池
スコアボードは虚無に戻っていた。さっきまでのすべての音は消えていた。トスバッティングの軽く澄んだ音も、三塁塁審がピッチャーズプレートを掃く音も、土煙を上げた一塁線へのファウルがフェンスにぶつかる音も、優しく打球を殺すちんとしたバントの音も、デッドボールが背中にぶつかる痛い音も、二塁ベース上で拳を突き上げる三番打者の雄叫びも、ピッチャー交代時にぽんと合わされるグラブの音も、すべては生じ、すべては消えた。僅かの間残るざわめきも、すぐに消えるだろう。彼岸の雨は過ぎた。正午過ぎまでは晴れ、今は曇っていた。
薄暗く、芳香ボールの匂いがする一塁側スタンド下の便所から出てきた俺は、バックパックを背負い直しながらふと立ち止まり、白華の垂れた防球ネットの支柱に目を止めた。そこには白い文字でこう記されていた。
6/13 18:14 ヒトシとミカ ここにきた
俺は、ふむ、と思い、鼻から息を吹いた。便所に来たことが、ふたりにとってはなにか大切な記念だったようだ。そうした繊細の精神に、共感しないではなかった。仮に書き加えるならば、こういうことにはなる。
9/29 13:34 某 ここにきて 6/13 18:14に ヒトシとミカが ここにきた という事実を知り ふむ と思った
もちろん、俺はなにも書き加えはしなかった。俺が興味があるとするならば、もっぱらこの存在を消すことであり、存在を主張し残すことではなかったからだ。歩きながら、気体が霧散するようにふっと大気の中に溶けて消えてしまえればいい。そんなことをよく考えていた。あるいは、純粋な目になりたい、ということも考えた。誰にもなににも関わらず、干渉し合わず、物理的、能力的な制約を超えて、たとえばヒトシとミカがそのときその場に存在していたという事実をただ見届けて、ふむ、と思いたい。そういうことだ。
しばらく白い文字を眺めたあと、市営プールの方へと歩いた。季節を過ぎた施設のシャッターは降り、ゲートには黄色いプラスティックの鎖が張られていた。俺は段差を上がってプールに近づき、掲示を眺めた。書かれている内容はひとつも理解できなかったが、うん、と呟いて頷き、また歩いた。
駐車場には二台のバスと一台のワンボックスカーが停まっていた。バスの一台はスクールバスで、もう一台は観光バスだった。アイドリングの音が揺れていた。遊歩道に抜ける門は閉まっているようだった。俺はすぐに諦め、来た道を戻った。バスに向かう紺色の集団とすれ違った。ぱこぱことテニスの音がしていた。
脇に抜ける道を探しながら歩いたが、見つからなかった。仕方なく一度門から出て左に回り、見沼代用水に沿って歩いた。木々と草と鉄条網つきの錆びたメッシュフェンス、そんな道だった。フェンス越しに左を眺めれば、俺がさっき出てきた便所の前に学ラン姿の女子高校生が佇んでいるのが見えた。男女どちらの便所に入るのかはわからなかった。
一戸建ての住宅群が現れ、菜園を過ぎ、木々の下を過ぎ、鉄塔を回り込むように小広場に出た。錆びたパーゴラ、草の生したタイル、朽ちそうなベンチ、なにかの像。俺は数段の段差を上がり、像を眺めた。女児の像だった。女児は短い髪を後ろでふたつにまとめ、ふっくらとした頬に笑みを浮かべ、薄い胸をキャミソールで覆い、短いスカートの裾を風になびかせ、裸足で、踵を浮かせ、左脚を前に、右脚を後ろに、天に突き出した両手にクロッシュ・ハットを掲げていた。こんな色の昆虫がいたな、と俺は思った。緑と紫と濃い青が混じった、暗い光沢。夏場になると窓から入ってきてはぶんぶんと飛び回ってばちばちと蛍光灯に当たる、不快な類の甲虫だ。俺は花崗岩の台座に視線を落として女児の名を眺めた。「緑の風」というのだそうだ。
俺は再び歩き始めた。川に向かう方向だった。左には競泳プールの観戦スタンドの古びた背中と、淡いブルーの循環濾過装置の群れがあった。右には木々とベンチが続き、傾斜の下には遊水池広場の人工的な景観が広がっていた。調節池は曇り空を映してざわめき、その周囲にはパラソルを立てて釣りをする日焼けした何人かの老人たちの姿があった。洪水吐にはコンクリートの短い橋が架かり、その橋台および橋脚は一部の地域住民の落書き用のキャンバスとして機能しているようだった。文字と絵画が混じった落書きで、ひとつの単語は遠目にもはっきりとわかった。
まんこ
俺は頷き、橋の下に向かうことにした。
広場の角の階段を降り、斜面中部の遊歩道を歩き、転倒しないように気をつけながら洪水吐の傾斜を降りて橋の下に辿り着き、黒と赤で描かれた落書きの群れを眺めた。
fuck、I like Haruki、Fuck、MC4、TTTQ、Love you、omyi、KING IS THE DEAD!!!、I went to ラブホテル yesterday、Haruki is doesnt like Kaito、Kaito fuck、本砂、SAY Home、DON’T GIVE A FUCK、GM、I want to play sex、Sevn Stalr、IWGP、I DONT LIKE DRUG、まんこ、FEEL ON MY MIND、MANKO――。
読み取れないもの、消されたものもあり、イラストの類もあった。ドラえもん、書きかけのドラえもん、パックンフラワーのような陰茎、人間、どくろ、中指を立てたような手、モホーク・ヘアスタイルで笑う誰かの横顔、なにかのロゴ、目玉と口と翼。橋台の一番下にはこう描かれていた。
OMIYA HIGASHI
H
なるほど、と俺は満足し、いくらかの眩みを感じながら土手に上がった。川の向こうまで歩こうと思った。
川を右に、プールを左に歩いた。七月の花火のときにはいくらかの露店が出て、人々がたむろしていた道だった。今は誰もいなかった。左にカーブしていく道の中央には、コンクリートの台座がついた赤白のガードパイプが連なっていた。そんなものあっただろうか、と俺は思ったが、あったというならあったのだろう。俺はガードの間を抜けてプールに寄り、錆びたメッシュフェンスの向こうを眺めながら歩いた。
誰もいないプールの主はカラスたちに代わっていた。監視員のウィスルもビーチボールの音ももう聴こえなかった。俺はスタッフの女子のことを考えた。丸顔で、陽に焼けていくらか肌の荒れた、朗らかで人懐こく善良な女子だった。よき女子だった、と俺は思った。彼女のありようは、大宮にふさわしかった。殺伐とした薄暗い更衣室も、水飛沫の跡に広がる波紋も、透明な水の眩しさも、火傷しそうに熱いタイルの熱も、耳から垂れた水の熱さも、けやきの陰に座って日焼け止めを塗る女子の慣れた手つきも、男子の肌に撥ねるシャワーの幻想的な煌めきも、逆光の反射の中に沈み込む児童たちのシルエットも、ゴーグルを額に上げてスライダーに駆ける男児の瞳の輝きも、フェンスの内側の一ヶ月前の話だった。幼児用プールのフェンスに描かれた、リス、亀、うさぎ、クジラ、蟹、象、椰子の木、キリン、オットセイ、そんな平和なイラスト群も、妙ににやけた目をした三台の象の滑り台も、静かに次の季節を待つのだろう。俺は上を見上げた。頭上の高くでは黄色くなり始めたけやきの葉がささめいていた。アブラゼミはもう鳴いていなかった。
俺は対岸に目を移した。斜面林にはくすんだコンクリートの市立体育館が見えていた。そこでどんな競技が行われ、どんな人間たちによるどんな大会が行われているのか、俺は知らなかった。ずいぶんと大宮に来た夏だった。それでもまだ足りなかった。町は広く、果てしなかった。
川を渡る橋に近づけば、壁打ちテニスとバスケットボールの音が近づいてきた。市営プールの営業期間外には車道側の駐車場はそうしたスペースとして開放されているようだ。奥ではウォールとラケットの間をぱっだんぱっだんとボールが行き交い、ぱっしゃん、と上の金網に当てて終わった。手前ではステップにシューズが鳴り、ドリブルがだむだむとアスファルトに突かれ、奇声が上がり、バックボードにボールが当たった。
橋に上がった。通りの向こうには畑が広がり、いくらかの林があった。川は北へと続き、平行してアスファルト敷きの農道が伸びていた。視界の左には県営住宅とマンション群と給水塔が、右には傾斜地の一戸建ての住宅街が見えていた。メディカルセンターの手前を横切って東武線が右に過ぎていった。白地に青ラインの車両だった。その手前に黄色い色彩の塊が微かに動いていた。ひまわりだ。
橋を渡り、遊歩道に入った。足元はアスファルトから土に変わった。斜面の下は広場になっていた。増水時には遊水地として機能するのだろう。サッカーができるぐらいの広さはありそうだったが、今はTシャツ姿の男がひとり佇んでいるだけだった。俺は土と草の匂いを感じながら、頭すれすれに突き出すソメイヨシノの枝を潜り、根を踏み越えながら歩いた。やがて靴の下の感触が土から草に変わり、さらに歩いた。
広場を過ぎ、日焼けした老人たちが集うゲートボール場に辿り着いた。近くでゲートボールの音を聞くのは初めてだった。硬く澄んだ軽い音は、ビリヤードに似ていた。ここで行き止まりなのだろうか、それとも川沿いに道が続いているのだろうか、と考える間もなくガードパイプの向こうを夫婦が駆けてきたので、俺もその道を行くことにした。
砂利道には轍部分を残して落ち葉が散り敷いていた。描きようによってはそれなりの絵になるのだろう。道の先にはまた別の橋が見えており、また別の池があることがわかった。橋の下にはやはりあれこれと描かれているようだったので、俺はまた洪水吐に降り、気泡で穴だらけのコンクリートの橋台に描かれた落書きを眺めた。俺が動くたびに靴音がやけに橋の下に反響した。
Dream is Big、WORK WORK WORK、Fuji、You know saing?、low 老、smoke、Peath hell、life style、Hard Work、R.I.P、SXX 愛、MANKO――。
俺が書き加えるとしても、大したことは書けまい。
HASTA LA VICTORIA SIEMPRE
あるいは、
QUEREMOS PAZ
あるいは、
LIBERTE
そのぐらいだろう。
それから、高校生ならばここで煙草を吸うだろう、と思い、汚れたコンクリートの地面を見渡した。案の定吸殻が何本も見つかった。細いメビウスは女が吸ったのだろう。口紅はついていなかった。使用済みの乾電池があり、ガラスの破片があり、花火のゴミがあった。線香花火ではない。手持ち花火、それから十連の花火。花火をやったんだ、と俺は思った。ガラスの破片もそういうことだろう、と思い、しゃがみ込んでもう一度よく見れば、スミノフアイスのラベルが見えた。さらに辺りを探った。吸殻はずいぶん広範囲に散らばっていた。よく見れば橋の底の隙間にもアサヒスーパードライの空き缶がねじ込まれていた。注射器はなかった。ジョイントらしきものもなかった。コンドームもなかった。
探しているうちに自ずから斜面を下り、池に向かってふたつ突き出したコンクリートブロックの出島部分の一方に降りることになった。俺は出島部分の先まで歩き、バックパックを下ろし、腰を下ろした。秋の虫が鳴いていた。降りそうな雲行きになってきていた。
洗い出しのブロックには陽射しの熱が残っていた。池の縁には草がそよいでいた。水面には空と雲と鉄塔と木々がゆらゆらと揺れながら映っていた。鉄塔にはカラスがとまっていた。自転車の老夫婦が対岸の林の前で止まり、自転車を降りて木々を眺めていた。クヌギ、コナラ、エノキ、イヌシデ、そうした類の木々なのだろう。風が吹いてソメイヨシノの葉がはらはらと落ちた。緑の中に曼珠沙華が咲いていた。陽射しが現れて池を照らした。つくつくぼうしが鳴き始めた。乾いた汗でべたべたとした左手首にとまった小さい虫を、右手の人差し指で潰した。後ろの遠くからはゲートボールの音が聴こえていた。
――ここ、けっこう好きなんだよな、俺。癒されね?
そんな声がふと脳の中にしたのは、「携帯電話を投げ込みたくなるような池だな」とぼんやりと思っていたときだったかもしれない。おそらくはまだ夏服を着た、男子高校生の声なのだろう。彼らもこんな風に池に向かって腰を下ろし、なにかを話していたのかもしれなかった。
俺は倒れていたバックパックを起こしてスコーンを取り出して齧り、2Lのスポーツドリンクのペットボトルを取り出してぱこぱこと音を立てて飲み、またスコーンを齧り、サイドポケットに除菌ウェットティッシュが残っていたことを思い出して、指先を拭いた。
「俺、女子力高いからさ。こういうのちゃんと持ち歩いているんだぜ」
ハルトは僕にスコーンの袋を差し出した。
「食べる? 海老のとりこ」
ありがとう、と僕は頷き、一本を摘まんで口に運んだ。ふたり分のサクサクとした音が、静かな池畔に鳴った。
「誰も来ねえだろ?」
僕は頷いた。
「そういう場所が必要なんだよな、人生にはさ」
ハルトはあぐらをかいた尻を半分上げて、ぶっと音を立てた。
「屁もこき放題だぜ」
なにかが静かに訪れて、草に止まった。なんだろう、と俺は思った。見たことのないとんぼだった。尻の先だけが蛍光の青色をしていた。羽根は見えないぐらいに薄く、胴は折れそうに細かった。綺麗なとんぼだった。俺はしばらくぼんやりととんぼを眺めた。
とんぼが二匹連なって目の前を過ぎていった。ハルトは首を捻ってとんぼを目で追い、それから訊ねた。
「なにあれ。交尾してんの?」
僕は頷いた。まじかよ、いいな、と声を挙げながらハルトはごろんと仰向けに寝っ転がり、腕を枕にして眩しそうな顔で空を眺めながら、女とやりてえな、と声を出し、首を捻って僕を見上げ、訊ねた。
「お前、女とやったことある?」
僕は目を伏せ、首を振った。
「マジか。童貞か」
僕は池に視線を移した。水面ではあめんぼがついついと動き、小さな波紋を広げていた。ハルトは空のどこかに視線を戻し、言った。
「まあ、俺も童貞なんだけどな」
僕は眉を上げてハルトを見た。
「そうなの?」
「ああ」
それから首を捻った。
「手マンまではいったんだけどな」
ハルトは爪で歯をとんとんと叩いた。
「女はわかんねえわ」
爪を見つめながら、呟くように付け加えた。
「さっぱりわかんねえ」
もうひとつの出島部分にバックパックを背負ったTシャツ姿の若い男が降りてきた。向こうを向いて池を眺め、荷物を開いてなにかを始めたが、なにをやっているのかは俺の場所からはわからなかった。
「なにやってんだろうな、アイツ」
僕は少し考え、答えた。
「写生じゃない?」
ハルトは慌てたように身を起こし、目を見開いて僕を見た。
「射精? ここでしこんの?」
僕は笑いながら首を振った。
「そっちのシャセイじゃなくて――風景? 風景を描く方の、絵を描く方の写生」
「あー、びっくりした。やべえヤツ来たと思ってビビったわ。さすがにここでしこんのはやりすぎだよな」
ハルトはもう一度寝っ転がった。
「池見て興奮してしこんのはやべえだろ。興奮したとしても、せめてもうちょっとこそこそやれよな」
俺は股間に落ちたスコーンを摘まんで食べた。小さな蟻がスコーンの食べかすを持って脛を這い、少しくすぐったかった。それから俺は身体を倒して、ブロックの上に寝っ転がった。虫の羽音が左耳にぶんとした。ブロックはでこぼこしていたが、温かくて気持ちがよく、頭と背中の重みをしっかりと受け止めてくれた。丸く見える空の縁に、木々の葉が揺れているのが見えた。池からの涼やかな風が脛に吹いた。遠くでチャイムのような音が鳴った。静かで、平和だった。俺は眠気を感じながらぼんやりと空を眺め、それから目を閉じた。
やがて仰向けの膀胱に尿意を感じ始めたので、俺は去ることにした。身を起こすと身体が重く、怠かった。石の跡が手首についているのを、俺はなんとなく眺めた。ペットボトルとゴミをバックパックにしまって背負い、立ち上がり、なんとなく周りを眺め、階段に向かった。上り際にもう一度、Dream is Bigが見えた。
橋を渡り、ひび割れたアスファルトの道を南に向かって歩いた。遊水池広場にはメタセコイアが佇んでいた。木々の向こうにはソニックシティと新都心の高層ビル群が見え隠れしていた。なにかの枝が左足のジョギングシューズの中に入り込み、右足で踏んだらびんと飛んだ。樋管の先の橋は切れていて渡れなかった。県道の車の流れが近づいてきたが、立ち入りが禁止されていて真っ直ぐは向かえなかった。矢印の指示に従って左に曲がり、木々で薄暗い小路に入った。「なかよしクラブ」の花壇には曼珠沙華が咲いていた。見上げればムクゲが揺れていた。水の音が近づいてきた。水路を越えてフェンスを抜け、県道に向かって傾斜を上がった。
交差点脇の空き地からは県営大宮公園野球場とNACK5スタジアムの照明塔が見えた。県道に出れば蛇腹式のアルミゲートの向こうに油圧ショベルが停まっていて、その向こうには鉄骨が組まれていた。掲示によれば、橋梁の下部工を作っているとのことだった。蛇のようにうねる道の、白いガードレールとオレンジ色のガードフェンスの間を、駅の方向へと歩いた。立ち止まり、フェンスに貼られた工事の進捗を示す数点の写真を眺めた。工事は順調に進んでいるようだった。大型トラックが過ぎていった。水音が下に鳴り、橋を渡った。淡いブルーの歩道橋が近づいてきた。
公園に入り、案内図を眺めた。図に従って左を見れば、駐車場の端に簡素な便所があるのが見えた。暗い便所で用を足し、鏡のない洗面台でコバトンを眺めながら手を洗った。外に出れば、左目に水滴が落ちてきた。雨だろうか、と俺は思った。左を見ればドームがあった。向かう途中で水滴は明らかな雨へと変わった。どのぐらい降り、どのぐらいで止むのかはわからなかった。屋根の下に入れば、ジョギングシューズの下に擦れる砂の音が定位を失って奇妙に反響した。俺はピクニックテーブルにバックパックを置いてベンチに腰を下ろし、揺れる木々の向こうの風景を眺めた。野球場に降る雨が、だんだんはっきり見えてきた。




