に」
「え?」
爛堂の口から出る「妹」という単語に、俺はハッとさせられた。急に悪夢が思い出される。両手に今莉の身体の感触がよみがえってくるようだった。
「しつこいようだけど、私は、普通の女子高校生じゃないの。人の心を読んだり、心の中に入り込んだりするのは得意なのよ。阿弓君があまりに苦しそうだったからか、頬に少し触れただけで夢が私の脳内に勝手に入ってきたのよ。
覗き見したなんて、言いがかりつけたら承知しないわよ」
いや、それって十分「覗き見」だろうがよ。ていうか、百歩譲って、鍵のかかった俺の部屋に爛堂が入ったことは、むりやりにでも理解してやろう。でも、夢を覗くとはどういう意味だ? それより何より、今莉のことを知られたのが癪に障る。彼女については誰にも知られたくない。ずかずかと土足で心へ踏み込んでくるような真似は嫌いだ。思わず語調が強くなる。
「普通じゃないにも程があるだろう! プライベートの侵害だ!」
「あら。心臓に鍵をかけられて囚われの身になっている阿弓君に、プライベートなんかあるわけないじゃない。あなたについては、私が何もかも知っているべきだわ」
淡々と、感情を含まずに喋る爛堂が憎らしい。
「なんだよ、それっ。冗談じゃないよ。俺はお前の虜になんか、なった覚えはないんだよっ!」
勝手に爛堂が虜にしただけで俺の同意はない。湧き上がる苛立ちをそのままぶつけると、爛堂はおもむろに俺の顎をつまんでグイと引き寄せ、自分の鼻先数センチのところまで顔を引き寄せた。
「囚われの身に自由意志などないのよ。言ったでしょう? 阿弓君の心臓がおかしな動きをすると、どんな状況でも私は見にくると。私の『虜』なのだから当然。何キロ離れていようと、鉄の壁で遮られようと関係ないわ。秘密を知ったが最後、つねに私の目が届いていると覚えておいて」
射るように鋭い視線はまっすぐに俺を見ている。月光の薄闇の中で、爛堂の瞳は妖しい
光を放っていた。濃いワインレッドの目は有無を言わせない威圧感がある。
改めて思う。
爛堂氷御。こいつはいったい……何なんだ?
「それに、お言葉ですけど」
俺を黙らせるだけにとどまらず反論を続ける爛堂は、引き寄せていた俺の顎を乱暴に押し返した。
「阿弓君だって、私の見られたくないところに勝手に入り込んできたじゃない。そもそもの始まりは、あなたが結界を破ったことにあるのだから。プライベートを侵害するのはお互い様だわ」
けっかい? 次から次へと意味不明な単語を出しやがる。俺はいい加減、嫌気が差してきていた。
「なんだ、それ? 言いがかりはやめろよ。俺はお前と今日会ったばかりだし、お前のプライベートなんか何一つ見てもいないし、お前がどんな奴かもまったくわからない。逆に聞きたいね。爛堂、お前はいったい何者なんだ?」
苛々した大声で、俺は爛堂の鼻先に人差し指を突きつけながら聞いてやった。
「何者って……まさか、何も察していないの? 呆れた。阿弓君はとんでもない鈍感なのね。私は女子高校生のふりをしているだけで女子高校生ではないと、もう何べんも言っているじゃない。都合が悪くなれば、今朝のように結界を張って人間の目には見えないようにするし、そうしなければいけない陰の世界に生きる者なの。
ねえ、阿弓君。今朝はなぜ私に気づいたの? 人間のあなたには、物の怪の私の姿が見えるはずがないのよ」
もののけ……?
この目の前にいる小憎らしい女が人間ではないと?
「えっと……も……もののけ?」
とっさに頭の中に思い浮かんだのは、おどろおどろしい姿の化け物たち。子どもの頃に読んだ民話の挿絵には、毛むくじゃらの一つ目やヌメヌメした醜い虫のような妖怪が描かれていたっけ。しかし、目の前にいるのは醜いどころか、なかなか美しい外見を持つ少女。どうもイメージが重ならない。
「そりゃ、まあ……一瞬で池の水が凍ったり、口から氷の粒を吐いたり、目や髪の毛の色が変わったりするのは、普通じゃないけど……妖怪?」
あからさまに人間ではないと言われると、それはそれで受け入れがたく感じてしまう。だって、こうして普通にしているぶんには、爛堂はどこからどう見ても十六歳の女子高校生なのだ。
「通俗的には、雪女とか雪女郎、雪ん子、あるいはイエティなんて言われ方をする場合もあるかしら。私は、そういう者よ。表向きは高校一年生だけど、本当は阿弓君より何十倍も長く生きている、とんでもないババァなの」
「マジで?」
「マジ、だわね」
正直、どう答えたらいいのか、わからない。俺の目の前に雪女がいる。そして、俺は雪女の『囚われの身』で、僅かな心臓の動きも察知されるほどつねに見張られているのだ。あまりに非現実的すぎて、爛堂の話をすぐには受け入れられない。
「うーんと、なんていうか、その……爛堂が嘘をついているとは思わないけど、ちゃんと理解するまでは少し時間がかかるっていうか……うーん」
すんなり納得できない事実に困惑するしかない俺は、どうしたものかと考えながら無為に言葉をこねくり回す。そういえば、ばあちゃんが子供の頃に言ってた気がする。雪女の顔を見たり言葉を交わしたりすると食い殺される、と。俺はまだ虜になることで命を繋いでいるけど、爛堂が本領を発揮して睨んできたら、ポックリ殺られちまうのかも。
そんな風にあれこれ考えていたら、爛堂の背後にもわもわと霧のような黒い淀みが見えた。電気も点けずにいるせいで目が疲れたのかと思ったが、しかし、黒いもやはどんどん大きくなっていく。みるみるうちに拡大して人の形を成し、足までを覆うマント、火のようにうねる橙色の長い髪、牙を剥いた恐ろしい仮面が闇の中に現れた。それは紛れもない、今朝の大男だった。
「危ないっ!」
鎌のような大きな刃物を振りかざすのを見て、俺は奴に背を向けている爛堂の肩を抱くと、床に転げるようにして逃げた。彼女が座っていたベッドの端が豆腐のごとく、いとも簡単に欠けてしまう。
「ふはは。なかなかすばしっこい従者だな」
重く響く声に反応して、爛堂の髪の毛と目の色が変わった。素早く立ち上がって、大男に対峙する。
「何をしに来た?」
小さく呟いたにもかかわらず、爛堂の声は鋭く部屋の中に通る。怒気が含まれていた。
「『陰様』の目覚めは遠くない。いや、可能な限り早く復活いただくのが、我らの安息に繋がるのだ。冷御もずっと待ちこがれている。おぬしが依り代になれば、より早く陰様を呼び起こせると。人間どもと共生するなど、闇の世界に生きる我らの滅亡を望むも同じ。阿呆のすることよ。
氷御よ、迷うでない! その身を捧げて、物の怪の生きる道しるべとなるのだ」
仮面の男はわけのわからない論を述べてグローブのような手を伸ばした。それは蟷螂が獲物に飛びつくように素早く伸びて、わずかに逃げ遅れた爛堂の首を捉える。鋭く尖った爪が白い皮膚に食い込み、赤い血が滲んだ。
「冷御こそ、道を誤った阿呆だわ」
苦しそうに身をよじりながらも爛堂が言い放つ。その途端、部屋の中に竜巻が起こった。ハンガーに掛けていた俺の制服が天井へ舞い上がり、洗濯機に揉み込まれるようにグルグルと回転する。しかも、竜巻は雪と細かな氷の粒を伴っていて、頬や頭に容赦なく吹き付けた。まるで、今朝の爛堂が起こした吹雪みたいに。
「おや、随分な口の利きようだねぇ」
竜巻の中心から冷たい声が響く。鋭く尖った柔らかみの感じられない女の声が、独特の調子でゆっくりと言葉を紡いだ。
「そんな馬鹿な抵抗はやめて、いい加減に大人しく言うことを聞いたらどうだい?」
巨大な繭玉。そんな形容がふさわしい大きな楕円が竜巻の渦を作り出していた。その繭玉が解けていくに従い、風も弱まっていく。長い長い背丈ほどの銀色の髪の毛と、白の振り袖が中空で弧を描くのが見えた。暴風を作り出していたのは、それ。髪の毛と着物の袖が恐ろしい速さで回転していたのだった。
「久しぶりだねぇ、氷御。相変わらずお馬鹿さんなのかい?」
仮面の男と並んで、くるぶしまで伸びる銀髪と白い着物の女が現れた。花魁のように帯を胸の下で結び、長い髪の毛を耳の上から半分、頭の上に結い上げて氷のかんざしを挿している。声と同様に冷たい目は、爛堂と同じ血のごとき紅。それだけじゃない。顔が判で押したようにまったく同じだった。
「コイツ……まさか?」
「お察しのとおりよ。私と冷御は同じ木の股からこぼれ落ちた命を分け合って産まれたの」
「双子?」
「見た目は同じだけど、中身はぜんぜん違うわ。冷酷で刹那的な快楽主義者よ」
分身ともいえる姉妹の紹介にはふさわしくない単語を並べる爛堂。まっすぐに同じ顔の冷御を見据え、唇をきゅっと固く結んだ。
「雪の化身のくせに人間の真似事をするなんて、恥知らずもいいとこさ。さっさと隠様のおために身体をお貸しよ」
冷たい眼差しはそのままに、冷御は赤い唇だけ笑みに歪めた。仮面男のグローブのような手に自分の姉妹が苦しめられている様が、彼女にとっては笑い事か。
「冷御も哀れね。惨めな鬼の戯言に惑わされて……。それに、もう立春は過ぎて鬼門は今年も追儺によって閉ざされたばかりよ。第七節気を狙うとでもいうの?」
首を絞められつつも爛堂は反発する。全身を震わせて大男の手首をつかむと、触れた先から男の皮膚が凍り始めた。
「あるいは、とうに手に入れた『最高の依り代』とやらは見込み違いだったのかしら? いまさら私を求めるなんて、おかしな話ね」
手が段々と凍りついていくのに、男はまったく動じない。
「ふふふ。『最高の依り代』は十分に成長するまで時間がかかるだけよ。おぬしもいれば、陰様の復活に万全を期することができるのだ」
「失礼ね。補欠になんかなるつもりはないわ」
爛堂の細い指と腕にはどれだけの力が秘められているのか、グローブのような男の手を自分の首からゆっくりと剥ぎ取っていく。そして、楽になった喉の奥まで息を吸い込み、すぼめた唇がフウッと吹くと、細長い氷の棒が飛び出した。それを素早く剣のように構えて男の手をなぎ払う。凍りついた皮膚がガラスのように割れて赤黒い液体が飛び散った。爛堂はそのまま男の懐に飛び込んで肩から斜めに斬りかかるが、男はふわりと後ろへ飛び退る。
「ほほう。戦い方を身に着け始めているのか。生意気な」
大男は巨大な刃物を構え、容赦なく爛堂に襲いかかる。頭の上に振り上げられる刀はびゅんという音を鳴らしながら恐ろしい速さで振り下ろされたが、僅かな距離で交わされて床へ突き刺さった。ぎりぎりのところで刃を避けた爛堂の髪の毛が、ひと房だけ逃げ遅れて散る。それはあまりに危険な鬼ごっこだった。
「わああっ!」
フローリングの床は耕される畑と化す。爛堂が逃げるたびに平らな部分がどんどん減っていった。派手な音と共に足元が揺れ、俺は立っていられなくなって思わず四つん這いになる。そのうえ、粉々になった床の木くずと爛堂が動くたびに飛び散る小さな雪の粒が部屋中に舞って、目を開けているのも難しくなってしまう。
「阿弓君、邪魔よ。下がって!」
狼狽するしかない俺をちらと振り返って、爛堂は部屋の隅へ俺を追いやった。転がり込むように机の下に避難した次の瞬間、俺がいた場所には鋭い氷の棘が何本も打ち込まれる。顔を上げると、冷御が両手の指の間にそれぞれ三本ずつ、二十センチほどの鋭く尖った氷を構えているのが見えた。
「お前さんは何だい? あちきらが見えるのかい? 人間のくせに生意気だねぇ」
笑っているのは唇だけ。目には鋭い殺意が宿っていて、ゆっくりとした喋り方も安穏としているというよりは不気味に感じられた。雪女の真の姿とは冷御のことをいうのだろう。爛堂にはない冷酷な雰囲気が漂っている。
「あちきは大嫌いなんだよ。弱く脆いくせに、この世を我が物顔で闊歩しやがる人間という奴らがっ!」
言い終わる前に、冷御は氷の棘を俺めがけて投げつけた。声を上げる間もなく俺は必死に机の下から這い出て、入れ替わりにコンコンコンッ! と小気味良い音を立てながら棘が俺のいた床の上へ突き刺さった。
「冷御! それは関係ない」
仮面の大男の攻撃をかわしながら、爛堂は大きく跳ねて冷御と俺の間に立った。両手を広げて仁王立ちする。
「お前は相変わらず人間に甘いんだねぇ。虫けらみたいにすぐ死んでしまう弱い奴らに、なぜ肩入れするんだい?」
冷御は、同じ命を分けた姉妹にも容赦なく氷の棘を投げ飛ばした。俊敏な爛堂はしかし、両足を踏ん張ったまま動かない。氷の剣で棘をなぎ払うだけで防御に徹するが、避けきれない一本が太ももに突き刺さった。なめらかな白い皮膚は裂け、細かな鮮血が散る。
「冷御が憎いのは私だろう!」
一段と強く迫力のこもった声で氷御は訴えた。太ももから氷の棘を抜いて床へ投げ捨て、血が吹く太ももには目もくれず、痛がりもしない。そんな氷御を冷御はせせら笑い、非道な言葉を浴びせた。
「人間をかばっているのか? もはや、屑だねぇ。お前は物の怪を名乗る資格なんぞない屑だよっ」
「確かに。人間こそが我らに干渉し、命を脅かしているのだから、巻き込むなとは矛盾もいいところだ。妖かしが恐ろしいなど笑止千万。自然を破壊して命の尊厳すら無視しようとする人間のほうが、よっぽど恐ろしいわ」
冷御に加勢する仮面男は大きな刃を爛堂ではなく、俺に向けた。
「それに、儂は女子に守られてぬくぬくしているような輩は好かん」
守りの構えとも呼ばれる下段に刃を下げたのは、俺を馬鹿にしているからか。中空に浮いていた男は、そのままの姿勢で俺に突進してきた。
「行かすかっ!」
標的を変えたとわかって、爛堂は剣を構え直すと床を蹴った。大きく跳ね上がって、空中で男の刃を自らの氷の剣で受け止める。一瞬だけ押され気味にはなるが、つば迫り合いは五分五分。下段の構えで飛び出した男は不利だった。下から上へ刀を振り上げようとする力は、全体重をかけて剣を押し込む爛堂には勝てない。また、間髪を入れず爛堂は「口」を使った。後ろから見た背中が一回り大きくなったかと思うと、彼女は超至近距離で大男に吹雪をお見舞いしてやったのだ。少し離れて後ろにいる俺のところにまで冷たい強風と張り付くような雪が吹き込み、またたく間に視界が遮られた男は堪らず後ろへ退いた。頭を振って仮面に張り付いた雪を落とそうとする。
「ふん。そのくらい、あちきにもできるさねぇ」
大男を横目に冷御が呟く。華の形に結った帯が歪むほど息を吸い込んで吐き出すと、部屋の中に雹が降った。いや、散弾銃が乱射された、という表現のほうが正しいか。なかには野球ボールほどの氷の塊もあって、いとも簡単に壁に穴を開けた。あれが身体にぶつかったらどうなるだろう? 想像してゾッとしながらベッドの陰に身を縮める。しかし、隠れたと思うのも束の間、俺の肩スレスレのところに大刀が振り下ろされ、呼吸は喉の奥でヒッと止まった。
「阿弓君!」
冷御の雹を氷の剣でなぎ払う爛堂は、少しだけ振り返って後ろを見た。二対一じゃ、やっぱり爛堂が劣勢になってしまう。でもだからといって、俺が加勢できるわけもない。どこからどう見ても普通の人間である俺が、この場でどう振る舞えば良いと? 立ち向かうどころか、逃げるだけで精一杯だ。というか、そもそも俺が戦う意義なんかないだろ。
……床板はたたき割られ、壁には穴を開けられ、制服はどこかへ飛んでいった。どいつもこいつも断りなく俺の部屋に入り込んで勝手なことをしやがる。
命を狙われるという極限状態の中で、恐怖は不思議にも苛立ちへ転換し始めた。迫り来る恐ろしさに震える一方で、理不尽さに怒りがこみ上げてくる。妖怪だか何だか知らないが、俺はれっきとした人間で人間の世界に生きているんだ。
「後ろがないな。人間よ」
仮面の大男が振り下ろす刀でベッドは真っ二つに破壊され、俺は隠れるものがなくなった。ささくれだつ床の上へ転げ出る。
「わっ! やめろっ!」
やめろと言ってやめるくらいなら、妖怪も最初から暴れたりしないんだろうが、もう言わずにはいられない。壁づたいに這って部屋の隅まで逃げると、手当たり次第に木片やティッシュケースを大男に投げつけた。
「ふはは。子どもの遊びか?」
しかし、軽くマントを翻されただけで木片もティッシュケースもはね除けられてしまう。
「卑怯な! お前が用があるのは、この私だろう」
冷御の雹をなぎ払っていたはずの爛堂が、瞬間移動したかのように仮面の男の懐に入った。
「油断したわね」
大男の胸元に抱きつくように見える彼女は、氷の剣を黒いマントの上から突き刺したのだった。さらに深く剣を差し入れようとするが、男はグローブのような手で爛堂を払い除ける。平手打ちとは言い難い勢いで小さな白い顔が吹き飛ばされ、細い身体は床に叩き付けられた。ビシッというものすごい音が部屋中に響いて残酷に身体がしなる。
「刺したか。許せん……」
低く呟いた男は、赤黒い血がべっとりと付いた手を一度ぎゅっと握りしめてから広げ、おもむろに爛堂へかざした。
「うっ……」
人間だったら全身の骨が折れていそうな状態で、さすがに爛堂もすぐには動けない。それでも呻きながら上半身を起こそうとして、視線が釘付けになった。見つめる先には男のグローブのような手のひら。それを向けられていると知って、爛堂は僅かに身体を強張らせた。
「チャンバラは終いだ」
そう言った男の手の中に光が点となって現れたかと思うと、みるみるうちに拡大してバレーボールくらいに膨らむ。それが何かを確認する間もなく、光は一筋の波動となって放たれた。
一瞬で真っ白になる視界。スポットライトに照らされるごとく、暗い部屋が眩しいほど明るくなって、すぐに消えた。
「な、なんだ……?」
目がちかちかして、何が起きたのかをすぐには把握できない。何とかやぶにらみして見ると、爛堂がさっきよりも遠ざかった場所に倒れていた。
「爛堂!」
ぐったりとうなだれる姿に慌てる俺の頭上で、冷たい女の笑い声が起こる。冷御が満足そうな表情で高笑いし、仮面の男も低い含み笑いをしていた。
気に入らねえ。
怖いと怯えるよりも、今この瞬間の俺は腹が立っていた。
「気に入らねえな! 俺はお前らのことが、すげー気に入らねえ」
勢いのままに大男を怒鳴りつけ、立ち上がると真正面から二人を睨み上げる。足下に転がっていたベッドの柱をとりあえず拾い上げて、青眼に構えた。剣道の経験なんかないけど、棒を持ったからにはそうするのが自然だと思ったのだ。
「はん、人間なんざ弱々しいくせに傲慢で、醜く狡賢いだけの無能な生き物よ。この世の中を支配していると思いこんでいるようだけど、身の程知らずも甚だしいさねぇ」
冷御は言いながら両手を顔の横でぱっと開くと、広げた指の間に新たな氷の棘を構える。仮面の男もじわじわと近づきながら右手を広げ、再び手の中に光を集め始めた。妖怪の爛堂ですら、動けなくなるほどのダメージを受けているのに、人間の俺があの光の玉を当てられたらどうなるのか? 想像もしたくないが、今の俺に逃げる気はなかった。
「お前らこそ何なんだよっ? 仲間をいじめて俺の部屋をめちゃくちゃにして、偉そうなこと言えた立場じゃねえだろうが!」
怒鳴りながらも、男の手の中の光が膨らんでいくのに目が引き付けられてしまう。青眼に構えたベッドの柱が小刻みに揺れ始めた。それは、意図的に揺らしているのではなく、無意識のうちに湧き上がる恐ろしさで手が震えているからだった。自覚はそれほどないのに、本能ではやはり怖いと思っているのだ。
「あ、あゆみくん……」
ようやく上体を起こした爛堂がこちらへ来ようとするのを、俺は拒否する。
「来るな! お前はそこにいろっ」
非現実的状況は、心をかき乱しすぎた。乱れに乱れた俺は、もはや冷静な判断を下せなくなっている。朝から続く平穏な日常とはかけ離れた出来事が、俺を不愉快に翻弄しまくった。楽しいことや面白いことは大好きだけど、恐怖と不安は大嫌いだ。
男の手の中の光がぐんぐん拡大して、バスケットボールほどまで膨らむ。ゆっくりとそれが前に突き出されるにしたがい、俺の鼓動は速まっていく。
「無能で愚かな人間は生きている価値がないのだ」
男が呟いて部屋の中が真っ白に閃き、何も見えなくなるのと同時に、俺は叫んだ。
「うおおおおおおおーーーーっっ!」
全身が極度の緊張状態に高められ、やけくその一歩を踏み込みながらベッドの柱を思いっきり振り下ろす。
死んだ――と思った。
突然に死を迎えるときは痛みも苦しみもなく、死ぬという自覚すらないと聞いたことがあるけど、そんな感じになっているのだと思った。
「なっ! なんだと!」
けれど、数秒おいて耳に聞こえてきたのは大男の驚く声であり、目に入ってきたのは奴の大きな手が震える様子。そして、頬には軽い電流のようなチリチリとした刺激を感じていた。
「え……?」
俺自身が、目の前の光景に驚愕してしまった。揃えた両手が仄白く光って、仮面の男の光の玉を弾き返している。バチバチと電気を放つ手から電磁波みたいなものが流れて球体を作り、全身を包んで守っているようだった。男に振り下ろしたベッドの柱は炭化してボロボロと崩れていくのに、俺の手が放出するエネルギーはまったく失われない。むしろ、どんどん大きくなって男を圧倒していく。そんな光景を目の前にして、爛堂はよろけながらも上半身を起こして呟いた。
「これは、同じ……あのときと同じ……」
下半身が動かないのか、ほふく前進をするようにして近づこうとする。
「爛堂! お前は来るなって!」
視界の端に弱り切った姿を確認して、俺はもう一度制止した。一瞬、意識が大男からそれて身体を包み込んでいた電磁波も乱れる。弾き返していた奴の光が左手の甲に一筋だけ伸びた。ジッという音と共に皮膚が焼け焦げ、弾けた皮膚の下から血が飛び散る。
「あっ……つ!」
「おぬし、何者だ……? 人間がこのような力を持つはずがない」
低く探る声。地獄の底から響くのにも似たドスの利いた声に、俺はさらに集中力を欠く。今度は右手に二筋、光が伸びて鮮血が飛んだ。そもそも何がどうなってるのか知らないが、大男を抑えたのは瞬間的なことで、早くも限界がきているらしい。奴が放つエネルギーがじわりじわりと身体を圧迫し始め、心臓が恐ろしい速さで鼓動し始めた。
「くっそ……!」
悔しいけど、もう無理っぽい。息苦しさを感じ始めて、俺の中に諦めと共に絶望が生まれる。
ヤバい。俺、ほんとに死にそう。意識が、意識が……。
〝ゆるさない!〟
遠のきそうな意識が、甲高い少女の声でむりやりに引き戻された。それは頭蓋骨を揺るがし、脳みそへ直接響いてくる。
〝絶対に、ゆるさない!〟
「なんだっ? 誰だ、この声は?」
しかし、厳しく責める少女の声を聞いたのは俺だけじゃなかった。大男が動揺し、冷御も慌てて辺りを見回すのが見えた。
〝おにいちゃんをいじめるなんて、絶対にゆるさないんだからあああぁーーーっ!〟
一段と大きな絶叫に窓ガラスがガタガタと揺れ、壁にビシビシッとひびが走る。大地震ともいえる振動は瞬時に部屋全体へ広がって、地球がシェイクされているんじゃないかと思うほど激しく振れた。
おにいちゃん?
その単語が引っかかるも、視点が定まらなくなって目の前のすべてのものがブレ始めると、俺は何も考えられなくなる。
「な、何っ? これは何なの?」
冷御が両耳を押さえて喚いた。どこからともなく聞こえる甲高い声はもはや言葉にならない悲鳴となって拡散し、狭い空間をぐるぐるとループする。
「耳が、耳があッ!」
苦しげに頭を振る冷御が何をどう感じているのかわからないが、俺は耳もどこも変化なかった。甲高い声が鳴っていると認識するだけ。
そして、拡散した声が再び部屋の中心に集まったかと思うと、驚きの言葉を紡いだのだった。
〝おにいちゃんをいじめないで!〟
「……い、今莉っ!」
何にも視点が定まらずにいたのに、俺の目は輝きながら現れた薄い人影をしっかりととらえていた。悪夢で見たのと同じ、十五歳に成長した今莉を。
妹の両手が伸びて、俺は包み込まれように抱きしめられる。ゆらりと実体がなさそうな彼女はしかし、頬や肩にあたたかな体温を伝えてくれた。暴走しかけた心臓は段々とリズムを緩めて、俺の息苦しさを解いていく。
逆に、急にハッとして呼吸を荒げ始めたのは、仮面の大男。
「な、なぜここに依り代が? 目覚めたのか? ついに目覚めたのかっ?」
大きな手に恐ろしげな光はもうなく、俺の放つ電磁波のようなものに再び圧倒された。なんだかわからないけど、勝てる。そう感じたとき、
――ドンッ!
地響きとともに深く重い音が聞こえた。いや、聞こえたというよりは、身体に響いたといったほうが正しいだろう。窓の外に閃光が走り、地面そのものが大きく沈んだのだ。音のしたほうへ目を向けると、秋田市の町並みを越えた遠くに光の柱が立っているのが見える。それは数秒で消えたが、直後に悲鳴や大声が上がった。それも、この部屋の外から。
爆弾だ。ミサイルが落ちた。隕石か。逃げろ。
恐れおののく生徒たちの声。俺は唖然とするしかなかった。
「まずい……天刃鬼よ、これは依り代としての目覚めではない。意志と感情を持つ人間として覚醒してしまったのだ!」
冷御が目を見開いて、今莉を見つめている。
「冷御、どういうこと? この子が依り代……?」
呆然とする姉妹を問いつめるのは爛堂。血が流れ出る太ももと二の腕を押さえながら、ようやく立ち上がっていた。痛めていないほうの手を上げ、震える人差し指でこちらを指す。
「だって、人間じゃないの。この子は阿弓君の妹だわ」
そう。細く華奢な両腕できゅっと俺の頭を抱きしめているのは、俺の妹、今莉だ。
〝あたしはおにいちゃんの味方だから〟
それまで以上にきつく、苦しいくらいに俺に抱きつく今莉に大男は手を伸ばす。
「何を言う! 来い!」
長い腕が今莉の首根っこをつかもうとして、俺は慌てた。身体をそらしてグローブのような手から逃れようとするが、ふわりと流れた髪の毛が男の指に絡む。〝あっ〟と小さな悲鳴が上がったとき、すでに今莉は凄まじい力で引っ張られていた。僅かにつかんだ髪の毛を千切れんばかりに引き寄せる男は、もう一方の手も伸ばしてくる。
〝いやあぁっ! いたぁいっ!〟
不自然に首をねじられても、今莉は俺の首に両手を回したまま離さない。プツッ、プツッと髪の毛が引きちぎれる音が小さく聞こえる。
「やめろっ! 離せ!」
と言って大人しく離す奴でもない。俺はまだ光を失っていない両手を男に振りかざした。苛立ちを開放するように怒鳴りつける。
「離せっつってんだろォーーーーっ!」
意識を両の手のひらに集中させると、歪んで勢いを欠いていた光は再び大きく拡大して、バチバチと電気を走らせた。そのエネルギーの塊みたいなものが膨れあがるのを見て男は焦る。いっそう強引に今莉を引き寄せた。
〝きゃあぁっ!〟
俺の首にしがみついていた今莉の腕がほどける。そのあたたかさが離れた瞬間、俺は言葉にならない大声を上げながら、巨大な光の玉を奴に思いっきり投げつけた。
――ゴオオオッ!
何かが爆発したみたいに暴風が巻き起こる。それを生み出した俺自身でさえ呼吸が奪われるほどの熱風が瞬間的に襲った。
「うっ……ぷ! はあっ!」
狙った大男の姿が見えない。逃げられたか、と思ったが部屋の反対側の壁が軋んで黒い巨体が倒れるのが目に入った。奴は暴風に吹き飛ばされて壁にめり込み、体勢を整える間もなく床に崩れ落ちたのだった。今莉は二度と離れないといわんばかりに、きつく俺の首へ両腕を回している。
〝もう鬼のところにはいたくない。帰りたい〟
耳元で聞こえる呟き。そんな今莉をまだ奪おうというのか、しつこく震える手を伸ばそうとする仮面の男。鬼の面にひびが入って碧色の左目が覗いている。しかし、よろける男に冷御が叫んだ。
「退散じゃ! 依り代の心を閉ざさねば! 抑制され続けた感情が吹き出している。このままでは穏様の魂も降ろせぬわ!」
形相を変えて袖を振り、現れたときと同じに小さな嵐を起こした。
「ぬぅ……今は退くしかあるまい……」
掠れた声をやっと絞り出す大男は、立ち上がろうとしてよろけ、膝をついた。うずくまる黒い輪郭がどんどんぼやけて黒いもやと化していく。今朝と同じように消えようとしているのか。
「逃げる気か? ずるいぞ!」
俺が近づこうとすると、大男は慌てて自身をマントで包み、身体を霧に変える速度を速めた。さらには冷御が起こす竜巻が邪魔をして、男は俺が近寄るより先に消えてしまう。
「このままで済むと思うな」
繭玉になって小さく消える間際、冷御は悔し紛れに捨てゼリフを残した。その冷たい声の余韻が消えると同時に、俺の部屋には静寂が訪れる。
そして、改めて実感する今莉の腕のあたたかな体温。頭にしがみつく彼女をおそるおそる見ると、やっぱり実体がなさそうなゆらりとした輪郭をして、身体はぼんやりと光を放ったままだった。幽霊?
〝ケガはない? おにいちゃん〟
「あ、ああ……たぶん。っていうか、お前はいったい……?」
生きているのか、死んでいるのか? そう問いかけたいのに、事実は残酷な答えかもしれないと思うと、すんなり言葉は出てこなかった。
「大丈夫よ。彼女は生きているわ。今ここに肉体はないけど、ちゃんと命が宿っている」
俺の心を見透かしたらしい爛堂が代わりに答えた。
〝そのおねえちゃんの言う通り。あたしは生きてるし、ずっとおにいちゃんを待ってる〟
悪夢で聞いたのと同じ。『待ってる』という言葉が心に刺さった。
「うん……俺、今莉を助けなきゃ」
それが俺の罪を償える唯一の方法。心の底から救わなければいけないと思うと、今莉が放つ光が一段と明るく輝いたように見えた。
〝うれしい〟
そう微笑んだ後も何か話したようだったが、もう声にはならない。ゆらりとした今莉の輪郭が段々とぼやけていく。
「あっ……待って。今莉!」
自身を包んでいた光がどんどん大きくなって、今莉は真っ白な発光体になり、急にシュッと消えた。呼び止める俺の手は何もない空間をむなしくつかむ。堪らずにため息がもれると、俺を囲っていた丸い電磁波の膜のようなものがなくなった。指先にパチパチと僅かな火花が散るだけ。
「阿弓君が罪の意識を覚える必要はないわよ」
がっくり肩を落とす俺に、爛堂が声を掛けた。いつの間にか髪の毛と目の色は黒に戻り、まだ少しふらつく足で歩み寄ってくる。
「あの子が神隠しに遭ったのは阿弓君のせいではないし、仕方のないことだったんじゃないかしら。だって、あの子は穏様の依り代として物の怪に連れ去られたのだから」
「あの仮面の男が四歳の今莉を誘拐したっていうのか?」
「ええ。私でもすぐにわかったわ。あの子、並はずれた霊力を持っている。霊媒体質でもあるし、穏様の魂を降ろすには願ってもない逸材よ」
「れいりょく? なんだそれ。今莉はそんなんじゃないよ。普通の四歳の女の子だっ……」
爛堂の言葉を否定しようとして、俺は今莉の勘の鋭さを思い出した。確かに、あいつは物事を言い当てるのが得意だったけど、それが『霊力』というほどのものなのか?
「きっと、『その筋』の血を引き継いでいるはず。普通の女の子とはいえないわね」
「そのすじ?」
「巫女、口寄せ、シャーマン、イタコともいうわね。死んだ者の霊を自身の体に憑依させることができる霊能力者よ。あるいは、陰陽師や神職、占い師の家系にあるとか。いずれにしても、あの子には長い長い年月をかけて受け継がれた特別な能力が宿っているみたい」
神職。なるほど、爛堂が言うとおりに今莉の父親は古くからある神社の次男坊だ。
「それに、どうやらあの子とは血の繋がりがないようだけど、阿弓君にも不思議な力があるわね」
「え、俺? ……ああ……あれはなんだったんだ?」
次々に不思議な出来事が起こるせいか、俺自身が起こした不思議を忘れそうになる。両手を広げてまじまじと見つめるけど、手のひらはいつもどおり。焼けただれることもなく、何の痛みも違和感もなかった。少しためらってから爛堂も人差し指で俺の手に触れてみたが、静電気がパチッと一度きり起こっただけで、高圧電流も流れないし爆発も起きない。
「爛堂に囚われてどうにかなっちまったのか……?」
「いいえ。私が人間を虜にしたからといって、妖力が芽生えるなんてあり得ないわ。こんなの初めて。阿弓君、やっぱりあなた……!」
首を傾げて俺の顔を覗き込む爛堂と目が合う。お互いの吐息がかかりそうな距離で、俺は彼女の右目の下がぱっくりと割れているのを見た。頬を血が伝っている。
「って、おい! 俺のことよりも、お前は大丈夫なのかよ。血! 血出てるし。それに足、刺さっただろ?」
太ももだけじゃない。人間なら全身骨折の内臓破裂で即死だろう。慌てて爛堂の足や腕をペタペタと触って確かめてみた。
「馴れ馴れしいわね。さわらないで。私はそんなにやわじゃないわ」
確かに、さっきまで容易に起きあがれなかったのに爛堂はもう歩けているし、生意気なことまで言えるようになっている。血で汚れてはいるものの、冷御の氷の棘が刺さった傷も出血していた二の腕も、今はつるりとした皮膚の感触しかない。驚いて爛堂の顔を見ると、ぱっくりと割れて血が流れ出ていた目の下の傷が、まるで生き物のように動いて閉じていった。かさぶたすらない。残されたのは頬を伝う血の跡だけ。
「私たちの治癒力は、人間とは比べものにならないの。勝手に治ってくれないのは、破れた制服くらいかしら……」
言いながら、爛堂が制服のプリーツスカートを広げると、無惨に穴が開いてところどころ裂けていた。仮面の男たちとの戦いがいかに激しかったかがわかる。
「すごいな……まあ、無事ならいいんだけど。ていうか、朝といい今といい、お前を襲う仮面の男はいったい何なんだ?」
人間でないことは確か。爛堂の顔見知りではあっても、おトモダチではなさそう。
「天刃鬼。あれも妖怪だけど、仲間じゃないわ。人間の世界にうまく馴染めなくて、人間たちを憎んでいる。だから見返そうとして、千三百年ほども前に封印された邪悪な念、『穏様』をよみがえらせようとしているの。穏様が復活したなら、世の中は天刃鬼のような奴がもっと生きやすくなるし、それはつまり、世界が今より物騒になることを意味するわ」
「ちょちょちょ……待って! またわけのわからない話?」
喋り続けようとする爛堂をむりやり止めた。
「お前らの会話でも何度か聞いたけど、おんさまって何? じゃあくなねん?」
ファンタジーな話には食傷気味な今日の俺。次から次へと理解しがたいことを言われると、驚くよりも面倒臭く感じてしまう。
「そう、穏様。隠様自体に意志はないし、姿形もない。妖怪でもないわ。神になり損ねて地獄へ堕ちたもの。世の中をめちゃくちゃに乱れさせる『念』が隠様なの。悪意、憎悪、怨念、絶望、嫉妬、憂鬱、失望……あらゆるマイナス感情の塊で、人間に対してだけじゃなく、私たちにとっても脅威といえるものよ。過去には、平安時代に広くはびこって陰陽師に封印されたけど、天刃鬼は救世主か何かだと思い込んでいるみたい。馬鹿ね。平成の世に陰陽師はいないのだから、穏様が目覚めたら最後、誰にも止められないわ。もし封印が解かれたら世界がどうなるか……想像もしたくない」
おんみょうじ。映画や小説にそんな術師を描いた作品があったように思う。よく知らないが、幽霊や化け物退治をする能力者だったか。
「陰陽師に封印された穏様、ねぇ……。平将門の首塚みたいなもんかな? 全然違う? もっとすごいのが眠ってると考えればいいのかな」
俺は今、とても前向きに爛堂の奇怪な話を受け入れようとしている。もはや人間でもないと言い放った彼女の話を疑うこと自体、無意味だと思い始めていた。
「で、その首塚……じゃない、穏様とやらは秋田に封印されてるの? 秋田って、そんな恐ろしい土地なわけ?」
地元の民話には残念ながら詳しくない。凶悪な念はとても身近なところで眠っているということになるけど、自分が今そんな場所にいるという自覚はなかった。だって、秋田はどちらかというと穏やかでのんびりした印象の県だし。邪悪な雰囲気なんかちっとも感じないのだ。
「穏様の出入り口となっているのは京の都から見て丑寅、つまり東北の方角なの。秋田は穏様がこの世に吹き出る門になっているのよ。
――西暦七百年頃。旧暦のお正月……今の暦では二月上旬に当たる時期に、穏様は封印されたの。厳かで恐ろしい儀式は追儺といって、陰陽師の指示のもと、方相氏という武装集団が都じゅうで戦ったわ。それまでにないほど大規模な邪気祓いになったそうよ。今でも、封印が解かれないように、平安神宮などが年中行事として追儺を毎年行っているけど、旧暦のお正月に当たる二月の頭は穏様の眠りが一番浅くなる時期なの。天刃鬼もそれをチャンスと狙っているはず。姿形のない穏様の依り代、つまり魂の容れ物を用意して目覚めさせようとしているの」
「その依り代として今莉は連れ去られて、爛堂もつけ狙われているのか。でもさ、その旧暦のお正月とやらに当たる二月はもう過ぎてるじゃないか。今さらどうにもできないんじゃないの?」
「確かに、その通り。ただ、太陰暦を使用していた頃の暦にしたがって一年を二十四個に節目分けすると、穏様が封印された二月が第一節気で、そのほかに季節の変わり目を示す第七節気・第十三節気・第十九節気でも、穏様の邪気は僅かに高まってしまうの。次の第七節気は五月。そこを狙っていてもおかしくはないわね。天刃鬼が人間たちを排除するために動き出す可能性は高いわ」
五月なんて、もう一カ月もないじゃないか。仮面の鬼と爛堂の戦いは、思いのほか現在進行形だった。
「……私たちは、よっぽどのことがなければ、何百年も何千年も生き続けられるわ。でも、世の中の舵取りをしているのは私たちじゃない。時代を作っているのも、文明を進化させているのも人間。その流れに乗れない妖怪は、どんどん生きづらくなってしまう。科学が発達するにつれて、存在意義が失われる者も少なくないわ。でも、だからといって、人間を憎んでも仕方ないのに」
妖怪の世界にも、なかなか難しい事情があるようだった。同じ人種や国民同士で争ったり、反発し合ったりするのは、何も人間だけではないらしい。非現実的な世界の話でも妙に納得できる。思わず頷いていたら、部屋の外の廊下で生徒たちが騒ぐ声が聞こえた。
――爆弾だ! いや、隕石が落ちたんだよ。違うだろ、地震じゃないか。津波が来るぞ。
爛堂を見ると、彼女もにわかに騒々しくなった寮内のざわめきに耳を傾けている。
「さっきの、窓の外に見えた光の柱のことね。あれはたぶん……」
しかし、言いかけた言葉を突然の寮内放送が遮った。
【全生徒に報告します。さきほどの振動は、ニュース速報によりますと男鹿市を中心に起きた地殻変動の一種ではないかとのことです。津波の心配はありません。爆弾、隕石の類ではないですし、避難する必要もありません。生徒の皆さんは各自部屋に戻るように】
相当大きく地面が揺れたと感じたけど、避難する必要がないなら大したことではないのだろう。まあ、それより何より、今の俺の部屋のほうがよっぽど大惨事ある。
「……あの光と地響きを起こしたのは、阿弓君の妹さんね。最愛の兄が死の淵に追いつめられたと気づいて、取り乱した気持ちを暴走させてしまったんだわ」
「暴走って……感情が高ぶるだけであんな地震になるのか? それに、なんで男鹿市が爆発するわけ? ここからだいぶ離れてるだろう」
男鹿市は秋田県西部に位置する日本海に面した半島である。俺と天刃鬼がいたこの部屋が吹っ飛ぶなら、まだわかるんだけど。
「あの子が本当にいる場所、身体があるところが男鹿なんだと思うわ。それに、天刃鬼が拠点としているのも男鹿なのよ。たぶん間違いないでしょう。光の柱が立った場所に、彼女は眠らされているはずよ。依り代として十分な成長を遂げるまで、意識も人間としての感情も封じ込められてきたようだけど、それも阿弓君が帰ってきたことで覚醒しつつあるのね。『戻りたい』と望んでいるのだから。肉体としての身体はまだ眠っていても、今日の様子を見る限り、心はほとんど解放されているんじゃないかしら」
そういえば、夢の中で逢えた今利が言っていたっけ。『もう眠り続けるのはイヤ』と。
「なるほど。だから、俺の夢に出てきたり、さっきの生き霊みたいな姿になって現れたりしてるのか」
しかし、男鹿市に今利が囚われているとして、どうやって探せばいいだろう? 半島ひとつとはいえ、当てもなく行ってすぐ見つけられるほど狭い街じゃない。考え始めた俺の手を、爛堂がおもむろに握った。まっすぐに見つめる濃いワインレッドの瞳は、相変わらず表情がない。
「偶然ね。意外な展開ではあるけど、私と阿弓君の目的は合致しているわ。妹さんを探すのを手伝う代わりに、阿弓君は私と一緒に戦ってちょうだい」
「え? 戦う?」
俺は売られた喧嘩も買わない平和主義者である。戦うなんて、遠い国の世界の話。
「安心して。さっきの阿弓君を見て確信したわ。あなたも普通の人間じゃない。それに、今は私の虜。従って当然よね」
握った手を強引に引き寄せ、爛堂はぐんと顔を近づけて威圧してくる。喉の奥がひやりと冷たくなった気がした。虜。そうだ。俺はコイツに囚われていたんだっけ。鼻の先が触れそうな距離で凄む爛堂を拒否することは、今の俺には許されていない。否が応でも頷くしかなかった。
「あの子は物の怪に囲われているのだから、私がいてありがたいでしょう? 感謝されるべきだわ」
「そりゃあ……確かにね……」
戦うという俺のスタンスが納得できないが、爛堂の言うことも否定できない。やや不公平な協定を一方的に結ぶ爛堂は、ぶんぶんと握った俺の手を振った。握手のつもりか。勢いよく振るせいで、服についた床板やベッドの木くずが舞い散る。
「ぅ……ぶぇっくしょい!」
案の定、くしゃみが出た。鼻水は出ていないのに、爛堂は握っていた俺の手を慌てて離して、自分の手のひらや甲を俺の服になすりつけて拭いてくる。いやいや、バイ菌じゃないんだから……。
「ぶぇっ! ぶぇっくしょい!」
しかし、立て続けにくしゃみがもう二回出て、爛堂はさすがに後ずさった。
「こりゃ、身体が冷えたかな」
埃のせいだけじゃないらしい。だって、窓ガラスはほとんど割れていて、冷たい外の空気を遮る役目を果たしていないんだから。
というか、改めて見回す俺の部屋がとんでもなく酷い。窓ガラスどころか窓の枠さえも崩れ落ちて、床板はほとんどはがれ、ベッドは木っ端微塵。壁にはヒビが入って、備え付けの机や家具も倒れている。
「……どうでもいいけど、俺はこの有様を寮長にどう説明すればいいんだ? ぐっちゃぐちゃで戦争でも起きたみたいだ」
しかも、今莉が起こした爆発ですでに寮内は騒然としているが、中には俺の部屋で尋常じゃない破壊音を聞いたとか、壁が壊れそうな振動を感じた、なんて言い出している生徒もいるに違いない。もう、誰かが警察を呼んでいるかもしれなかった。
「平気よ。結界を張って、この部屋をほかの人間世界から切り離していたから。男鹿の地響きには気づいても、私たちが暴れたことには誰も気づいていないでしょう。ほら、聞いて。隣の部屋の生徒が冗談を言っているわ」
言われるとおり、耳を澄ませるとヒビの入った壁の向こうから、男子学生が二・三人で笑い合っている声が聞こえた。もし、フローリングの床が叩き割られ、ベッドが真っ二つになるのを察していたら、呑気におしゃべりをしながら大爆笑などできるはずがない。
「でも、この部屋はどうにかしないと。阿弓君が修繕できるとも思えないから、私が手配して朝までには元の形に直しておくわ。感謝しなさいよね。」
普通に考えて、全壊ともいえる状態の部屋を一晩で元通りにできるとは思えないが、俺は常識的な感覚で考えることが、もうできなくなっていた。何かの魔法か小人の仕業かわからないけど、爛堂の手にかかれば、百階建ての高層ビルさえ一日でできあがるのかもしれない。俺は詳細を聞くのはやめて、「あ、そう」とだけ返した。
部屋の隅に転がる時計が十一時を示している。もうそんな時間になっているのかと驚くと共に、酷く身体が重く感じた。今さらのように、自分が疲労しきっていることに気づく。
「……だから、阿弓君。あなたは今夜、私の部屋で休みなさいよ」
「……は?」
「寝るところがなくなってしまったんですもの。寮で男女同室は禁止だけど、仕方がないでしょ」
淡々とそう述べて、爛堂は俺の手を握る。次の瞬間、電気が点いて整理整頓された『破壊されていない部屋』に、俺たちは移動していた。セーラーカラーの制服がかかっているのを見ると、ここが爛堂の部屋らしい。
「いや……そんな、一緒に寝るなんて……ちょっと……」
クラスメイトとはいえ、妖怪とはいえ、爛堂は女の子で、しかも寮のベッドはシングルよりも少し狭いくらいの小さなもの。どうぞ、と何食わぬ顔で促されても、思春期まっただ中の俺は当然ながら躊躇してしまう。女子と同じ布団で寝た経験もなければ、そのくらい女性と接近したこともなかった。まだ手も握っていない相手と一夜を共にするのは、気が引ける。
まあ、それは、俺がまだ童貞だという証拠でもあるのだが……。
「一緒に寝るだなんて誰も言っていないわ。部屋は広いんですもの。ベッド以外にも寝る場所はいくらでもあるでしょう」
あ、そういうことね。床で寝ろと……。
「ほら、シャワーを浴びて」
「えっ! いややややっ!」
落胆したのも束の間。バスタオルを差し出す爛堂の過激な発言に俺は再び慌てた。コイツは何を言い出すのだろう。全裸でお互いの身体を洗いっこでもするのか?
「一緒にシャワーを浴びようと、この私が言うとでも思っているの?」
俺の心を読む爛堂は、明らかに軽蔑のまなざしを向けた。
「汚い身体でウロウロされると困るのよ。部屋が汚れるでしょう」
汚いって、そりゃないだろう。反論したくなるが、改めて自分自身を見ると言われるとおりに汚かった。鼻先に爛堂からバスタオルを押しつけられ、俺は強引にシャワールームへ入れられてしまった。