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5話 言葉の波紋

 朝の光が、言葉の都に新しい一日を告げていた。


 宿屋の窓から差し込む陽光が、シオリのベッドを黄金色に染める。結城シオリは夢の中でペンダントを握りしめていたらしく、手のひらにじんわりとした熱が残っていた。その熱さに目を覚まし、不安が胸を締め付ける。


 (また…あの影が近づいてる?)


 尖塔に潜む何者か、図書館で感じた視線、そしてカインの警告——「お前の日本語を狙っている者がいる」。その言葉が頭の中で反響し、背筋に冷たいものが走る。


 「見られてる感じ…本当に怖い」


 無意識の呟きに反応するように、ペンダントが淡く光を放つ。机の上の紙がさらさらと音を立てて揺れ、シオリは慌てて深呼吸をした。


 (落ち着いて…制御、制御)


 ドンドンと扉を叩く音が響く。


 「シオリ、朝食だよ!」


 リーファの明るい声が、沈んだ気持ちを吹き飛ばしてくれる。シオリは薄手のカーディガンを羽織り、軋む木の階段を降りていく。


 食堂には燻製肉と焼きたてパンの香ばしい匂いが漂い、朝の活気に満ちていた。リーファはすでにテーブルに羊皮紙を広げ、緑の瞳をキラキラさせている。


 「シオリ、すごい発見したの!」


 赤毛を興奮で揺らしながら、リーファは身を乗り出す。


 「オノマトペって、感情そのものを音にしたものでしょ? 実は古代言霊にも、似たような力があったみたい!」


 「本当!?」


 シオリも目を輝かせる。


 「『ドキッ』とか『ザワザワ』とか、感覚をダイレクトに伝える音のこと?」


 「そう! まさにそれ!」


 リーファは紙を指で叩く。


 「普通の言葉は意味を伝えるけど、オノマトペは感覚に直撃する。それが言霊として発動すると、感情を増幅させて、相手の心や物質に直接響くの!」


 (すごい…日本語にそんな力が)


 カインが静かにお茶を飲んでいる。朝陽を浴びた銀髪はまるで光そのものを紡いだかのように輝き、紫の瞳には思索の色が宿っている。


 (朝からこの美しさは反則すぎる…)


 「訓練を続ける」


 低い声が響き、シオリの鼓動が跳ねる。


 「うん! オノマトペ、試してみたい!」


 「いいだろう」


 カインがわずかに頷く。その仕草さえ絵になるのはなぜだろう。


 リーファがにやりと笑う。


 「カイン、シオリのこと応援してるんでしょ?」


 「…余計なことを」


 カインの耳がほんのり赤く染まる。その反応に、シオリの頬も熱くなった。


 (応援してくれてる…?)


 「今日も広場の外れで?」


 話題を変えようと、シオリはパンを頬張る。温かいパンの味が、緊張をほぐしてくれる。


 「新たな言霊の訓練だ」


 カインが立ち上がる動作も、流れるように優雅だ。


 「私も記録係として同行するよ! オノマトペの力、すごそうだもん!」


 リーファが元気よく手を挙げる。


 カインは小さくため息をつくが、その表情には諦めと、ほんの少しの優しさが混じっている。


 「…勝手にしろ」


 「ほら、本当は楽しみなんでしょ?」


 リーファのウインクに、シオリは思わず笑みをこぼした。


 三人が宿屋を出て広場へ向かうと、朝の空気が肌に心地よかった。商人たちが店の準備を始め、子供たちが路地を駆け回る。平和な朝の風景に、シオリの緊張も少しほぐれる。


 広場の外れにある草原では、朝露をまとった青草が風に揺れ、生命力に満ちていた。土と草の清々しい匂いが鼻腔をくすぐり、空は抜けるような青さだ。


 シオリはペンダントを両手で包み、緊張で手のひらが汗ばむ。


 (オノマトペの力…どんな風に発動するんだろう?)


 カインが黒いコートを脱ぎ、シンプルなシャツ姿になる。風が銀髪を撫で、革手袋に包まれた手が剣の柄に触れる。朝陽を背に立つその姿は、まるで物語から抜け出してきた騎士のようだ。


 (シャツ姿も…本当に絵になる人)


 「言霊の形を、より精密に絞れ」


 カインの声が、訓練の開始を告げる。


 「オノマトペは感情を増幅させる。制御を誤れば、予想以上の暴走を引き起こす」


 「わかった。慎重にやってみる」


 シオリは真剣に頷いた。


 「まずはこれを壊せ」


 カインが地面に木の板を置く。


 「『壊れる』と言え」


 シオリは深く息を吸い、心を落ち着ける。


 「『壊れる』」


 ペンダントが柔らかく光り、板がパキンと音を立てて二つに割れた。


 「やった!」


 「浮かれるな」


 カインの視線が鋭くなる。


 「次はこれだ」


 指差した先には、人の頭ほどもある大きな石。


 「え、そんな大きいの無理だよ!」


 「形を絞れ。感情を制御しろ」


 カインの言葉には、指導者としての厳しさと、シオリを信じる温かさが同居している。


 シオリは目を閉じ、ペンダントに意識を集中させる。祖母の「言葉を大切に」という声が、心の奥で響く。


 「『壊れる』!」


 ペンダントが強く輝き、石が轟音と共に砕け散った。しかし、予想以上の破壊力に地面が唸り声を上げて震動し、草が竜巻のように舞い上がる。


 「きゃっ!」


 シオリは慌てて飛び退いた。


 「制御しろ!」


 カインが瞬時に反応し、銀の糸を放つ。


 「『止』」


 一文字の言霊が空気を切り裂き、暴走していた力が収束する。しかし、カインの革手袋には赤い染みが広がっていた。


 (また傷つけちゃった…)


 「すごい威力だね!」


 リーファが興奮しながら拍手する。


 「でも、ちょっと暴走しちゃったかな」


 「ごめんなさい…また失敗して」


 シオリは肩を落とす。


 「進歩している」


 意外にも、カインの声は優しかった。


 「力の形を掴みつつある。続けろ」


 その言葉に、シオリの胸が温かくなる。


 (認めてくれてる…頑張らなきゃ)


 訓練を続けて数時間が経ち、太陽が真上に昇った頃、三人は草原に座り込んで一息ついた。リーファが研究資料を広げ始め、風が羊皮紙をぱらぱらとめくる。


 「シオリのオノマトペ、本当に古代言霊の音韻と似てる!」


 リーファが興奮気味に指差す。


 「特にこの『ガチッ』って音、すごく強い固定の力を持ってるみたい」


 「確かに! 『ガチッ』って、何かをピタッと止める感じの音だよね」


 シオリも文字を覗き込みながら、言語学者の血が騒ぐ。


 「次は『止まる』を試せ」


 カインが新たな石を用意する。


 シオリは呼吸を整え、先ほどの失敗を思い出しながら慎重に力を込める。


 「『止まる』」


 ペンダントが穏やかに光り、カインが投げた石が空中でぴたりと静止した。


 「できた! しかも暴走しなかった!」


 「良い調子だ」


 カインの承認に、シオリの顔が綻ぶ。


 その時、市場の方角から恐怖に満ちた叫び声が響いてきた。三人は顔を見合わせ、訓練を中断して駆け出した。


 「急ごう!」


 リーファが真っ先に走り、カインが剣を抜きながら続く。


 「付いてこい」


 シオリはペンダントを握りしめ、胸騒ぎを抱えながら後を追った。


 市場に到着すると、そこは混乱の極みだった。石畳には魚の鱗と潰れたトマトが散乱し、商人たちが恐怖に駆られて逃げ惑っている。


 市場の中央で、数人の住民が異様な状態で暴れていた。彼らの目は赤く濁り、涙を流しながら手当たり次第に物を壊している。


 「織り手め! 出て行け!」


 木の棒を振り回しているのは、普段は温厚な青年パン職人だった。しかし、その顔は苦痛に歪み、涙が頬を伝っている。


 「や、やめたい…でも体が勝手に…!」


 同じ青年の口から、今度は悲痛な声が漏れる。罵声を叫びながら、同時に自分の行動を止められない恐怖が表情に表れていた。


 「あの女が災いを!」


 隣では、いつも優しい花売りの女性が石を投げようとしている。彼女もまた、泣きながら罵声を上げている。その手は震え、明らかに本意ではない行動に体が支配されている。


 (この人たち、苦しんでる…)


 「下がってろ」


 カインがさっとシオリを背中に庇う。革のコートが風に翻り、剣を構える姿は頼もしいけれど、相手は罪のない住民たちだ。


 「影の言霊だ」


 カインの声に緊張が走る。


 「何者かが操っている」


 「『縛』」


 銀の糸が生まれ、暴れる住民を捕らえようとする。しかし、糸は彼らに触れた瞬間、まるで焼き切れるように千切れてしまった。


 「力が強い…!」


 カインの額に汗が浮かび、手袋からはさらに血が滲む。


 「光れ!」


 リーファが光球を放つが、操られた住民たちはそれすら飲み込んでしまう。光球が体内に消えても、暴走は止まらない。


 「効かない! どうしよう!」


 シオリは震える手でペンダントを握った。


 (私が何とかしなきゃ。この人たちを助けなきゃ!)


 「『止まる』!」


 青い光が広がり、住民たちの動きが一瞬止まる。しかし、彼らの赤い目だけはギラギラと動き続け、体が小刻みに震えている。


 「効果が弱い!?」


 「オノマトペだ!」


 カインが叫ぶ。


 「感覚に直接響かせろ!」


 シオリは目を閉じ、心を研ぎ澄ます。カインを守りたい。リーファを守りたい。そして何より、苦しんでいる人たちを解放したい。


 「『ガチッ!』」


 鋭い音が空気を切り裂いた。


 ペンダントから溢れ出した光は、これまでとは違う。優しく、でも力強く、操られた人々を包み込む。まるで見えない鎖を断ち切るように、赤い光が住民たちの目から消えていく。


 パン職人の青年が最初に膝をつき、続いて花売りの女性も崩れ落ちた。他の住民たちも次々と正気を取り戻し、地面に座り込む。


 「はぁ…はぁ…できた…」


 シオリも疲労で膝が震えた。


 「大丈夫? 怪我はない?」


 操られていた花売りの女性が、涙を拭きながら立ち上がってシオリに近づく。


 「あなたが…助けてくれたのね。ありがとう…本当にありがとう…」


 「織り手と一緒にいるのに、助けてくれた…」


 パン職人の青年も、申し訳なさそうに頭を下げる。


 「さっきは酷いことを言って…でも、本心じゃなかったんだ」


 子供が母親の陰から顔を出し、シオリに向かって小さく手を振る。商人たちも感謝と驚きの眼差しを向けてくる。


 シオリの目にも涙が滲んだ。


 (よかった…本当によかった)


 市場での騒動を収めた後、三人は疲れた足取りで宿屋へ戻った。夕暮れ時の食堂には静かな時間が流れ、スープから立ち上る湯気がランプの光に照らされて金色に輝いていた。焼きたてのパンの香りが、戦いの疲れを癒してくれる。


 「あの住民たち、影の言霊で操られていたんだ」


 リーファが資料をめくりながら説明する。


 「でも、シオリのオノマトペが見事に解いた。『ガチッ』の音が、操りの糸を断ち切ったみたい」


 リーファが資料を見ながら、表情を曇らせる。


 「ただ、気になることがあるの」


 「気になること?」


 「あの操りの言霊、すごく高度な技術なの。普通の言霊使いじゃ無理。それに…」


 リーファは声を潜める。


 「シオリが現れてから、こんな事件が起きるなんて、偶然じゃない気がする」


 カインが口を開く。


 「住民たちの言葉を思い出せ。『あの女が』と言っていた」


 シオリの顔が青ざめる。


 「まるで、私を名指ししてたみたいに…」


 「その通りだ。操られていたとはいえ、あの言葉は誰かが植え付けたもの。つまり——」


 カインの紫の瞳が鋭く光る。


 「お前の存在を知り、その力を試そうとした者がいる」


 「私の日本語が、狙われてるってこと…?」


 不安が胸を締め付ける。


 カインがカップを静かに置く。その表情は、いつもより険しい。


 「かつて、言葉の都には追放された一族がいた」


 紫の瞳が、遠い記憶を辿るように揺れる。


 「『影織り』と呼ばれた者たち。影を操り、言葉で他者の心を支配する力を持つ。もし彼らがお前の日本語を手に入れれば…」


 「どうなるの?」


 「想像を絶する災厄になる」


 重い沈黙が流れる。しかし、シオリはペンダントを強く握りしめ、顔を上げた。


 「でも、私、負けない」


 真っ直ぐにカインを見つめる瞳には、決意が宿っていた。


 「もっと強くなる。みんなを守れるように」


 カインの瞳に、複雑な感情が浮かんだ。驚き、心配、そして——


 「…お前なら、できる」


 その声は、いつもより優しく、温かい。


 「私も信じてる」


 リーファが手を重ねる。


 「三人でなら、きっと大丈夫」


 シオリの胸に、勇気が湧き上がってきた。


 夕食を終えて外に出ると、夜の帳が下りた言葉の都は、昼間とは違う表情を見せていた。ランプの灯りが石畳を照らし、住民たちの視線も昼間より柔らかい。


 「お姉ちゃん!」


 小さな女の子が母親の手を振り切って駆け寄ってきた。小さな手には、野花が握られている。


 「これ、ありがとうのお花!」


 「わぁ、きれい! ありがとう」


 シオリが花を受け取ると、女の子は嬉しそうに笑って母親の元へ戻っていく。母親も微笑みながら会釈をした。


 「進歩している」


 カインの声に、誇らしさが滲んでいるような気がした。


 「うん、もっと頑張る!」


 三人で宿屋に戻る道すがら、シオリは小さな花を大切に抱えていた。カインが先を歩き、リーファが横で今日の出来事について興奮気味に話している。この二人と一緒なら、きっと大丈夫。そう思えた。


 その夜、シオリは自室で今日の出来事を振り返っていた。ベッドに座り、もらった花を水差しに生ける。可憐な花びらが、ランプの光に照らされて優しく輝いている。


 ふと、ペンダントが急に強い光を放ち始めた。熱を帯びた青い光が、警告するように明滅する。


 シオリは窓に駆け寄った。遠くの尖塔で、確かに影が動くのが見えた。月明かりの中、黒い何かが蠢いている。


 「また…!」


 背筋に冷たいものが走る。


 同じ頃、言葉の都の奥深く、古い石造りの建物の地下で、黒いローブを纏った人影が不気味な笑みを浮かべていた。


 「計画通りだ。あの娘の力は予想以上に強い」


 別の影が応える。


 「日本語という未知の言霊…我らが手に入れれば、この都どころか、全ての層を支配できる」


 「急ぐ必要はない。もう少し、力を成長させてから刈り取ろう」


 闇の中で、複数の影が頷き合う。


 不穏な計画が、着実に進行していた。言葉の都に、嵐の前の静けさが漂い始めていた——

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