2話 言葉の目覚め
パリパリッ…
壁から変な音がする。
シオリは飛び起きて、息を呑んだ。石の壁に蜘蛛の巣みたいな亀裂が走り、隙間から青い光がチカチカ漏れている。鼻をつく焦げた石の匂い。
「これ…まさか私の…」
昨夜の「もういやだ、こんなわけのわからない状況」が原因? ペンダントを握ると、じんわり温かい。祖母の「言葉を大切に」という声が、記憶の奥でこだまする。
ドンドンドン!
「お客さん! 朝食の時間だよ!」
宿屋の主人の声に、シオリは慌ててカーディガンを羽織る。ギシギシ鳴る階段を降りると、狭い食堂に燻製肉とパンの香ばしい匂いが漂っていた。
「昨夜は妙だったな」
主人が木の盆をドンと置く。
「街中がキラキラ光って、まるで都市が息をしてるみたいだった。千年祭でもあんなことはなかった」
シオリの手が止まる。スプーンがカチャンと皿に当たった。
「その光って——」
「静かに!」
ギュッ! 喉が締まる。声が蚊の鳴くような音しか出ない。
(うわ、また言霊…)
食事を終えて外に出ると、カインが宿屋の入口で腕を組んで待っていた。
朝の光が銀髪を純白に染めている。いや、もはや光そのものが銀髪から発しているみたいだ。紫の瞳は朝陽を受けてアメジストのように輝き、でも表情は相変わらず読めない。黒いコートは夜よりもなお深い黒で、不思議と朝の光に映える。
(朝でもこんなに綺麗なんだ…反則でしょ)
「行くぞ」
短い言葉と共に、カインは歩き始めた。
言葉の都の朝市は、カオスだった。
「新鮮な魚! 今朝獲れたて!」
「香辛料はいかが! 隣国から来た珍しいやつ!」
「そこの嬢ちゃん、このリボン似合うよ!」
商人たちの呼び声が飛び交い、色とりどりの布がはためく。石畳には潰れたトマトの赤い染みと魚の鱗がキラキラ。シオリは人波に押されながら、必死でカインについていく。
ビュッ!
小石が飛んできて、カインの肩に当たった。
「織り手め! 出て行け!」
若い男の憎悪に満ちた声。
カインがゆっくり振り返る。その動作は優雅で、それゆえに恐ろしい。紫の瞳が男を射抜いた瞬間、まるで時が止まったみたいに市場が静まり返った。
(うわ…かっこいいけど、怖い…)
男の顔から血の気が引き、ガタガタ震えながら人混みに消える。
そして何事もなかったように、カインは歩き続ける。でもシオリは見逃さなかった。カインがさりげなく立ち位置を変えて、自分を守ってくれたことを。
(優しい…本当は優しい人なんだ)
胸の奥がポカポカ温かくなる。
「わー! そのペンダント超かわいい!」
突然の声に、シオリはビックリして振り返った。
赤毛の女の子が太陽みたいな笑顔で立っている。髪はくるくるカールして朝陽でオレンジ色に輝き、緑の瞳は森の湖みたいに澄んでいる。革のベストには羊皮紙がぎっしり、まるで歩く図書館だ。
「あたしリーファ! 言霊学者見習い!」
勢いよく手を差し出され、シオリは反射的に握手した。温かくて、ちょっと汗ばんだ手。
「え、カインと一緒なの? マジで!?」
リーファの目が真ん丸になる。
「あいつ、いっつも一人で、誰も寄せ付けないのに!」
視線がシオリとカインの間を行ったり来たり。そして、にやりと笑った。
「ふーん、なるほどね~。そういうことかぁ」
「え? な、何が?」
シオリの頬が熱くなる。リーファは肩をポンと叩いた。
「大丈夫大丈夫! カインは怖くないよ。ちょっと不器用なだけ」
(不器用…)
その言葉が、妙にしっくりきた。
「ねぇ、言霊って知ってる?」
リーファが歩きながら聞いてくる。
「昨日ちょっと…」
「じゃあ見せてあげる!」
リーファが指を立てて、「光れ!」と言った。
ポッと小さな光が生まれ、指先でゆらゆら揺れる。まるで捕まえた蛍みたい。
「すごい!」
「でしょ? 気持ちと意図を込めて言葉にすると、現実になるの。簡単なやつは子供でもできるけど…」
リーファの表情が少し曇る。
「強い言霊は別。制御できないと、大変なことになる」
チラッとカインを見る。
「織り手は…特別すぎて、みんな怖がっちゃうんだ」
シオリの胸がチクッと痛んだ。
しばらく人混みを抜けて歩いていくと、リーファが急に立ち止まった。目の前にそびえる巨大な石造建築を両手を広げて示す。
「着いた! ここが言霊図書館!」
扉をくぐると、シオリは言葉を失った。
天井は空みたいに高く、ドームから差し込む光が金色の粒子になって舞っている。壁という壁に文字が刻まれ、まるで呼吸するように微かに光る。そして何より——
「本…本がいっぱい…!」
見渡す限りの書架。革装丁の古書がぎっしり並び、羊皮紙の甘い腐敗臭とインクの鉄っぽい匂いが混じり合う。
(天国だ…ここは天国だ…!)
シオリの中の言語学オタクが大興奮した。
「うわー! これ見て! この文字配列、見たことない!」
一冊引き抜いて、ページをめくる。
「動詞が最初に来て…でも活用形が変? わー、この言語すごい!」
夢中になって本を積み上げていく。周りが見えなくなる、いつものスイッチが入った。
カインが背後に立つ気配。振り返ると、紫の瞳に警戒と…ちょっとだけ呆れ? その表情の変化さえ、なんでこんなに魅力的なんだろう。
「めっちゃ楽しそう!」
リーファが笑う。
「もしかして言語学者?」
「はい! 大学院で…」
シオリは手に取った本を見つめる。
「この本も読みたいな…開いて」
無意識に日本語で呟いた瞬間——
バサバサバサッ!
図書館中の本が一斉にページを開いた。まるで命令に従うように、何百冊もの本が勝手にページをめくり始める。羊皮紙が鳥みたいに羽ばたき、インク瓶が倒れて黒い池を作る。
「きゃー! 何これ!?」
リーファが叫ぶ。
(私の「開いて」が…本当に開いちゃった!?)
ガシッ。
カインがシオリの手首を掴んだ。
革の手袋越しに伝わる手の大きさと温度。心臓が跳ね上がる。
「言霊だ。落ち着け」
低い声が耳元で響く。近い。近すぎる。銀髪からほのかに香る、雪のような清潔な匂い。
(やばい、ドキドキが止まらない)
「深呼吸しろ。感情を抑えろ」
言われた通りにすると、少しずつ本が落ち着いていく。でも、カインの手はまだシオリの手首を掴んだまま。紫の瞳が一瞬金色に光り、額に汗が滲む。
(この人も…制御に苦しんでる)
「シオリの言葉…なんか変!」
リーファが散らばった本を調べながら言う。
「ねぇ、さっきから疑問なんだけど」
シオリが手を挙げる。
「私、自分の国の言葉しか話せないのに、なんで会話できてるの?」
リーファが「あー!」と手を叩く。
「言葉の層では、『意味』を話してるの。音じゃなくて意味が直接伝わる。でも——」
「でも?」
「意識的に『音』として発すると、その言語固有の力が出る。シオリが無意識に元の言葉の『音』を出した時、すごい言霊が発動したんだ」
「元の言葉?」
カインが振り返る。
「お前の故郷の言語だ。俺たちには理解できない音の連なり。昨日『ニホン』と言っていたが、それが国名か?」
「あ、はい! 日本です。私たちの言葉は日本語って言います」
「ニホンゴ…」
カインが音を繰り返す。
「その『ニホンゴ』とやらは、この世界の言語体系とは根本的に異なるようだ」
リーファが本を指差す。
「音と意味と感情の結びつきが、すごく特殊なの」
その日の夕食後、シオリが部屋で今日の出来事を整理していると、ノックの音が響いた。扉を開けると、そこにはカインが立っていた。
月光が廊下の窓から差し込み、銀髪を青白く照らしている。まるで月の精霊が人の形を取ったみたい。紫の瞳には深い憂いが宿り、その美しさに息が詰まる。
「話がある」
部屋に入ったカインは、窓辺に立った。
「お前の言霊は危険だ」
静かな声に、重みがある。
「制御できなければ、破壊を生む」
カインが窓の外を見る。シオリもつられて見ると——
都市の半分が、不自然に新しい白い石で修復されていた。
「十五の時、俺の言霊が暴走した」
ポツリと漏れた言葉。
「それ以来、『織り手』と呼ばれる」
(街を半分…カインが…)
胸が痛くなった。この美しい人が背負う重荷の大きさを、初めて実感する。月光に照らされた横顔は、美しいけれど、どこか儚い。
「でも!」
シオリは顔を上げた。
「私、ちゃんと制御できるようになります! カインさんに教えてもらいながら、絶対に!」
カインの瞳が揺れた。月光の中で、かすかに優しい光が宿る。薄い唇がかすかに動き、小さく頷いた。
「…そうか」
その一言に、どれだけの感情が込められていたんだろう。
カインが部屋を出た後、シオリはベッドに座って今日の出来事をメモに書き留める。
言霊のこと、リーファのこと、カインのこと。
「守りたい」
ふと口を滑らせた言葉。
ピカッ!
ペンダントが脈動するように光り、部屋が小さく震えた。壁の亀裂がさらに広がり、青い光が強くなる。
ガチャッ。
扉が勢いよく開き、カインが飛び込んできた。
「お前…何者だ?」
紫の瞳に映る驚きと警戒。でも、それ以上に——
ゴゴゴゴ…
都市の地下深くから、何か巨大なものが目覚める音が響いてきた。
千年の眠りから覚めた何かが、シオリの言葉に応えようとしているのか。
運命の歯車が、本格的に動き始めた——