刻まれるは生きた証 ⑤戦役の裏で
大国ミッドガーズの北に隣接するヴァルシュナ平原は広大な大地である。複数の小高い丘があり、鬱蒼と茂る林もあり、比較的開けた草原もあり、透き通った水を湛えた湖もある。気候も穏やかで、そこに住む動植物も数多く、大地も肥沃だ。人が新たに手を伸ばすには十分な環境だった。
それであっても、人はそこに住むこと叶わなかった。原因は一つ、魔物の存在である。他のどの地域よりも強力な魔が闊歩する上に、平原を挟んだ反対側にはその元締めとも言える魔王の居城がある。
それだけであればまだいい。この平原に人が進まなければ良いだけの話で済んでいた。だが、数年前から魔物の動きが活発化し、人的被害が多発するようになってから状況は変わってしまった。魔の大部分はこのヴァルシュナ平原を発生源とし、自由気ままに移動してくるのだ。
即ち、ヴァルシュナ平原とは人類にとって災厄の根元。とても見過ごせるようなものではなく、既に国際的なレベルで対策が進められていた。
その先陣としてのミッドガーズに好戦的雰囲気が漂うのも当然であろう。
そして、つい先日。大々的に魔王からの宣戦布告があった。稀代の大魔術師、オリヅア・D・ガーデンツの命を奪うと言う大事を伴って。
ミッドガーズはこれに対して怒りをあらわにした。元々、魔物に対する大反攻作戦を練っていたこともある。既に進めていた反攻軍の編成を急ピッチでまとめあげ、ついに火蓋が切って落とされた。
広大なヴァルシュナ平原に戦鼓が轟く。
相対するのは人と魔の軍勢。
質も量も豊富な魔物に対し、人が勝るものはその統制と知恵を生かした軍略のみ。
───否、人が望みを賭けているものはそれだけではない。
英雄。
彼らは人の希望を一身に背負い、先陣を切って突き進んでいく。
その力は凄まじかった。剣の一振りで何体もの魔物が吹き飛び、凄まじい威力の魔術が平原の地形すら変え、傷を負ってもすぐさま癒され十全な体制で戦いを続けている。人を逸脱したとも言える強大な力。さすがは英雄と言ったところか。
見事に英雄達が切り込んだ周辺だけ魔物群れに対する押し込みが大きい。しかしそれを補うかのようにその至近は密度が高い。突き抜けようとする一本の矢を分厚い壁で押しとどめている様相を呈していた。
魔物は獣の如き習性を持つ者がほとんどだ。それを統括する将軍のような一体───おそらくストウナと呼ばれる高位魔族を早々に仕留める軍略なのだろう。統制の崩れた魔物ならば、英雄の力を使わずとも人の連携を持ってすればそのほとんどが仕留めきれる。
しかし、その思惑に従わない者もいる。
戦線から引いた後方。それもミッドガーズ軍が陣を敷いている場所とは完全に反対側。戦場を見下ろせる小高い丘にムオンは無表情で佇んでいた。
「決めたではないか。己の望みのために全てを捨てると」
呟きが誰に聞かせるでもなく零れ落ちる。それからしばらく、ムオンはそこに佇んだまま、戦場を茫洋とした視線で眺めていた。
戦線が動いたのは凄まじい咆哮が響いたときだった。英雄が分厚い壁を打ち崩し、魔物の軍勢を縦に割断したかと思うと、遠目から見てもはっきりと分かる程に巨大な岩───否、岩石でその身を成した竜が突然現れた。
その名も岩石竜イーシュトラン。個体数は僅かでありながら、ヴァルシュナ平原の王者と呼ばれる強力な魔物であった。それが三体。樹木すら超える巨大な体を今までどこに押し込めていたのか判然としないが、その上空に浮かぶ小さな点が青き魔、ストウナであるとすれば、何かしらの穏形の手法を用い、手の内を隠していたのかもしれない。
いずれにしろ、目論みどおり英雄達は指揮官たる魔に肉薄せしめたようだった。それがためか、魔の動きがミッドガーズ軍に向かうではなく、英雄達へとより集中するように変わっている。
「───もう、いいだろう?」
呟くと同時、ムオンは駆け出した。向かう先は戦線とは真逆の方向。ヴァルシュナ平原を駆け抜けるひとつの影は、時折襲い来る魔物を蹴り殺しながら前へ向かって走り続ける。
視線は平原のさらに先───魔王の居城に向けられていた。
◆
男は身を潜め、目前の建造物の様子を茂みの隙間から伺っていた。
魔王ルヴォルクの居城は異質な空気に包まれていた。城自体は一般的な作りで、外観だけで言えばミッドガーズ城との違いはほとんどない。ただ、規模が桁違いだった。
おそらく、ヴァルシュナ平原以上に巨大かつ強大で、危険な魔物が居座っているのだろう。入り口に魔物の気配は無いが、考えも無しに飛び込むのは愚行でしかない。そもそも、魔物が大量に存在すると思われる場所にたった一人で乗り込むこと自体が異常とも言えた。
ならば、ムオンにとってその行為が無謀となりえるのか。
答えは否、である。彼にとって城内へ侵入することは異常であっても無謀ではない。事実、過去に何度か似たような場所に潜入し、全て成功させてきた経験があった。ムオンが最も得意とするところは戦闘技術ではなく、隠密行動なのである。
ムオンは慣れた手つきで小さな薬瓶を取り出し、中に入っていた粉のようなものを自身に振りかけた。匂い消しの秘薬である。さらに、己の内に眠る魔力とは異なる力を発動させる。
それは強いて言うならば生命の力。人の魂たる根源精霊そのものが持つ大いなる機能。火の精霊であれば魔力も無しに火を自在に操るように、魂の力そのものを自在に操る力であった。
───穏身術。
体の奥底に眠る魔力の波動までも隠蔽し、魔術に長けた者ですら欺く、隠密の基礎にして秘奥たる技術を持ってして、ムオンは自身の存在を───気配を極限まで薄れさせる。
次いで、身を潜めていた茂みから音も無く飛び上がると、城壁を駆け上がり始めた。重力の法則に逆らうような動きであったが、ぐらつく様子は全く無い。なぜならば、彼の足元には確かに足場があったからだ。
───天駆術。
不可視の足場が生まれては消え、生まれては消えを繰り返す。魔力の波動は全く無く、ただ生物としてあるべき魂がゆらぐのみ。それすらも隠身術が覆い隠し、他者のあらゆる認識から隔絶される。
そうして、誰に見咎められることも無く、ムオンは城壁の窓へと辿り付いた。ガラスを通して内部を覗けば、石造りの壁が作る通路は暗く、点々と配置されたろうそくが微かな光を放っている。魔物の姿は見られず、気配も感じられなかった。
無言でガラス戸に義手の指先を当てる。開き戸となっている窓には無用心にも鍵が備え付けられていなかった。あるいは魔王の自信のあらわれか。訝しげに思いつつも、窓を開けるとムオンはやはり音も無く城内にその身を滑り込ませた。
そして、まずは向かう先を決めるべく、城内の魔力波動と生命波動を探る。隠密行動で重要となるのは自身の姿を隠すことは勿論だが、相手の位置を知ることも重要だ。無論のこと、ムオンはその技術においても高みにあった。
この技術の肝は、相手の波動が流れ込む位置に自分がいるかどうかだ。屋外よりも屋内の方がこの条件に適した環境である。閉鎖された空間では波動が広範囲に拡散されることが無く、その起点を辿りやすいのだろうとムオンは考えている。
果たして、上層階に凄まじく強烈な波動を放つ者が探知された。あまりにも強烈な力を感じ、意識が微かに揺らぐ。まず間違いなくこれが魔王であろう。
他にも多数の波動が感じられたが、その位置はまばらだ。巡回でもしているのか、そのどれもが忙しなく移動している。しかも、その内数体がかなり近くに来ていることが分かった。獣が喉を鳴らすような音と、足音が響いてくる。
その姿を認める前にムオンは踵を返し、窓から再び空中へと躍り出た。城内を素直に進む必要など無い。空を舞う魔物でもいれば話は別だが、屋外は異様な程静けさを保っており、魔物の姿は欠片も見当たらなかった。この分なら外から回り込んだほうが余程楽な道のりである。
空を駆け、ムオンはさらに上層へと向かう。目標は突出した尖塔の内、最も大きな一つの根元。不可視の足場を数回踏みしめ、大きく跳ね飛ぶ。
辿り付いた窓枠から覗き込むと、そこは王座が配置された謁見の間であった。当然の如く、そこに座するは王たる者。
───魔王ルヴォルク。
長き金色の髪をゆらめかせながら魔王はゆっくりと立ち上がって、背後に位置するはずの窓へと向かって振り向いた。たったそれだけの行為で凄まじい魔力の波動と威圧感が放射される。まさに人外の王たる威風だった。
しかし、その姿。
身の丈は人の一.五倍はあるものの、二本の腕、二本の足と、その身を形作る要素はどう見ても人間そのものであった。その顔つきさえも人間の範疇にある。魔族の王であるはず者が敵対する人間に酷似しているとはなんという皮肉だろうか。
「お前は……何者だ」
響いてくるその重々しげな声にムオンは驚愕していた。完全に消していたはずの気配を察知されたのだ。されど、それは実際的に問題ではない。ムオンの目的からすれば、むしろ───
「……名は、ムオン」
端的に返答すると、ぎいと音を立てて、ムオンが張り付いていた窓がひとりでに開いた。
「良い。臆するな。歓迎するぞ」
どういった心積もりなのか、魔王は敵対する人間を自ら招きいれようとしていた。それに対する問いかけもせず、促されるままムオンは謁見の間に足を踏み入れる。
「して、何用だ人間よ。私にたった一人で挑むつもりか」
「そうではない。我が望みはただひとつ。それを汝に依頼に来ただけだ」
「人間が、私に?そのために単独でここに来たというか。なんという酔狂なやつだ」
笑い声を上げたルヴォルクは、
「面白い。言うてみよ、場合によっては力を貸そう」
意外にもムオンの話を聞くと答えた。