5・暗闇の追跡者③
——あれから、どれくらい経ったのだろう。パッチリと目を開けると、ティムは懐かしの場所にいた。自分の家の居間だった。くすんだ秋色のむしろのど真ん中に座っている。
丸テーブルの上には温かな食事。その中には大好物のマーリャ・コッタもあった。ぐつぐつと煮立ち、ふんわりと広がる甘い香りが鼻をくすぐる。
そして目の前にはフィディアがいた。フィディアは何も言わずに、ニコリと微笑む。つられてティムも笑みを作った。すると途端にフィディアの顔が揺らいで、蒼白の顔をした、口から色を垂らすバケモノに変貌した。
シュリープは歯のない溶けた口を広げて、にんまりと笑った。ティムは表情が引きつってしまい、笑いを返せなかった。
「うわあああああっ!」
ティムは堪らなくなって飛び起きた。ゼーゼーと息を弾ませる。辺りは居間での明るい光景と打って変わって、真っ暗だった。オレンジ色に染まった小さな光だけが闇の中を照らしている。光はぴょんぴょんと飛び跳ね、満面の笑顔をこちらに向けていた。
「魔物さん……!」
ベリィが元気そうで、ティムは嬉しそうに声を上げた。その際に、自分の声がおかしくなっている事に気付く。あまり大きな声が出せない。かすれたものしか出なくて、喉が痛みを訴えていた。どうしてこうなったんだろう?
疑問に思っていると、真横にシュリープの顔があるのに肝を冷やして、ティムはまた喉を痛めた。背中を丸めて苦しげに咳き込んでいると、先ほどのシュリープが様子を伺って来て、手をかざした。シュリープのドロドロとした指が黒い光を放ち、たちまちティムの喉は回復した。
ティムは仰天した。シュリープは攻撃するばかりの者だけではなかったのか。カードの場所を教えてくれた事といい、魔法でピンチを救ってくれた事といい……。そう言えば、あんなに疲労が堪っていたのに、今では普通に動けるし、痛みも一切感じない。体も信じられないくらいに軽かった。
声が通常通りに出る事も確認し終えたところで、ティムは興奮を隠さずにありがとうと礼の言葉を口にした。すると、シュリープの怖い顔があるはずのところに、お下げ髪の女の子の輝かしい笑顔があった。ティムはポッと赤く頬を染めて、自分の目を疑った。
(え? あれれ? 何でこんなところに生の人間がいるの?)
よく見ると、しゃがんだ女の子の後ろにシュリープがいる。少し動けばすぐに女の子に触れてしまいそうな程近くにいるが、女の子を襲おうという気配は全く見られない。じっとしていた。
左端で白い光が高く打ち上がると、もう少し広い範囲が把握出来るようになった。ティムは狼狽えた。闇に紛れて分からなかったが、女の子の他にも人間は沢山いて、輪になってこちらを伺っている。癖っ毛の目立つ男の子、手を繋いでいる兄弟、腕に抱かれた、よだれを垂らしてキャッキャと笑う赤ん坊……。皆幼い子供で、裾の長いお揃いの服を身に纏っている。奇妙な事に、どの子も後ろにシュリープを引き連れていた。
頭が混乱する。一体どうなっているのか。ティムはこんなにも多くの人間に出くわすのは初めてだったし、言葉の一つもなくジッと見つめられるなんて尚更だ。悪意の欠片もない、まっすぐな笑顔を向けられて、ティムはどうしたらいいか分からなかった。
その時、ビュッと突風が過ぎ去った。同時に子供達の半分が浮いて、地面に叩き付けられた。
一瞬見えた、黒くて長いもの。
黒い手……あの追跡者だ。まだここにいたのか! ティムは身を縮めた。
光をも吸い込んでしまう程の黒い色をしたバケモノは、虚空に向かっておぞましい声を響かせた。ギャアアアア! ア、ア、アーー! いくつもの声を束にして発せられたような声だった。
それが合図とばかりに、叩き付けられていない方の子供達は、四方八方にパッと散っていった。おそろしくて逃げ出したのか?
いいや、違う。彼らはシュリープを引き連れたままバケモノを囲むように散らばると、反撃し始めたのだ。赤、水色、紫、茶、白、黒……それぞれが手に色のついた光をほとばしらせ、魔法を発動させた。光はやがて、燃え盛る炎や地面から氷を出現させるなど、形を変えてまっすぐ追跡者の方へと飛んで行く。
ギャアアアアアッ! グギャアアアアッ!
追跡者はこれまでよりも甚だしい音量で叫び、悶えた。そしてよくもやったなとばかりに手を振り上げ、反撃を仕掛けた子供のうち二人を突き飛ばす。しかし、その間に地面に倒れ臥していた子供達がのっそりと起き上がり、参戦し始めて、バケモノはまた暴れ狂った。
あちこちで攻撃が飛び交うので、ティムとベリィは扉からほど近くの壁に身を寄せて避難した。ティムの目に、突き飛ばされても踏み潰されても、何度でも立ち上がって挑み続ける子供達が映る。子供達の一人一人の顔つきを見ると、真剣な中にどことなく悲しみが含まれているのが感じられた。好きで攻撃を続けているようには見えない。
何が彼らを動かしているのか。ティムを助ける為か。もっと別の理由があるように思える。ティムはふと天井――バケモノの方を仰ぎ見た。やはり大まかな形と大きさだけで、何者なのか分からない。
絶え間なく繰り出される攻撃の嵐。謎に包まれた黒い体躯は、ぐねぐねと捻られ、気味の悪い動きを見せて――?
「あれ……?」
その時、ティムは驚くべきものを目にした。今までただ真っ黒のシルエットでしか姿を捉えられなかった追跡者が、白くぼんやりと、もやがかかったように発光し始めたのだ。
あまりの変化に、ティムは疲れているせいで目がおかしくなったんじゃないかと戸惑った。しかし目を凝らしてみると、ぼんやりしていたものは顕微鏡の度を合わせたかのように形がくっきりとしてきた。あれは――!
次の瞬間、ティムは走っていた。優兎達のいる扉に向かって。分かったのだ。自分にしつこく付きまとっていた追跡者の正体に限らず、子供達はどうしてここにいるのか、なぜティム側の味方につくのか、全部。
(助けてあげなきゃ……! お化けさんも、黒いお化けさんも、みんな聖堂から出してあげなきゃ!)
強い思いと裏腹に、ティムはがっくりと膝から崩れた。癒やしてもらったので、疲労が原因ではない。気絶する寸前の、シュリープ付きの子供から触れられた時に流れ込んだ記憶が少しだけ甦って来て、胸が酷く痛むのだ。血が出るとかいう肉体的苦痛ではなく、悲しみから来る精神的な痛み。息苦しい。抱えきれない程の感情が胸の中に溜まっていって、ずっしりと重く伸し掛かって来る。
それでもティムは、動きたがらない体に鞭打って進み、扉の表面を引っ掻いて立ち上がった。すぐさまティムはベリィにカードを渡して、箱形の装置にカードを通すよう促した。ベリィはぐんと背丈を伸ばして、カードを差し入れようと、ティムの頭の上でグラグラと揺れた。
一度、扉の向こう側からか追跡者側のどちらかの引き起こした振動で、誤ってカードを落としたが、何とか拾い上げ、再度チャレンジした。今度はうまくいった。装置は左の差し込み口から下方向にカードを滑らせて起動するタイプのもので、それによって、固く閉ざされていた扉は大量の砂埃を吐き、ついに長い眠りから覚めたように動き始めた。
ガコンッ! ゴゴ、ゴゴゴ……
待ち望んでいた瞬間だった。
ところが、ここでまたしても追跡者の邪魔が入った。
扉が完全に開き切るまで、まだ三分の一も行っていない状態だった。こちらに向かって来た手によって、カードを読み込む装置が壊されてしまった。更に、装置の前でゆらゆら揺れていたベリィも攻撃に巻き込まれてしまった。
扉の動きがピタリと止まる。ベリィが宙に浮かび、ぼとりと落ちる。ティムは何が起きたのか分からず、放心状態に陥った。
追跡者の手に触れたせいなのか、ベリィはピクピクと痙攣し、やがてその体はドロリと液状になって溶け出した。ティムは悲鳴を上げた。追跡者は吠えた。アアアー! ギャアアアアッ!……
ズドン!
直後、両者の間を介入するがごとく、その音は鳴り響いた。
ズドン! パラパラ……
音は追跡者の咆哮に負けず劣らずの大きさだ。ティムは耳をそばだてる。
ズドンッ! パラパラ……
近い。扉の方からだ。画面越しから響き渡っていたものが、こんなにも身近に聞こえるという事は……! ティムは目を輝かせた。
扉のひび割れた箇所から、白い光が差し込む。そして凄まじい爆音と共に、扉は砕け散った。ティムはベリィを庇う形で身を屈めた。
もうもうと巻き上がる砂煙。その中から五つの影が姿を現した。
「青目のお兄ちゃあああああんっ!」
「ティム! 無事でよかった!」
ティムが泣きながら駆け寄ってくると、優兎は両手を広げてしっかりと抱きとめた。ティムが腕の中でえんえん泣いている間に、優兎の背後から他の仲間達も足を踏み入れる。
「あ、そうだ! ひっく! 魔物さんが……魔物さんが!」
水溜りを作りながらどんどん溶けていくベリィを指差して、ティムは必死になって伝えた。優兎はベリィの変わり果てた姿を見て顔色を変えると、すぐさまニーナに清めの鱗粉を用意するよう言った。
ニーナはリュックサックからウロコの入った瓶を取り出すと、それを指で潰して急いでベリィに飲ませる。ウロコの粉は小さな口に入っていくと、体は溶けていくのをやめ、液体から固体へと戻っていった。一同はホッとした。
「ベリィさんが倒れるのを、扉の隙間から見てましたよ。たった一撃であんなふうになってしまうという事は――」ニーナは上を仰いで唾を飲み込んだ。
「恐らくシュリープさんの類いでしょう、今私達の目の前にいるのは。……ただ、不幸アイテムがダメになってしまうくらいですから、今まで出会って来たシュリープさん達とは比べ物にならない程の憎しみを抱えているようです」
聞いていた他の五人も揃って頭をもたげた。なるほど。姿こそ見えないが、確かにそこに恐ろしい者が息づいているのだと理解した。気味の悪い異様な気配を感じ取って、背筋が寒くなる。
優兎は唇を引き結ぶと、気絶しているベリィを優しく抱いて、ティムに預けた。
「ティム、ベリィを連れて、僕らのいた部屋に隠れていて。後は僕らがやるから」
決心を抱いたようにそう言うと、優兎はティムの頭にポンと手を置いて、前に進み出た。ティムは目を瞬かせる。
「え? あ……、で、でも、ボクもっと頑張らなきゃ……。お兄ちゃん達の役に立ちたいよう」
口ごもりながらティムは言う。すると後ろからアッシュがやって来て、先ほど優兎がやったように頭に手を置いた。
「なあに言ってんだ。お前は充分やったんだ。家に帰ったら何を食いたいかでも考えとけ」
アッシュはニッと笑って、優兎の隣りについた。アッシュに続いて、ジールはニコリと微笑みながら、ミントは「ご苦労様」とウインクして手を置いて行った。
最後はリュックサックを置いて来たニーナが、「頑張りすぎもよくないんですよ。一人で突っ走らず、他に任せるのも大事なんです」と明るい笑顔を見せた後に。ティムは頬を染めて、仲間達が触れて行った箇所を撫でた。……何でなんだろう。怖いお化けさんが近くにいるのに、心の中がほっこりと暖かい。
ティムは嬉しくなった。一生懸命頑張った事を認めてもらうって、こんなにも心地良い気分になれるんだ……!
初めて味わう感覚に浸っていたティムは、追跡者の呻き声で我に返ると、慌てて後ろの部屋に引っ込んだ。優兎達は真剣な顔つきになって暗闇を見つめる。
「それじゃ、みんな行くよ」
そう言うと、優兎は手を付き出して魔法陣を展開させた。
——5・暗闇の追跡者 終——




