③転逆勢形・31(前編/終)
「きゃあああああッ!!」
歌の途中、突然ミントが叫び声をあげた。ずっと歌の流れてくる方へと、目、耳を傾けていた優兎、アッシュ、ジールの三人は、バクバクと動く心臓を胸に振り返った。
――それを目にした彼らは、数秒間、我を忘れた。
花だった。シュリープでも、妙な歌の主でもない。大蛇を思わせるような太くて長い尾に、ガチガチと何度も噛み合わせて音を立てる牙。そこからは濃いピンクの花びらが生えていて、魚のウロコみたいに連なっている。
花なのに、そいつは恐ろしく奇妙な鳴き声を上げた。
ミャオオオオオンッ!!
「おおっと! おい、仲間がお呼びだぜ、ミント!」
「バカ言わないでちょうだい!」
優兎達は体を花の魔物に向けたままの状態で、ジリジリと後ずさりを始めた。しかし、その分相手も壁に体や尾をこすりつけるようにして距離を縮めてきた。
ズル……ズル……ズル……
なるほど、ティムが聞いたと言う音の正体はこいつだったわけだ。額から流れ落ちる汗を拭い、優兎は光のバリアを強化させた。
やがて茎の尾からは、つるが数十本と生えるように伸びてきた。しかもつるの一本一本には、先端に刃の形をした尖った花びらがついている。攻撃してくるつもりらしい! 次の瞬間には、優兎の張ったバリアと花びらの刃が激しくぶつかり合っていた。
ギギギギ! ギィッ! キュィィィイ"イ"イ"イ"ッ!! 黒板を包丁で滑らせながら斬りつけているかのような、鋭くて甲高い音があちらこちらで絶えず鳴り響いた。ユニは聖守護獣なので、強さに関しては勿論上で、バリアも攻撃を受ける前と何ら変わらずに形を保っているのだが、問題はこの音だ。
現バリアは、シュリープ達から身を守る目的で張ったものだ。防音対策など備わっていない。強力な強度を誇るバリアと惜しみない刃の猛攻とが衝突する事によって生まれるこの不協和音は、優兎とその仲間達をも苦しめた。
「うう、ううう……っ!」
「痛い! 痛いよう……っ!」
特に被害を受けたのは、ミントとティムだった。人間の優兎でさえ脂汗を滲ませる程なのに、耳の良い二人にとっては何倍にも大きく聞こえている事だろう。二人は顔をくしゃくしゃにし、その場にしゃがみ込んでしまった。
『バカ者がッ! は、早く防御を解かんか! この……ッ!』
ユニの声。苦し紛れだった。――そ、そうだ。今、ユニと僕は密に繋がっているから、ユニにもこの音が伝わってしまっているんだ!
優兎は言われた通り、バリアを解除する事にした。
代わりにこっちが攻撃に転じて、守りを誰かにやってもらおう。そう考えた優兎は、身動きが取れなくなっているミントを見やった後で、ジールの名前を呼んだ。
「ジール! ジール!」 優兎は力一杯大きな声を出した。「聞こえてる!? ジール!!」
名前を連呼すると、上を見上げて棒立ちしていたジールはゆっくりと、優兎の方を振り向いた。
「!」
――顔が、見た事ないくらい真っ青になっている……。
面食らった優兎は声を失った。
「ごめん……ごめん、優兎」
ジールは重い口を開いた。
「あの花の魔物――俺のせいだ……」
「え……?」
再び頭の中が真っ白になった。脳が考える事を拒んでいる。外部の音が、思考への働きかけを邪魔している。
ナニ? ドウイウコト?
ジール ノ セイ?
そうして頭の整理がつかぬまま、更に優兎をパニックへ陥れる出来事は起こった。花の魔物が伸ばしてくる、刃のついたつる達。それがジールを狙うも、直前でお互いにもつれて弾いてしまい、衝突したのだ。
ギラァンッ! 刃と刃の擦れ合いで、火花が散った。
バアアアアアンッ!!
一瞬の事だった。散布された小さな小さな火種は、アッシュが魔法を使った時と同様に、大きな爆発と化した。
「うわっ!」
「くっ!」
炎の渦は轟々と滑るように天地を駆け巡った。廊下の温度を一気に上昇させ、炎は花の魔物はおろか、目的もなく無気力にうろついていたシュリープ達まで飲み込んだ。霊体のシュリープ達は燃えはしないが、殺傷能力を持つそれに対しても叫び声を上げて消えていく。
一方、優兎達の方はほとんど無意識で出した光のバリアに守られた為、焦げ一つつかなかった。爆発があろうとも知るものかと微動だにしない防御壁。これが優兎のみの力で作られたものであったなら、容易く気圧されて無傷では済まなかっただろう。
しかし花の魔物だけは話が別だった。植物である為に、非常に燃えやすい体だ。大きく、ひらひらとなびかせていた花びらは水気をなくして枯れ果て、床に落ちていき、尾やつるが黒くなって崩れていくのを感じた魔物は、キーキーと発狂して暴れた。壁や天井にぶつかって、巨躯が滅びていくのを早めている。自滅だった。もうどうしようもない。
けれども、その行動は次への災いの種を残していく結果となる。
それは花の魔物が床のとある一角に差し掛かった時に起こった。突如、床が崩れたのだ。魔物がヤケになって暴れたせいだった。
元々が巨大な体。尾もついている。見るからに重そうなのだから、キッカケさえあれば崩れるのも無理はなかった。花の魔物は、刃のつるで空を切りながら、あっという間に下へと落ちていった。地震を思わせる揺れと、砂埃がもうもうと、上にまで舞い上がって広がりゆく。
一段階、二段階と崩れた床は、尚も留まらずに少しずつヒビを作っていった。そしてそのヒビは、優兎達の方へ迫っていき、
「わあああああっ!」
一番近場にいたティムを、闇の中へ引きずり込もうとした。
「なっ!」
「ティム!」
気付いたアッシュとジールはすぐにその場へ駆け込み、ぽっかりと穴の開いたところへ手を伸ばした。幸いにもティムは何とか落ちずに済み、端に捕まっていた。
しかし、早くもその手はプルプルと震えていた。非力なティムが、自分のたっぷりとした体重を長く支えられるわけがなかった。
「うううー、助けて! 助けて! 落っこちちゃうよっ!」
ティムは大きな瞳に涙をためて叫んだ。二人が引っ張り上げようと頑張っているのを見て、少しフラついた後、優兎も穴の方へ向かった。
ボロボロと崩れる床を尻目に、手を伸ばす。
「くそっ! こっちはどんどん崩れて足場が……!」
「俺に任せて! ……うぐ、あとちょっと」
そうして、ジールはパッと笑みを浮かべた。
「よし、掴んだ! アニキと優兎は反対側の手を――」
そう言いかけて、ジールがこちらの方を振り向いた時、優兎はジールの目が恐怖によって開かれていくのを見た。開いたまま、瞼を一度も閉じず、優兎の方――詳しく言えば、彼の頭上を見ていた。
そして、優兎自身も悟った。この自分の影をすっぽりと隠してしまえるような、大きい影の存在に。
ミジュウル・バイ・シュリープ。炎に焼かれた時に一度消えてから、こちらに飛んできてしまったのだろうか。眼球のない深い影を落とした眼孔は、こちらをじっと見下ろしていた。
やがてそのシュリープは、黒壁から液状の腕のようなものを伸ばした。人間のものに近いそれを、滑り台のようにゆったりと伸ばして――
ちょん、とジールの額に触れた。
「あ"あ"縺ゅ≠あ”あ”あ縺ゅ≠縺ゅ♀あ"縺九≠縺あ"あ"あ"あ"輔s縺翫→縺�&縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅs繝�シ�シ�ッ!!」
触れるったって、本当に人差し指の先が少し触れただけだったのだ。時間にして秒単位。それなのに、ジールは喉の奥底からありったけの声で叫んだ。まるでジールの中にもう一人紛れ込んでいるかのような、ジールではない誰かと重なり合うかのような、身の毛のよだつ声だった。
そして力尽き、倒れ臥したジールのピクリとも動かないその手を見て、場にいた二人は愕然とした。
ティムがいない。
「ちくしょうッ!」
アッシュは悔しそうに顔を歪めると、自ら穴の中へ飛び込んでいった。優兎は驚き、彼の名を呼んだが、既に闇に溶け込み、姿は見えなくなっていた。
優兎の目の前には、唾液を垂らしてぐったりとしているジール、その少し先には気を失ってしまったミントがいる。アッシュとティムはどうなったか分からない。優兎は震えが止まらなかった。
しかしそんな中、ここでふと疑問が浮かんだ。なぜシュリープは光のバリアがありながらも、ジールに触れる事が出来たのか。
答えはミントを見てすぐに分かった。彼女を守っているはずのものがなかったのだ。
(バリアが、消えてる……)
そんなバカな! 確かに炎に飲み込まれそうになった時はあったのに……!
(ユニ? ユニ……!?)
優兎は心の中でユニの名前を呼んだ。まだ繫がりは途切れていないようだが、応答がない。一体どうしたんだ!
けれど、それ以上相手の方は待ってはくれなかった。背中にゾッと寒気を感じた。振り返ると、視界に映るは先ほどジールを動かなくしたシュリープ。白い首をうんと伸ばして、優兎の様子を伺っていた。
……動けない。優兎の頭の中はここから離れたい気持ちでいっぱいだった。なのに、体は言う事を聞いてくれなかった。優兎は目の位置に穴のあるシュリープに、まさに穴が開く程見つめられているのだ。眼球がそこにあるわけでもないのに、まったくおかしな話だ。
シュリープとの距離感は、ほんの数センチ。腕を生やしでもしたら最後、優兎はジールと同じ道を辿る事になるのだろう。優兎を倒したら次はミントか。アッシュとティムの今後は不明だが、事実上はシュリープ達の逆転勝ちだ。愚かにも軽々しく足を踏み入れてしまった彼らの屍は、誰にも見つかる事なくやがて塵となるのだ。死後は――倒れる直前、あれだけジールは苦しそうに叫んでいたのだ――シュリープ達の仲間入りとなるかもしれない。
……まだ、トドメを刺さないのだろうか……?
(会話はどうやってするんだろう。やっぱり、あのわけの分からない言葉を使うのかな? 自分でも知らない言語で喋るようになるんだろうか?)
(自分の意思で別の場所に飛ぶ事は可能なのかな。瞬間移動って憧れちゃうよな。そういえば壁や天井から飛び出して来るシュリープはまだ見てないよな。霊体なら通り抜けられそうなのに、何でだろう?)
優兎はピンチの真っただ中だというのに、非常に呑気な事を考え始めていた。幾ばくか時は流れたが、目の前にはミジュウル・バイ・シュリープ。置かれている状況は何一つ変わっていない。
だがこのシュリープ、不思議な事に優兎を襲おうとしないのだ。リンクが途切れてしまった以上、こっちは降伏しているも同然なのに、動く気配すら見せない。ただじっと佇んでいて、優兎を見つめているのだ。稀にカクン、カクンと顔の角度を変えるきり。
まるで好奇心旺盛な子供のようだと優兎は思った。のっぽで、剥き出しの体は引き締まっていて、顔がアレなだけに、随分とギャップがあるものだ。優兎自身も不安だった心がいくらか薄れてきて、好奇の目で返していた。
――にしても、やっぱり分からない。このシュリープはなぜジールは襲えて、自分には襲ってこないのだろう?気まぐれなのか。それともやる気が失せたのか……。
「ありゃりゃ。何であのシュリープ、大人しくしてるんだろう」
コツンコツンと、床が静かに音を立てた。
「もしかして、あなたは新種のシュリープさんですか?」
「だ、誰だ!」
優兎は驚いて、その場に立ち上がった(真似してか否か、シュリープまで振り返る)。声は消えたアッシュやティムどちらのものとも違うものだったのだ。
「ああ、ごめんなさい。怪しいものではないんですよ」
闇の中から、声の主は少し笑う。――どこかで聞いたような声だ。
「こっちの方で何やら騒いでいたみたいなんで、戻ってきたんです。ちょっとの間様子を伺ってましたが……まさか、私の他にも人がいるなんて。びっくりしましたよ」
そう言い終えた後、声の主は姿を現した。優兎はその者の正体にまた驚いて、言葉を失った。
女の子だったのだ。歳は優兎よりも幼く見え、小学生くらい。光を放つ四角い眼鏡型のゴーグルを頭に、肩の出たくだけた着こなしの半袖、下には女の子らしい真っ赤なミニスカートを履いていた。
しかしそんな愛嬌を感じさせる風体の彼女の手には、子供が持つには大層危険な香り漂う、ごつい機関銃のようなものが握られていた。
この子は一体何者なんだ? こんなところで一体何をしている……?
「初めまして、しゃべるシュリープさん」
女の子はニコリと微笑んだ。
「私の名前は、ニーナ・サウスです」
ニーナと名乗ったその女の子の髪は、キリアドローの花によく似た金色をしていた。
――「2・魔法の流星群 編 (前編)」 終――




