刻まれるは生きた証 ⑦究極の魔術
「まずは試行だ。私の願いは大きすぎるがゆえに、貴様の願いを先に叶えてやろう────思い浮かべよ、己が求める命の姿を。渇望せよ、魂の回帰を」
───望め。
───願え。
───ただひたすらに、己が命を燃やし尽くす程に。
「第一術式、展開」
それは書に刻まれた意思の覚醒を促すもの。機能制限を解除し、書の意識自身では制御できない領域の解放を行う術式。
魔王の手元から書が再び浮かび上がる。魔力が渦を巻き始める。書を中心に、一つ目の魔術言語が輝きを伴って現出する。
「第二術式、展開」
それは魔力の集約を目的としたもの。術者を含む、あらゆる対象から───根源精霊ですら例外なく、根こそぎ魔力へと変換し、吸収する術式。
根源制御。かつてオリヅア・D・ガーデンツがその身を代償に放った術式の根本。
佇んでいたムオンの体に光の粒子がまとわりつき、その周囲に二つ目の魔術言語が現出する。
「第三術式、展開」
それは願いを叶えるもの。それがどんなものであれ、世界を書き換える形で全てを是としてしまう至上の術式。
媒体は書。扱うは魔王。代価はムオン。三つ目の魔術言語が現出し、魔王の周囲で輝き始める。
魔王がそれまで閉じていた目を見開くと、目前でムオンが残った左腕を胸に当て、瞑目していた。それはまるで神に祈るかのような、悪魔に命を売るかのような、無力な子羊の姿だった。
魔王は口元に小さな笑みを浮かべ、さらなる呪を紡ぐ。
───思い出せ。
───思い起こせ。
───求める者の姿、記憶、知識、性格、性別、年齢、魔力。
───自身が知るあらゆる全て───魂の形を。
ムオンの深奥に潜んでいた渇望の感情が、求める人間の姿が、再誕の術式となって魔王の内に流れ込む。
「統合術式、展開。第一から第三術式、全、起動」
四つ目の魔術言語が現出し、王座の間の床全てを埋め尽くす。術式が極大であればその魔術言語もまた極大。場に充満する魔力が加速度的に増大していく。されど、それは全てが魔王の内に在ったもの。
全てはここからだ。ここからが究極魔術の真なる始まりだ。
「根源変換、開始───」
それは魂の欠落だった。兆候が初めに現れたのはムオンの左腕。かつての大魔術師が魔物と相打った際に起こった変遷現象だった。
根源が、魂が、光となって空間に溶けていく。それはすぐさま膨大な魔力へと転換され、書へと流れ込んでいく。
恐ろしいほどの魔力量だった。魔王ですら垣間見たことの無い極限の魔力補填だった。否、魔王ほどの知識、実力が無くとも、これがどれほど強大かは手に取るように分かるだろう。何が起こっているか知らなければ、立っていることも叶わぬ───まるで神が現れたかのような重圧が、場に満ちていく。
───ああ。これで、願いが叶う。
疑う余地など微塵も無い。
ムオンの口元にも、小さな笑みが浮かんでいた。
残る左腕は既に肘まで溶け切っている。それでも、それが代価ならば彼は望んで受け入れる。笑いながらも受け入れる。
だが、ここに来て。
ここに至って、一つの考えがムオンの胸中に浮かんでしまった。
───本当に、これで良かったのか?
───共に生きたくはなかったのか?
───ああ、それは過ぎた望みだ。過ぎた望みだが、できるならば───
それは、小さな小さな欲望だった。彼の鋼の意思の前では、吹けば飛ぶほどの小さな燻りでしかない。だが、小さくとも欲望だ。それもまた間違いなく願いの一つ。ゆえに術式に作用する。彼の意識に依存していたがために作用してしまう。
───奪え。望むならば、誰が相手だろうと奪ってしまえ。
異変が起こったのは魔王の一部、ふわりと浮いた輝く金髪だった。ほんの僅か、その毛先が光の粒子となって溶けていく。術者にとって想定外の逆流現象が起こり始めていた。
「なに?これは、まさか────」
「彼の者の願い、確かに受け入れた。叶えよう、その狂おしくも一途な願いを」
書の淡々としたその意識の波動が、魔王の神経を逆撫でする。
「貴様……ッ!この私を取り込むつもりか!生贄はあの男であろう!」
「否、彼の者の願いにより術式は変化した。他ならぬ魔王、汝自身がそのように───ムオンの願いを、深層心理を叶える術式として構築していたが故に。残る不足分は汝から頂く」
「戯けたことを!私こそが術式の支配者だ!貴様はただの補佐であろう!術式が変わったならば再び変えるまでだ!我が命に従えぃッ!」
途端、魔王から溢れ出す魔力が極限を超えて更に増した。術式の支配権。それは発動者にも依存すればまた、術式そのものである魔術書の意識にも依存する。
一般的な魔導書なら本来ありえぬ権利争奪戦が開始されていた。作成者であるミデルテ・リアーレットが書に持たせた防衛機構、即ち制限解放された魔導書自身が願いの善し悪しを判断するという、馬鹿げた機能の行く末であった。
莫大な魔力同士のせめぎ合い。その余波を受けてムオンの長い前髪がたなびき、普段隠れて見えないその内では、驚愕のままに目が見開かれていた。
───何故。
「……好ましいのだよ、この願いは。ただひたすらに純粋であるがゆえに、醜くも美しい」
───何故。
「長く付き合いすぎたというのもあるのだろう。すっかり情が移ってしまった。ムオンよ、もう十分だ。もう十分にお前は失った。これ以上、何かを失う必要などない」
「人に造られし魔導書風情が人心を語るか!片腹痛いわ!」
「抗うか魔王。しかし、全ては無駄だ。もはや術式は固定化された」
「ならば破綻させるまでッッ!」
咆哮する魔王に合わせて、迸る魔力の質が変化した。酷く暴力的で、神がかり的な力すら飲み込まんとする、まさに魔王たる性質を持って全てを消し去る方向へと急激に遷移していく。
それに呼応するように魔導書もまた魔力の質を変異させる。抗いを捨て去り、純粋に力の増幅のみへと傾倒していく。
所詮は人が創りし創造物。作りこまれた以上の機能を発揮することは無い。稀代の魔術師相手に術式制御で肉薄しようなどとは愚の骨頂である。
なればこそ、魔導書は魔王の力に抗することを止めた。飲み込むならば満腹になるまで喰らえばよいとばかりになすがままとなった。ただし、腹のかさすら超えてみせよ、と自身の、究極魔術の力を激しく増幅させながら。
その騒乱の最中、四つの魔術言語は輝きを増し続け、目も眩むような紫電がばちばちと飛び交う。光の粒子は豪雪のように舞い踊り、王座の間を縦横無尽に駆け巡る。
───なんて、神々しい。
場違いにもムオンはそう感じていた。失った両腕が残っていたならば、祈りすら捧げていたかもしれない。
否、そうすることしか出来ないというのが真実だ。彼の願いは世界の理に反するものであり、それを実現させようとする行為は、一介の人間の力を大きく超えた領域にある。踏み入ることなど不可能だ。ただひたすら、祈り、願い、待ち続ける以外に道は無い。
だが────
「終わりだッ!」
衝撃が迸った。魔術言語が稲妻を伴って砕け散ると、駆け巡る魔力の流れが不意に止まり、一斉に拡散していく。散り散りになった光の粒子が石造りの壁にぶつかり、吸い込まれるように消えていく。
期する所叶わず。
愚かな願いは人類の敵対者の手によって敢え無く散った。これもまた当然の帰結である。いくら魔術書が術式の主導権を握ったとて、贄の対象が魔王である限り、抗されれば手も足も出ない。魔力転換、即ち根源制御は言葉通り、魔王の最も得意とする技術なのだ。結果として、魔力増幅は生贄の拒否で打ち止めされ、全てが消え去ってしまった。
「もしや、という思いもあったが所詮は他人からの借り入れか……」
魔王の言葉には落胆というより、諦観が込められていた。彼にとってこの願いの術式は、突如降って沸いた手段の一つに過ぎない。そも、本来の効力を発揮できるかも賭けのような危ういものだったのだ。
「失敗か……すまぬ」
まるで人のように謝罪を述べる書に対し、魔王は冷徹な視線を送る。怒りと恐れが入り混じった奇妙なものだった。
「危険だな、貴様は。私に従わぬ強大な力など邪魔以外の何者でもない。ここで燃やし尽くしてくれる」
魔王が手をかざすと、即座に人の胴体程もある炎球が生み出された。言葉すら挟む余地無く、炎球は浮かんだままの書へと向かい───
次の瞬間には、ムオンに残っていた左肘から上が焼けて消し炭になっていた。
「なんと」
魔王にも視認はできていたが、それは神速と呼べる動きだった。ムオンは書に向かった炎球におびえることも無く突撃し、書を口でくわえ込むなり空中で一気に加速、飛び退ったのだ。腕を犠牲にしたものの、感嘆に値する身のこなしだった。
しかし、それも僅かな間。魔王は目的を遂げるために再び術式を構築する。それは、かつてムオンが見た中で最も完成度が高く、最も避け辛いもの。
「連続魔・四魔咆哮」
脅威の技術が、明らかな害意を持って此度、ムオンに向かって放たれる。
「炎」
第一射は炎の奔流。空気すら焼き焦がさんと、熱気が津波となってムオンに襲い掛かる。あたり一面が真っ赤に染まった瞬間、ムオンは神速で後ろに駆けた。足元には不可視の力場が構築されている。徐々に駆け上るその陰影は見事に上空で炎をやり過ごせるかに思えた。
「氷」
されど、その途中、第二射が放たれる。追いすがる炎の波を突き破り、空中を駆けるムオンへ向かって、おびただしい数の氷槍が迫る。が、神速を誇り、尚且つ空中を自在に駆け回るムオンにとってその回避は難しいことではない。
「雷」
先陣の数本の氷槍をかわしたところで次の雷撃が放たれた。雷は氷槍にぶつかると次々に反射し、蜘蛛の巣の如く展開していく。まるで雷の網だった。
想定外の現象にさしものムオンも歯噛みする。憤ったからではない。複数の雷に体のあちこちを突き破られてしまい、それでもその痛みに耐えようと───書を決して放すまいと力んだためだ。
「岩」
その尽力をあざ笑うかのように四属性最後の術式が発動すると、石弾などとは比べるべくもない、もはや隕石と呼ぶに相応しい物体が眼前に現れた。ぼろぼろの体では避けようも無いと判断し、ムオンは練り続けていた魂の力を惜しげもなく解放する。
───葉隠術。
瞬間、魂から溢れた力が緑葉となり、嵐の如く吹き荒れた。魔王の視界すら埋め尽くす程に現れた緑がムオンの体を矢のような速度で運び、後退させていく。
ムオンの気配が王座の間から消えた直後、隕石が激しい激突音を伴って床へと抉りこんだ。石床の破片が飛び散ると、役目を終えた隕石は跡形も無く消え去ってしまう。残ったのはぽっかりと開いた大きな穴だけだ。
「適わぬと見てかく乱と退避の術を使ったか。良い判断だ。逃げ切られたのは少々意外だったが……」
ムオンが去った方向───即ち、自身が追い込んだ王座の間の入り口をみつめて魔王は一人ごちる。
「しかし、あれでは長くもつまい」
城内では魔王の部下が絶えず蠢いている。いかな侵入者も正面から魔王の居城に突入して無事で済むわけがない。逆もまた然りだ。加えて、逃亡者は手負い。ここから抜け出る可能性は限りなく低い。
とはいえ。
願いを打破され、それでもまだ足掻き続ける男の姿は魔王にとって他人事ではなかった。書を咥え、爛々と輝き続ける瞳───望みを決して諦めようとしない輝きが脳裏によぎる。
「惜しいな……ああ、やはり口惜しい」
呟く魔王の眼窩の奥でも、何かに焦がれるような光が燻っていた。