4話 言葉の試み
朝の宿屋の食堂は、燻製肉と焼きたてパンの香ばしい匂いで満たされていた。
シオリはスプーンを手に、目の前のスープをぼんやり見つめている。昨夜の出来事が頭から離れない——広場での戦い、黒い狼の姿、怯えて泣く子供たち、そして尖塔に見えた不気味な影。
ペンダントを握ると、かすかな温もりが伝わってくる。
(あの影…誰だったんだろう? また私が何か引き起こしてしまうの?)
「シオリ、スープ冷めちゃうよ!」
リーファの明るい声が、沈んだ気持ちを吹き飛ばす。赤毛が朝陽で輝き、緑の瞳は相変わらず好奇心でキラキラしている。
「昨夜の狼について調べたんだけど、すっごく古い封印言霊だったみたい!」
羊皮紙の束を広げながら、リーファは興奮気味に続ける。
「シオリの日本語が鍵になってるのは間違いないよ!」
「え、やっぱり私のせいで…?」
「違う違う!」
リーファは大げさに手を振る。
「シオリの『守る』って言霊、本当にかっこよかった! みんな助かったんだから、胸を張っていいんだよ」
カインがお茶を静かに飲み干す。朝の光を受けた銀髪が、まるで光そのものを纏っているように輝いている。紫の瞳がシオリを一瞥した。
(朝からこの美しさは反則でしょ…)
「リーファの言う通りだ」
低い声が響き、シオリの鼓動が跳ねる。
「お前の言霊が街を救った。だが——」
カップを置く音が、妙に大きく響く。
「制御が甘い。次はもっと危険な事態になる」
「うん、ちゃんと練習する!」
シオリは真剣に頷いた。
リーファがにやりと笑う。
「カイン、シオリのこと褒めてるじゃん! 昨日シオリが倒れた時、すっごく焦ってたよね?」
「余計なことを言うな」
カインの耳がわずかに赤く染まる。その反応に、シオリの頬も熱くなった。
(心配してくれてたんだ…)
「今日はどうするの?」
話題を変えようと、シオリはスープを飲み干す。
カインが立ち上がった。
「言霊の訓練だ。広場の外れで行う」
「私も行く! シオリの日本語、もっと詳しく調べたいし!」
リーファが元気よく手を上げる。
カインは小さくため息をつく。
「…騒がしい」
「ほら、本当は楽しみなんでしょ?」
リーファのウインクに、シオリは思わず笑みをこぼした。
広場の外れにある草原は、朝露に濡れた青い草がさわさわと風に揺れていた。土と草の匂いが心地よい。
シオリはペンダントを握りしめ、緊張で手のひらが汗ばむ。
(訓練って、何をするんだろう?)
カインが黒いコートを脱ぎ、シンプルなシャツ姿になる。風が銀髪を撫で、引き締まった体のラインが——
(シャツ姿も素敵すぎる…!)
「言霊は意図と感情で発動する」
カインが訓練を始める。
「お前の日本語は感情の振幅が大きすぎる。心を落ち着けて、意図を明確にすることが重要だ」
「わかった、やってみる!」
「まずは簡単なものからだ」
カインが地面に小石を置く。
「これを動かせ。『動く』と言え」
シオリは深呼吸をして、心を落ち着ける。
(感情を抑えて、意図を明確に…)
「『動く』」
ペンダントが淡く光り、石がころころと転がった。でも、予想より勢いよく転がりすぎて、遠くまで行ってしまう。
「感情が強すぎる」
カインが指摘する。
「石を『そっと転がす』イメージを持て。言葉は同じでも、心の中の映像が結果を変える」
「なるほど…やり直していい?」
「調子に乗るな」
カインの視線が鋭くなる。
「次はこれだ」
指差した先には、人の頭ほどもある大きな岩。
「え、無理! 重すぎるよ!」
「意図を明確に。感情を制御しろ」
カインの言葉に、シオリは覚悟を決めた。
目を閉じ、ペンダントを両手で包む。祖母の「言葉を大切に」という声が蘇る。
「『動く』」
ペンダントが強く輝き、岩がふわりと浮かび上がった。
「嘘、できた!?」
しかし次の瞬間、岩が暴走して木に激突した。轟音と共に枝が折れ、葉が舞い散る。
「ひゃっ!」
シオリは慌てて飛び退いた。
「制御しろ!」
カインが素早く反応し、銀の糸を放つ。
「『止』」
一文字の言霊で、落下する枝がぴたりと空中で止まった。
「すごーい! でも、ちょっと暴走しちゃったね」
リーファが拍手しながら苦笑いする。
「ご、ごめんなさい…」
「悪くない」
意外にも、カインの声は優しかった。
「感情を完全に抑えるのは難しい。続けろ」
(褒められた…!)
シオリの胸が温かくなる。
昼になり、草原でリーファが研究資料を広げている。
「シオリの日本語、音の響きがすごく特殊なの! ほら、この古文書見て!」
古びた本のページを示す。
「この古代言霊の音韻構造、日本語の音と似てる部分があるんだ」
「本当だ! なんか懐かしい感じがする…」
シオリは文字を見つめながら、不思議な既視感を覚えた。
「訓練を続ける」
カインが二人の研究を遮る。
「調べるのは後でもできる」
シオリは頷き、訓練に戻った。石を動かし、枝を浮かせ、少しずつコツを掴んでいく。カインがわずかに頷くのを見て、認められた気がして嬉しくなる。
突然、黒い鳥が空から落ちてきた。
羽はボロボロで、赤く光る眼からは狂気が滲む。腐敗臭が鼻を突く。
「また封印の残滓か!」
カインが即座に剣を抜く。紫の瞳が鋭く光り、戦闘態勢に入った。
「『縛』」
銀の糸が鳥を捕らえようとするが、実体のない霧となってすり抜けてしまう。
「実体がない…!」
カインの額に汗が浮かぶ。
(また私のせいで…!)
シオリは罪悪感に胸を締め付けられながらも、ペンダントを握った。
「シオリ、下がって!」
リーファが光の言霊を放つが、鳥はそれすら飲み込んでしまう。
「『消滅』!」
シオリの叫びと共に、ペンダントから青い光が溢れ出す。光は鳥を包み込み、霧となって消えていった。
肩で息をしながら、シオリは膝に手をつく。
「はぁ…はぁ…できた…」
カインが振り返る。
「…進歩したな」
紫の瞳に、かすかな笑みが浮かんでいる。シオリの顔が熱くなった。
「本当!?」
「だが、まだ無意識的だ。もっと意図的に制御できるようになれ」
「うん、もっと練習する!」
午後になり、シオリは確実に上達していた。
「『浮く』」
今度は枝がゆっくりと、狙った高さまで浮かび上がる。朝は暴走していた力が、少しずつ手綱を握れるようになってきた。
(わかってきた。言葉を発する前に、結果をはっきりイメージする。感情は込めるけど、溢れさせない)
「いいぞ」
カインが初めて明確に褒めた。
「朝とは別人だ。言霊の『形』を掴み始めている」
「形?」
「言葉に込める力の輪郭だ。お前は今まで、感情を全開放していた。今は、必要な分だけを注いでいる」
シオリは自分の手を見つめる。
(本当だ。ペンダントの光り方も、朝より穏やかになってる)
夕方、三人は言霊図書館にいた。
古い羊皮紙とインクの匂いに包まれながら、シオリとリーファは熱心に文献を調べている。
「この文字配列、日本語の音韻と本当にそっくり!」
「確かに! 何か繋がりがあるのかな?」
二人の研究熱に、周りが見えなくなっていく。
カインは少し離れた書架の影で、静かに本を読んでいる。ランプの光が銀髪を照らし、集中している横顔は絵画のように美しい。
シオリはつい見とれてしまう。
「シオリ、カインのこと見てたでしょ?」
リーファの悪戯っぽい声に、シオリは慌てる。
「み、見てないよ!」
「…騒がしい」
カインが本を閉じる。でも、その口元がわずかに緩んでいるのを、シオリは見逃さなかった。
「ねぇシオリ、これ試してみて!」
リーファが古い紙を示す。
「この言霊『開く』を、日本語で言ってみて」
シオリは慎重に息を整える。
「『開く』」
途端に、周りの本棚ががたがたと震え、本が一斉にページを開いた。
「わあ! すごい!」
「本当にすごい力…!」
リーファの目が輝く。
「感情を抑えろ」
カインの注意に、シオリは苦笑いする。
「ごめん、つい興奮しちゃって」
ガサッ——
書架の奥で物音がした。
シオリの背筋が凍る。黒い影が一瞬見えて、すぐに消えた。ペンダントが警告するように熱を帯びる。
(あの影…昨日と同じ?)
「誰かいる」
カインが素早く立ち上がり、剣の柄に手をかける。紫の瞳が鋭く辺りを見回す。
「誰なの?」
リーファも緊張した面持ちで紙束を握りしめる。
三人は警戒しながら図書館を後にした。
夜、宿屋の部屋でシオリが今日の訓練内容をメモしていると、ノックの音が響いた。
「入っていい?」
カインだ。扉を開けると、月光を背に銀髪が輝いている。
「今日の訓練、悪くなかった」
紫の瞳がいつもより優しい。
「朝は制御できずに岩を吹き飛ばしていたが、最後は枯れ葉一枚を狙った場所に置けるようになった」
「本当? 嬉しい!」
(そんなに細かく見ててくれたんだ)
「コツが少し分かった気がする。言葉の前に、はっきりとした絵を思い浮かべるんですよね?」
カインがわずかに目を見開く。
「一日でそこまで理解したか。お前は…」
言いかけて、カインは口を閉じた。
(才能がある、と言いかけた。だが、それは同時に危険でもある)
「だが、あの影には気をつけろ」
カインの表情が真剣になる。
「なんか…見られてる感じがして、怖い」
「お前の日本語を狙っている者がいる可能性がある」
シオリの顔が青ざめる。
「誰が…?」
「まだ分からない。だが——」
カインはシオリをまっすぐ見つめた。
「俺が守る」
その言葉を口にした瞬間、カイン自身も驚いていた。
(なぜこんなことを…)
かつて街を半分壊した自分が、誰かを守ると誓うなんて。でも、シオリの真っ直ぐな瞳を見ていると、自然と言葉が出ていた。
シオリの心臓が大きく跳ねる。
「私も…守りたい。カインさんやリーファを」
カインの瞳が揺れた。
(お前は俺を守りたいと…?)
十五の時から、誰もが恐れ、避けてきた自分を。この小さな女性が守りたいと言っている。胸の奥で、凍っていた何かが溶け始めるのを感じた。
「…無茶を言うな」
でも、その声は優しく、口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。
(変わったな、俺も)
シオリと出会ってから、自分の中で何かが確実に変化している。それが恐ろしくもあり、同時に、その声は優しく、口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。
ペンダントが柔らかく光り、部屋に温かい光が広がった。
「また無意識か」
カインがため息をつくが、それは呆れというより愛おしさを含んでいるように聞こえた。
「練習します! もっとちゃんと制御できるように!」
窓の外、尖塔の影がかすかに動く。ペンダントが再び熱を帯びた。
言葉の都の奥深くで、何者かが静かに、しかし確実に計画を進めていた——