糧となる
その瞬間、ぞっとするほど冷たい刃が男の首にかかる。背中が右足に踏まれる。
「それは一応私のものだ。私の許可なく触れるな。そして、壊すな」
真っ赤な瞳が冷え切っている。
悲鳴を上げた男を一瞥すると、殺してなにか支障がないか勘定を始める。
モニカは男に手を掴まれ、間接的に首元に刃を当てられたまま、ネルをまっすぐ射抜いた。
「殺さないでください」
「お前がなぜ私に命令する?」
「貴方が部外者だからです」
「答えになっていない」
眉を顰められ、モニカは文句を言うでもなく、静かにネルを見据えた。ふっと短く息を吐くと、
「貴方が、その人を殺す理由も、義務も、権利もありません」
それだけだった。ぽつりと、と形容するには内包している感情があまりに強いその言葉に、ネルは長い溜息をつくと、乱暴に男を蹴り飛ばした。モニカの目ではとらえきれない程度には早かった。一瞬で地を這うことになった男に視線を移す。モニカは立ってゴミを払い落としながら、男を見下ろして、ドン引いた。男の背には、ネルがブーツの靴底を思い切りめり込ませた跡がくっきりと残っている。
ぴくりとも眉を動かさないモニカに、ネルが感心した声を漏らす。実際は単に表情に出ていないだけで、びっくりしてもいるし、ネルに対して関わりたくないとも思っているのだが、なにやら度胸が強い奴であると思われたようだ。
剣を鞘に納めつつ、ネルはモニカに左手を差し出した。
「宿代を寄こせ」
「……」
あっ、と口を開いて固まり、モニカはネルと目を合わせた。
「……おい」
「……」
「お前の薬は、売れば金になるはずだろう! さっさと作って売ってこい!」
ダメだった。モニカは渋々冒険者ギルドに戻り、薬づくりの依頼をこなし、報酬を受け取った。きっかり千ユルク。
「……あの、一泊いくらでしたっけ」
「五千ユルクだ」
「……となると、あと千五百ユルク足りませんね」
「働け、奴隷」
取り付く島もない。モニカは努めて困惑を表に出し、
「……もう薬をつくる依頼はありませんでした。貴方に借金します」
「絶対に返すんだな?」
「ええ。師匠に誓って」
「誓うならスコトス王に誓え」
沈黙。数秒のあと、やや不満げに、モニカが沈黙を破った。
「……スコトス国王陛下に誓います」
「分かった。……行くぞ。スコトスの兵が来る前にできる限り離れる」
彼女ら二人はゆっくり進んだ。
道中、魔物が襲ってきた。が、知能などないに等しい魔物の軍勢など、ネルからすれば恐れるに値しない敵だ。よって、モニカはネルと雑談に励むのだった。
「あの。ドラゴン討伐は、どうするのですか」
「…………」
モニカを見もせず、ネルは前を睨んで早歩き。モニカは控えめに小さく、もう一度問いかけた。
「……あの」
「戦力が足りない。私は、魔力吐血とやらで本調子ではない。ゆえに魔法も使えない。おまけに足手まといが一人。到底勝てるとは思えない。だから、今はまだ、無理だ」
「そうですか」
魔法も。言い回しに引っかかりつつ、モニカは深く突っ込まないでおいた。それは、信用しているわけでも信頼しているわけでもない。どうでもいいだけなのだ。彼女を知らずに自分がどんな目に遭おうとも。それでいて生きる気だけはあるというのだから、笑いものである。
モニカにとって、それが贖罪である。善行も生きていることも、全部自己満足の罪滅ぼしだ。
モニカはそっとネルの横顔を盗み見た。ネルと一緒に行動して、彼女を知りたいと強く思ったことだって。
全部、その贖罪の糧でしかない。なかなか、自己中心的な思考だ。
そろそろ隣町にたどり着く。隣町の隣町は、ここから一日程度かかるから、そこで今日は泊まることになるだろう。
モニカの予想は当たり、宿を借りて今日は各々好きな時間に充てるということになった。
モニカは上機嫌で薬を調合する。師が死ぬ前に、自分が研究していた新薬の実験だ。前回失敗した理由を洗い出して改善する方法をひねり出して、さあ実験だ、というときに師が死んだ。
作っているのは、ほんの少し人に優しくなれる薬。
ネルはいそいそと宿を出ていったので、部屋にはモニカ一人だ。沈んだゆったり流れる時間で、周りの目を気にせず薬を作る。久方ぶりに得た心地よさだった。
日が落ちてネルが帰ってくると、モニカは入れ違いに外で食事を摂る。質素なスープに硬いパン。スプーンで掬って飲むスープは暖かさの欠片もなかったが、胸が少し、ふわふわした。パンはとても食べられたものではない硬さだったが、口許が緩んだ。
食事を終えて宿に戻ると、ネルがぼーっと座り込んでいた。壁の模様を辿っているような動き。その表情が、少女然として見えた。
「……お疲れですか」
隣にモニカが座り込むと、そうでもない、とネルはさりげなく距離を取った。
「魔法を無理して使っていないせいか、魔力の減りも昨日よりはマシだ」
「そうですか」
それはよかった、と笑いたいのだが、なぜかうまく笑えない。自分も大分疲れているようだ、とモニカは実感した。
「……わたしはもう寝ます」
「ああ」
やや散漫な声だ。
「わたし、野宿しましょうか」
「うるさい。黙って寝ていろ」
鋭く返されてしまっては仕方ない。モニカは布団に体を挟み込んで、電気を消した。首が冷たい。
寝よう。今日はあそこへは行けない。溶け行く意識でそう考えて、モニカは目を閉じた。




