表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/5

2話 言葉の目覚め

 パリパリッ…


 壁から変な音がする。


 シオリは飛び起きて、息を呑んだ。石の壁に蜘蛛の巣みたいな亀裂が走り、隙間から青い光がチカチカ漏れている。鼻をつく焦げた石の匂い。


 「これ…まさか私の…」


 昨夜の「もういやだ、こんなわけのわからない状況」が原因? ペンダントを握ると、じんわり温かい。祖母の「言葉を大切に」という声が、記憶の奥でこだまする。


 ドンドンドン!


 「お客さん! 朝食の時間だよ!」


 宿屋の主人の声に、シオリは慌ててカーディガンを羽織る。ギシギシ鳴る階段を降りると、狭い食堂に燻製肉とパンの香ばしい匂いが漂っていた。


 「昨夜は妙だったな」


 主人が木の盆をドンと置く。


 「街中がキラキラ光って、まるで都市が息をしてるみたいだった。千年祭でもあんなことはなかった」


 シオリの手が止まる。スプーンがカチャンと皿に当たった。


 「その光って——」


 「静かに!」


 ギュッ! 喉が締まる。声が蚊の鳴くような音しか出ない。


 (うわ、また言霊…)


 食事を終えて外に出ると、カインが宿屋の入口で腕を組んで待っていた。


 朝の光が銀髪を純白に染めている。いや、もはや光そのものが銀髪から発しているみたいだ。紫の瞳は朝陽を受けてアメジストのように輝き、でも表情は相変わらず読めない。黒いコートは夜よりもなお深い黒で、不思議と朝の光に映える。


 (朝でもこんなに綺麗なんだ…反則でしょ)


 「行くぞ」


 短い言葉と共に、カインは歩き始めた。


 言葉の都の朝市は、カオスだった。


 「新鮮な魚! 今朝獲れたて!」

 「香辛料はいかが! 隣国から来た珍しいやつ!」

 「そこの嬢ちゃん、このリボン似合うよ!」


 商人たちの呼び声が飛び交い、色とりどりの布がはためく。石畳には潰れたトマトの赤い染みと魚の鱗がキラキラ。シオリは人波に押されながら、必死でカインについていく。


 ビュッ!


 小石が飛んできて、カインの肩に当たった。


 「織り手め! 出て行け!」


 若い男の憎悪に満ちた声。


 カインがゆっくり振り返る。その動作は優雅で、それゆえに恐ろしい。紫の瞳が男を射抜いた瞬間、まるで時が止まったみたいに市場が静まり返った。


 (うわ…かっこいいけど、怖い…)


 男の顔から血の気が引き、ガタガタ震えながら人混みに消える。


 そして何事もなかったように、カインは歩き続ける。でもシオリは見逃さなかった。カインがさりげなく立ち位置を変えて、自分を守ってくれたことを。


 (優しい…本当は優しい人なんだ)


 胸の奥がポカポカ温かくなる。


 「わー! そのペンダント超かわいい!」


 突然の声に、シオリはビックリして振り返った。


 赤毛の女の子が太陽みたいな笑顔で立っている。髪はくるくるカールして朝陽でオレンジ色に輝き、緑の瞳は森の湖みたいに澄んでいる。革のベストには羊皮紙がぎっしり、まるで歩く図書館だ。


 「あたしリーファ! 言霊学者見習い!」


 勢いよく手を差し出され、シオリは反射的に握手した。温かくて、ちょっと汗ばんだ手。


 「え、カインと一緒なの? マジで!?」


 リーファの目が真ん丸になる。


 「あいつ、いっつも一人で、誰も寄せ付けないのに!」


 視線がシオリとカインの間を行ったり来たり。そして、にやりと笑った。


 「ふーん、なるほどね~。そういうことかぁ」


 「え? な、何が?」


 シオリの頬が熱くなる。リーファは肩をポンと叩いた。


 「大丈夫大丈夫! カインは怖くないよ。ちょっと不器用なだけ」


 (不器用…)


 その言葉が、妙にしっくりきた。


 「ねぇ、言霊って知ってる?」


 リーファが歩きながら聞いてくる。


 「昨日ちょっと…」


 「じゃあ見せてあげる!」


 リーファが指を立てて、「光れ!」と言った。


 ポッと小さな光が生まれ、指先でゆらゆら揺れる。まるで捕まえた蛍みたい。


 「すごい!」


 「でしょ? 気持ちと意図を込めて言葉にすると、現実になるの。簡単なやつは子供でもできるけど…」


 リーファの表情が少し曇る。


 「強い言霊は別。制御できないと、大変なことになる」


 チラッとカインを見る。


 「織り手は…特別すぎて、みんな怖がっちゃうんだ」


 シオリの胸がチクッと痛んだ。


 しばらく人混みを抜けて歩いていくと、リーファが急に立ち止まった。目の前にそびえる巨大な石造建築を両手を広げて示す。


 「着いた! ここが言霊図書館!」


 扉をくぐると、シオリは言葉を失った。


 天井は空みたいに高く、ドームから差し込む光が金色の粒子になって舞っている。壁という壁に文字が刻まれ、まるで呼吸するように微かに光る。そして何より——


 「本…本がいっぱい…!」


 見渡す限りの書架。革装丁の古書がぎっしり並び、羊皮紙の甘い腐敗臭とインクの鉄っぽい匂いが混じり合う。


 (天国だ…ここは天国だ…!)


 シオリの中の言語学オタクが大興奮した。


 「うわー! これ見て! この文字配列、見たことない!」


 一冊引き抜いて、ページをめくる。


 「動詞が最初に来て…でも活用形が変? わー、この言語すごい!」


 夢中になって本を積み上げていく。周りが見えなくなる、いつものスイッチが入った。


 カインが背後に立つ気配。振り返ると、紫の瞳に警戒と…ちょっとだけ呆れ? その表情の変化さえ、なんでこんなに魅力的なんだろう。


 「めっちゃ楽しそう!」


 リーファが笑う。


 「もしかして言語学者?」


 「はい! 大学院で…」


 シオリは手に取った本を見つめる。


 「この本も読みたいな…開いて」


 無意識に日本語で呟いた瞬間——


 バサバサバサッ!


 図書館中の本が一斉にページを開いた。まるで命令に従うように、何百冊もの本が勝手にページをめくり始める。羊皮紙が鳥みたいに羽ばたき、インク瓶が倒れて黒い池を作る。


 「きゃー! 何これ!?」


 リーファが叫ぶ。


 (私の「開いて」が…本当に開いちゃった!?)


 ガシッ。


 カインがシオリの手首を掴んだ。


 革の手袋越しに伝わる手の大きさと温度。心臓が跳ね上がる。


 「言霊だ。落ち着け」


 低い声が耳元で響く。近い。近すぎる。銀髪からほのかに香る、雪のような清潔な匂い。


 (やばい、ドキドキが止まらない)


 「深呼吸しろ。感情を抑えろ」


 言われた通りにすると、少しずつ本が落ち着いていく。でも、カインの手はまだシオリの手首を掴んだまま。紫の瞳が一瞬金色に光り、額に汗が滲む。


 (この人も…制御に苦しんでる)


 「シオリの言葉…なんか変!」


 リーファが散らばった本を調べながら言う。


 「ねぇ、さっきから疑問なんだけど」


 シオリが手を挙げる。


 「私、自分の国の言葉しか話せないのに、なんで会話できてるの?」


 リーファが「あー!」と手を叩く。


 「言葉の層では、『意味』を話してるの。音じゃなくて意味が直接伝わる。でも——」


 「でも?」


 「意識的に『音』として発すると、その言語固有の力が出る。シオリが無意識に元の言葉の『音』を出した時、すごい言霊が発動したんだ」


 「元の言葉?」


 カインが振り返る。


 「お前の故郷の言語だ。俺たちには理解できない音の連なり。昨日『ニホン』と言っていたが、それが国名か?」


 「あ、はい! 日本ニホンです。私たちの言葉は日本語ニホンゴって言います」


 「ニホンゴ…」


 カインが音を繰り返す。


 「その『ニホンゴ』とやらは、この世界の言語体系とは根本的に異なるようだ」


 リーファが本を指差す。


 「音と意味と感情の結びつきが、すごく特殊なの」


 その日の夕食後、シオリが部屋で今日の出来事を整理していると、ノックの音が響いた。扉を開けると、そこにはカインが立っていた。


 月光が廊下の窓から差し込み、銀髪を青白く照らしている。まるで月の精霊が人の形を取ったみたい。紫の瞳には深い憂いが宿り、その美しさに息が詰まる。


 「話がある」


 部屋に入ったカインは、窓辺に立った。


 「お前の言霊は危険だ」


 静かな声に、重みがある。


 「制御できなければ、破壊を生む」


 カインが窓の外を見る。シオリもつられて見ると——


 都市の半分が、不自然に新しい白い石で修復されていた。


 「十五の時、俺の言霊が暴走した」


 ポツリと漏れた言葉。


 「それ以来、『織り手』と呼ばれる」


 (街を半分…カインが…)


 胸が痛くなった。この美しい人が背負う重荷の大きさを、初めて実感する。月光に照らされた横顔は、美しいけれど、どこか儚い。


 「でも!」


 シオリは顔を上げた。


 「私、ちゃんと制御できるようになります! カインさんに教えてもらいながら、絶対に!」


 カインの瞳が揺れた。月光の中で、かすかに優しい光が宿る。薄い唇がかすかに動き、小さく頷いた。


 「…そうか」


 その一言に、どれだけの感情が込められていたんだろう。


 カインが部屋を出た後、シオリはベッドに座って今日の出来事をメモに書き留める。


 言霊のこと、リーファのこと、カインのこと。


 「守りたい」


 ふと口を滑らせた言葉。


 ピカッ!


 ペンダントが脈動するように光り、部屋が小さく震えた。壁の亀裂がさらに広がり、青い光が強くなる。


 ガチャッ。


 扉が勢いよく開き、カインが飛び込んできた。


 「お前…何者だ?」


 紫の瞳に映る驚きと警戒。でも、それ以上に——


 ゴゴゴゴ…


 都市の地下深くから、何か巨大なものが目覚める音が響いてきた。


 千年の眠りから覚めた何かが、シオリの言葉に応えようとしているのか。


 運命の歯車が、本格的に動き始めた——

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ