第玖話 異界に血だまりに祓い屋少女 中編
4階、2階、6階、2階、10階……と、現在そこまで、何の問題も起きずに進んでいた。まあ、マンションの住人が誰も入ってこないことが疑問といえば疑問ではあったが、もし邪魔が入った場合は最初から「儀式」をやり直さなければいけないらしいので、今の僕らにとっては都合が良く、別に深く気にすることはなかった。
――次は、5階か。
いい加減に面倒くさくも感じてきた単純作業を繰り返す。5階のボタンが点灯した。
現在の階を示すランプを見れば、10階から9階、8階、7階、と点灯するものが遷移していき――そして、今6階を通り過ぎた。
ちらりと、他の三人を一瞬見る。皆、既に瞳を閉じていた。
――到着してから4秒間、だったよな。
僕も同じように瞼を下ろす。次の瞬間、チーンという音がこの狭い空間に鳴り響いた。
自分のすぐ目の前にある扉が、自動的に開くのが気配でわかる。外から入ってきた生暖かい風が足をなぜ、そして――
「……ッ!?」
ぞわり、と。
一瞬、微かにだが妖気を感じた。思わず目を見開く。幸いなことに既に4秒は経っていたから、後で三人に小言を言われる心配はない。
周囲を見回す。それらしいもの――特に怪しいものは見当たらない。エレベーター内には変わりのない僕ら四人しかいないし、外には特に誰がいるわけでもない。
――気のせいか……?
そう思い、すぐにそれを頭の中で否定する。
――否だ。そんなことがあるわけがない。
仮にも僕は三千年の長きに渡り生き永らえる、最早古妖怪の中でもエリートと言っていいような存在である。そんな僕が、微かだが妖気を感じた。
――確実に、すぐ近くに妖怪がいる。
それも、よほど隠密に長けている奴なのだろう。未だに妖気はうまく隠しているが、一度意識しさえすれば、僅かにだが漏れ出た殺気をどこからか感じることに気付く。少々面倒だが、こいつを潰すとすると、まずはその存在力が最も集中している箇所……居場所を特定する必要がありそうだ。抑制状態じゃあ、ちと無理っぽいが――
――まあ、外せばやってやれないことはない。
“確実に害意を抱かれているのならば、手出しされて面倒事になる前に、こちらからさくっと潰しに行く”。そうやって僕は今まで生きてきた。できれば今回も変に面倒くさくなる前に、こう、さくっと終わらしたいのだが。
――面倒くさいな、この状況。
背後には、経験不足も含めて未だ見習いの域を出ていないとはいえ、一端の僧に巫女がいる。しかも双方共に才能十分の若者ときた。先程の妖気や今なお漂う殺気には気づいていないようだが、僕が今ここで抑制を外し、気配を人間のそれから変質させたら流石に気づくだろう。こんなところで自分の正体をむざむざ晒すような馬鹿な真似はしてはいけない。
――さて、どうするか。
僕がそう、思ったときだった。突然背後から伸びてきた手が1階のボタンを押した。見てみれば、不満そうな顔をしたチビタがいる。
とりあえず、「わるい」という意志だけ込めて頭を軽く下げておく。
――一般人のチビタを巻き込むわけにもいかないし、さて。
未だ微かな殺意が向けられている中、エレベーターは静かに稼働し続ける。妖気を感じたときに半ば予期していたことだが、やはり例の噂の通り、エレベーターは1階のボタンを押したのにも関わらず、どんどんと階を上がっていく。噂通りならば、このまま最上階――10階まで止まらないはずだ。
四角い、狭い鉄の箱の中、さりげなく視線をあちこちにやりながら、とりあえずなんとか今の状態のままで殺気があふれ出ている所を特定しようとする。しかし、どんなに気を付けてみても、ここだ、という一点を見つけることができずにいた。
そんなとき。
――ところで、異世界に行く、と言うけれど……。
ふと、いやな考えが頭をかすめる。
――10階に着いたらこのままエレベーターが自由落下する、とか……ないよな?
そうなったらもう、四の五の言わずに抑制を外し、妖怪としての力を使って他の三人を連れて強行脱出するしか道はない。……なんということだ。あんなに長い間待ち望んだ、平凡平穏な学生生活が、僅か一週間弱で崩壊してしまう。
――頼むから、どうか外れていてくれ。
胸の内でそう願いながら、ふと、現在の階数を示すランプを見上げる。丁度8階を越え、9階に差し掛かり、そして今、9階を越えようと――
そのときだった。
「――ッ!?」
きた。
刹那にして頭に浮かんだのはその二文字。
突然にしてエレベーター内が重厚な妖気で満ちると、四方八方、360度全てから、怖ろしいくらいの殺気が重くのしかかってくる。エレベーター内の電灯は一瞬にして消え、周囲を気味の悪い、おぞましいまでに赤黒い闇が支配する。――そして、どこか遠くでチーン、という音が鳴り――
――目の前の、扉が開いた。
「……おいおい」
ふらり、と扉から思わず数歩歩み出て、僕は小さくそう呟く。
「……どこだ、ここ……?」
僕の目の前には、先程までいたマンションの10階層などではなく――視界に映る全てが赤黒く染まった、学校らしき建物の廊下が続いていた。
ふと気づき、慌てて背後を振り返るが、そこには鉄でできたエレベーターの扉はなく、代わりに、開け放された木製の引き戸が静かに存在していた。戸の向こうには、閑散とした教室が広がっている。――慧や葵、チビタの姿は見えない。
「……分離、させられたのか?」
そう呟き、周囲を見渡す。辺り一帯にはエレベーター内のときに感じた妖気と殺気が数倍増しで充満していた。
「――あれ?」
と、そこでふと気づく。僕は思い出すようにして、すんすんと鼻を鳴らした。
「なんか、この感じ――覚えがあるぞ」
そうだ。似ている。どことなく、似ている。少し前まで自分の居たところと、そう――その、存在の在り方が。
「――あァ、そうか」
この、懐かしく、心地いい――これは。
「――あァ、そうだ」
気分が、少しばかり高揚する。
「ここは、これは――この感じは、そうか」
赤黒い色に染められた廊下の真ん中で、僕は一人、嬉しそうに呟いた。
「霊界か」
そのままそばの窓へと歩み寄ると、のぞきこむようにして外の景色を眺める。
「……しかし、これはなァ」
赤黒い空の下、同じ色に染まった校庭が広がっており、その向こうにも同色に染まった街並みが見えた。
どこを見ても、赤、赤、赤。
所有者の趣味の悪さが滲み出ているようだ。
「ッたく――気持ち悪い色だ。風情の一つもありゃしねえ。生き物の内臓みたいで……まるで腹の中だな、こりゃ」
外を覆う空を眺め、顔をしかめてそう吐き捨てる。
「……あいつらは大丈夫だろうか」
――いや。
「……おそらく三人は一緒だろう。慧と葵がいるし、しばらくは大丈夫か」
僕だけが仲間外れにされたのは――多分、さっき僅かに漏らしておいた妖気に気付かれたかな。
「……ふふ」
そうか。そいつァ、とても――
「好都合だ」
僕の口の端が獰猛に吊り上ったのが、のぞきこんでいる窓ガラスに映った。
「……おっと」
慌てて口元を抑える。
「いけねェ、いけねェ」
ついこの間、口裂け女との時にしでかしたばかりじゃァないか。それを――
「……ハア。あの後反省したんじゃなかったのか、俺」
…………。
「……あーあ。どうも抑えが利かねえな。やっぱ、場所のせいか」
そう呟き、ぽりぽりと頭をかく。
――この、ねっとりと絡みつくような、おぞましい空間。
あの口裂け女の強個体と向き合った時とも……似ていると言えば、似ている。
「……ううむ」
小さく唸る。
つまりこれは――
「……やっぱり俺でも、突然切り替えるのは、難しいってことか」
――まあ、別に歌舞伎者の出じゃあないし。今のところは同属に遭遇したときだけだ。そう悲観することでもない……いや、経験のない一般人なんだし、ここまで演技出来ていればたいそうなものなのかもしれない。ああ、いや、ただ勿論実年齢という人生経験の差を考慮しなければだが。
「……さて。どうでもいい話は後にして、と」
そう呟くと、僕はようやく窓から目を離した。
「餌とわざわざ分離させたんだ。先に排除しておきたいんだろう? 餌が逃げ出しちまう前に、そろそろ――」
目をやるは、無限に長き廊下のその彼方。赤黒い闇の中に、なにかがいた。
「――始めようぜ?」
◇ ◆ ◇
赤、赤、赤、赤。
どこもかしこも黒く淀んだ赤だらけ。
健に続いてエレベーターから足を踏み出した次の瞬間には、神谷葵はそんな異質な知らない空間に居た。――否。よく見てみれば、周囲を包むこのおぞましい気配や色こそ違いはあるものの、そこは間違いなく、先程まで居た場所となんら変わらぬマンションの第10階フロアであった。
「おいおい、なんだこれ」
葵が声に振り替えると、エレベーターから出てきた慧と文太が周りを見回しながら呆然としていた。
「さあ。わからないけれど、もしかしたらここが例の“異世界”……なのかしらね」
葵がそう答えると、ほえー、と呟きながら慧が歩み寄る。
「まさか本当に赤沼探偵団の活動が報われる日が来るとは……。あれ、それにしてはさっきまでとあんまり変わらんけれど。これがパラレルワールド、とかいうやつなのかねえ」
「はあ? そんなわけないでしょう。この妖気が分からないの? 明らかに怪異絡みの現象よ」
にべもなく返されると、慧は肩をすくめながら冗談だ、と言った。
「……まったく。さっきのことをまだ根に持ってんのか」
「あァ!? なんか言った?」
「いえ、なんでもありません」
小さく呟いたつもりだったのに……この地獄耳め、と思いながらも口に出さない慧は大人である。
「な、なあ。ところでさ」
と、そんな二人を見かねたのかはわからないが、先程から黙っていた文太がようやく口を開いた。
「どうした、チビタ」
むくれながらも周囲を検分している葵を横目で見ながら慧が聞き返す。
文太はきょろきょろと辺りを見ながら、なぜか申し訳なさそうに呟いた。
「あの、さ。そういえば健は、どこだろう?」
しばしの沈黙。
「「……あ」」
慧と葵は弾かれたように周囲を見た。彼らよりも先にエレベーターを降りたはずの健は、しかし――どこにも見当たらなかった。
◇ ◆ ◇
「……ク、クク、クハハハハッ」
「永遠の長さ」という概念を与えられた、無限に長く薄暗い、血液色の廊下に、薄気味の悪い――さながらゲームのラスボスであるかのような笑い声が木霊した。
いや、まあ――僕の声なのだけれども。
「だからそんなことしても無駄だって……言ってるだろう!?」
そう叫びながら、周囲を包む闇の中より投擲されてきた、これまた赤黒い色をした幾本もの槍を一瞬にして粉砕する。
「いいからさァ……さっさと、その纏ってる闇取り払って正体現せよ?」
右手に愛刀。左手に符。そして場の妖気にあてられたが故の興奮。
口裂け女との時ほどではないが――血が騒ぎ、肉が躍る。
おそらく今の僕は、並みの妖怪よりもおっかない存在だった。
(……あァ、またやっちまったか……)
心の隅の未だ冷静な部分がそう嘆く。
しかし。
――しかし。
「こんなたいそうな霊界を所有できるんだ――おまえ、そこそこ強いはずだよなァ?」
あァ……ああ……嗚呼!!
きっと、今目の前に対峙している妖怪は、新生妖怪にしてはそれなりに強い。あの口裂け女とは天と地ほどの差があるだろうが、楽しませてくれる程度には強いはずだ。
――嗚呼。三千年を生き抜くためとはいえ――これが人外としての本能なのか。ついさっきまではサクッと終わらせてさっさと帰るつもりだったのに……今は、少しでも戦いを、久しぶりの戦いを楽しもうと考えている。この霊界を満たす――この心地よい殺気と妖気が、現代になってから押さえつけていた本性を、再び呼び起こそうとしている。
嗚呼――嗚呼――嗚呼!!
悲しむべきことなのに――何故、嬉しいと思ってしまうのか。
(……今なら、現代でも暴れられる)
嗚呼――
(本当は嫌だ。戦いなど――ただの殺生だ。殺し合いだ。望み続けた平穏とは違う。なのに、なぜだ。何故――。嗚呼。本心では、嫌なはずなのに――しかし、でも――)
嗚呼――
(……この場なら。誰も見ていない、この場なら……)
――嗚呼。
(――結局のところ、どれだけ普通人になりすまそうとしたって、俺は人外だと、そういうことか)
「……まったく、難儀な性分になっちまったもんだ」
……嗚呼、くそッ。
―――――戦いたい。