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11話:みんなの天使



「バレンフラワーさん、今日って暇? 遊びに行かない?」


 リコンフィグとの蜜月から数日後。

 私ことインフェクションは土曜日の午後に、バレンフラワーさんと一緒に遊びを誘った。


 娯楽施設のエントランスは、冬の柔らかな陽光がガラス屋根を通って淡く差し込んでいた。


 少し早めに着いてしまった私は、柱の陰に寄りかかりながら魔法道具をいじっていた。通知はほとんど来ない。来るとしても、フレンドからの「今夜遊ぶ?」くらいだ。


 それで十分ではあるが、少し寂しいのはなぜだろう。

 私は大勢の雑音より、静かな一対一を好む。


 ふと視線を上げると、遠くからバレンフラワーさんが小走りで近づいてくるのが見えた。腰まで届くベージュのウェーブヘアが、歩くたびにふわりふわりと優しく揺れる。

 蜂蜜色の瞳が私を捉えた瞬間、彼女の表情がぱっと花開いた。まるで、ずっと待っていた光を見つけたみたいに。


「インフェクションちゃん……! ごめん、ちょっと遅れちゃった!」


 息を切らしながら、でも嬉しそうに笑う。

 私は自然に微笑んで、彼女の手を軽く引いた。


「大丈夫だよ。ちょうど今来たところだから。じゃあ、行こっか。今日はのんびり回ろうね」


 バレンフラワーさんの手は少し冷たかった。外を歩いてきたからだろう。でも、私の指が触れた途端、ほんのり温かさが伝わってくるのがわかった。


 ……この子の温度、好きだ。


 最初に足を踏み入れたのは、3階の流行の洋服だった。冬物のセールが始まっていて、ふんわりしたニットやコートが所狭しと並んでいる。

 バレンフラワーさんはすぐに淡いラベンダー色のニットを手に取って、鏡の前でそっと合わせてみた。


「これ……どうかな?」


 鏡越しに、私の方をちらちら見る瞳が、少し不安げで、少し期待でいっぱいだ。私は真剣に彼女の姿を眺めてから、ゆっくり頷いた。


「すごく似合う。バレンフラワーさんの優しい色合いと、ふんわりした雰囲気にぴったりだね。袖の長さもちょうどいいし、首元が少し開いてるから、華奢な鎖骨がきれいに見える。

買っちゃえば?」


 バレンフラワーの頰が、ぽっと赤くなった。


「インフェクションちゃんがそう言ってくれるなら……」


 彼女は照れくさそうに目を伏せて、でも嬉しそうにニットを胸に抱きしめた。その小さな仕草を見るたびに、私の胸の奥がくすぐったくなる。


 私はこういう瞬間が、静かに好きだ。誰かが、私の言葉一つで安心したり、笑顔になったりする瞬間。


 次に移動したのは、1階の物産展コーナー。

 冬の味覚が並ぶ特設会場で、試食のクッキーやホットチョコレートの香りが漂っている。

 二人で小さな紙皿にクッキーを乗せて分け合いながら、棚をゆっくり回った。バレンフラワーさんが、私の横顔をじっと見つめているのに気づいた。


 視線を返すと、彼女は少し慌てたように目を逸らして、でも小さな声でつぶやいた。


「……インフェクションちゃんが誘ってくれて、本当に嬉しい。私、こういう時間、ずっと欲しかったんだ……可愛い女の子と一緒に買い物行くの、すごい好きで、憧れで、大好きなんだ」


 私は少し驚いて、でもすぐに柔らかく微笑んだ。


「私も、バレンフラワーさんと一緒だと楽しいよ。静かで、心地いい。安心する」


 本当のことだ。

 私は基本的に、大勢でワイワイ騒ぐのは苦手。エネルギーがどんどん漏れていく感覚が嫌いだ。

でもバレンフラワーさんは違う。


 彼女の優しさは、私の内側を静かに、優しく満たしてくれる。一緒にいると、無駄な防衛も、調整もいらない。ただ、そこにいられるだけで、十分に高品質な体験を提供してくる。


 コスメ売り場に移動した頃には、すでに夕方の柔らかな光が差し込み始めていた。バレンフラワーさんカウンターで、淡いピンクのリップを試しに塗ってみる。

 鏡越しに、私を覗き込む。


「これ、かわいいかな……?」


 唇を軽くすぼめて、恥ずかしそうに微笑む。その仕草があまりにも無防備で、私は思わず息を呑んだ。


「うん。すごく可愛い。自然で、バレンフラワーさんらしい色だよ。肌の透明感がより引き立つし、笑ったときの柔らかさが強調される。……似合ってるよ」


 バレンフラワーさんの耳まで真っ赤になって、俯いてしまった。


「インフェクションちゃんにそう言われると……なんか、信じちゃう」


 ……本当に、素直で可愛いな。この子は。

 その時、少し先の通路でクラスメイトの男子生徒とばったり出会った。彼は小さな紙袋を大事そうに持っていて、少し照れくさそうに笑う。


「よお、インフェクションにバレンフラワーか。珍しい組み合わせだな」

「こんにちは」


 私はいつもの落ち着いた調子で挨拶し、視線を紙袋に落とした。


「それは?」

「彼女の誕プレ。やっと決めたんだよね。アクセサリーなんだけど……どれがいいか迷ってさ」


 私は興味深そうに首を傾げた。別に深い興味があるわけじゃない。ただ、目の前の人間が嬉しそうにしているなら、聞いてあげるのが私の癖みたいなものだ。


「へえ、どんなの買ったの? ちょっと見せてよ。参考にしたいかも」


 彼が嬉しそうに袋を開けようとした瞬間、隣でバレンフラワーの空気が、ぴたりと変わった。


「……インフェクションちゃん」


 小さな、でもはっきりした声。

 私はすぐに振り返った。バレンフラワーさんは下を向いて、指先をぎゅっと握りしめている。

 頰が赤くて、瞳が少し潤んでいる。


「今日は……二人で遊びたいの。私、インフェクションちゃんとだけ、もっと一緒にいたくて……また今度でも良いかな?」


 その声は震えていた。いつもみんなのために抑えている、本当の気持ち。わがままなんて言わないはずのバレンフラワーさんが、初めて私に対して「自分だけを見て」と主張した瞬間だった。私は一瞬で理解した。そして、心のどこかで、静かに喜んだ。私は男子生徒に軽く頭を下げた。


「ごめんね、また学校で話聞かせて。彼女さん、きっと喜ぶよ」

「あ、ああ……わかった。じゃあまたな」


 彼が少し拍子抜けしたように去っていくと、私はゆっくりバレンフラワーさんの方を向き直した。


「……ありがとう、バレンフラワーさん。ちゃんと伝えてくれて」


 彼女は顔を上げられなくて、蚊の鳴くような声でつぶやく。


「ごめんね……わがまま言っちゃって……私、こんなこと言うの、初めてで……こういう気持ちを言うのは苦手で」

「ううん。嬉しいよ」


 私はそっと、彼女の手に自分の手を重ねた。冷たかった指先が、少しずつ温かくなっていくのを感じながら。


「私も、今日はバレンフラワーさんと二人きりがいいと思ってたから。他の誰とも、話したくなかった。嫌なことを嫌ということは大切だけど、それを優しく伝えるのは難しいからね。そういうバレンフラワーさんの配慮を、私は好意を抱くよ」


 バレンフラワーさんの瞳がゆっくりと潤んで、小さな、幸せそうな笑顔がこぼれた。その笑顔があまりにも柔らかくて、私は思わず、もう一度手を握り直した。


 少し強めに、確かめるように。


 ……この子は、私にとって特別だと認定しても良いのかもしれない。賑やかなモールの通路を、二人でゆっくり歩きながら、私は静かに思う。


 大勢の人間の中で、こんなに「ここにいてもいい」と思える相手がいること。

 それだけで、私の世界は十分に満たされている。今日は、誰にも邪魔されない。バレンフラワーさんの温かさと、私の静かな安心感だけ。それで、十分だった。いや、それ以上だった。


 娯楽施設の3階、フードコート脇の休憩スペースは、午後4時を少し過ぎた頃の穏やかな時間帯だった。


 冬の陽光が大きなガラス窓から斜めに差し込み、床タイルに淡いオレンジの帯を引いている。

遠くで魔法の昇降機が低く唸り、時折通り過ぎる家族連れの笑い声や、店員の呼び込みがぼんやりと混じり合う。


 ピークタイムを過ぎた店内は、人の密度が緩やかになり、どこかほっと息をつけるような静けさが漂っていた。

 バレンフラワーさんと私は、端っこのベンチに並んで座っていた。


 足元にはさっき買ったばかりの小さな紙袋が二つ。淡いピンクのリップが入った袋と、ふんわりしたニットの入った袋。


 バレンフラワーさんは膝の上で両手を固く組み、指を絡めては離すのを無意識に繰り返している。腰まで届くベージュのウェーブヘアが肩に静かに落ち、普段の柔らかな笑顔は影を潜め、代わりに小さな緊張が全身を覆っていた。


 蜂蜜色の瞳は床に落ちたまま、ほとんど瞬きもせずに一点を見つめている。息遣いさえ控えめで、まるで自分の存在をできるだけ小さくしようとしているようだった。


 私は隣で静かに待つ。無理に言葉をかけず、ただ肩を寄せて「ここにいるよ」と伝えるだけ。


 彼女が自分でタイミングを掴むのを、信じて待つ。長い沈黙の後、バレンフラワーさんがゆっくりと息を吸い込んだ。


 声はとても小さく、感情を押し殺したような平坦さで、しかし一つ一つの言葉に重い実感がこもっていた。


「……インフェクションちゃん」

「どうしたの?」


 彼女は一度言葉を切って、唇を軽く噛んだ。


「少し、愚痴を言っても良いかな」

「良いとも。吐き出し給え。インフェクションはバレンフラワーさんを見捨てないし、誰かに個人情報を漏らす人間ではないのだから」


 彼女の指先がスカートの裾を強く摘まむ。布地に細かな皺が寄り、すぐに次の言葉が続く。


「学園では、いつもみんなの潤滑剤でいなきゃって思ってる。誰かが不機嫌なら、私が笑顔で繋げてあげなきゃ。誰かが傷ついてたら、私が先に謝って、場を和ませなきゃ。誰かが孤立しそうなら、私がそっと話しかけて、輪の中に引き戻さなきゃ。それが……私の役割だって、ずっと思ってた。みんなが笑ってくれるなら、それでいいって……自分に言い聞かせてきた」


 バレンフラワーの瞳が、うっすらと潤み始める。でも彼女は涙をこぼさないよう、必死でまぶたを閉じて堪えている。


「家に帰っても、同じなの。弟たちが騒いで、散らかして、宿題をしないでて遊んでばっかりして……本当は私だって、疲れてるのに。イラついてるのに。頭が痛いのに。それでも『悪いお姉ちゃん』にならなきゃいけなくて。わざと声を荒げて、『ちゃんとやりなさい!』って叱って、怒った顔をして……演技だって、頭ではわかってる。でも、心が……毎回、ぎゅっと締めつけられるみたいに痛い。弟たちのこと、本当は大好きで、守りたいのに……そんな自分が、どんどん嫌いになりそうで」


 声がわずかに震え、彼女は深く息を吸って抑え込む。


「……それなのに、誰にも言えない。こんな気持ちを、誰かに相談したら……『優しいバレンフラワーちゃんが、そんなことで悩むなんて』って、きっとがっかりされる。私は優しくなければいけないのに。みんな、優しさを評価しているから。本当の私を見せたら、みんな困っちゃうかもって……怖くて、怖くて、ずっと一人で抱えてる。夜、布団の中で一人で泣いても、朝になったらまた笑顔を作らなきゃいけなくて……もう、どれだけ頑張っても、心が追いつかなくなってる気がする」


 言葉が途切れる。バレンフラワーさんは深く息を吐き、肩を小さく落とした。感情を爆発させない。静かに、ただ事実を並べるように。私はそっと、彼女の冷たい手に自分の手を重ねた。

 指を絡めて、ゆっくり温かさを伝える。


「……バレンフラワーさん。今、辛い気持ちを話してくれて、本当にありがとう。まずはそれを伝えさせて。バレンフラワーさんは苦しんでいる。辛くて、悲しくて、助けを求めている。それの相手に私を選んでありがとう。それを伝える勇気を持ってくれてありがとう」


 彼女がゆっくり顔を上げる。

 瞳が、私を捉える。

 そこには、いつも隠している脆さが、初めてのように揺れていた。


「まず、ひとつ確認させてほしいんだけど……今のバレンフラワーさんは、『優しい自分でいなきゃ、みんなに愛されない』って強く思ってるよね?」

「……うん……そう、思ってる」

「それと同時に、『怒ったり疲れたりする自分を見せたら、みんな離れていく』『必要とされなくなる』って、すごく怖いんだよね?」


 バレンフラワーさんは小さく頷く。

 唇が震える。


「うん……怖い。優しくない私なんて、誰も必要としてくれないって……ずっと、そう思ってる。そう感じている」


 私は静かに、でもはっきりと言った。


「それはすごく自然な感覚だと、私は思う。否定することはない。受け入れることはないけど、仕方がないと認めても良いと思う。だって、バレンフラワーさんはこれまでずっと、『優しさ』で周りを繋いできたんだもん。それが自分の存在価値だって、信じてきたんだもん。それがなくなったら、みんなが困るんじゃないか……自分の価値がなくなるんじゃないか……って思うのは、当たり前だよ」


 彼女の瞳に、わずかな揺らぎが生まれる。


「でもね、ちょっと一緒に視点を変えてみようか。『優しいバレンフラワー』は、確かにみんなを癒すし、安心させる。すごく大切な役割だよ。でも、それだけがバレンフラワーさんじゃないよね。疲れてイラついて、弟を本気で叱りたいバレンフラワーさんも、泣きたくて仕方ないバレンフラワーさんも、疲れ果てて『もう優しくしたくない』って思うバレンフラワーさんも……全部、本物のバレンフラワーさんの一部だと思う」


 どれか一つが欠けても、バレンフラワーさんじゃなくなる。どれか一つを選んでもバレンフラワーさんではなくなるのと同じように。

 あらゆる可能性がある状況下では、好きだけど嫌いみたいな矛盾が成立する。


「……でも……それを見せたら……みんな、がっかりするかも……」

「がっかりする、か。確かにそうかも知れない。実際にがっかりする人間は発生する。それを前提に考えよう。今のバレンフラワーさんは私に話した。それで、私にじゃあ見せたとして、何が起こった? 私は何をしている? どんな人間に見える?」


 バレンフラワーさんの瞳が、私を見る。


「私は今、ここで優しくないバレンフラワーさんの話を聞いている。それで私は離れたかな? もうバレンフラワーさんと話したくないって、言ったかな? 私は、バレンフラワーさんに何を伝え、何を想い、何をしている? バレンフラワーさんが考え、評価して、決めてほしい」

「インフェクションちゃんは話を聞いてくれている。悪い私を、それも私だと言ってくれている。否定しないでくれる」

「そうだね、その通りだ。それに私はバレンフラワーさんを知りたいと思っているよ。だって、バレンフラワーさんが『全部』を見せてくれるってことは、私を信頼してくれてる証拠だから。それって、私にとってはすごく嬉しいことなんだ」


バレンフラワーさんの指が、私の手を強く握り返す。


「バレンフラワーの心の弱点って、たぶん『境界がなくて、他人の期待に飲み込まれやすい』ところだと思う。だから、いつも自動的に『自分が我慢すればみんな幸せ』って思っちゃう。責任能力が高く、

でもそれは扱いを間違えると、バレンフラワーの持つ優しさが、バレンフラワー自身が一番傷つける結果になる。優しすぎるがゆえに、自分を切り売りしてる状態」


 彼女の息が、わずかに乱れる。


「それは健康的ではない。だから、提案がある。少しずつでいいから、『ここでは、優しくなくていい』って場所を作ろう。私との間だけでもいい。『今日は疲れた』って言ってもいい。『弟に本気で腹立った』って言ってもいい。『もう、優しくしたくない』って、言ってもいい。『今、すごく弱っている』って、言ってもいい」

「……言っても……いいの? 本当に……?」

「うん。言ってくれたら、私は今のバレンフラワーさんはそういう状態なんだって、ただ受け止めるだけ。がっかりしない。責めない。驚かない。ただ、聞いて、そばにいる。それで、バレンフラワーの心の重さが、少しずつ溶けていくと思う。そう思うから、提案として、少しずつでいいから、試してみない?」


 バレンフラワーの瞳から、ぽろりと一粒、涙がこぼれた。今度は拭おうとせず、ただ私の手を握り続ける。小さな嗚咽が、喉の奥から漏れる。

「……インフェクションちゃん……ありがとう。本当に……ありがとう。私……少し、試してみたい。ここでだけでも……本当の気持ち、言ってみてもいい?」


 私は微笑んで、彼女の肩に軽く頭を寄せた。


「もちろん。いつでも、全部聞くよ。バレンフラワーさんが、バレンフラワーさんのままでいられるように……私がいるから。ゆっくりでいい。一歩ずつでいい。まずは弱い自分を認めて、それを否定しない私に明かしてほしい。優しさだけがバレンフラワーさんの価値ではないと、私は自信を持って宣言する」


モールの喧騒は遠く、二人のベンチだけが、温かな静けさに包まれていた。バレンフラワーの肩から、ゆっくりと力が抜けていく。

固く閉ざされていた心の殻が、少しずつ、溶け始めていた。

ここでは、彼女は「みんなの天使」が崩壊していく。ただ、ありのままの16歳の少女になっていた。

少しずつ、生きるため息をしていけた。

それだけで、十分だと、私は感じた。


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