表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/21

7話:心の天候



 リコンフィグと一緒に遊んだ休日から数日後。

 魔法学園。

 放課後の教室は、静寂に包まれていた。窓から差し込む西陽が、長い影を床に落としている。


 机の列は整然と並び、黒板には今日の数学の板書がまだ残ったまま。三角関数とベクトルの式が、チョークの白い線で淡々と綴られ、かすかに粉の匂いが漂っていた。


 教室の時計の針が、ゆっくりと時を刻む音だけが、静けさを際立たせている。ほとんどの生徒が帰宅し、外の喧騒も遠く聞こえるだけ。


 私は一人、窓際の自分の席に座り、ノートを広げてぼんやりと外を眺めていた。


 校庭ではサッカー部の生徒たちがグラウンドを走り、夕方の風が木の葉を軽く揺らしている。


 そんなとき、教室の引き戸が静かに開いた。入ってきたのはアンバーオックスだった。長い黒髪が肩から背中へと滑らかに落ち、赤い瞳が私をまっすぐに捉える。


「やっほー、紗月さん」

「……待たせたわね、インフェクション」


 制服のブレザーは少し色褪せていて、リボンは固く結ばれている。

 彼女の足音はほとんど響かず、クールな表情のまま、私の隣の机まで近づいてきた。


「それで、どうしたの? 話したい事がある、なんて。まさか告白?」

「…………」


 アンバーオックスは無言でその机に腰をかけ、腕を組んだ。視線は私から逸らさず、まるで何かを確かめるようにじっと見つめている。少しの沈黙の後、

 彼女は低い、落ち着いた声で切り出した。


「最近、随分とリコンフィグと一緒にいるわね。アイツに惚れた?」


 からかうような響きはなく、ただ事実を確認するような、淡々とした問いだった。私はノートをゆっくりと閉じ、軽く首を振った。


「いいや、別に?」


 アンバーオックスの眉が、わずかに寄せられた。赤い瞳に、ほんの一瞬、探るような光が宿る。


「でも付き合ってるんでしょ?」

「うん、そうだよ」


 その言葉に、アンバーオックスの表情が微かに変わった。クールな仮面の下で、何かが動いたのがわかった。

 彼女は少しだけ上体を乗り出し、声を一層低くした。


「ふざけてるの?」

「ふざけてないよ、アンバーオックス」


 私は穏やかに、でもはっきりと答えた。アンバーオックスは数秒、私をじっと見つめたまま動かなかった。長い黒髪が、彼女が息を吐くたびに軽く揺れる。

 彼女の赤い瞳は、私の表情の隅々まで読み取ろうとしているようだった。やがて、彼女は静かに、しかし鋭く問うた。


「好きでもない相手と恋人になるって、どういうこと? あいつの金や身体が目当てってこと?」


 私は窓の外に視線を移し、夕陽に染まる校庭を眺めながら、ゆっくりと答えた。


「好きになりたいから付き合うんだよ」


 その言葉が教室に落ちた瞬間、短い、でも重い沈黙が訪れた。アンバーオックスはゆっくりと息を吐き、視線を床に落とした。

 長い睫毛が影を作り、彼女の表情は読めない。ただ、肩がわずかに固くなったのが、私にはわかった。


 アンバーオックスは腕を組み、静かに、しかしはっきりと口を開いた。


「普通は、好きだから恋人になるものでしょう」


 彼女の声は低く、感情を抑えている。でも、その奥に、わずかな苛立ちと、理解できないという戸惑いが混じっているのがわかった。


「一般的には、それがスタンダードなのは認めるよ。でも、ね」


 私はゆっくりと視線を彼女に戻し、穏やかに答えた。


「私は違うよ。好きじゃなくても、恋人になることはある。そこに『好きになりたい』という意思があれば、それで十分本物だと思う」


 アンバーオックスは眉をわずかに寄せ、私の言葉を噛みしめるように少し黙った。


「……どういうこと? 好きになりたいから付き合う? それは時間の無駄でしょう。好きじゃないのに、好きになる可能性がないかもしれないのに、どうして付き合うの?」

「好きになる前から、完璧に好きでなければならないなんて、決めつけすぎだと私は思う。余白があっても良いんだよ。一緒に時間を過ごして、相手を知って、少しずつ心が動いていくことだって、あるよ。最初から全部決まってる恋なんて、むしろ不自然じゃない?」


 アンバーオックスは視線を窓の外に逸らし、夕陽を見つめた。


「運命とか、歴史の修正力。神による導き。ライトノベルとか、アニメとか、それに夢を見るのは面白いし好きだけど、現実はそこまで空想的ではないと思うんだ。努力で好きになる。それも選択肢としてはありじゃない?」

「でも……それじゃ、相手に失礼だと思うわ。好きでもないのに恋人になるって、遊びみたいに聞こえるもの」


 私は小さく首を振った。


「遊びじゃないよ。私は真剣に『この人を好きになりたい』と思ってる。だから付き合う。その意思がある限り、嘘じゃないし、遊びでもない」


 アンバーオックスはゆっくりと私の方に顔を戻した。

 赤い瞳が、静かに揺れている。


「努力で好きになれるものなの? 感情って、そんなに都合よく動くとでも?」

「動くよ。少なくとも、私はそう信じてる。

 好きになるって、最初から突然落ちるものだけじゃない。一緒にいて、相手の良いところを見つけて、心を開いて……少しずつ、積み重ねていくものだってある」


 信頼とは、信用とは、友人とは、恋人とはそういう形もある。

 アンバーオックスは息を吐き、机の上に置いた手を軽く握った。


「……私は、そうは思えない。好きじゃなかったら、最初から近づかない。好きだから、そばにいたいと思う。それが普通で」


 私は微笑んで、静かに続けた。


「それも一つの正しさだよ、アンバーオックスの考えは。でも、私は違う道を選んでるだけ。どちらが正しいとかじゃなくて、ただ、人の心の形はいろいろあるってこと。私の恋人になって好きになる理論と、好きだから恋人という理論は両立する」


 教室に、短い沈黙が落ちた。夕陽がさらに傾き、二人の影を長く伸ばしていく。アンバーオックスは立ち上がり、ゆっくりとドアの方へ向かった。振り返らず、背中越しに小さく呟いた。


「……よくわからないけど、インフェクションらしい、とは思う。貴方は浮世離れしている癖に、人の距離感はしっかりと管理する。だからこそみんな貴方に心を開くのでしょうね」


 それだけ言って、彼女は席を立った。


「羨ましいわ」


 小さく声が聞こえた。

 私はすぐに動いた。荒々しくアンバーオックスの手を掴む。アンバーオックスは驚いたように、むしろ怖がったように体が硬直していた。


「なら、もう少し話をしよう。アンバーオックスの話をしよう。私に貴方を好きになる努力をさせて」

「……変な人ね、貴方は」


 私は再び窓の外を見た。空は茜色に燃え、遠くで部活動の声が小さく響いている。私の考えは、変わらない。


「貴方が悪意と敵意を持ってリコンフィグに近づいたなら、社会的抹殺を考えていたけど」

「怖いこと考えてる」

「あくまで、貴方の価値観に従っているだけなら、私が言うことはないわ。その末路がどんなカタチになっても」

「ですか」

「今日は疲れたから帰るわ。勉強もしなくちゃいけないし」

「了解です。また時間がある時、アンバーオックスの心を聞かせてください」

「……貴方はリコンフィグとは違うタイプの陽キャね。支配的ではないけど、こちらの心に踏み込んでくる感じ」

「そんな私は嫌い?」

「返答は保留しとくわ」


 そういってアンバーオックスは帰っていった。

 好きだから恋人になるのか。

 恋人になったあとで好きになろうとするのか。

 私は好きになる意思があるなら、それが恋の始まりで、十分に本物で、価値があると信じている。



 一人の残された教室の片隅で、私は一人、静かに目を閉じた。夕陽の残光がまぶたの裏に赤く滲み、桃色の髪の毛先が頰を軽くくすぐる。


 教室の空気はもう冷え始めていて、遠くで部活動の終わった生徒たちの笑い声が、かすかに聞こえては消えていく。


 私は、自分の考え方を、もう一度、深く深く、沈潜するように観察する。


 「好きになりたいから付き合う」この一言が、どれほど異質かを、今、骨の髄まで味わっている。大多数の人は、恋を「感情の爆発」として生きている。


 胸が締めつけられるような痛み、息が詰まるような喜び、相手の存在が自分を定義するような渇望。


 それがなければ「本物じゃない」と信じ、それがない関係を「偽物」と呼ぶ。でも私は、違う。私は感情を、先に立たせない。

 感情は、後からついてくるもの。


 関係は、まず投資として始まり、時間をかけてリターンを測る。好きになるかどうかは、結果であって、条件ではない。

 それは、冷たいと言われるだろう。

 計算高いと言われるだろう。

 人間らしさが欠けていると言われるだろう。実際、アンバーオックスの赤い瞳に浮かんだ、あの戸惑いは、まさにそれだった。


 彼女の性質は一言で言うなら公平性だろう。好きであることが前提としてあり、その上で努力でお互いの空白を埋めようとし、感情で縛られ、時間を犠牲にすることでつなぎ止めようとしている。だから、私の言葉は、彼女の世界のルールを根底から否定するものに聞こえたはずだ。


 私は、戦わないことを選んだ。

 競争しない。

 誰かを好きにならなければいけない、という義務にも従わない。

 外部の評価に、自分の価値を一ミリも預けない。だから、私は自由だ。失敗しても、恥を感じない。拒絶されても、後悔しない。ただ、そこからデータを抽出し、次に活かす。


 痛みすら、観察し、最適対応を更新する。


 それは、達観ではない。ただの、戦略だ。でも、この戦略が、私をここまで連れてきた。

 16歳で、私はもう、多くの人が死ぬまでたどり着けない場所に立っている。感情の嵐に巻き込まれず、他者の渇望に振り回されず、自分の規範だけを、静かに、確実に、積み重ね続ける。


 私は、異質だ。それは、痛いほど自覚している。でも、同時に、この異質さが、私の最大の強さでもあることを、


 誰よりも深く知っている。私は、誰も追いつけない速度で、自分だけの道を進んでいる。


 合わない人は、自然に離れていく。残る人は、必然的に、私にとってかけがえのない存在になる。


 私は、孤独を恐れない。むしろ、一人を、完全に受け入れている。夜中にスマホ越しに交わす、友人との、たった一言のやり取りだけで、心が満ちる。


 私は、もう十分に、幸せだ。これ以上、何かを求める必要はない。私は、ただ、このまま、自分のペースで、自分のルールで、静かに、深く、生きていく。


 髪を指で軽く巻きながら、私は自分の笑顔を、心の中で、優しく肯定した。


 これが、私の当たり前。そして、それは、誰にも奪えない、奇跡のような、完全な自由だ。


 放課後の教室で交わされた、アンバーオックスと私の会話は、二人の恋愛観の根本的な違いを浮き彫りにした。

 アンバーオックスの恋愛観は、極めて純粋で古典的だ。


 彼女にとって「好き」という感情は、恋の前提条件であり、絶対的な出発点である。

 好きだからこそ相手に近づき、好きだからこそそばにいたいと願い、好きだからこそ恋人になる。


 感情が先に立ち、その感情がなければ関係は成立しない。

 それは、努力や比較、犠牲を重ねてきた彼女の人生観とも深く結びついている。


 彼女は自分の価値を「努力の結果」や「相手にとっての必要性」で測りがちだからこそ、恋愛においても「自然に湧き上がる好き」という、コントロール不能な感情にこそ、純粋な真実を見出したいのだろう。


 好きでない関係は、彼女にとって「嘘」や「遊び」にしか見えない。それは、彼女がこれまで報われない努力を続けてきた経験からくる、「本物でなければ意味がない」という、頑ななまでの誠実さの表れでもあるように感じた。


 一方、私──インフェクションの恋愛観は、もっと流動的で、プロセスを重視するものだ。


 私は「好き」という感情を、最初から完全に備えている必要はないと考える。むしろ、恋人になるという関係を選ぶこと自体に「好きになりたい」という積極的な意思があれば、その恋は十分に本物だと信じている。


 一緒に時間を過ごし、相手の新たな一面を知り、互いに心を開いていく中で、感情は後から育っていくものだと、私は経験的に知っている。


 最初から「完璧に好き」でなければならないというルールは、かえって恋の可能性を狭めてしまうと私は思う。


 好きになるプロセスそのものを楽しむこと、相手を「天候」のように受け入れながら、自分の中で少しずつ変化していく感覚を、私は純粋な喜びとして味わっている。

 だからこそ、私は「好きになりたいから付き合う」という選択を、何の矛盾も感じずに自然に選ぶ。


 アンバーオックスの恋愛観は「感情優先・瞬間的な純粋さ」を求める、火のように熱く直線的なもの。


 私の恋愛観は「意思優先・過程の積み重ね」を楽しむ、水のように柔らかく流動的なもの。


 どちらが正しいという話ではない。ただ、二人の価値観がぶつかった瞬間、教室の空気は少しだけ重くなり、夕陽が沈むまでの短い時間、互いの違いが静かに、しかし確かに浮かび上がったのを感じたのだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ