第陸話 ちらつく過去と祓い屋少女と
平安京。
現在の京都に、かつて存在した日本の首都である。
1070年前、小杉田健はそこで暮らしていた。
暮らしていたといっても、別に家を構えていたわけではない。とある男――無二の友であり、また師匠でもあった男。
安倍晴明の屋敷に、小杉田健は居候していた。
そこでの生活は、とても穏やかな日々であった。平安京へたどりつくその少し前に遭遇したある出来事により、都へたどりついた当初はそこそこ荒れていた健も、晴明と打ち解けていくうちに、段々と落ち着き、元々の性格へと戻っていった。
――なあ、健。
ある日、いつもの通りに晴明と健の二人で妖怪退治の仕事をした、その帰り道。
前を歩いていた晴明は突然立ち止まると、健に向き直って言った。
――なんだ、晴明。金なら貸さんぞ?
沈む夕陽が、晴明のその端正な顔を照らす。なにか変な予感を感じながら、健はいつものように受け答える。
――つうか俺、文無しの居候だし。忘れたのかよ?
しかし、その軽口に対して晴明はなんの反応も見せない。彼はいつにもなく真面目な表情で、健に言い放った。
――健。君は……
一陣の風が吹いた。
晴明のその言葉を聞くと、健は薄い笑みを浮かべる。自嘲と喜びの入り混じったような笑みだった。
――心配ねえよ。
健はそれだけ言うと、そのまま晴明を置いて歩き出す。
――だがッ……!!
晴明はなおも食い下がろうと、歩き去る健の背に声をあげる。
そんな晴明の様子にため息を吐くと、健は少しだけ振り向き、言った。
――大丈夫。おまえのせいじゃない。
夕陽が照らし出す健のその横顔は、どこか儚い笑みを浮かべていた。
◇ ◆ ◇
口裂け女が放った超高速で飛来する無数の苦無を、紙一重で見切って避けていく。
そして避けながら、最初に避けた後そのまま地面へと突き刺さった苦無を一本引き抜く。
さながら弾幕シューティングゲームのごとく無数に、しかも超高速で飛んでくる苦無を避け続けるのは、さすがに労力がいる。俺は避けるのをやめ、回収した苦無で次々に弾いていくが、弾いた一本の陰に隠れていたもう一本によって持っていた苦無も弾かれてしまった。
「……くそッ」
飛来する苦無の雨の中、真横へ数十メートル跳ぶことで咄嗟の回避をする。しかし、その直後真後ろから襲ってきた鎖鎌によって髪を一房持って行かれる。
鎖鎌はそのまま口裂け女の元へと飛んでいき、それを片手でなんなくキャッチすると、彼女は今度は無数のメスをそのコートの裏から取り出した。
「……本当になんでもありだな、おい」
力なく呟きながらも、通常の数千倍の速度で頭を回転させる。
このままではジリ損だ。どうにかせねばならない。
どうやらこの口裂け女は、刃物ならばどんなものでも使用できるらしい。最初は鎌や鉈、包丁と現代の物ばかりだったのに突然手裏剣や苦無が出てきたときはさすがに驚いた。おそらく、口裂け女という都市伝説が有名なばかりにいろいろと随所で情報が曖昧になっていることが原因なのだろう。まるで歩く武器蔵だ。
とりあえず、現在の俺は、刀も符も持っていない。頼れるのはこの超体力と符なしの簡単な陰陽術だけ。
――まったく。怪異相手にここまで不利な状況は、まさに1000年振りくらいな気がするよ。
小さく呟くと、そっと足元の土を握る。
なんにしても、こちらに武器がない以上、口裂け女には接近戦での純粋な潰し合いでしか勝つ方法はない。彼女が放つ兇器どもを防御する術がありさえすればいい。
今は亡き、過去の友を思い浮かべる。彼が教えてくれた術の中でも初期に習ったもの――自衛防御のための簡易結界。これでいい。
先程鎖鎌に襲われた直後からここまでで、およそ三秒。
口裂け女が、動いた。
右手に持つ鎖鎌を再度こちらへ放り投げると共に、左手に装備した大量のメスを銃弾と見まごうような速度で投げつけてくる。
「――破ッ!!」
俺は、脚で踏みしめると力の限り地を蹴った。
尋常ならざる速度で口裂け女に向かって突っ込んでいく。
前方から大量のメスが同じく非常識な速度で飛んでくる。
俺は右手を振るい、握っていた土を前方にばらまいた。
「汝は土、母なる大地が土。我、汝が眷属は希う。我、五行が使徒に一時の加護を与え給え――安倍流陰陽術 《土霊結界》――」
なんとか聞き取れるくらいの早口で祝詞をまくしたてる。
瞬間、前方に放った土がはじけ、薄い霊膜が己の周りに広がったのを感じた。
そして数瞬後、俺はメスの大群にそのまま頭から突っ込んでいた。
勿論、メスによって俺の体がハチの巣になるなんてことはない。俺の周りに展開されている結界に阻まれ、メスは全て俺を逸れて後方へと飛んでいく。そばを通り過ぎる際のメスの風切り音が非常にうるさい。
メスの雨から抜け出すと、今度は鎖鎌と、口裂け女が新たに投げたのだろう、いくつかの鉈や包丁が襲ってきた。
勿論、これらも結界によって阻まれる。
次の瞬間、俺は少しも速度を落とさずに口裂け女へと肉薄することに成功していた。口裂け女は新たに取り出した太刀で迎え撃とうとするが、俺は構わず渾身の右ストレートを打ち込んだ。
案の定、次の瞬間吹っ飛んだのは口裂け女だった。結界のおかげでこちらには傷一つない。
「――このまま潰す」
呟き、吹っ飛んだ口裂け女を追って地を蹴る。
現在俺が使用している《土霊結界》。
碌に準備も行わぬ即製の簡易結界であるため、この術は本来あまり長持ちするものではない。実はそろそろ結界の効果が切れてもおかしくないのである。それでも未だ術が発動し続けているのは、ひとえに俺の持つ強力無比な神通力を使用した効果であるところが大きい。
術発動時にはそれなりの力を使ったので、おそらくまだあと数分はこの結界はもつはず。
――一気に片をつけてやる。
口裂け女に追いつくと、再度殴るべく腕に力を入れ、振りかぶる。
と、その時だった。視界の端に、鈍く光るものが入った。
見れば、刀だ。
だが、先程口裂け女が持っていた大太刀とは別の刀。
過度な装飾が施された、まるで美術品のようなそれは――。
「――ッ!? まさか!?」
気づいたときにはもう遅い。
口裂け女の構えた刀に若干の神性を感じ取った俺は、腕を大きく振りかぶった恰好のまま、どうにか回避しようとするが、次の瞬間。
ぎりぎり間に合わなかった俺は、その刀によって思いっきり斬りつけられていた。
「――ぐッ……」
体から鮮血が舞う。
強烈な痛みをこらえ、口裂け女の入れようとした追撃をかわして、そのまま数十メートル後方へと勢いよく跳躍する。
着地しようとして尻もちをつき、そのまま二、三回無様に転がってようやく止まる。
痛みに耐えながら、なんとか起き上がる。
――まさか、普通の刃物だけじゃなく霊刀まで持ってるとは……。
口裂け女を見ると、彼女は先程の刀を検分していた。さすがに俺の力を使った結界を切ったのだ。どんな霊刀かは知らないが、あの程度の神性じゃあ、刃こぼれぐらいはするだろう。
――油断したな。傷が思ったよりも深い。
若干骨も切断され、一部は内臓にまで達しているようだ。心臓に達しなかったのが不幸中の幸いか。
――これだと完全治癒まで、大体十五秒は欲しいな。
一般人ならばまず死を覚悟する重傷。それが十五秒で完治するというのだから、十分に規格外なのだろうと思うが……。
――遅い。
こと怪異との戦闘において、治癒に十五秒もかかるというのは非常に大きい意味を持つ。十秒もあれば人間を数百人抹殺できるのが怪異なのだから。
それに。
――昔と比べると、やっぱりなあ……。
ここ数百年、薄々感じていたことではあった。
やはり、明らかに治癒速度が落ちている。
不完全な不老不死の影響が、ここにも出ているのだろうか。もしかしたらもっと長い年月を重ねれば、最終的には俺から不死性が消え去るのかもしれない。
「……まあ、別にいいんだけども」
呟く。先程吹っ飛ばされてからここまでで約五秒。胸に手を当ててみるが、早くも傷はふさがり始めている。
――ま、外だけ治ってもおそらく中はまだ駄目なんだろうけど。
口裂け女を見る。
刃こぼれした先程の刀を放り捨て、コートの裏からまた新しい武器を取り出すところだった。
――あいつが構えるまでは動かず、治癒に専念。あいつが動くと同時に、こちらも動く。
少しだけ腰を浮かせ、タイミングをはかる。まだまだ傷は痛むが、先程よりは大分ましだ。
そして、口裂け女がそのコートから次なる武器を取り出した。
――が。
「……は?」
それを見て、俺は唖然としてしまった。
おおよそコートの中に隠すのは無理だろう、その巨大で武骨で、凶悪な刀身。
「なッ……斬馬刀……だと……ッ!?」
口裂け女は斬馬刀を掲げると、こちらに向き直った。月明りでその刃が鈍く輝く。
――あのコートは四次元にでもつながってるのかよ……。
一瞬そんなことを考え、すぐに否定する。
――否。
この口裂け女が様々な刃物を隠し持ち自在に操ることができるのは、「口裂け女」という概念の曖昧さが所以だ。よって、「概念が曖昧」な彼女が所有する刃物も全て同じように曖昧なものであり、そこに物理法則などの理屈を通用させようとしてはいけないのだ。
彼女の全ては「概念」。在ると言ったら在るし、無いと言ったら無い。
彼女が己のコートの中から刀身数メートル刃渡り数十センチにもなる巨大刀――斬馬刀を出せる、と信じれば、そこから斬馬刀は出てくる。
そういう、ものなのだ。
「――くそッ……」
思わずうなる。こんな体の時に、よりにもよってあんな巨大な武器が相手とは……。
胸の傷に手を当てる。いい動きをするには、まだまだ治癒にかかる時間が足りない。
前を見る。
口裂け女は斬馬刀を軽い様子でぶんぶんと振り回しながらこちらへと歩いてくる。
――肩慣らしかよ。
余裕な表情の口裂け女に対し、ふつふつと苛立ちがつのる。
傷を確認する。
――まだ完治にはほど遠いが、この際はしょうがない。
痛みに耐えながら、脚に力を溜める。
そして口裂け女が斬馬刀を構え直し――来た!!
「――くッ!!」
例の超高速により一瞬で俺との間合いを詰める口裂け女。その振り下ろした斬馬刀をすんでのところでかわす。超重兵器である斬馬刀は、そのまま地面へとのめりこみ、そして次の瞬間――地面が砕け散った。
「――ッ!?」
それを見た俺は全力で地を蹴り、口裂け女から数十メートルほど距離を取る。
「……ったく、マジかよ」
冷や汗を流しながら、斬馬刀を構えなおす口裂け女を見る。
そして、再び彼女がこちらへ跳躍しようと動き、俺もまた脚に力を溜めた――その時だった。
突然どこからか現れた焔の塊が口裂け女を呑み込んだ。
「――は?」
思わず呆気にとられるが、一瞬ですぐに警戒を引き締める。
――新手か?
だとすれば、今の俺は危ないか。
――否。
纏わりつく焔を溶けかかった斬馬刀で引き裂き、ところどころ爛れたショッキングな姿を現した口裂け女を横目に見ながら、己の傷を確認する。
――よし、大丈夫だ。
傷は今しがた、完治した。
「――何者だッ!! 出てこいッ!!」
口裂け女を見ると、溶けかかった斬馬刀を構えて叫んでいる。
――あれ、口裂け女喋れたんだ。
そんな場違いな馬鹿なことを思いながらも、俺も俺で警戒を怠らない。
その時だった。
夜の静寂に包まれた公園に、一人の少女の声が静かに響き渡った。
「――祓い屋が妖怪を祓って、一体なにが悪いのかしら?」
見ると、公園の中央、そこにある電灯の上に俺の外見と同年齢ほどの少女が、肩に狐を乗せて佇んでいた。月を背に佇んでいるあたり、少々風流を感じる。
着ているのは、おそらくどこかの高校の制服だろう。ここら辺では見かけない学校だ。
「……祓い屋だと?」
口裂け女が唸る。
――それにしても……祓い屋ねえ。
祓い屋。
学問的要素が強い俺ら陰陽師とは違い、純粋に妖怪退治のみを行う妖怪退治のエキスパート。……それが、祓い屋と呼ばれる。
「――そこの口の裂けているあなた」
突然少女が口裂け女に声をかける。口裂け女は斬馬刀を構え直し警戒するが、少女の放った次の一言で動揺を見せた。
「――あなたの妹さんは、私が既に祓わせていただききました」
――妹?
俺は心の中で疑問符を浮かべる。
口裂け女が叫んだ。
「貴様だなッ!! 私の妹を葬った愚かなもう一人はッ!!」
――なるほど。
ここでようやく俺は理解した。
つまりだ。口裂け女は――
「――口裂け女は、三姉妹の怪異です。もう一方の妹がどこにいったのかと思っていましたが、なるほど。あなたのその口調ですと、そこにいる『陰陽師もどき』が既に殺しているようですね」
俺の心中の台詞を奪い取った祓い屋はそう言うと、こちらに冷めた視線を向けた。
――ああ。なるほど。
やはり、そっちか。
俺が少し自嘲気味な笑みを浮かべると、少女は俺から視線を外し、肩の上の狐に言った。
「――あかり。お願い」
『――了解』
狐が喋り、そしてその口から火の粉が出たと思った次の瞬間、少女らの目の前には巨大な焔の塊が生成され浮かんでいた。
――へえ、あれは妖狐か。
と、するとあの祓い屋嬢ちゃんは獣使いか、アヤカシ使い。そのあたりか。
俺が冷静に分析していると、突然今まで黙っていた口裂け女が叫んだ。
「――仕方ないッ!! 今回はこれで退こうッ!!」
――は?
思わず、呟く。祓い屋の少女も同じような顔をしていた。
「お館様に命じられたことは既にやり遂げた。もう私がここにいる理由もない」
口裂け女は斬馬刀を両手で持ち直しながら、静かに言う。
――お館様、だと?
俺の脳裏に、一瞬、過去そう呼ばれていたある男の影が過ぎる。
――まさか。
「――小杉田健」
突然こちらに目を向ける口裂け女。
「――お館様が完全なる蘇りを果たしたその時。それが、貴様の命日だ」
彼女は両手で持った斬馬刀を振り上げる。
「我々『新大和会』は、小杉田健、貴様を必ず処刑するッ!! そこの小娘も次会った時が命日だッ!!」
そう叫び――口裂け女はその斬馬刀を勢いよく地面へと振り下ろした。
瞬間、地面が爆発する。
辺り一面に濃い土煙がたちこめ、それが晴れた時、どこにも口裂け女の姿はなかった。
「……マジかよ」
思わず、呟いた。
「新大和会が動いている――?」
……あいつが、蘇る――だと?
俺が呆然とした、その時だった。
突如第六感が危険を告げ、俺は本能の囁くまま、一気に数十メートルほど跳んでその場から回避する。
次の瞬間。
先程まで俺がいた場所に巨大な焔の塊が着弾した。
地面の焦げる臭いがここまで流れてくる。
「――おいおい」
目を祓い屋少女へと向ける。
一難去ってまた一難。
彼女は新しい焔を生成しながら淡々と言った。
「残念ながら一匹逃げられてしまいましたが、残ったもう一匹は絶対に逃がしません」
――マジかよ。
俺は呻いた。
――俺は、半不老不死の男である。
俺を見る者は、大抵二通りの反応をする。
同じ人間として扱う者と。
そして――
「先日、この町へとある大妖が入り込んだ、という情報を耳にしました。――あなたのことです。小杉田健さん」
――妖怪として見る者だ。
「……これでも自分では人間だと思っているんだがね」
皮肉げに口をゆがめながら、少女を見る。
「たしかに小杉田健、という人間はこの町に存在していました。……が、あなたは別人のはずです。体中から妖怪の気配させておいて、そんな人間がいるとお思いですか? 本物の小杉田健はどうしました? 食べたのですか?」
――ああ、そうか。
俺が本物の小杉田健であり、俺が神隠しに遭っていたことは知られていないのか。
「……くそッ」
――この程度の奴、武器のある全力の俺ならば瞬殺なのに。
呟く。
どうするべきか。
――逃げるしかない、な。
この少女は、おそらくやり手だ。今の不十分な俺では少し分が悪い。
それに、一度逃げてしまえばこちらのものだ。
今の俺から妖怪の気配がする、というのも今体が全力の戦闘態勢に入っているからであり、普段ならば普通の人間となんら変わらぬはずなのだ。
大丈夫だ。後に気配で索敵されても問題ない。
「――ッ!!」
飛んできた焔の塊をよける。
その際少し近づいただけで肌が一部焼けてしまう。物凄い熱量である。
「逃げてばかりでは、私には勝てませんよ」
少女は次々と焔を生成して投げてくる。
――このままではまずいな。
焔をよけながら、俺はなんとか拳大の石を拾う。
そして――それを少女へ向けて放り投げた。
石は少女の足元――電灯に当たり、電灯は大きく揺れる。
「きゃッ……」
少女はバランスを崩す。同時に、連続していた焔が――止まる。
「……よしッ」
俺は呟くとその場でしゃがみ、地面に素早く五芒星を描いた。
「――あなた、なにをッ……」
その五芒星の中心に右手を添え、俺は少女を見やる。
そして不敵に笑い――
「――じゃあな」
安倍流陰陽術、緊急逃避用。
「――《土煙》」
瞬間、辺りに口裂け女の時の比ではない密度の煙が満たす。
「――なッ……」
少女がなにか叫ぶが、お構いなしだ。
土煙が晴れた時、俺の姿はここに存在していないのだから。
――それにしても二人の敵に全く同じ手法で逃げられるって……所詮はまだガキだな。
煙の中、尋常ならざる速度で逃走――するのではなく、特殊な呪法を用いて地面に擬態しながら、俺は静かに笑みを浮かべた。
――おっと、その前にまず気配を消さなければ。
まさかの忍法土隠れ。
なお、斬馬刀について。
実際の斬馬刀はただデカい刀なのですが、ここでの斬馬刀は漫画『るろうに剣心』の登場人物、相良佐之助が使用していたようなものを想像して書きました。なんだ、現実の武器じゃないのかよとお思いになる方もいらっしゃると思いますが……この小説もフィクションですし、御堪忍ください。