はるよい
ひらり、薄紅が舞い落ちると夜色の目がゆっくりと開かれた。男の目覚めを迎えたのは、満開の桜を背にした女の微笑む姿。
「――眠っていたか」
「いいえ」
否定に男は苦笑で返した。
「すまない」
あくまでも素知らぬ風を装いながら小首を傾げる女のひざには、男の頭が預けられている。男が浅い眠りに落ちる前に投げ出していたはずの両手は、今は白い手に包まれていた。
枝ぶりの良い桜の根元を独占しているふたり以外、辺りに人の気配はない。
最小限に用意された明かりは花弁を照らし夜の森のなかで淡い輝きを放つ。明かりが届く範囲、閉ざされたような空間で唯一異質なのは男の傍らに置かれた剣。意匠の施されていないそれだけが桜とは対極に位置していた。
温もりが引いていく。女の手を今度は男が捕まえた。飲み残された杯や食事の盛られた皿の上を花びらが覆う。男が視線を戻すと女は頬を赤らめていた。
「手、を」
離してください――。消え入っていく声に男は悪戯っぽく笑ってみせてから、指先を口許へ寄せた。
「旭様っ」
「温めてもらった礼をしているだけだ」
逃げようとする手を次は追わずに男は笑い声を上げた。眉を下げた女がやがて呆れたように笑うと、花びらがまた一枚、杯へ落ちた。
「――夢をみた」
花開く春も夜はまだ冷える。ふたりの腰の下には厚手の敷物がひかれ衣も充分に着こんでいるが、女の肩には男の上等な上着が重ねて掛けられていた。
「どのような」
「鬼爺の夢だ」
心底嫌そうに口にする様子に女は小さく吹き出した。
「祖父はなんと?」
「なにも。生きてるときはあれだけ怒鳴り回していたくせに、夢のなかではなにひとつ言うてこん」
桜を見上げる目に言葉ほどの悪態は映っていない。
「言うことがないのか。ものも言えぬほど飽きれているのか」
呟いてから男はゆっくりと香りを吸いこんだ。鍛えられた体躯とはうらはらに、まぶたを閉じたその顔にはまだ少年の面差しが残る。見下ろす女の手が男の髪に触れかけるが、ためらっているうちにまぶたが開いた。真っ直ぐな目。上へ向いて女は自身の頬を男から隠そうとするが、ほんのり染まった首筋があらわになったことには気づいていない。
「良い眺めよ」
「たくさん褒めてあげてください。来年もまた良く咲くように」
男は桜を見上げる女に気づかれないよう、忍び笑う。高らかに主張するではない、身の内から滲み出る女の美しさと、装飾としてこれ以上ない薄紅と。男はただ、見とれた。
「褒めようがけなそうが大差ないだろう」
「伝わるのだそうです。祖父が教えてくれました」
「鬼が桜を愛でるか。学問にしか興味のない偏屈爺と思っていたが」
男は腕だけを伸ばし指先で花弁を撫でた。花弁は揺れて微笑みを返す。
「祖父は予見しておりました。今の、旭様を」
散り離れていく花びらを追う目から感情が消えた。内面を読ませないそれは男をずいぶんと年上に見せる。女に見取られる前に男はゆっくりと瞬いた。
「学も馬も剣でも、なにひとつとしてあなたに敵わなかったのに?」
「……いくつの頃の話をなさっておいでですか」
「わたしが八つ。あなたが、十一だったか」
「三年の差があれば勝つこともあります。それに一年もたたぬうちにすべて負かされました」
「一年は言いすぎだろう。ああ、初めて会ったとき“チビ”と言われたこと、忘れてはいないからな」
「先に旭様が私を“山猿”と呼んだこともお忘れなきよう」
月の隠れた静かな森にふたり分の笑い声が響く。顔を見合わせ屈託ないさまは、互いの視線が絡まり合うと途端に空気を変える。幼さは鳴りを潜め、憂いに似た陰が射しこむ。先に笑みを納めたのは女のほうだった。
「お守りいたします。この命にかえましても」
「やめろ」
男は身体を起こし肩で女の視線から逃れた。
「わたしはもう、同じ言葉をあなたに誓えない」
手も、掠れた声と同じようにわずかに震えている。女はじっと男を見つめた。
「月子」
「はい」
男の目が女を映す。
「次はいつ会えるかわからぬ」
「承知しております」
冷静な、声。男の表情が歪む。
伸ばされた手に女は気づくのが遅れた。緩く結った艶やかな髪に留まる花びら。一枚、一枚、男の指が取り払う。
「桜はこうもたやすく落ちるというのに」
肩へ流した髪から頬へ。頬から唇へ。淡々とした声とは違う熱を帯びた目が、指が、ゆっくり辿っていく。
「待てども待てども、欲しい花はこの手のなかに落ちてはこない」
息さえも触れる距離。男の目が唇から上へ移り視線が合おうとした瞬間、女はきつくまぶたを閉じた。
肩から、上着が滑り落ちた。
背中へ回された腕は女の退路を絶ち、身じろぎさえも許そうとはしない。抱擁と呼ぶには荒々しい締めつけに柔らかな身体は軋み、悲鳴とも、息ともつかない声が女から漏れた。胸元に埋めていた男の頭は腹へ下がり腕は細腰を引き寄せた。
男の、少し癖のある髪に女の指が通される。何度も繰り返す。互いの身体から震えが消え去るまで。
「戴冠式のときには、もう散っているのでしょうね」
咲き誇る美しさは散り落ちるまでのつかの間。仰ぎ見る女の表情は穏やかだった。
「毎日ここへ来て見ごろを計っておりました。今日のこの満開を旭様と見ることが出来て、叶えてくださって、ありがとうございます」
広い背に手を添えて女は半身を倒していった。被さりながら頬を擦り寄せ、震える息を吐いた。
「私のすべてはあなたのものです」
花びらがふる。
髪に。足元に。
「わたしのすべてはあなたのものだ」
はっきりと告げた声に迷いはない。微笑む女の目尻に涙が滲む。
男は唸り声をあげた。
「今宵は口がよう滑る」
くぐもった声には羞恥が混じっていて。女が笑うと、腕にまた力がこめられた。
「花見酒に酔われましたか」
笑みも涙も溢れて、花びらが止む。
折り重なるふたりはそのままに、桜はみずからそのときを止めた。
散るを惜しむように。先延ばしにするように。それはほんのいっときの。
「酔うておるよ。出会ったころから、もうずっと」
了