第伍話 血染めのコートと本気の始り
口裂け女、という都市伝説がある。
口が耳まで裂けている、という女の怪異であり、傍の通行人に「わたし、きれい?」と尋ねてはその人間を刃物で殺す、という。
この都市伝説は一世代前に大流行し、社会現象とまで言われた。今となっては知らない人間の方が少ないのではないだろうか。
いわく、口裂け女は赤い服だとも、白い服だともいう。
いわく、口裂け女の持つ兇器は様々で、鎌だとも、鉈だとも、出刃包丁だともされる、という。
そして、いわく――彼女はその大きく裂けた口で、襲った人を食べるのだという。
◇ ◆ ◇
口裂け女の振りぬいた鎌が、僕の左手首を切断する。
血しぶきが、舞った。
「……くっ……」
痛みに歯を食いしばり、僕は右足を振りぬいた。それをまともに食らった口裂け女は10メートル程吹っ飛ばされる。
ちらりと左手首を見遣る。既に傷一つなく完治していた。
2600年前に僕が得た半不老不死というこの体質に、今は感謝するばかりである。このおかげで僕は、絶望的な致命傷か即死でない限り決して死ぬことはない。
「……さて、どうするべきか」
僕はちらりと背後に横たえさせている少年を見る。傷一つ一つはそこまで大したことはないが、量が量である。普通の人間に失血死というものがある以上、ないとは思うが早く止血しなければ命に関わるかもしれない。いや、それよりもばい菌やウイルスなどが傷口から入ることを恐れるべきなのか?
「……ハア」
ため息を一つ吐く。
どちらにしろ、少年を少しでも早く治療したほうがいいことは明らかだ。
が、しかし。そのためにはまず今目の前で、ぎらぎらとした瞳でこちらを睨み付けている、この口裂け女を何とかせねばならない。
「……仕方ない、か」
もう関わってしまったのだ。今更オカルトがどうのこうのは、既に関係ないし、無意味の極み。……しかし、それでもやっぱり関わりたくなかったなあ、と思ってしまうのは僕の心が弱いということなのだろうか。
――まあ。やるからにはちゃっちゃと終わらせよう。
何気にこの町霊能者多いし。気づかれる前に澄まさないと。
僕はそう呟き、拳を握ってその場に構えた。
口裂け女と睨み合う。
「……とりあえず、バラバラにすればいけるか……?」
ポマードやべっこう飴の撃退方法は知っている。知っているが、そんなことではこの怪異はよくて逃げるだけ。後にまた違う誰かを襲うだろう。
それでは駄目だ。
――やるのなら、徹底的に。
それも、怪異の超再生が間に合わなくなり、完全に死するまで。
仮にも僕は市井の方々を守る陰陽師の端くれなのだから、それくらいは当然。……というのは建前で、後でまたお礼参りに来られても困る、というのが本音であったりする。
「刀とか符とか持ってきてないのは正直痛手だけど、まあ、この馬鹿げた身体だけでなんとかなるか……?」
ふと見ると、口裂け女自身は別段気にしていないようだが、彼女の脇腹が血みどろになっていることに気が付いた。そこは先程僕が蹴ったところである。
――うん、なんとかなりそうだ。
蹴っただけでって……。所詮はぽっと出の新生怪異か。
化物や神が闊歩する古代を身一つで生き抜いてきた僕にとっては、所詮赤子のようなものだろう。
「……これじゃ刀や符があっても、オーバーキル過ぎて使う気が起きなかったな」
そう僕が呟いた時だった。突然そこで口裂け女が動いた。鎌を振りかぶって突っ込んでくる。考えてみれば、助走とかそういうモーション一切なしでの100メートル5秒の速さである。一般人にとっては脅威でしかないだろう。……あれ? 後ろの少年、よく逃げ切れたな。
「んじゃまあ、ぼちぼち行きますぜ口裂けさん……!!」
何故か上がってきたテンションにまかせてそう叫ぶ。知らぬ間に口元に笑みが浮かぶが、もちろんそれに僕は気づかなかった。
突っ込んできた口裂け女を、力を受け流すようにして背負い投げる。彼女は勢いよく空中へと放り出され戸惑うが、そこに地を蹴り同じように空中へ浮かんだ僕が回し蹴りで追撃を加える。この時、力を入れすぎると足が口裂け女の身体を貫通してしまうので、少々威力を抑える。まあ、それでも殺人的な威力ではあるのだが。
追撃で蹴り落とされた口裂け女は、威力そのままに空中から10メートル下のアスファルトへと一気に叩きつけられた。
ぐしゃり、という生々しい音が辺りに響く。
道路に蜘蛛の巣状のヒビが生まれ、さながらトマトを壁にぶつけた時のように血が飛び散る。
「……今夜、肉モノはやめとこう」
血だまりの横へとなんなく着地した僕は、隣の惨状を見てそう呟く。
総戦闘所有時間、僅か十分であった。
――うん。非常にあっけない。
◇ ◆ ◇
そこは、暗い路地だった。傍の電柱に設置されている電灯が、点滅を繰り替えす。
人の気配はほとんどない。普段から人通りは少ないのだろう。
そんな場所に、獣を連れた一人の少女が立っていた。
「――ねえ、あかり」
ふと、少女が己の肩に乗る一匹の狐に問いかけた。
「――これは、なにかしら?」
少女は自分の足元に転がっているそれを見る。
「――いえ、なんだった、のかしら?」
少女は身をかがめると、足元に転がるそれを、拾い上げる。
そして少女はそれを確認し、眉をひそめた。
『――柚葉』
狐が、なにか警戒しながら少女へと囁いた。
「……わかってる」
わかってるよ、大丈夫。
少女はそうささやき返すと、腰を上げて背後を振り向いた。
「……さあ、退治よ……!」
少女が拾ったものは、血に塗れたボロボロの子供服であった。
◇ ◆ ◇
とりあえず血塗れの少年を路地裏で倒れていたとだけ言って近所の診療所に置いてくると、僕はすっかり暗くなった公園のベンチにて夜空を見上げていた。
先程自動販売機で買った炭酸ジュースに口をつける。
「……まずい」
ラベルを見る。「これで君もモテモテなイケメンの仲間入り!? のめばイケメンになれる伝説のポイズンジュース!!」と書かれていた。
「………………」
え、なにこれ。
なんで僕はこんなジュースを買ったのだろうか。自分で自分がわからなくなった。
「…………ふむ」
まあ、きっと久しぶりの戦闘で疲れていたのだな。うん。きっとそうに違いない。
僕はしばらく星を眺めた後、意を決して毒々しい色のそのジュースを一気に飲み干した。例え本当に毒であっても、僕はそんなものでは死なないので問題ない。
結果としてやってきた吐き気をこらえながら、僕はベンチから離れると空き缶をゴミ箱に捨てた。
「帰るか……」
腕時計は、もうすぐ八時になることを示している。正直なところ、早く帰って夕飯を食べたい。
そして、僕がその場から立ち去ろうとした時だった。
ふと、赤いものが視界の隅に映ったと思った次の瞬間、僕はそこから勢いよく吹っ飛ばされていた。
二十メートル程飛ばされたところで、慌てて体勢を整える。
さきまで自分が居たところを見遣る。
そこには、赤いコートを着た女がぬらりとうつむいて立っていた。
「……え?」
瞬間、女の立つ場所の傍にあった電灯が、瞬いた。
そして、瞬いたと思った次の瞬間には、己の前に女の顔が肉薄していた。
ぎらりと不吉にきらめくものが視界の隅に映る。
速い。
すべてが、速い。
僕は半ば反射でその刃を避けると、思い切り地を蹴り、後方へと勢いよく跳んだ。
そして僕は下駄から土煙を上げさせながら、女から三十メートル程離れたところで止まる。着物の肩がぱくりと開き、肌に赤い線が通った。
足を広げた低姿勢のまま、僕は土煙の隙間から己を襲った女を見る。
――まさか。なぜだ。
公園の電灯が点滅し、女の持つ鎌を怪しく光らせた。
――なぜ、口裂け女が生きている――!?
夕方、僕はたしかに完全に殺したはずだ。
何故だ……?
「……いや」
今、そんな事はどうでもいい。
生き残る事だけを――ただ目の前の敵を、アイツを殺すことだけを、考えろ。
長い年月をかけて培った己の感が、全神経がそうささやく。夕方には出さなかった己の本気の臨戦態勢に、身体が勝手に移行する。
血が騒ぎ、肉が熱を持つ。
――気分が高まり、自分が自分ではなくなったかのような不思議な昂揚感に包まれる。
知らぬうちに、口元に獰猛な笑みが浮かぶ。
…………。
よし、状況を整理しよう。
夕方、俺はたしかに口裂け女を殺した。これは間違いない。神通力を込めた蹴りで、細胞の一つ一つまで完全に潰したのだ。もしあれで生きているのなら、口裂け女は相当な昔から存在する怪異である。
もちろん、それはない。口裂け女は非常に最近の怪異、新生怪異だ。
ならば、目の前のアイツは夕方の奴とは別の個体と考えるのが一番妥当だろう。
おそらく、己が知らぬだけで口裂け女の怪談には複数存在する、というものがあるのだろう。
一瞬のうちにそう、仮説を立てる。さっきからここまでに、まだコンマ一秒程しか経っていない。
――それよりも問題は、速さだな。
先程の攻撃だけでも、俺のこの人外化した目でなんとか追えるくらいの速さ。
脅威以外の何物でもない。
加えて、あちらは得物を持っているが、こちらは何も持っちゃいない。身一つだ。
いくら不死性を帯びているといっても、あの鎌で心臓を一突きでもされたら、もうそこで人生のゲームオーバー。
――少々、不利だな。
得物さえあれば、こんな新生怪異一匹、軽くあしらってやるものを。
部屋に置いてきた愛刀や札を思い浮かべる。忘れたのが非常に悔やまれた。
――まあ、仕方ない。
俺は舌打ちすると、未だ晴れていない土煙の中を飛び出した。
――ならば、こちらから仕掛け、先手を取るのみ!!
口裂け女は飛び込んできたこちらの姿を確認すると、その裂けた口を深く笑みの形に歪めた。
――気を付けるべきは、速さとあの鎌の、二つのみ。
俺は普段の何千倍もの速さで思考を展開させながら、先程の口裂け女とあまり変わらない高速度で彼女の懐に突っ込んでいく。
――速さは、大丈夫だ。完全な視認は難しいが、本気の俺なら口裂け女の速さを超えることも可能だろう。
ならば。
問題は……
「――鎌のみだッ!!」
そう叫んだ次の瞬間、振りぬいた拳が口裂け女の持つ鎌を粉砕した。
目の隅に驚愕に染まる口裂け女の顔が映る。
――よし。
「得物さえなくなれば……ッ」
やはり俺は生き残ったぞ、と少量ながら勝ち誇った笑みが湧き上がる。
そして。
案外簡単だったな、と。あんまり歯ごたえねえな、と。
刹那の思考の隅でそう思いながら、回し蹴りで決着を決めようとした時だった。
なにか鈍い光が瞬いたかと思った次の瞬間、俺は体のあちこちから血を吹き出しながら遥か後方へと弾き飛ばされていた。
「――は?」
地面に転がり、背中に広がった衝撃で我に返る。
――一体、何が起こった?
混乱しながらも、頭の隅で半自動的に己の状況判断が始まる。
体中のあちこちから血が湧き出ている。痛い。痛いが……幸い、現段階での致命傷はないようだ。これならあと数秒で完治するだろう。
この傷口は――切り傷か。
弾き飛ばされてからここまでに有した時間は、およそ一秒程度。
転がっていた地面より立ち上がりながら、口裂け女のいる方を見る。
そして。
「――おいおい」
現状を忘れ、つい、ため息を吐いてしまう。
二十メートル前方。
そこには、点滅する外灯の下、両手に数多もの刃物を握った口裂け女が立っていた。
鎌、鉈、出刃包丁に短刀、鋏、鋸、斧……。
ちょろりと数えるだけでも数十種類の刃物がある。
そして。
どこからともなく吹いた風が口裂け女の赤いコートをはためかせた。
「……マジかよ……」
俺は、思わず呻いてしまった。
ちらりとではあったが、コートの裏には、更に多くの刃物が所狭しと並んでいるのが、見えたのだ。
俺には口裂け女のその大きな口が、自分をあざ笑っているように見えた。