ありがとう
わたしは今日も、彼を待っている。
黄緑色と深緑の派手なストライプをした道化服。
手には細長いフルートをもった、悪魔の青年。
『笛吹き』
辺りには、わたしよりもスラリとした肢体の子も沢山いるのに、とても良い香りをまとった子もいるのに、彼はいつもわたしの膝に頭をのせて横たわる。
ずんぐりした体つきにボサボサの頭で、ただ身体だけ、むやみに大きい、わたしを選ぶ……。
役立たずの代名詞みたいに言われるのに慣れていたから、彼がいつもわたしを選んでくれるのが、信じられなかった。
『悪魔なんか、害虫みたいなもんよ』
とてもいい香りを漂わせた可愛い隣人が、あざ笑う。
『しかも、おかしな道化服なんか着て』
後に住む、細い色白の子も、フンと吐き捨てる。
わたしは知ってる。
彼女達は、本当は羨ましいのだ。
だって彼はとっても素敵だから。
ツンと尖った高い鼻も、陽気な金色の瞳も、なにもかもが素敵。
それからなにより、形の良い唇にあてたフルートから、うっとりするような音楽を聞かせてくれる。
どうせすぐ……他の子のところに行ってしまうと思っていた。
けれど、彼はわたしを選び続けてくれた。
一ヶ月もの間、毎日来たり、ときに何年もこなかったり。
彼がここを訪れるのは、ひどく気紛れな周期だけれど、ここで彼が横たわるのは、決まってわたしの膝だけだ。
「――そんで、どうしてソイツがそんなに上手くドラゴンを狩れたかっていうとさ、ちゃーんと仕掛けがあったんだなぁ、これが……」
わたしは声を出せないから、黙ってただ彼の話に耳を傾ける。
「――さぁ、お姫さんは王子との結婚をいやがって、ヘソを曲げて塔から出てこない。困った家来たちが、なんて言って誤魔化したと思う?魔女の呪いで眠らされてるなんて言っちまったもんだから、濡れ衣きせられた魔女が今度は怒り狂って、国中眠らせて大混乱!アハハハ!!それから王子は……」
彼は次々と言葉の音楽を紡ぎ上げ、絶え間なく喋り続ける。
時折うとうとと眠りこみ、それから起きて、また喋る。
時にフルートを奏で、それからまた喋る。
この地で生まれ育ち、ここ以外の景色を知らず、ここで一生を終える運命のわたしは、彼の話で世界を知る。
東の島に住む女戦士の冒険。
南の国を統べる女王の話。
西の国へ逃げたオオカミ男の行方。
北国の孤独な魔人の恋物語。
幸せで幸せで、怖いくらいに幸せすぎる時間が、ゆっくり流れていく。
春が来て夏が過ぎ、秋が訪れ、冬を過ごし……何回も何百回も季節は移り、世界は変わり続けていく。
彼が語ってくれる世界も変化を続け、ここから見える、ずっと同じだった景色にさえも、変化の兆しは訪れていた。
いち早くそれを察したのは、獣や鳥たちだ。
不穏な空気を感じ取り、家族を引き連れて住み慣れた地を捨て始めた。
一歩も歩けないわたしは、黙ってそれを眺めていた。
熱が迫ってくる。
真夏の太陽の下に、真夏の太陽よりも無残で容赦ない、ただ命を奪うためだけの炎が……
「――よぉ」
随分久しぶりに、黄緑色と深緑の派手なストライプをした道化服が現れた。
血と火薬と焦げくさい煙のただよう中、いつもと変わらない踊るような足取りで、ひょいひょい歩いてやってきた。
だが、いつものようにわたしの膝へ寝転ばず、彼はわたしをじっと見上げ、静かに言った。
「ここももうじき戦火で焼ける。お前も死ぬぜ」
それはもう知っていたから、わたしはちょっとだけ身体を震わせて頷いた。
「……なぁ、お前は新しい身体がほしいか?」
不意に、彼がそう言った。
とても驚いた。
彼は星の数よりも多くの言葉を発し、数え切れないほどの話をしてくれたけど……
わたしに何か尋ねたのは、初めてだった。
「歩ける足と、喋れる口。空を飛べる羽根だって、つけてやってもいい。世界中のどこにだって行ける」
いつも陽気な彼が、ひどく悔しげで忌々しそうな表情を浮べていた。
「タダ働きなんか、死んだってしねぇのが悪魔なのによぉ。失格だなぁ。でもまぁ、からきしタダってわけでもねーか。お前の膝で、ずいぶん居眠りさせてもらったから、そのささやかなお返しってヤツだ。なぁ、そんでどーすんだ?早く言えよ」
熱がさらに迫ってくる。
わたしの緑の髪がしおれはじめた……
「俺はな……お前と過ごした時間が、まぁ、そんなに嫌いじゃなかった。つーか、気に入ってるほうに入れてやってもいい。……お前に会えて、良かったと思ってるよ。だから……だからさぁ、お前は頷くだろ?なぁ?」
――歩ける足と、喋れる口。空を飛べる羽根。世界中のどこにだって行ける。
信じられないくらい、幸せで……だから、ゆっくりと身体を横にゆすった。
(いいえ)
その新しい体と引き換えに、彼を休ませる膝をわたしは失ってしまう。
それなら、彼と出会って過ごしたこの地で、彼に愛されたこの身体を持ったまま終わりたい。
わたしに言葉が話せれば、それを全部、彼に伝えられるのだけれど……。
「――――――そっか」
深い深いため息をつき、彼はフルートを取り出した。
魔性の音色が漂い、わたしを包んでいく。
一つ……また一つ……この季節には付けられるはずがない、わたしの身体を飾るたった一つのアクセサリーが、咲き出した。
満開の白い花を咲かせた、わたしのずんぐり太い幹を、彼が抱きしめた。
「ありがとう」
たった一言。それだけだった。
でも……何百年も生きていて、すっかり物知りになっていたわたしは知っている。
太陽の光を浴びながら、悪魔が心の底から『その言葉』を口にすれば、どうなってしまうか……
灼熱の炎が迫る。
瀕死の騎馬に跨った敗残兵達が、丘の上にあるこの小さな木立に逃げ込み、彼らを狙った火矢が、つぎつぎと飛来する。
わたしは必死で枝を伸ばし、もう動かなくなった『悪魔』の身体を覆い隠した。
無数の火矢が、枝に、幹に突き刺さり、燃え広がっていく。
彼が咲かせてくれた最後の白い花も、一つ残らず燃えていく。
彼の身体を隠そうと無理に折り曲げた幹に亀裂が入り、ついにわたしの身体は真っ二つに折れた。
(アリガトウ)
わたしは声を出せず、彼はもう聞くことができないけれど、何度も心で繰り返した。
(アナタ ニ アエテ ホントウニ シアワセ デシタ)
(アリガトウ アリガトウ …………アイシテイマス)
この地で生まれ育ち、ここ以外の景色を知らず、わたしはここで、最愛の彼と一生を終える。