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1話 転移の夜

プロローグ


 「解放せよ、千の言葉よ!」


 結城シオリの声が夜空を切り裂く。青い光が尖塔を包み、空に巨大な門が開いた。風が黒髪を激しく舞い上げ、瞳には決意の炎が宿る。


 「これが…私の答え!」


 三年前、すべてが始まったあの夜を思い出す——


 春の夜11時。大学図書館は墓場みたいに静かだった。


 「やっば…締切まであと三日なのに、資料が全然足りない!」


 結城シオリは頭を抱えた。22歳、大学院生。黒髪を無造作に耳にかけ、疲れ切った黒い瞳で山積みの本を睨む。薄手のカーディガンにジーンズ、首元で祖母の形見のペンダントがキラリと光る——銀の枠に深い青の石。


 「古書コーナー…行ってみるか」


 埃っぽい書架の奥へ向かう。古い紙とカビの匂いが鼻をくすぐり、くしゃみが出そうになる。


 最奥の棚で、一冊の本が目に飛び込んだ。


 黒い革の表紙に金文字で『始原の言語』。なんだか呼ばれてる気がして、シオリは手を伸ばす。指が触れた瞬間——


 ジワッ。


 ペンダントが熱を帯びた。


 「え、なにこれ——」


 ドォン!


 図書館全体が揺れ、本が雪崩のように落ちてくる。金文字が青白く光り、ペンダントが焼けるように熱い。白い閃光が視界を塗りつぶし——


 「きゃあああ!」


 轟音と共に、意識が真っ白に染まった。


 どれくらい時間が経ったのだろう。ムワッとした土の匂いが鼻を突き、シオリはゆっくりと目を開けた。


 「…ここ、どこ?」


 目の前に広がるのは、見たこともない原生林。月光に照らされた巨木が天まで伸び、どこかで虫がキィキィ鳴いている。遠くから獣の遠吠え。冷たい夜風が肌を撫で、シオリは震えた。


 スマホを見る。『圏外』の文字と、読めない記号。


 「うそでしょ…夢? ねぇ、夢だよね?」


 立ち上がろうとして、よろける。カバンも財布も消えている。あるのはカーディガンと、ペンダントだけ。


 ズシン! ズシン!


 地響きと共に、何かが近づいてくる。


 「やだ、なにあれ!」


 本能的に走り出すが、暗闇で木の根につまずき、派手に転ぶ。土の冷たさと痛みで、これが現実だと思い知らされる。


 顔を上げた瞬間——息が止まった。


 月光に照らされた、巨大な芋虫。


 5メートルはある巨体がウネウネと動き、粘液でテカテカ光る表皮から腐った魚の臭いが漂う。無数の複眼がギョロギョロとシオリを見つめ、口には剃刀みたいな牙がズラリ。


 「喰らう!」


 太い声が響いた瞬間、シオリの体が石みたいに固まった。


 (え? 動けない!?)


 指一本、まぶた一つ動かせない。心臓だけがバクバク暴れ、冷や汗がダラダラ流れる。


 「いやだ…死にたくない!」


 涙がポロポロこぼれ、震える手でペンダントを握りしめる。祖母の優しい笑顔が脳裏をよぎった。


 「誰か…誰か助けて!」


 その叫びに応えるように——


 シュッ!


 黒い影が月光を切り裂いて舞い降りた。


 着地の瞬間、シオリは息が止まった。


 (え…なにこの人…)


 銀髪が月光を纏って輝いている。いや、輝くなんて生易しいものじゃない。まるで星の光を紡いで作った糸みたいに、一本一本が光を放っている。顔は——もう反則レベル。整いすぎて現実感がない。高い鼻梁、シャープな顎のライン、そして何より紫の瞳。本物の紫水晶より綺麗で、でも氷みたいに冷たい。


 (人間? これが?)


 黒いロングコートが風に翻り、まるで闇を纏っているよう。革手袋の指が剣の柄に触れる仕草さえ、なんでこんなに美しいんだろう。


 「下がってろ」


 低い声が空気を震わせた。ビロードみたいに滑らかで、でも鋼の強さを持つ声。


 カイン・アルヴェントが剣を抜いた瞬間、世界が変わった。


 「『縛』!」


 一文字が唇から零れると、銀色の糸が虚空から生まれた。月光を編み込んだような美しい糸が、生き物のように怪物に巻きつく。


 「『断』!」


 剣が弧を描く。その動きは舞うように優雅で、それゆえに恐ろしい。糸が刃と化し、音もなく巨体を両断した。


 だが——


 ビュン!


 制御を失った糸の一本が鞭のようにしなり、カインの頬を掠めた。白い肌に赤い線が走り、一筋の血が月光に照らされて宝石のように輝く。


 (あ…)


 紫の瞳が一瞬、熔けた金のように燃え上がる。額に汗が浮かび、こめかみの血管がピクッと震える。苦痛を押し殺す表情さえ、どうしてこんなに美しいんだろう。


 怪物が地面に崩れ落ち、森に静寂が戻った。


 カインが振り返る。月光が銀髪を後光のように照らし、紫の瞳がシオリを値踏みするように見つめた。


 「怪我は?」


 冷たいけど、どこか心配してくれてる声。


 「あ、えっと…だ、大丈夫です! 助けてくれて、ありがとう!」


 シオリは慌てて立ち上がろうとして、また転びそうになる。


 「どこから来た?」


 カインが一歩距離を取る。警戒してる。


 「に、日本! 東京の大学から…」


 (あれ? なんで通じてるの?)


 シオリは混乱した。自分は日本語で話してるはずなのに、カインには通じている。そして、カインの言葉も理解できる。


 「知らん名だ」


 眉がかすかに動く。その些細な動きさえ、絵になる。


 「ここは第三層、言葉の層。言葉が現実を縛る世界だ」


 「言葉が…?」


 (私の言葉、勝手に変換されてる?)


 試しに、シオリは意識的に母国語の音を強く思い浮かべて言った。


 「ニホン」


 カインの眉が動く。


 「今の音…知らない響きだ」


 (あ、意識すれば元の音のまま出せる!)


 シオリは混乱しながら、さっきの「喰らう」を思い出す。あの言葉で、体が動かなくなった?


 「立てるか?」


 「あ、はい…って、わっ!」


 膝がガクガク笑って、また倒れそうになる。


 カインが小さくため息をつき、くるりと背を向けた。コートの裾が優雅に翻る。


 「乗れ」


 「え?」


 「早くしろ」


 (えええ!? おんぶ!?)


 屈んだ背中を見て、シオリの顔が真っ赤になった。


 「ちょ、ちょっと待って! 背負うって、そんな…!」


 「では置いていく」


 「乗ります! すぐ乗ります!」


 恐る恐る背中にしがみつく。コートの下から体温が伝わり、石鹸と革、そしてかすかに血の匂いがする。広い背中は岩みたいに硬いけど、呼吸に合わせて優しく上下する。


 (やばい…男の人におんぶされるなんて、小学生以来…)


 銀髪が風で頬をくすぐる。月光に透ける髪は、触れたら溶けてしまいそうなほど繊細で美しい。


 「言葉に気をつけろ。この世界では、言霊が現実になる」


 カインの忠告に、シオリは小さく頷いた。ドキドキが止まらない。


 どれくらい歩いたろう。木々が途切れ、視界が急に開けた瞬間、シオリは息を呑んだ。


 巨大な石造りの都市が月光を浴びて輝いている。白い大理石の建物が立ち並び、まるで巨大な図書館のよう。尖塔が星空を突き刺し、どこもかしこも文字だらけ。


 「すごい…なにここ…」


 「言葉の都だ」


 道端の石板に刻まれた文字を見つめていると、不思議なことが起きた。知らない文字のはずなのに、意味が頭に流れ込んでくる。


 「『知識は力、言葉は剣』…え? 読めた!」


 興奮で声が跳ねた瞬間、石板がピカッと青く光る。


 「試すな!」


 カインの鋭い声に、シオリはビクッと縮こまった。


 (日本語が…反応した?)


 石畳の道を進むと、住民たちの視線が突き刺さる。


 老人が地面にペッと唾を吐き、若者が小石を投げてくる。子供は母親の後ろに隠れ、商人たちはそそくさと店を閉める。


 「織り手が来た…」

 「あの事件の…」

 「街を半分も…」


 ヒソヒソ声が聞こえ、シオリの不安が募る。


 (カインさん…何をしたの?)


 でも怖くて聞けない。ただ、カインの肩が少し強張っているのが分かった。


 小さな宿屋『沈黙の宿』の前で、カインはシオリを下ろした。


 「ここに泊まれ。この世界は危険だ。生き延びたければ、俺の言うことを聞け」


 月光に照らされた紫の瞳が、真剣にシオリを見つめる。


 「は、はい! 生き延びます!」


 ペンダントをギュッと握りしめ、シオリは力強く頷いた。


 震える手で鍵を渡す宿屋の主人。


 「静かに」


 その一言で、シオリの喉がキュッと締まった。声が出ない!


 (これも言霊…)


 階段を上る足音だけが響く中、シオリはようやく部屋にたどり着いた。ベッドに腰を下ろすと、今日一日の疲れがドッと押し寄せてきた。


 異世界、言霊、怪物、そして美しすぎる銀髪の人。


 「…もういやだ、こんなわけのわからない状況」


 疲れ切った本音が、堰を切ったように溢れ出た。


 ピカッ!


 ペンダントが激しく光を放ち、部屋全体が震動した。


 パリパリパリッ——


 壁に蜘蛛の巣のような亀裂が走り、石の軋む音が響く。窓の外では、街全体がシオリの苛立ちに共鳴するようにキラキラと明滅していた。


 「え? え? なにこれ!?」


 シオリは慌ててベッドから飛び起きた。


 言葉の都の奥深くで、何か古いものが目覚ましたような、不穏な気配が漂い始めていた——

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