九話:心のあり方
放課後の教室は、街灯の冷たい光が窓から差し込み、床に青白い筋を描いていた。時計はもう五時近く。
「アンバーオックスさんは、ボディタッチ好きな方だっけ?」
「ほとんどしないわ」
「潔癖だから?」
「弱い部分を見せたくないわ、特にリコンフィグに」
「なるほどね。私とかだとほかのグループではイチャイチャすることあるけど、リコンフィグくらいだもんね」
「バレンフラワーもやってはいたけどね。貴方とリコンフィグの関係を見て身を引いた感触はあるわ」
「別に気を遣わなくて良いのに」
「貴方はやり過ぎだと思うけど」
「相手がやってくるんだよ? リコンフィグに限らず」
校舎は完全に静まり返り、二人の気配だけが残っている。
アンバーオックスは私の肩に顔を埋めたまま、ようやく泣き疲れて息を整え始めていた。黒髪が乱れ、制服の胸元が涙で濡れている。
震えは収まったが、まだ私の背に指を食い込ませたまま離れられない。私は、変わらず同じ姿勢でアンバーオックスを抱きしめていた。
桃色のボブヘアが夜風にわずかに揺れ、紫の瞳は穏やかに虚空を見つめている。表情は優しく、えくぼさえ浮かんでいるように見える。しかし、その内側は──完全に静止していた。
「貴方はカリスマはないけど、いつも人がいる。なんで?」
「英雄的預言者的資質、一緒にいてに気持ちがいいというシンプルな空間演出能力、あらゆるものを雄弁に語るための知性……そういうのがカリスマだと言われるけど、どれもない?」
「空間を演出するのはあるかもね。だけど貴方は俗っぽいから、カリスマというより愛嬌になる可能性は高いわ」
「ほぉえー」
「そういうバカみたいなところが雰囲気をぶち壊すのよ。それはそれでよいと思うけど、カリスマに関してはないでしょうね」
「リコンフィグは?」
「あるでしょう。そういう風に育てられたのはあるでしょうけど、人を操り、人に気遣い、知性がある。少なくとも同世代からは抜きん出ているわ」
「じゃあアンバーオックスさんは逆カリスマあるんだ」
「ふざけんな」
パンチが腹部へヒットした。
「暴力反対。警察呼ぶよ」
「貴方も言葉の暴力をしたのだからお互い様よ」
「殴る前に言葉の警察を呼んでほしかった」
「開示請求して、慰謝料をもらう必要があるわね。法廷で会いましょう」
雑談をしてても心は、まるで深い湖の底のように動かない。波一つ立たず、ただ冷たく澄んでいる。私は、自分が今抱きしめている少女の体温を、確かに感じ取っていた。
アンバーオックスの震えが収まっていく感触、涙の熱さ、荒かった呼吸が徐々に整っていくリズム──すべてを、正確に観測している。でも、それに対して何の感情も湧かない。
喜びはない。悲しみはない。達成感も、罪悪感も、優越感も、同情も──ゼロ。
ただ、淡々と「状況が改善している」というデータを認識しているだけ。
これでいい。
頭の中で、静かに結論が出力される。アンバーオックスの心理状態は安定方向へシフトした。
私への信頼度が上昇した。
生活の高品質維持に寄与する。
私のエネルギー消費は許容範囲内。
すべては計算通り。
私は、自分が「感情の翻訳機」として機能していることを、完全に自覚していた。
アンバーオックスが求めているもの──受け止められること、温もり、ただ隣にいてくれる存在──それを提供している。
スキルとして、完璧に。でも、同時に、どこかで別の考えが並行して走っている。
「私は、これで本当にいいのかな」
それは、葛藤と呼ぶにはあまりにも静かな問いだった。
感情がないわけではない。
私は、感情を持てないわけではない。ただ、それを「感じる」ことはしても、思考を回さない。
感情は誠実に受け止めて、それを由来とする思考は極端に削ぎ落としてし、必要最低限に抑えている。
なぜなら、感情を受け止めるのではなく、感情が発生源の思考に振り回されることは、非効率だから。
後悔は無駄。
恥は無駄。
怒りは無駄。
過度な喜びさえ、長期最適化の妨げになる。
失敗はデータ。
努力は投資。
人間関係は、生活の高品質維持のためのリソース配分。だから、感情を感じることを許し、受け止めることはする。しかしそれに付随する思考は極限まで削ぎ落としている。
例えば【友人が嫌がることを言ったと感じて落ち込む】ここまで受け止める。だけどそこから派生する【だから、私は最低だ。相手のためにも、もう話すのはやめよう】みたいな思考は中断する。しかし、今この瞬間、アンバーオックスの涙が自分の制服に染み込んでいく感触を味わいながら、私はかすかな違和感を検知していた。
私は、アンバーオックスを本当に「大切」に思っているのか?
答えは、即座に出る。──思っていない。少なくとも、世間一般が言う「大切」という感情の形では、思っていない。
アンバーオックスは、インフェクションの生活影響圏に属する高品質な存在だ。信頼できる。価値が高い。維持すべきリソースだ。だから、守る。支える。必要なら、こうして抱きしめる。でも、それは「好きだから」ではない。
「好き」という感情を、インフェクションはほとんど使わない。
好きも嫌いも、すべて「現状に合っているか」「長期的にプラスか」で判断する。
感情を優先すると、判断が歪む。だから、感情を後回しにする。いや、正確には──コミュニケーションスキルを意図して使用するときに感情を、ほとんど起動させない。
でも、だからこそ、時々、違和感が浮かぶ。
「ねぇ、インフェクション」
「なぁに。アンバーオックスさん」
「貴方は、人を好きになることはあるの?」
「私が誰かを本当に好きになったことがあるのか……難しい質問してきますね、アンバーオックスさん」
「貴方の言葉を借りるとして、好きになる努力をするをするということは、最初から誰も好きではない、ということよね。私やリコンフィグ、バレンフラワーも、好きではない。それが今の貴方。人間関係のデフォルト」
「んー、誰かと夜通しゲームをするあの時間は、楽しいから好きだよ」
「それは楽しいという感情でしょう。誰かと、ではなく。一緒にゲームできるならリコンフィグでも、アンバーオックスでも、もっといえばバレンフラワーでも良い。貴方はきっと、誰でも良いのだと思う」
「痛いところを突いてくるね、最適なリソース配分で高リターン状態が発生するなら、特定の誰かではなくてよい、というのは当たりではあるかもしれない」
「貴方は誰かと深く繋がりたいと思うことはあるの?」
そういう問いに対する答えは、いつも同じ。
──どちらでもいい。なぜなら、結果として幸福度が高く、エネルギー漏れがなく、自由度が高いなら、そっちを選ぶ。
これ以上に応用ができる価値観を変える必要はない。
感情に振り回されず、競争に囚われず、自分のルールだけで淡々と生きる。戦わない自由を選んだ、静かな先駆者。だから、この違和感さえも、ただの「データ」として処理する。
「そういうのは曖昧にしておくのが華だと、私は思う。白か黒か。上か下か。正か負か。そういうのは曖昧だから関係は廻るんだよ。もし決めようとしたら、摩擦が起こる。それに見合うリターンがなければ決める必要はないね」
私は、そっとアンバーオックスの背中をもう一度撫でた。アンバーオックスが小さく息を吐き、ようやく顔を上げた。赤い瞳は腫れ、涙の跡が残っている。でも、表情は少しだけ穏やかになっていた。
「インフェクションは、変ね。すごく変。だけど感謝するわ。気持ちは楽にならないし、何かの悩みは解決したわけでもないけど、もしそんな私と関わる余裕があるなら、友達になりましょう」
掠れた声で、アンバーオックスが呟く。私は、優しく微笑んだ。
「……うん」
声は柔らかく、温かい。完璧に。でも、その微笑みの奥で、インフェクションの内側は、相変わらず静かなままだった。
「て、え? 私とアンバーオックスさん友達じゃなかったの?」
「同じグループの知り合いでしょう?」
「友達の友達的な?」
「リコンフィグを中心としたね。そもそもインフェクションと会話したことあんまりないし」
「それはそう!! んもー、しょうがないなぁ。親友、なりますか」
「いや、友達って言ってるわよね。貴方、わざとかもしれないけどそういう頭の悪い冗談やめた方がいいわよ」
「これもね、ちゃんとしたスキルなんだよ。変なヤツというか、弱い部分を見せることで相手を油断させて精神の隙を作る技術なのさ!!」
「本当に?」
「独自に編み出した自己流の方法だけどね!!」
「エビデンスがないなら、ちゃんとしたスキルでは無いわ。貴方の妄想が生み出した民間療法的よ」
「だめ?」
「私には通用しないわ」
「ATフィード強いにゃー」
「ゼルエル並みだと自負しているわ」
「最強の拒絶タイプか……!」
「貴方なんて一瞬で首チョンパできるわ」
「アニメ版!?」
「貴方は新劇版なのね」
「マリ好き」
「私は旧劇のアスカ」
「らしいね」
「貴方も、らしい、わ」
雑談しつつ、帰宅することになった。
私は、率直に思った。
簡単だった。
リコンフィグも、アンバーオックスも二人とも、私から見れば、優れた性能を持った存在だった。
リコンフィグは、圧倒的な美貌と才能、完璧な振る舞い、周囲を自然に惹きつけるカリスマ性。誰もが憧れる「スーパーダーリン」。
王国のお嬢様として生まれながらにして華やかな光を放ち、どんな期待も上回る成果を出し続ける実行力。
アンバーオックスに至っては、貧乏というハンデを負けず嫌いと鋼のような努力で埋めようとする執念。
一度決めた役割を絶対に投げ出さない義理堅さ。逆境でも表情を変えず、淡々と継続する意志の強さ。
どちらも「高品質」と評価するに値する存在だった。しかし──精神のバランスは、ひどく歪んでいた。
リコンフィグの歪みは、あまりにも明らかだった。「完璧でなければ愛されない」という強迫観念。称賛という薬なしでは立っていられない脆さ。
本音や弱さを徹底的に隠し、仮面を外すことを極度に恐れる防衛機制。彼女が求めるのは、「ただの私でも受け止めてくれる人」。
崇拗なまでに称賛を欲し、途切れると無価値感に襲われる心の穴。
アンバーオックスの歪みも、同じく一目でわかった。
「努力すればいつか報われる」という幻想に縋り、自己犠牲の鎖で自分を縛り続ける構造。
リコンフィグとの比較でしか自己価値を測れず、劣等感が心を蝕む。弱音を誰にも見せられず、一人で抱え込む孤立。
彼女が求めるのは、「私の弱さを責めず、ただ隣にいてくれる人」。
鋼の意志の裏側にある、限界に近い疲弊と諦め。
私には、すべてが見えた。
弱点の位置。
心の隙間。
欲しい言葉の種類。
安らぐ空間の条件。
信頼を築く最適なタイミングと距離感。だから、干渉は──本当に、簡単だった。
リコンフィグに対しては、少しずつ仮面を緩めさせる言葉を選ぶ。
「リコンフィグは完璧じゃなくても、十分に素敵だよ。少しだけ完璧をやめよう」と称賛依存の穴を別の形で埋めてやる。
わがままを許容し、弱さを試すように見せ始めた瞬間を、逃さず受け止める。
アンバーオックスに対しては、今日のように、ただ抱きしめる。言葉は最小限に。沈黙と温もりで、鋼の意志を必要な分だけ溶かしてやる。
弱音を零した瞬間を、責めず、ただのデータとして処理し、色々な角度から意見を持ち込み、一つに絞る必要はない最適な安心を提供する。
どちらも、苦労はしなかった。
知識と観察力と、過去の人間関係データ、協力プレイで培った心理操作の経験──それらを統合すれば、誰でもできることだ。いや、誰でもではない。
大多数の人は、自分の感情やエゴや不安を混ぜてしまう。欲が出る。同情が強すぎる。見下してしまう。優越感を隠せない。でも、私は違う。
スキルを使うときは感情を極限まで絞り、純粋に「最適解」だけを実行する。だからこそ、干渉は簡単で、効果は最大だった。
リコンフィグの仮面を、少しずつ外れやすくするのも。アンバーオックスの心の鎧を、必要な分だけ剥がすのも。二人ともこちらの影響圏に取り込み、維持し、さらに高品質な状態に導く──それが、インフェクションの役割だった。
クラスの隠れた安定装置として、心理的安全性を死守し、感情の翻訳機として機能し、信頼の橋渡しをする。
すべてを、淡々と、完璧に。
私は、自分のこの能力に──深い、深い誇りと、絶対的な自信を持っていた。
私は、彼女たちを救える。
私は、彼女たちを、もっと輝く状態に最適化できる。
私は隠れ損失を防ぎ、幸福を最大化している。
それは、自惚れではない。傲慢でもない。ただの、冷徹な事実認識。
「貴方は、どういう人になりたい?」
「命を燃やして光になる。誰かの為に。みんなの為に。光への道標として太陽へ至る光の翼を持てるように。私に関わる全ての人間が、光に向かって飛べるように。私はここにいる。貴方を照らし、陰から陽へ。前を向いて歩いていく。そんな世界にしたいと願う」
「ポエマーね。私は、世界ではなく、貴方の在り方を質問したのだけど」
「全てを照らす光になりたい。陰なんて認めないし、許さない……とは言うけれど、ある程度の余裕は必要だと思うインフェクションちゃんなのでした」
「ふぅん、余裕があって良いんじゃない? 傲慢さと謙虚さが同棲しているわ」
「ケンカップル的な? バカみたいだね、アンバーオックスさん」
「このまま生きて帰れると思うな」
私はアンバーオックスがカバンを肩にかけ、ドアに向かう後ろ姿を見送りながら、静かに微笑んだ。
「……気をつけて帰ってね、アンバーオックスさん。また明日」
アンバーオックスが振り返り、小さく、でも確かに頷いた。
「……ええ。インフェクションも。気をつけなさい」
夜の闇を見つめながら、彼女の内側は、再び完全に静かになっていた。さっきの、かすかなひずみも、もうどこにも残っていない。
「私が輝く必要はない。みんなが輝く試金石になれば良い」
国に、専門家に、税金を払う国民に、みんなに助けられてここにいる。その恩返しをするとするならば、みんなが笑えるように整える環境整備装置としての役割を全うする。
私は光になれているだろうか?
みんなを照らせる太陽になれているだろうか?
夜の中で、誰にも見られることなく、ただ強く、ただ美しく、輝くことを私は祈る。そして、それは、あの更生してから時から決して揺らぐことはない祈りだった。
なぜなら、それが、インフェクションの、魂の核だから。




