第弐話 懐かしい日々と新しい日々と 前編
――いつか! いつか! 絶対におまえを殺してやる!!
不快にさせる笑みを顔に浮かべ、ただこちらを見下すばかりの祟り神にそう叫び、宣言した後、僕はあまりの苦痛に一度意識を失った。
そして。
次に気が付いたとき、そこは森の中だった。
「……生き、てる……?」
起き上がると、無意識のうちに手を胸に当てていた。心臓は別段何事もなかったかのように動いている。意識を失う程の痛みも、もう欠片もない。
「……生きてる」
半身を起こし、左胸に片手を当てたまま、僕はただ呟いた。
「……生きてる」
ただ、呟く。
「……生きている」
ただ、そう呟く。
生きてる。生きている。
「まだ、生きている……!!」
生きている。
たった一言。ただ、それだけの事。
しかし。
それだけの事が、その時の僕には、ただ、ただ嬉しかった。
しばらくそのまま呆けた後、僕の脳はやっと再起動を始める。
「……それにしても、ここは一体……?」
周囲を見渡す。巨大な木々が、天に向かって伸びており、苔のような植物が目につく限りをを覆っていた。
僕は、この様な森をどう呼ぶのか知っている。
原始林。
現代では屋久島にでも行かなければ拝められないような景色。
「……どういう、ことだ?」
僕は困惑した。
ここは一体、どこなのだ。
そもそも考えてみれば、僕がここにいるのは明らかに先程の祟り神の所業である。思い起こせば、彼女はたしかに僕に対して「祟る」と、そう言っていた。だが、そうなのにも関わらず、僕は命を失うわけでもなく、どことも知れぬ森に放り出されているだけ……?
どういうことだ。なんなのだ。なにが、起こったのだ。
考え込む僕の脳裏に、ふと友人の言葉がよみがえる。
――神隠し。
たしかに友人は、あの神について「祟ったり、神隠しにさせたり」と、そう言っていた。
つまり、なにか。僕は、祟られてその結果神隠しとなり、現状につながるわけなのか。
「そうか、そういうことか」
今の所、この説が一番可能性として高いだろう。
そう決めつけ、僕は立ち上がった。
これから先のことを考えなければならない。
とりあえず無事に家へ帰り、その後なんとかあの祟り神をお祓いでもなんでもして殺したいものだ。
「まあ、まずはこの森を抜けて人のいるところへ……」
その時、独り言を漏らす僕の耳にその音は入ってきた。すぐさま口をつぐみ、耳を澄ます。
――聞こえた。
これは、波の音だ。
「近くに、海があるのか」
人が住むならば水端であると、太古の昔からそう決まっている。一度海に出れさえすれば、浜にそって歩けばいつかは人の影も見つかるというものである。
「ま、このまま森の中ほっつくよりはイイわな」
一瞬ここが無人島かなにかであったらどうしようか、というネガティブチックな考えが頭をよぎるが、僕はそれを頭を振って追い出すと、そう呟いて音のする方へと歩き出した。
「……あれ、意外と近いな」
なんと、歩いて数分も経たないのに、もう僕は森を抜け、波が打ち寄せる浜辺へと立っていた。
まるで、突然場面転換したような気分である。
「……それにしても……海だ」
考えてもしょうがないような気がしたので、とりあえず目の前の海へと現実逃避をしてみる。
その時、僕は近くの岩陰にてうごめく何かを目の隅に捉えた。
「なんだ?」
よく見てみると、岩陰から魚の尾が飛び出ていた。しかも未だに跳ねている。
――打ち上げられたのか。
そういえば最近、クジラがよく浜へ打ち上げられている、とそういうニュースがテレビでよくやっていたなあ、と僕は思い出す。
「とりあえず、今日の夕飯ゲットかな」
呑気に呟き、僕はその岩へと近づく。
そして、岩の影を除いた時。
「……っ!?」
僕は、声にならない悲鳴を上げた。
――そこには、人の顔を持つ巨大な魚が跳ねていた。
突然、生々しい人の顔がこちらを向いた。
ぎょろりとした目が僕を射抜く。
そして、口を開き――
◇ ◆ ◇
目覚ましの音で、僕は目覚めた。
寝ぼけた頭で目覚まし時計を止めると、僕は上半身を起こし、大きく伸びをした。
「……夢、か」
先程まで見ていた夢について思いを巡らせてみる。考えれば、あれはもう今から2600年位前になる出来事である。随分と懐かしい夢も見たものだ。
「……昨日、過去の自分が神隠しに遭うところに居合わせたからか」
そうかもしれないし、違うかもしれない。
とりあえず、僕はベッドから下りると顔を洗うべく洗面所へと向かった。
「たしかに、今思えば、夢らしくところどころが破綻していたなあ」
顔を洗うと、いったん自室へと戻り、学校の制服へと着替える。
シャツを着こんでいると、ふと、自室の割れた窓ガラスが目に入った。
「……そうだった」
今更であるが、今僕がいるここは2600年前、未だ普通の高校生であった時に住んでいた自宅である。ただ、両親は現在海外赴任中であり、実質僕は一人暮らし状態であったわけで――
「……窓ガラス、買わないと」
――家の鍵をとうの昔に失くしていた僕は、昨日は仕方なく防犯的に問題なさそうな二階の自室の窓を割ることにより家へと入ったのであった。
「……ハア」
ため息を一つ吐き、僕は部屋の隅に放られていた着物をかき集め、再び洗面所へと向かった。
洗面所に着くと、洗濯機の中に持ってきた着物を突っ込んでいく。袴から始まり、甚平、浴衣、背中に五芒星のある白の羽織のようなものまで、実に様々なものがある。
これらは、昨日まで僕が身に纏ってきたものらであった。
江戸や明治ならばいざ知らず、なぜ平成の世にまでなって僕は着物を着ていたのか。
それについては、長い歴史の中を生きていくにつれ、僕は洋服よりも和服の方が落ち着くような性分になってしまったからだ、としか言いようがない。
ちなみに我慢できないほどではないため、制服はきちんと着る。……まあ、今後も私服は和装になりそうなのだが。
洗剤を突っ込み、洗濯機の電源を入れる。
「……今思っちゃったけど、着物も洗濯機でいいんだよな……?」
先日までは山奥のとある友人の屋敷に居候しており、この百年くらいは洗濯などもその家の使用人が行ってくれていたので、僕は着物をどう洗っていたのか知らない。もちろん、その友人宅に居候するようになる前は、自分で手洗いしていた。
「……考えてもしょうがないか」
とりあえず着物でも大丈夫であることを願うことにし、自室に戻ると学生鞄を手に取る。
その際、傍の壁に立てかけてあった古刀をも持っていこうと無意識に手を伸ばしかけ、すぐにそれに気づき、僕は軽く苦笑を浮かべた。
――もう、これの出番もないんだよな。
僕はそのまま鞄だけを持って部屋を出た。
階段を駆け下りる。途中、少し足を滑らせる。
玄関で靴を履こうとして、つい下駄をはきそうになる。
「……おっと、危ない危ない」
運動シューズを履く。玄関を出、合鍵で扉を閉める。
「……ふう」
息を吐く。頭上に広がる青空を見上げた。
「……緊張、しているのかな」
無理もない。
この2600年間、ずっと夢に見てきた光景に、僕は立っているのだから。
――嗚呼。
目に映るすべてが懐かしい。
朝の井戸端会議をするおばさんたちも、集団登校をする小学生も、近くを通るだけで吠えてくる飼い犬も。
すべてが、神隠しに遭う前と変わらない。
変わるはずのない毎日。2600年前まで、たしかにそう思っていた毎日だ。
自然に、頬が緩む。
僕は、帰ってきたのだ。
この、望み続けてきた日々に、僕は戻ってきたのだ。
「……嗚呼」
なんと清々しい朝だろう。
◇ ◆ ◇
「……嗚呼」
なんと憂鬱な朝なのだろう。
不死川慧は、そう呟いた。
現在、彼は実家である赤沼寺の敷地内にて日課である朝の掃き掃除をしていた。だが、普段なら青空を仰いで「清々しい朝だな」などとひとりごちるところを、今日の彼はなにやら難しい顔をしていた。
「……ハア」
慧はため息を一つ吐く。と、その時慧の後ろにある渡り廊下を、一人の修行僧が慌ただしく通り去った。
「……どうしたもんか」
寺は昨日からずっとこの調子である。
慧は空を仰ぐ。今日も蒼く広がるそれは、しかしこの時の慧には、なにか別の、不吉な意味を含んでいるかのように、そう見えた。
――事の発端は昨日にまで及ぶ。
昨日。
15日。
7月の第3日曜日。
その日、慧は他の修行僧と共に近所の家庭へと法事に出かけていた。法事は何事もなく無事に終わり、慧は今頃高山の廃神社へと訪れているであろう高校の友人について思いを巡らせたりもした。
その時である。
午後2時20分頃であったと思う。
突如、どこからか強力な呪波が流れてきた。慧を含むその場の僧たちは皆ピタリと動きを停め、じっとその呪波の発生源――高山の頂上付近を見つめた。
その時慧の脳裏には、先程考えていた友人の姿が浮かんでいた。
――まさか。
動揺する慧を除き、他の僧の動きは迅速であった。彼らはすぐさま寺へと戻ると、なにかあった時のために霊装を整え始めた。
呪波は相変わらず高山からあふれ出てきている。これは、あそこで何かしらの霊的な戦いが起きていることを意味していた。
――慧、大丈夫か?
そして慧の父親が息子の様子がおかしい事に気づき、彼は問いただす父親に自分の友人が巻き込まれている可能性を話した。
父親はそれを聞くなり、幾人かの僧と慧を引き連れて高山へと急ぎ向かった。しかし、向かう途中で高山の頂上付近に白い光が見え、今までの比ではないくらいの強力な呪波が流れてきたのを最後に、高山は沈黙した。
その後慧らは急いで高山を登ったが、彼らが廃神社へ着いた時、そこには倒壊し、神の消えた社と、何らかの霊的な儀式跡が残されていただけだった。
「……ハア」
本日何度目か分からぬため息を吐く。
と、そこに彼の父親がやってきた。
「慧。そろそろ学校に行かなくていいのか?」
禿げ上がった頭。温和そうな顔。まさしく住職然とした恰好の父である。
「……親父、大浜神社の奴らはなんか言ってきた?」
昨日、警察よろしく事故現場ならぬ神社跡を検分していた慧ら僧は、遅れてやってきた大浜神社の神官たちにここは自分たちの管轄だ、と追い返されていた。そのため慧らは昨日一体何が起こったのかよく分かっていない。
しかし、一日も経った今日、そろそろ神社の奴らが何かしらの判明したことについて呪術協会へでも発表するのではないか、と慧は踏んでいた。
「……ああ。今朝早く、協会から使者が来たよ。それによると――」
父はそこで一旦言葉を区切り、慧の瞳を見てから続けた。
「――昨日、一人の人間が神隠しにされ、その後神隠しを行ったあそこの神が、突然現れた第三者に祓われた、というのが最も状況に当てはまる見解らしい」
――一人の人間が、神隠しに。
「……そう、か……」
慧の視線は自然に地面へと下りていった。
「……ああ」
父親はそんな息子をいたわるように見ると、言葉をつづけた。
「……残念だが、お前の友達は……」
その言葉の続きは、嫌でもわかる。
「……大丈夫だよ」
慧は、暗い顔でそう言うと、箒を置きに物置へと歩き出した。
「……学校、行ってくる」
「――ああ」
父親は、そんな息子をただ見送ることしか出来なかった。
◇ ◆ ◇
「……学校だ」
大浜市立第三高校の校門前で立ち止まり、僕はただ、そう漏らした。
「……自宅の時もそうだったけど、結構感慨深いものだなあ……」
例えるならば、高校生になった後に出身小学校へ顔を出してみた時のような感じであろうか。
「……たしか、クラスは2年3組だったな」
昨日はいろいろと大変であった。机や部屋を漁りまくり、自分の所属クラスや友人などを確認していったのだ。だがしかし、2600年もたつのに意外と覚えている事が分かった時は、己の人外化した身体能力に舌を巻いた。……運動能力だけではなく、まさか記憶力までもが強化されていたとは。恐るべきは妖怪の力である。
「……さて、寺子屋以来の学校だ」
まあ、寺子屋では教師の補助役だったのだが。
そう呟き、僕は懐かしの高校へと足を踏み入れた。
――だが、まさか登校という学生としての義務を全うしただけで、この後自分の身に様々な厄介事が降りかかることになろうとは、現人類の最高齢者でもある僕でも、この時は思いもしなかった。