刻まれるは生きた証 ⑥無謀な嘆願
ムオンは相対する魔王に対し、なんの感情も浮かべる様子も無い。ただ、黙したまま義手の左腕を無造作に引っこ抜いた。
「義手か。いや、ただの義手にしてはあまりにも……擬態か?」
呟く魔王の目前で突如として魔力が胎動する。義手が光を放ち、まばゆい輝きの中でその姿をゆがめていく。
───やがて、現れたのはひとつの分厚い書物。
書は不安定に波打つ魔力を放ちながら、ムオンの手から離れて浮遊した。
「分かるか、魔王」
その声質は確かに先程ムオンから出ていたはずのものだった。しかし、当の本人の唇はまったくもって動いていない。そも、平常な音として空間に響いているわけではなかった。まるで、脳の深奥に直接語りかけてくるかのような、有無を言わさぬ強制的な意思伝達。
「ほう、その魔道書。意思を持つか」
その感嘆にムオンは答えない。応えるのは空中浮遊する奇妙な書物。
「然り。
こやつに腕はない。ゆえに代価の腕として我が動く。
こやつに声はない。ゆえに語らう口として我が補う」
「その書に込められた情念……強すぎるな。何を望む?」
「使い手。我は未完成。それゆえ完成させうる非凡な魔術師を望む」
「非凡か。確かに私は世界三大魔術師に数えられる一人だ。オリヅア・D・ガーデンツは死に、残る一人、ミデルテ・リアーレットも行方不明。となれば、無謀にも私を選んだ理由は分からなくも無いが……それほどまでに優秀な者が必要だと?」
「凡庸な術師では意味が無いのだ。我に込められた術式効果は『願いを叶える』という一点のみ。それは現存するあらゆる術式を超えた頂上の効果。ゆえにその技は至難の極み。されど我を完成させれば、どのような願いであれ叶うだろう」
その言葉を受けて、魔王はくぐもった笑いを漏らした。
「何がおかしい」
「なに、随分と都合が良いと思ってな。しかし、代償もなく利を得るなどこの世にあろうはずもない。例えば、そう。何かを捧げる必要があるのだろう?さしずめ、その男からは声と腕を奪ったか。補っているなどと嘯くな」
魔王の視線は鋭い。言葉によって謀ることなど許さぬという意思の表われだった。意思は気勢となって周囲に圧をかけているが、無機物であるためか、異質な存在であるためか、書物から送られる声は平静そのものだった。
「確かにそうだ。が、それでも持ちかけた理由がある」
「ほう?」
「捧げるべき贄はこの者がつとめる」
それまで無言、無挙動を保っていたムオンがゆっくりと頷く。隠身術は解除されていたが、隠密の性がそうさせるのか、相変わらずその気配は薄い。
「なるほど、私は代償を払うこともなく、ただ完成させるだけでよいと」
「その通りだ。さすれば汝は強大な、それこそ神に匹敵する力を得る。悪い話ではあるまい」
「ふむ、ならば書よ。その男の意思はどこにある。己を犠牲にして何を得る?それとも貴様が洗脳でもしたか?」
「ひとつだけこの男にも願いがある」
そう書物が発信した瞬間に、ムオンから漏れ出す気配が膨れ上がった。何かに焦がれるような、何かに縋るような、渇望の感情が眼底に浮かぶ。それは長い前髪に隠されていても、貫かんばかりに強烈な眼光だった。
あるいは傀儡に過ぎないと目していた魔王だったが、その様相にふと息を漏らす。
敵対する魔王にすら懇願するほどの願いとは一体何か───書は言葉を失った男の代わりにその願いを告げた。
「人間を一人、生き返らせて欲しい」
端的に、短く。それは余りにも簡潔な願いであり、成し遂げるは不可能なことであった。荒唐無稽。誰もがそれを知りながら、誰もがそれを願い、また諦めるしかない。それをこの男はここまでしてまで求め続けている。
それは、なんという───
「くく……くくくく……はははははは!」
魔王は腹の底から笑っていた。とんでもなく馬鹿馬鹿しい。子供ですら分かるようなことを心底願い、決して諦めず、その果てに魔王と呼ばれる自らの力を求めてきたのだ。これを笑わずにいられようか。
否、笑って良いのは魔王たる自身だけだ。同じように遙か遠き理想を追い求める自身だけだ。
ひとしきり笑った魔王の胸に浮かぶ感情は共感だった。ゆえに、その願いに対する返答は───
「愚かな男だ。己を犠牲にして他者を得るか。よかろう。私とて同じ穴の狢。手を貸してやってもよい」
諾、であった。
「交渉は成立した。それでは魔王ルヴォルク。汝に我が身を託す。受け取れ」
ゆっくりと空中を移動してきた魔導書を掴み取ると、魔王はその簡素な装丁に視線を落とす。青い目の水晶体が魔術言語を浮かび上がらせていた。
「我が眼は走査する。読ませしは源たる深奥、砕きしは未知なる幻想───《解析眼》」
発声されたのは魔術解析用として開発された魔王固有の呪文だった。目視できない第六感の領域までその目に写しこむという認識拡大の魔術である。莫大な量の情報が視界から脳へと送り込まれるようになるが、それを全て処理しきるのは魔王が人ならざる身であったからだ。まともな人間ならその情報量だけで意識を失う。
そうして手に入れた術式の情報を見て、魔王は感嘆と呆れの吐息を漏らした。
「このような術式見たことも無いが……理解はできる。凄まじく緻密な式だが、これは大きく三段階の式になっているな」
瞳に浮かぶ魔術言語を一旦打ち消すと、魔王は書に確認を求めるかのようにその三つに分かれている式の機能を挙げていく。
まず書の意識を起動させることで一。
次に魔力集約式を起動させることで二。
最後に本来の術式起動で三。
「その通りだ」
書から伝わる肯定の意思に頷きつつも、だが、と魔王は言葉を続ける。
「術式展開ならまだしも、起動時点でとてつもない魔力が必要ではないか。簡易試算では私の保有魔力ですらまかないきれんぞ。いや、だからこそなのか」
魔王は一旦そこで言葉を切るとムオンへと視線を向けた。
「生贄を捧げるとはつまり、術式起動に必要となる莫大な魔力を、人の魂を変換することで代用とするという事か。なんという馬鹿げた術式だ。貴様を作った者は狂っていたのか?あるいは天才か?」
「ミデルテ・リアーレットを知る者は皆、天才と呼んでいたと聞く」
脳に直接響く声にぴくりと反応し、魔王は再び書に視線を戻す。
「ミデルテだと?あの男、究極魔術にここまで迫っていたのか。しかし、ならば余計に解せんな。あの男自身が完成させれば良いだけの……」
そこで魔王ははたと気付いた。人を生贄として用いる術式は決して人道的なものではない。道理にもとるそれを作り出した本人が、果たして正気だったのか。
「書よ。貴様を最初に起動させたのは誰だ」
「ミデルテ・リアーレットだ」
「やはり……己が命を賭けたか。まさしく狂気の沙汰だ。否、あの男は老齢であったな。死期を悟って後継者に任せるつもりだったか」
「それは正しくない。我の知る限りミデルテには弟子と呼べる存在はいなかった。故に、このムオンという男の手に渡って再起動するまで、我は休眠状態にあった」
「ならば、ますます解せんが……まあ奴の考えはどうでもよいか。結果として私の手に渡ったというだけのことだ。奴の悲願も含めて叶えてやるまでよ」
魔王は事実だけを認識すると、即座に過去へと向かう考察を切り捨てた。問題は過去よりも現在。より興味のあるものへと切り替えるその思考展開は、いかにも魔術研究者然としていて、ある意味では人間臭いとさえ言える。
再び解析を始めた青い瞳が、書に織り込まれた不可視の術式を紐解いていく。
───世界三大魔術師。
ぽつぽつと呟きながら、凄まじい速度で答えを導いていくその姿は、確かに世界に名だたる術師と言えよう。
しばらくして、魔王は誰に聞かせるでもなく、端的に解析完了、と呟いた。
「確かにほぼ完成系と見える。が、もう少々手はかかりそうだ。常に流動する部分……術者自身がその場に応じて、残る不足分を補佐する形で根源変換を制御する───生贄によって変動するここはこれ以上弄りようがない。術式を発動させたままで術式を書き換える必要がある。確かにこれでは私を除けばオリヅアしか成せる人間はいまい」
魔王は己の見解を述べつつも、くつくつと笑う。
「偶然とは恐ろしいものよな。魔術の極致、その到達点をミデルテが示し、それに至る橋渡しの手法をオリヅアが開発し、そして私がそれを用いて実現する。ある意味では我々三人の合作といったところか」
「何故そこでオリヅアの名が出てくる」
「簡単なことよ。あやつが求めていたものこそ式の極致操作。貴様を使うためにはそれへと至るための一端が必要となる。丁度今わの際に、その真髄を披露してくれよった」
「あれを見ていたのか」
「左様。部下の目を通して監視していた。難しい技術には違いないが、真似事ならば私にも可能だろう。加えて、根源制御は我の最も得意とするところだ」
「……なるほど。アレを見ただけで把握したか。解析の手腕といい、確かに汝は我を使うに値する優秀な術師のようだ」
「いらぬ追従だ」
魔王はふんと鼻を鳴らすと、静かに目を閉じ、魔力を練り始めた。強大な力が空気を徐々に波打たせていく。
「早速だが、やるぞ。ムオンとやら、貴様もこちらへ来い」
ムオンはすぐに動き出すが、その足音は魔王の耳に届かない。近づいてくる気配だけを感じながら、魔王は術式展開を推し進めていく。